成績表に書けない才能

深渡 ケイ

文字の大きさ
24 / 27

第24話:家に帰れない

しおりを挟む
 第3進路室の蛍光灯は、夕方になると少し白く冷えた。

 桐生静が机の上の封筒を数え直していると、ドアが二回、控えめに叩かれた。

「……開いてる」

 引き戸がわずかに滑って、細い影が入ってくる。制服の上着は着ているのに、シャツの裾が出ていた。鞄はない。手ぶらのまま、藤堂シキは壁に背を預けた。

「帰らないのか」

「帰んないっす」

「家?」

「……無理」

 静は椅子を回して、真正面に座らない。横向きに、出入口とシキの間に自分の体を置く。

「担任には?」

「言うと、連絡いくじゃん。家に」

「行くな」

「だから言わない」

 静は封筒を引き出しにしまい、鍵をかけた。金属音が小さく鳴る。

「鍵、厳しくなった」

 シキの目が鍵に一瞬だけ落ちる。

「教頭のやつ?」

「名前は出すな。耳が多い」

「……はは」

 笑いともため息ともつかない音が喉から出た。シキは靴のつま先で床をこすった。

「今日、どこで寝る」

「いつも通り。漫喫」

「会員証」

「ある」

「未成年の夜間、店によっては断る」

「行けるとこ知ってる」

 静は机の端のメモ用紙を一枚引き寄せる。ペンを持つが、すぐには書かない。

「何時まで学校にいるつもりだ」

「終電まで」

「終電までここにいるのは無理だ。見回りが来る」

「じゃあ、どこ行けばいいっすか」

 その言い方は、投げているのに、投げ切れていない。

 静は視線を上げる。

「家に帰れない理由、三つに分ける。暴力、金、ルール。どれ」

 シキは黙った。喉仏が上下に動く。視線が窓の外へ逃げる。

「……ルール」

「門限」

「門限つーか。父親の機嫌」

「機嫌がルール?」

「そうっす。今日は帰っていい日じゃない、みたいな」

 静はペン先を置いたまま、紙を押し出す。

「“今日は”って言ったな。じゃあ、帰れる日もある」

「あるけど」

「その『けど』が、命に関わるかどうかだけ教えろ」

 シキは肩をすくめて、笑うふりをした。

「死なないっすよ。殴られたことは……ないし」

「言い直すな。『ないし』の後がある」

「……怒鳴る。物投げる。俺のスマホ、壁に」

 静は頷いた。そこで止める。深入りを急がない。

「今夜、家に帰らない。漫喫に行く。明日、学校来れる?」

「来れる。つか来ないと、単位」

「出席は?」

「ギリ。だから来る」

 静は紙に小さく書いた。「出席ギリ」「夜:漫喫」。

 ドアの外で足音がして、遠ざかった。静は声を落とす。

「ここで、選択肢を増やす。今ある選択肢は二つ。家か漫喫。増やす」

 シキは眉をひそめた。

「増やすって、何」

「第三の寝場所。第四の逃げ道。第五の相談先」

「……施設とか?」

「そういう言い方をするな。お前が拒否したくなる」

 シキの口元がわずかに歪む。

「じゃあ何。友達の家とか? 迷惑だし」

「迷惑かどうかは、相手が決める。お前が先に切るな」

「でも」

「でも、じゃない。現実を見る。友達宅は不安定。漫喫も不安定。安定するのは、制度か大人の手配だ」

 シキは壁から背を離し、少しだけ前に出た。

「先生、そういうの、学校に言うんすか」

「学校に言うと、学校が“管理”したがる」

「……教頭みたいに?」

 静は返事をせず、椅子のキャスターを少し鳴らしただけだった。シキはそれで答えを受け取ったように口を閉じる。

「じゃあ、どうすんの」

「まず、今夜の安全。次、明日の居場所。次、家の中のルールを“見える化”する。交渉できる形にする」

「交渉って。父親と?」

「お前一人でやるな。第三者を入れる。担任じゃなくていい」

「誰」

 静は机の引き出しを開け、学校の相談窓口のカードを一枚取り出した。だが、すぐには渡さず机の上に置くだけにした。

「スクールソーシャルワーカー。市の担当。学校と繋がってるけど、学校の評価とは別の仕事」

 シキがカードを見て、手を伸ばしかけて止めた。

「それ、バレる?」

「バレる可能性はある。だけど、漫喫で寝てるのが続けば、別の形でバレる。補導、財布、体調、欠席。どれかで」

「……」

「今のままは、運任せだ」

 シキは小さく舌打ちした。怒りではなく、自分に向けた短い音だった。

「俺、悪いことしてないのに」

「してない。けど、“悪くない人”から先に崩れる。体が」

 静は机の上の紙を指でトントンと叩く。

「藤堂。お前、どこが得意だ」

「は?」

「勉強じゃないのは知ってる」

「……知られてんの、最悪」

「出席ギリでも来る。単位を落としたくない。そこは偉い」

 シキは「偉い」と言われたのが気に食わないようで、眉間にしわを寄せた。

「偉くないっす。普通」

「普通を続けるのが難しい状況で、普通を続けてる。で、得意は」

 沈黙が伸びる。静は待つ。急かさない代わりに、逃がさない。

「……寝ないで起きてられる」

「それは才能じゃなくて危険だ」

「じゃあ、知らね」

「店、どこ選ぶ?」

「静かなとこ。個室。鍵っぽいやつ」

「鍵“っぽい”」

「……」

 静はカードを指で押し、シキの方へ少しだけ滑らせた。

「“安全を選ぶ”のは得意だ。危ない道を避ける勘がある。今、その勘を制度にも使え」

 シキはカードを取らず、机の端を指でなぞった。

「制度って、めんどい」

「めんどい。だから一緒にやる。ただし、学校の中で勝手にやるとまた揉める」

「また?」

 静は目を細めただけで、答えなかった。代わりに、ドアの方へ視線を一瞬投げる。そこに誰もいないのに、いる前提の動きだった。

「明日、昼休み。ここじゃなくて、相談室前のベンチ。人の目がある方が、学校は余計なことをしにくい」

「人の目、嫌い」

「嫌いでも使う。盾になる」

 シキは肩を落とし、ようやくカードを取った。指先が少し白くなるほど強く握る。

「これ、電話すんの」

「今夜はしない。夜は繋がりにくい。明日、昼。俺が同席する」

「先生、同席できんの?」

「できる範囲でやる。できないなら、できる大人を連れてくる」

 シキはカードをポケットに入れた。

「……先生、怒られんじゃん」

「もう怒られてる」

「はは」

 短い笑いが出た。今度は、少しだけ温度があった。

 静は立ち上がり、時計を見る。

「終電までいるな。今出ろ。駅までの道、明るい方。店に着いたら、何時でもいいから一回だけメッセージ入れろ」

「先生に?」

「俺に。内容は『着いた』だけでいい」

「それ、先生のスマホに?」

「学校のじゃなく、個人に」

 シキは一瞬、目を見開いた。そこに躊躇が走る。

「……それ、問題になんない?」

「問題にする人間はいる。だから、線引きする。雑談はしない。連絡は安全確認だけ」

「線引き、うまいっすね」

「うまくない。必要だからやる」

 ドアの外で、今度は別の足音が近づいてきて止まった。見回りの気配だった。

 静はシキの背中を軽く促す。

「行け」

「……明日、昼っすね」

「ああ」

 シキが廊下へ出る。靴音が遠ざかる前に、静は低い声で付け足した。

「藤堂。漫喫は“家じゃない”。いつか、家以外の“帰れる場所”に変える」

 シキは振り返らずに、手だけ上げた。指が二本、短く立つ。

 足音が曲がり角で消える。

 静はドアを閉め、鍵を確かめた。机の上には、さっきのメモと、もう一枚の白紙。明日の昼に書くべきことが、すでに頭の中で並んでいた。

 廊下の向こうで、誰かが「桐生先生」と呼ぶ声がする。職員室の方向だ。

 静は息を一つ吐き、白紙を引き寄せた。次の一手は、学校の目の届く場所で打つしかない。


 職員室の入口で、桐生静は一度だけ立ち止まった。

 扉の向こうは、いつもより声が低い。紙の擦れる音がやけに大きく聞こえる。

「桐生先生」

 教務の佐伯が手招きする。机の上には、鍵の台帳と、茶封筒。進路関係の書類だと一目でわかる厚み。

「これ。第3進路室の鍵、返却時間が曖昧って指摘が来てます」

「曖昧じゃない。私が管理してる」

「管理の仕方が“個人裁量”だって」

 佐伯の視線が、背後の席へ流れる。教頭席の方。黒川は席にいない。いないのに、空気だけはそこにいる。

 静は台帳を覗き込む。

「今日、誰が見た」

「用務員さんが。見回りで」

「用務員さんは悪くない。そういう仕事だ」

 佐伯は言いにくそうに声を落とす。

「……面接練習も、勝手にやってるって」

「勝手じゃない。昼休みの指導だ」

「“統制外”って言葉が回ってます」

 静は、机の端に指を置いた。爪が少し白くなる。

「統制したいのは、数字だけだろ」

「……それ、ここで言うと面倒です」

「もう面倒だ」

 佐伯がため息をつく。

「桐生先生。今、火種抱えてるの自覚あります?」

 静は答えず、職員室の時計を見る。昼休みまで、あと十分。シキとの約束の時間だ。

 その時、職員室の電話が鳴った。近い席の若手が受話器を取る。

「はい、東高……え、七瀬? ……本人から? いえ、今は……」

 若手の目が静に向く。静はすぐ近づいた。

「代わる」

 受話器を取ると、耳の奥に、荒い息が入ってきた。

「……き、桐生、先生……?」

 七瀬アオの声は細く、途切れがちだった。駅のアナウンスが遠くで混じる。

「アオ。今どこ」

「……会場、出て……電話、学校から……出ちゃって……」

「今、一人?」

「……うん」

 静は職員室のざわめきから一歩離れ、壁際に寄った。

「立ってる?」

「……立ってる」

「座れ。ベンチ探せ」

「……ない……人、多い……」

「壁に寄れ。背中つけろ。荷物、抱えるな。下に置け」

 受話器の向こうで布が擦れる音。アオの息が少しだけ整う。

「……先生、落ちた、よね……」

「今その話はしない」

「でも……」

「今は安全。帰り道。水はある?」

「……ない」

「自販機見える?」

「……見える」

「買える?」

 沈黙。硬貨を探るような音がして、止まった。

「……財布、軽い……」

 静は目を閉じ、短く息を吐いた。職員室の机の上。ペン立て。メモ。視線の端で、佐伯がこちらを見ている。後ろの空気が重い。

「アオ。誰かと合流できる?」

「……陸、くん……でも、迷惑……」

「迷惑かどうかは、本人が決める」

 静は受話器を肩に挟み、ポケットから自分のスマホを出した。指が早い。相沢陸の連絡先。送信。

『七瀬が会場出た。今一人。駅。迎え行ける? 水も』

 すぐ既読がつく。返信が短い。

『行けます。どこの駅?』

 静はアオに聞く。

「駅名」

「……み、南口……」

 静は陸へ転送する。次に、アオへ戻る。

「今から陸が行く。南口で動くな。人の流れから外れろ」

「……先生、学校、怒ってる……?」

「学校の機嫌は後でいい」

「でも……先生が……」

「私のことは私が処理する。お前は今、倒れない」

 アオが小さく笑うような息を漏らした。笑えていない。喉が震えているだけだ。

「……怖い……」

 静は声を低くした。

「怖いのは正常。だから、やることを増やす。今、手を見ろ」

「……手……」

「指、一本ずつ握る。親指。人差し指。中指。薬指。小指」

「……うん」

「できたら、背中を壁に押し付ける。足裏、床。今ここにいる」

 向こうで靴が床を擦る音。息が少し落ち着く。

 職員室の入口で、教務主任がこちらへ近づいてきた。声は丁寧だが、目が硬い。

「桐生先生、電話、長いです。外線は——」

 静は受話器を押さえた。

「生徒の帰路安全確認です。切れません」

「今、教頭が——」

「教頭が何だ」

 主任は言葉を飲み込む。飲み込ませる空気が、職員室にある。

 静は受話器へ戻る。

「アオ。陸が着くまで、ここから切らない」

「……先生、職員室……?」

「そう」

「……怒られる……」

「怒られるのは、私の仕事」

 アオが息を吸って、吐く。その間隔が少しだけ長くなった。

「……面接、型……使えた……」

「よし」

「でも……最後、声、震えて……」

「震えたまま出せた。十分だ」

 静の背後で、椅子が引かれる音がした。誰かが立ち上がる。黒川の席の方から、別の教師が静を見て、視線を外す。見て見ぬふり。巻き込まれたくない顔。

 静は机の端に置かれた茶封筒に目をやる。進路室の封筒。鍵。管理。統制。全部が一本の糸で繋がって、首に絡む。

 受話器の向こうで、アオが小さく言った。

「……先生、私、学校、戻った方がいい……?」

「今は戻らない。帰る。陸と」

「……でも、電話……学校、またかけてくる……」

「出るな。今は出ない。必要なら私が折り返す」

「……怒られる……」

「怒られるのは、順番がある。命が先」

 その言葉の端を、主任が聞いたのか、眉をしかめた。

「桐生先生、言い方——」

 静は主任を見た。目だけで止める。

「言い方の前に、倒れたら誰が責任取る」

 主任は何も言えなくなり、唇を閉じた。

 受話器の向こうが少し騒がしくなる。人の声。足音。アオが息を止める気配。

「……陸、くん……?」

「着いた?」

「……うん、見えた……」

 そこで、別の声が入った。陸だ。少し息が上がっている。

「七瀬、こっち。……先生?」

 静は受話器の奥で、陸がスマホをアオから受け取る音を聞いた。

「相沢。水、買えたか」

「買いました。今、渡します」

「家まで送れる?」

「途中まで。七瀬、どっち方面?」

「……バス……」

 陸の声が柔らかくなる。

「じゃ、バス停まで。座れるとこ探す」

 静は短く頷く。

「相沢、無理はするな。危なくなったら、駅員に頼れ。七瀬は今、電話に出ない。学校から着信が来ても」

「了解です」

 陸が少し迷って、声を落とした。

「先生、職員室、大丈夫ですか」

 静は、茶封筒の角を指で押さえた。折れ目が白くなる。

「大丈夫じゃない。でも、やる」

「……はい」

 電話が切れる。受話器を置いた瞬間、職員室の空気が戻ってきた。ざわめきが、静の周りだけ避けて流れる。

 主任が低い声で言う。

「今の、記録に残します。外線の私用利用、って言われますよ」

「私用じゃない。安全確認だ」

「でも、規定が——」

「規定で息は止められない」

 静が言い切ると、主任は口をつぐんだ。代わりに、佐伯が小さく割って入る。

「……桐生先生、昼休み、進路室じゃなくて、どこで面談するんですか」

 静は時計を見る。あと数分。

「相談室前のベンチ。人目のあるところ」

「藤堂、来ます?」

「来るようにしてある」

 佐伯が頷きかけたところで、職員室の奥から、紙を叩く音がした。黒川の席の引き出しが閉まる音に似ていた。本人はいないのに、背筋が伸びる。

 主任が言う。

「教頭、戻ってきたら呼ばれますよ。今日中に」

「分かってる」

 静は自分のスマホを握り直し、ポケットにしまった。

「でも、今は昼休みが先だ」

 職員室を出ると、廊下の空気が少し暖かかった。窓から差す光が床に伸びている。

 静は歩き出しながら、頭の中で順番を並べる。藤堂シキ。今夜。明日。制度。学校の目。黒川の圧。

 曲がり角の先で、相沢陸がいない廊下が一瞬だけ寂しく見えた。代わりに、ベンチの方から、制服の影がひとつ、壁にもたれているのが見える。

 手ぶらのままの藤堂シキが、こちらを見た。

「……先生。今日、呼び出し、食らってたっしょ」

 静は歩みを止めない。

「食らってる最中だ。座れ。話す」

 シキは鼻で笑って、ベンチに腰を落とした。

「俺の話、してる場合?」

「今する。お前が今夜、どこで息できるかの方が、学校の機嫌より先」

 シキが視線を落とし、靴紐を弄った。

「……命とか言うと、大げさ」

 静は隣に座らず、少し前に立ったまま言う。

「大げさにしないと、学校は動かない。お前も動かない」

 シキの指が止まる。

「……で。どうすんの」

 静はベンチの端に手を置いた。廊下の向こうに、見回りの教師の影がちらつく。聞かれてもいい言葉だけを選ぶ。

「選択肢を増やす。今日、まず一個。今夜の行き先を、漫喫だけにしない」

 シキが顔を上げた。

「……増やせんの?」

 静は頷く代わりに、ポケットから一枚の紙を出した。さっきの白紙に、急いで書いた連絡先と時間。

「ここに電話する。昼休みの間に。私が隣にいる」

 シキは紙を受け取らず、じっと見た。

「それ、学校にバレる?」

「バレる可能性はある」

「じゃあ——」

「だから、人目のある場所でやる。隠さない。言い訳しない。安全のためって言う」

 シキが唇を噛んだ。

「……先生、詰むじゃん」

 静は紙をもう一度、差し出した。

「詰まないように手数を増やす。お前のためでもあるし、私のためでもある」

 シキはようやく紙を取った。指先が震えているのを、本人は見ないふりをした。

 廊下の遠くで、チャイムが鳴り始める。昼休みの終わりが近い。

 静は視線を上げ、相談室の扉を見た。中にいるはずの担当者の影が、窓ガラス越しに動く。

「行くぞ。今、繋がるうちに繋ぐ」

 シキが立ち上がる。

「……もし繋がんなかったら」

「繋がるまで、次を出す」

 静は歩き出した。背中に、職員室の視線が刺さるのを感じながら。

 それでも足を止めなかった。


 相談室前のベンチは、人の往来が絶えなかった。

 静は壁際に立ち、藤堂シキに座らせる。シキの膝が小刻みに揺れているのを、靴の先だけが隠そうとしていた。

「番号、押せるか」

「……押せる」

「じゃあ押せ。スピーカーにはしない」

「なんで」

「お前の声が逃げる。耳で聞け」

 シキは紙を見て、スマホを取り出した。画面が一瞬、指紋で曇る。深呼吸の代わりに、短く鼻で息を吸って、発信。

 呼び出し音が二回鳴って、繋がった。

「はい、市子ども家庭支援センターです」

 女性の落ち着いた声。

 シキが固まる。喉が動くのに、声が出ない。

 静が口を挟まない。代わりに、指で紙の一行目を軽く叩く。「名前」「高校生」「今夜の寝場所」。

 シキがようやく言う。

「……藤堂です。高校、二年で……今、家、帰れなくて」

「藤堂さん。今は安全な場所にいますか」

「学校……の、廊下……」

「学校の先生と一緒ですか」

 シキがちらっと静を見る。静は頷くだけ。

「……はい」

「分かりました。今夜の居場所は確保できていますか」

 シキの唇が歪む。

「漫喫……」

「何日くらい続いていますか」

「……何回も……」

 質問が続くたび、シキの膝の揺れが速くなる。静は一歩だけ近づき、シキの足元に影を落とした。視界の端に入るだけの距離。

「ありがとうございます。今日この後、面談の予約を取りたいのですが、可能ですか」

「……」

 シキが言葉を探していると、背後から革靴の音が近づいてきた。

 廊下の空気が、すっと締まる。

 黒川教頭が現れた。書類の束を腕に抱え、いつもの穏やかな顔を崩さないまま、静とシキを見下ろす。

「桐生先生」

 静は目線を上げただけで応えた。シキはスマホを耳に当てたまま、肩をすくめる。

 黒川は声量を落とさない。周囲に聞こえる程度に、きれいな発音で言う。

「今、授業時間ですよね」

 静は短く返す。

「昼休みです」

「……そうでしたか。電話、何です?」

 静は一瞬だけ、シキのスマホに目をやる。受話器の向こうで、支援センターの担当が待っている気配がする。

 静は言った。

「安全確保の相談です」

 黒川の眉がわずかに動く。

「学校の電話を使って?」

「私物です」

「なるほど。ではなおさら、学校の業務ではありませんね」

 静は息を吐く。吐いた息が、喉の奥で引っかかる。

「学校の生徒です」

「生徒であっても、家庭の問題は学校の責任外です」

 黒川は言い切る。優しい声のまま、線だけ引く。

「家庭内の事情に学校が踏み込めば、トラブルになります。訴訟リスクもある。あなたは分かっているはずだ」

 静は一歩も引かない。

「分かってます。だから専門に繋いでます」

 黒川が静の手元を見る。紙。連絡先。時間。手続きの匂い。

「繋ぐのは結構。しかし“学校が動いた”形にするのはやめてください」

「形?」

「あなたが同席して電話する。あなたが段取りを組む。外から見れば学校主導です」

 静は、シキのスマホを見た。シキが電話口に向かって、小さく言う。

「……すみません、今……」

 担当者の声が漏れる。「大丈夫ですよ。落ち着いて」

 黒川は続ける。

「桐生先生。あなたは第3進路室を任されている。進路実績を上げるのが役割です。生活問題まで抱え込まない」

 静の口元がわずかに動く。笑わない。噛みつく準備だけが整う。

「進路は生活の上にしか乗りません」

 黒川は肩をすくめる。

「理想論です。学校は企業です。成果がすべて」

 その言葉が、廊下に落ちた。通り過ぎる生徒が一瞬だけ足を止め、何も聞こえないふりで去っていく。

 静は声を低くした。

「藤堂を“成果”に数えないなら、私は数字を増やせません」

 黒川の目が細くなる。

「脅しですか」

「現実です」

 黒川は静の横を通り、シキの方に視線を落とした。顔は穏やかだが、声は冷たい。

「藤堂くん。学校は君の生活の責任は取れない。だが、欠席が増えれば単位は落ちる。そこは君の責任だ」

 シキの指がスマホを強く押さえる。耳が赤くなる。

 静が言う。

「今、彼は電話中です」

 黒川は一拍置いて、にこりともしない微笑を作った。

「では、邪魔をしないように。桐生先生、あとで職員室に」

「分かりました」

 黒川は踵を返し、革靴の音を残して去っていった。去った後の廊下が、さっきより広く感じる。広い分だけ、守るものが露出する。

 静はシキに目で合図した。「続けろ」。

 シキは喉を鳴らして、電話口へ戻る。

「……すみません。えっと、面談……明日、学校、終わってからなら……」

「ありがとうございます。では明日の夕方、センターで面談できます。場所は——」

 担当者が住所と持ち物を伝える。シキは必死にメモしようとして、手が追いつかない。

 静が紙を差し出し、短く言う。

「言って。俺が書く」

「……“俺”って言うな」

「今だけだ」

 シキは鼻で笑い、でも言葉はちゃんと出した。

「……住所、もう一回、お願いします」

 静のペン先が走る。書きながら、シキの横顔を見る。唇が乾いている。目は泳ぐ。けれど、逃げない。

 電話が終わると、シキはスマホを膝の上に落とした。画面が暗くなる。

「……明日、行けって」

「行く」

「俺、行けるかな」

 静は紙を折り、シキの手に押し込む。

「行けるかどうかは分からない。だから、行ける形にする」

「形って」

「交通費。時間。言い訳。全部先に作る」

 シキが顔をしかめる。

「言い訳とか、ダサ」

「ダサい方が生き残る」

 静の言葉に、シキは笑うでもなく、俯いた。

 廊下の向こうでチャイムが鳴った。授業開始の合図。周囲の生徒が教室へ吸い込まれていく。

 静は腕時計を見て、立ち上がる。

「藤堂。次の授業は出ろ」

「出たら、帰れって言われる」

「言われたら、私が受ける。お前は座ってろ」

 シキが立ち上がり、紙をポケットにねじ込む。

「……教頭、あれ、何。人間?」

「人間だよ。学校を守る人間」

「俺は守られない?」

 静は一瞬だけ黙った。答えの代わりに、廊下の窓の外を指で示す。校門の向こう。現実が続く場所。

「学校は守れないものがある。だから学校の外の手を借りる」

 シキが唇を噛む。

「……先生、怒られんの?」

「怒られる」

「じゃあ、やめれば」

 静はシキの目を見る。短く。

「やめない。線を引く人がいるなら、線の外に道を作る」

 遠くで職員室の扉が開く音がした。誰かが静の名前を呼ぶ気配がする。

 静は廊下の角を見た。そこへ向かえば、黒川が待っている。

 それでも静は、先にシキの背中を教室の方向へ押した。

「行け。授業に戻れ。明日の放課後、ここに来い」

「……わかった」

 シキが歩き出す。数歩進んで、振り返らずに言った。

「先生。俺、着いたって連絡、した方がいい?」

 静は頷く。

「“着いた”だけでいい」

 シキが教室の扉の向こうへ消える。

 静は一人、職員室へ向かって歩き出した。廊下の途中でスマホが震える。相沢陸からだ。

『七瀬、バス乗せました。水飲めてます』

 静は画面を消し、ポケットに戻した。

 次は、黒川の線を越えない形で、越える。そう決めた足取りで、職員室の扉に手をかけた。


 職員室の扉を閉めた瞬間、空気が一段重くなった。

 黒川は席に戻っていた。机の上に鍵の台帳。茶封筒。静が目を向ける前に、黒川が指先で台帳を叩いた。

「桐生先生。あなた、最近“外”と繋がりすぎです」

 静は椅子に座らない。立ったまま言う。

「繋がらないと、壊れる生徒が出ます」

「壊れる、という言い方」

「倒れる。消える。言い換えますか」

 黒川の口元が僅かに引きつる。

「感情で動くな。学校の責任範囲を越えるな」

「越えないように、外へ繋いでます」

「その“外”が問題なんです。あなた個人の判断で市の機関と連絡を取り、同席し——」

 静は視線を逸らさない。

「同席しないと、電話ができない子がいる」

 黒川は手を組んだ。

「あなたの善意で、学校が巻き込まれる。分かりますね」

「分かってます」

「では、やめてください」

 静は一拍置いてから言った。

「やめません」

 職員室の誰かが息を飲む音がした。キーボードの打鍵が一瞬止まり、すぐ再開する。見なかったことにする速度だ。

 黒川は声を荒げない。

「命令です」

 静の返事は短い。

「拒否します」

 黒川の目が冷える。

「あなた一人の正義で、学校を危険に晒すな」

 静は台帳に触れない距離を保ったまま、言葉を選ぶ。

「危険に晒してるのは、私じゃない。現実です」

 黒川は椅子の背にもたれ、静を測るように見た。

「あなた、最近“第3進路室”を盾にしすぎだ。進路指導は進路指導。生活指導は生活指導。家庭の問題は家庭の問題」

「分けられないケースがある」

「分けろ」

 静は呼吸を整えた。ここで噛みつけば、シキに戻る時間が削れる。勝ち負けじゃない。手数だ。

「分けます。学校の責任外の部分は、外の責任に繋ぎます」

 黒川が頷く。

「そう。それなら——」

 静が続ける。

「繋ぐのはやめません」

 黒川の頷きが止まった。

「……桐生先生」

 静は淡々と言う。

「学校の名前は出しません。書類も学校では保管しません。面談の同行も、必要があるときだけ。線は守ります」

 黒川は沈黙し、机の上の茶封筒を指で揃えた。揃えながら、静の方を見ない。

「あなたが線を守ると言っても、周りは守らない。噂が立つ。保護者が騒ぐ。教育委員会が動く」

「動くなら動けばいい」

 黒川の視線が静に戻る。

「あなた、首が飛びますよ」

 静は瞬きを一回だけした。

「それでも、やります」

 黒川は言った。

「あなたは教師です。社会福祉士ではない」

「だから、社会福祉士に繋ぐ」

 黒川は小さく息を吐いた。諦めではなく、計算の息だ。

「……分かりました。あなたの責任でやるなら、学校を巻き込むな。記録も残すな。第3進路室の鍵は、今日から職員室管理に戻します」

 静の眉が僅かに動く。

「不便になります」

「不便で結構。統制です」

 静は頷いた。飲み込む。今は。

「了解です」

 黒川が視線を落とす。

「戻っていいです」

 静は職員室を出た。廊下に出ると、胸の奥の圧が少しだけ抜ける。抜けた分、疲れが入ってくる。

 放課後。

 相談室前のベンチに、藤堂シキがいた。制服のまま。鞄はある。だが肩に掛けず、床に置いている。逃げる準備ができている置き方だ。

 静が近づくと、シキは顔を上げた。

「先生、呼び出し、どうだった」

「線を引かれた」

「……やっぱ」

「引かれた線の外で動く」

 シキが鼻で笑う。

「外って、どこ」

 静は隣に座らず、ベンチの前に立ったまま言う。

「明日、センター。行く」

「行かない」

 即答だった。シキは目を逸らさない。逸らさないことで、拒否を固めている。

 静は声のトーンを変えない。

「行く。行かないと、今夜も漫喫」

「漫喫でいい」

「良くない。未成年の深夜滞在は店に断られることもある。補導もある。体調崩す。金が尽きる」

「尽きたら、なんとかする」

「なんとか、って何」

 シキの口が止まる。答えがないところだけ、静は詰める。

「家に戻る? 怒鳴られる場所に?」

「……」

「路上?」

「……」

 静は一枚の紙を出した。センターの面談予約票の控えと、地図のコピー。コピーは学校の複合機ではなく、コンビニの白黒。角にレシートの跡が残っている。

「学校を巻き込まない形で用意した」

 シキが紙を見て、唇を歪める。

「そういうとこ、ずるい」

「ずるくないと勝てない」

 シキは紙を受け取らない。

「先生さ、信じてんの? ああいう人ら」

「信じてない」

 シキが一瞬、拍子抜けした顔をした。

「……は?」

 静は続ける。

「信じるかどうかは後。今は“手続き”」

「手続き?」

「話を聞いてもらう。記録を作る。次の支援に繋がる材料を作る。信用は要らない」

 シキが眉を寄せる。

「人に話したら、利用されるだけ」

「利用されるのが嫌なら、利用しろ」

「意味わかんね」

 静は言い直す。

「向こうは仕事で動く。お前はお前の目的で動く。目的が一致する部分だけ使え」

 シキが小さく笑った。乾いた音。

「誰も信用できないっすよ。親も、先生も、友達も」

 静は頷かない。否定もしない。

「信用しなくていい」

 シキの目が揺れる。そこに入ってくる言葉が予想外だったからだ。

 静は紙をシキの膝の上に置いた。

「明日、行く。お前は信用しなくていい。私も信用しなくていい。センターの人も信用しなくていい」

「じゃあ何で行く」

「寝る場所を増やすため」

 シキは視線を落とした。紙の地図を指でなぞる。駅からの道順。徒歩何分。バス停。小さな矢印。

「……施設とか言われるんだろ」

「言われる可能性はある。選択肢として出る」

「嫌だ」

「嫌なら断れる。断れるように、条件を持って行く」

「条件?」

 静はポケットからメモを出す。小さな紙片。今日の昼に書いたものだ。

「お前が絶対に嫌なこと、三つ」

 シキは顔をしかめる。

「そんなの、いっぱい」

「三つに絞れ。言える形にする」

 シキは黙って、指を折り始めた。

「……スマホ取り上げ。外出禁止。学校に連絡」

 静はすぐ書いた。

「よし。逆に、必要なことは」

「……寝れる。風呂。勉強できる」

「それも書く」

 シキがぼそっと言う。

「勉強って言うと、笑うじゃん」

「笑わない。単位落としたら、また選択肢が減る」

 静はメモを見せる。

「これを持って行く。相手が勝手に決める前に、こっちが条件を出す」

 シキは喉を鳴らした。口の中で何かを飲み込む音。

「……先生、そこまでやって、なんか得あんの」

 静は即答しない。廊下の向こうで部活の掛け声。窓の外で自転車のブレーキ音。日常が、シキの外側だけで回っている。

 静は言った。

「得はない。損もある」

「じゃあ、なんで」

「損を引き受ける大人がいないと、お前が全部払うことになる」

 シキの指が地図の端を握り潰しかけて、離した。

「……信用しなくていいって、ズルい」

「ズルい方が生き残るって言った」

 シキが顔を上げる。

「明日、先生、来んの」

「センターまでは行かない。学校を巻き込まない線がある」

「じゃあ一人?」

「一人が無理なら、相沢を頼れ」

 シキの眉が動く。

「陸?」

「お前、あいつのことは信用できるか」

 シキは即答しない。口を開きかけて閉じる。結局、視線を逸らした。

「……あいつ、いいやつだよ。たぶん」

「たぶんで十分。連絡するか」

 シキがスマホを取り出し、画面を見つめる。指が止まる。

「……先生、番号教えて」

 静は自分のスマホを出し、連絡先を送った。送信音が小さく鳴る。

 シキは画面を見て、短く打った。

『明日、付き添い頼める?』

 送ったあと、スマホを裏返して膝に置いた。返事を見るのが怖い置き方だ。

 静は言った。

「今夜は」

「漫喫」

「着いたら連絡」

「……“着いた”だけ?」

「それだけ」

 廊下の角で、教師の影が止まった。見回りだ。視線がこちらに向いて、すぐ逸れる。誰も踏み込まない。踏み込めない線が、学校の中にも引かれている。

 シキが立ち上がった。

「先生」

「何」

「俺、明日、バックれたら?」

 静は答えを急がない。代わりに、シキの足元を見る。靴。紐。少し汚れたつま先。今日ここまで来た足。

「バックれてもいい」

 シキが固まる。

 静は続ける。

「でも、バックれたって連絡を入れろ。“行けなかった”だけでいい。次の手を出す」

 シキの喉が動く。

「……次、あんの」

「作る」

 シキは小さく頷き、廊下を歩き出した。

 数歩先でスマホが震えた。裏返しにしていたのを、慌てて表にする。画面に相沢陸の名前。

 シキの指が止まったまま、静の方を見ないで言う。

「……返ってきた」

 静は一歩だけ近づいた。

「読め」

 シキが画面を見て、短く息を吐く。

『行ける。時間教えて。水も持ってく』

 シキはそのままスマホを握りしめ、何も言わずに歩き出した。背中が少しだけ軽く見えたのに、足取りは慎重なままだった。

 静はその背中を見送り、ポケットの中の鍵の感触を確かめる癖を止めた。もう鍵は、自分の手の中にはない。

 明日、センター。明後日、その次。学校の線の外で、道を増やす。

 静のスマホが震えた。今度は学校の番号だった。画面には、無機質な着信表示。

 静は立ち止まり、指を画面の上に置いたまま、動かさなかった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

会社員の青年と清掃員の老婆の超越した愛

MisakiNonagase
恋愛
二十六歳のレンが働くオフィスビルには、清掃員として七十歳のカズコも従事している。カズコは愛嬌のある笑顔と真面目な仕事ぶりで誰からも好かれていた。ある日の仕事帰りにレンがよく行く立ち飲み屋に入ると、カズコもいた。清掃員の青い作業服姿しか見たことのなかったレンは、ごく普通の装いだったがカズコの姿が輝いて見えた。それから少しづつ話すようになり、二人は年の差を越えて恋を育んでいくストーリーです。不倫は情事かもしれないが、この二人には情状という言葉がふさわしい。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...