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第24話:家に帰れない
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第3進路室の蛍光灯は、夕方になると少し白く冷えた。
桐生静が机の上の封筒を数え直していると、ドアが二回、控えめに叩かれた。
「……開いてる」
引き戸がわずかに滑って、細い影が入ってくる。制服の上着は着ているのに、シャツの裾が出ていた。鞄はない。手ぶらのまま、藤堂シキは壁に背を預けた。
「帰らないのか」
「帰んないっす」
「家?」
「……無理」
静は椅子を回して、真正面に座らない。横向きに、出入口とシキの間に自分の体を置く。
「担任には?」
「言うと、連絡いくじゃん。家に」
「行くな」
「だから言わない」
静は封筒を引き出しにしまい、鍵をかけた。金属音が小さく鳴る。
「鍵、厳しくなった」
シキの目が鍵に一瞬だけ落ちる。
「教頭のやつ?」
「名前は出すな。耳が多い」
「……はは」
笑いともため息ともつかない音が喉から出た。シキは靴のつま先で床をこすった。
「今日、どこで寝る」
「いつも通り。漫喫」
「会員証」
「ある」
「未成年の夜間、店によっては断る」
「行けるとこ知ってる」
静は机の端のメモ用紙を一枚引き寄せる。ペンを持つが、すぐには書かない。
「何時まで学校にいるつもりだ」
「終電まで」
「終電までここにいるのは無理だ。見回りが来る」
「じゃあ、どこ行けばいいっすか」
その言い方は、投げているのに、投げ切れていない。
静は視線を上げる。
「家に帰れない理由、三つに分ける。暴力、金、ルール。どれ」
シキは黙った。喉仏が上下に動く。視線が窓の外へ逃げる。
「……ルール」
「門限」
「門限つーか。父親の機嫌」
「機嫌がルール?」
「そうっす。今日は帰っていい日じゃない、みたいな」
静はペン先を置いたまま、紙を押し出す。
「“今日は”って言ったな。じゃあ、帰れる日もある」
「あるけど」
「その『けど』が、命に関わるかどうかだけ教えろ」
シキは肩をすくめて、笑うふりをした。
「死なないっすよ。殴られたことは……ないし」
「言い直すな。『ないし』の後がある」
「……怒鳴る。物投げる。俺のスマホ、壁に」
静は頷いた。そこで止める。深入りを急がない。
「今夜、家に帰らない。漫喫に行く。明日、学校来れる?」
「来れる。つか来ないと、単位」
「出席は?」
「ギリ。だから来る」
静は紙に小さく書いた。「出席ギリ」「夜:漫喫」。
ドアの外で足音がして、遠ざかった。静は声を落とす。
「ここで、選択肢を増やす。今ある選択肢は二つ。家か漫喫。増やす」
シキは眉をひそめた。
「増やすって、何」
「第三の寝場所。第四の逃げ道。第五の相談先」
「……施設とか?」
「そういう言い方をするな。お前が拒否したくなる」
シキの口元がわずかに歪む。
「じゃあ何。友達の家とか? 迷惑だし」
「迷惑かどうかは、相手が決める。お前が先に切るな」
「でも」
「でも、じゃない。現実を見る。友達宅は不安定。漫喫も不安定。安定するのは、制度か大人の手配だ」
シキは壁から背を離し、少しだけ前に出た。
「先生、そういうの、学校に言うんすか」
「学校に言うと、学校が“管理”したがる」
「……教頭みたいに?」
静は返事をせず、椅子のキャスターを少し鳴らしただけだった。シキはそれで答えを受け取ったように口を閉じる。
「じゃあ、どうすんの」
「まず、今夜の安全。次、明日の居場所。次、家の中のルールを“見える化”する。交渉できる形にする」
「交渉って。父親と?」
「お前一人でやるな。第三者を入れる。担任じゃなくていい」
「誰」
静は机の引き出しを開け、学校の相談窓口のカードを一枚取り出した。だが、すぐには渡さず机の上に置くだけにした。
「スクールソーシャルワーカー。市の担当。学校と繋がってるけど、学校の評価とは別の仕事」
シキがカードを見て、手を伸ばしかけて止めた。
「それ、バレる?」
「バレる可能性はある。だけど、漫喫で寝てるのが続けば、別の形でバレる。補導、財布、体調、欠席。どれかで」
「……」
「今のままは、運任せだ」
シキは小さく舌打ちした。怒りではなく、自分に向けた短い音だった。
「俺、悪いことしてないのに」
「してない。けど、“悪くない人”から先に崩れる。体が」
静は机の上の紙を指でトントンと叩く。
「藤堂。お前、どこが得意だ」
「は?」
「勉強じゃないのは知ってる」
「……知られてんの、最悪」
「出席ギリでも来る。単位を落としたくない。そこは偉い」
シキは「偉い」と言われたのが気に食わないようで、眉間にしわを寄せた。
「偉くないっす。普通」
「普通を続けるのが難しい状況で、普通を続けてる。で、得意は」
沈黙が伸びる。静は待つ。急かさない代わりに、逃がさない。
「……寝ないで起きてられる」
「それは才能じゃなくて危険だ」
「じゃあ、知らね」
「店、どこ選ぶ?」
「静かなとこ。個室。鍵っぽいやつ」
「鍵“っぽい”」
「……」
静はカードを指で押し、シキの方へ少しだけ滑らせた。
「“安全を選ぶ”のは得意だ。危ない道を避ける勘がある。今、その勘を制度にも使え」
シキはカードを取らず、机の端を指でなぞった。
「制度って、めんどい」
「めんどい。だから一緒にやる。ただし、学校の中で勝手にやるとまた揉める」
「また?」
静は目を細めただけで、答えなかった。代わりに、ドアの方へ視線を一瞬投げる。そこに誰もいないのに、いる前提の動きだった。
「明日、昼休み。ここじゃなくて、相談室前のベンチ。人の目がある方が、学校は余計なことをしにくい」
「人の目、嫌い」
「嫌いでも使う。盾になる」
シキは肩を落とし、ようやくカードを取った。指先が少し白くなるほど強く握る。
「これ、電話すんの」
「今夜はしない。夜は繋がりにくい。明日、昼。俺が同席する」
「先生、同席できんの?」
「できる範囲でやる。できないなら、できる大人を連れてくる」
シキはカードをポケットに入れた。
「……先生、怒られんじゃん」
「もう怒られてる」
「はは」
短い笑いが出た。今度は、少しだけ温度があった。
静は立ち上がり、時計を見る。
「終電までいるな。今出ろ。駅までの道、明るい方。店に着いたら、何時でもいいから一回だけメッセージ入れろ」
「先生に?」
「俺に。内容は『着いた』だけでいい」
「それ、先生のスマホに?」
「学校のじゃなく、個人に」
シキは一瞬、目を見開いた。そこに躊躇が走る。
「……それ、問題になんない?」
「問題にする人間はいる。だから、線引きする。雑談はしない。連絡は安全確認だけ」
「線引き、うまいっすね」
「うまくない。必要だからやる」
ドアの外で、今度は別の足音が近づいてきて止まった。見回りの気配だった。
静はシキの背中を軽く促す。
「行け」
「……明日、昼っすね」
「ああ」
シキが廊下へ出る。靴音が遠ざかる前に、静は低い声で付け足した。
「藤堂。漫喫は“家じゃない”。いつか、家以外の“帰れる場所”に変える」
シキは振り返らずに、手だけ上げた。指が二本、短く立つ。
足音が曲がり角で消える。
静はドアを閉め、鍵を確かめた。机の上には、さっきのメモと、もう一枚の白紙。明日の昼に書くべきことが、すでに頭の中で並んでいた。
廊下の向こうで、誰かが「桐生先生」と呼ぶ声がする。職員室の方向だ。
静は息を一つ吐き、白紙を引き寄せた。次の一手は、学校の目の届く場所で打つしかない。
職員室の入口で、桐生静は一度だけ立ち止まった。
扉の向こうは、いつもより声が低い。紙の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
「桐生先生」
教務の佐伯が手招きする。机の上には、鍵の台帳と、茶封筒。進路関係の書類だと一目でわかる厚み。
「これ。第3進路室の鍵、返却時間が曖昧って指摘が来てます」
「曖昧じゃない。私が管理してる」
「管理の仕方が“個人裁量”だって」
佐伯の視線が、背後の席へ流れる。教頭席の方。黒川は席にいない。いないのに、空気だけはそこにいる。
静は台帳を覗き込む。
「今日、誰が見た」
「用務員さんが。見回りで」
「用務員さんは悪くない。そういう仕事だ」
佐伯は言いにくそうに声を落とす。
「……面接練習も、勝手にやってるって」
「勝手じゃない。昼休みの指導だ」
「“統制外”って言葉が回ってます」
静は、机の端に指を置いた。爪が少し白くなる。
「統制したいのは、数字だけだろ」
「……それ、ここで言うと面倒です」
「もう面倒だ」
佐伯がため息をつく。
「桐生先生。今、火種抱えてるの自覚あります?」
静は答えず、職員室の時計を見る。昼休みまで、あと十分。シキとの約束の時間だ。
その時、職員室の電話が鳴った。近い席の若手が受話器を取る。
「はい、東高……え、七瀬? ……本人から? いえ、今は……」
若手の目が静に向く。静はすぐ近づいた。
「代わる」
受話器を取ると、耳の奥に、荒い息が入ってきた。
「……き、桐生、先生……?」
七瀬アオの声は細く、途切れがちだった。駅のアナウンスが遠くで混じる。
「アオ。今どこ」
「……会場、出て……電話、学校から……出ちゃって……」
「今、一人?」
「……うん」
静は職員室のざわめきから一歩離れ、壁際に寄った。
「立ってる?」
「……立ってる」
「座れ。ベンチ探せ」
「……ない……人、多い……」
「壁に寄れ。背中つけろ。荷物、抱えるな。下に置け」
受話器の向こうで布が擦れる音。アオの息が少しだけ整う。
「……先生、落ちた、よね……」
「今その話はしない」
「でも……」
「今は安全。帰り道。水はある?」
「……ない」
「自販機見える?」
「……見える」
「買える?」
沈黙。硬貨を探るような音がして、止まった。
「……財布、軽い……」
静は目を閉じ、短く息を吐いた。職員室の机の上。ペン立て。メモ。視線の端で、佐伯がこちらを見ている。後ろの空気が重い。
「アオ。誰かと合流できる?」
「……陸、くん……でも、迷惑……」
「迷惑かどうかは、本人が決める」
静は受話器を肩に挟み、ポケットから自分のスマホを出した。指が早い。相沢陸の連絡先。送信。
『七瀬が会場出た。今一人。駅。迎え行ける? 水も』
すぐ既読がつく。返信が短い。
『行けます。どこの駅?』
静はアオに聞く。
「駅名」
「……み、南口……」
静は陸へ転送する。次に、アオへ戻る。
「今から陸が行く。南口で動くな。人の流れから外れろ」
「……先生、学校、怒ってる……?」
「学校の機嫌は後でいい」
「でも……先生が……」
「私のことは私が処理する。お前は今、倒れない」
アオが小さく笑うような息を漏らした。笑えていない。喉が震えているだけだ。
「……怖い……」
静は声を低くした。
「怖いのは正常。だから、やることを増やす。今、手を見ろ」
「……手……」
「指、一本ずつ握る。親指。人差し指。中指。薬指。小指」
「……うん」
「できたら、背中を壁に押し付ける。足裏、床。今ここにいる」
向こうで靴が床を擦る音。息が少し落ち着く。
職員室の入口で、教務主任がこちらへ近づいてきた。声は丁寧だが、目が硬い。
「桐生先生、電話、長いです。外線は——」
静は受話器を押さえた。
「生徒の帰路安全確認です。切れません」
「今、教頭が——」
「教頭が何だ」
主任は言葉を飲み込む。飲み込ませる空気が、職員室にある。
静は受話器へ戻る。
「アオ。陸が着くまで、ここから切らない」
「……先生、職員室……?」
「そう」
「……怒られる……」
「怒られるのは、私の仕事」
アオが息を吸って、吐く。その間隔が少しだけ長くなった。
「……面接、型……使えた……」
「よし」
「でも……最後、声、震えて……」
「震えたまま出せた。十分だ」
静の背後で、椅子が引かれる音がした。誰かが立ち上がる。黒川の席の方から、別の教師が静を見て、視線を外す。見て見ぬふり。巻き込まれたくない顔。
静は机の端に置かれた茶封筒に目をやる。進路室の封筒。鍵。管理。統制。全部が一本の糸で繋がって、首に絡む。
受話器の向こうで、アオが小さく言った。
「……先生、私、学校、戻った方がいい……?」
「今は戻らない。帰る。陸と」
「……でも、電話……学校、またかけてくる……」
「出るな。今は出ない。必要なら私が折り返す」
「……怒られる……」
「怒られるのは、順番がある。命が先」
その言葉の端を、主任が聞いたのか、眉をしかめた。
「桐生先生、言い方——」
静は主任を見た。目だけで止める。
「言い方の前に、倒れたら誰が責任取る」
主任は何も言えなくなり、唇を閉じた。
受話器の向こうが少し騒がしくなる。人の声。足音。アオが息を止める気配。
「……陸、くん……?」
「着いた?」
「……うん、見えた……」
そこで、別の声が入った。陸だ。少し息が上がっている。
「七瀬、こっち。……先生?」
静は受話器の奥で、陸がスマホをアオから受け取る音を聞いた。
「相沢。水、買えたか」
「買いました。今、渡します」
「家まで送れる?」
「途中まで。七瀬、どっち方面?」
「……バス……」
陸の声が柔らかくなる。
「じゃ、バス停まで。座れるとこ探す」
静は短く頷く。
「相沢、無理はするな。危なくなったら、駅員に頼れ。七瀬は今、電話に出ない。学校から着信が来ても」
「了解です」
陸が少し迷って、声を落とした。
「先生、職員室、大丈夫ですか」
静は、茶封筒の角を指で押さえた。折れ目が白くなる。
「大丈夫じゃない。でも、やる」
「……はい」
電話が切れる。受話器を置いた瞬間、職員室の空気が戻ってきた。ざわめきが、静の周りだけ避けて流れる。
主任が低い声で言う。
「今の、記録に残します。外線の私用利用、って言われますよ」
「私用じゃない。安全確認だ」
「でも、規定が——」
「規定で息は止められない」
静が言い切ると、主任は口をつぐんだ。代わりに、佐伯が小さく割って入る。
「……桐生先生、昼休み、進路室じゃなくて、どこで面談するんですか」
静は時計を見る。あと数分。
「相談室前のベンチ。人目のあるところ」
「藤堂、来ます?」
「来るようにしてある」
佐伯が頷きかけたところで、職員室の奥から、紙を叩く音がした。黒川の席の引き出しが閉まる音に似ていた。本人はいないのに、背筋が伸びる。
主任が言う。
「教頭、戻ってきたら呼ばれますよ。今日中に」
「分かってる」
静は自分のスマホを握り直し、ポケットにしまった。
「でも、今は昼休みが先だ」
職員室を出ると、廊下の空気が少し暖かかった。窓から差す光が床に伸びている。
静は歩き出しながら、頭の中で順番を並べる。藤堂シキ。今夜。明日。制度。学校の目。黒川の圧。
曲がり角の先で、相沢陸がいない廊下が一瞬だけ寂しく見えた。代わりに、ベンチの方から、制服の影がひとつ、壁にもたれているのが見える。
手ぶらのままの藤堂シキが、こちらを見た。
「……先生。今日、呼び出し、食らってたっしょ」
静は歩みを止めない。
「食らってる最中だ。座れ。話す」
シキは鼻で笑って、ベンチに腰を落とした。
「俺の話、してる場合?」
「今する。お前が今夜、どこで息できるかの方が、学校の機嫌より先」
シキが視線を落とし、靴紐を弄った。
「……命とか言うと、大げさ」
静は隣に座らず、少し前に立ったまま言う。
「大げさにしないと、学校は動かない。お前も動かない」
シキの指が止まる。
「……で。どうすんの」
静はベンチの端に手を置いた。廊下の向こうに、見回りの教師の影がちらつく。聞かれてもいい言葉だけを選ぶ。
「選択肢を増やす。今日、まず一個。今夜の行き先を、漫喫だけにしない」
シキが顔を上げた。
「……増やせんの?」
静は頷く代わりに、ポケットから一枚の紙を出した。さっきの白紙に、急いで書いた連絡先と時間。
「ここに電話する。昼休みの間に。私が隣にいる」
シキは紙を受け取らず、じっと見た。
「それ、学校にバレる?」
「バレる可能性はある」
「じゃあ——」
「だから、人目のある場所でやる。隠さない。言い訳しない。安全のためって言う」
シキが唇を噛んだ。
「……先生、詰むじゃん」
静は紙をもう一度、差し出した。
「詰まないように手数を増やす。お前のためでもあるし、私のためでもある」
シキはようやく紙を取った。指先が震えているのを、本人は見ないふりをした。
廊下の遠くで、チャイムが鳴り始める。昼休みの終わりが近い。
静は視線を上げ、相談室の扉を見た。中にいるはずの担当者の影が、窓ガラス越しに動く。
「行くぞ。今、繋がるうちに繋ぐ」
シキが立ち上がる。
「……もし繋がんなかったら」
「繋がるまで、次を出す」
静は歩き出した。背中に、職員室の視線が刺さるのを感じながら。
それでも足を止めなかった。
相談室前のベンチは、人の往来が絶えなかった。
静は壁際に立ち、藤堂シキに座らせる。シキの膝が小刻みに揺れているのを、靴の先だけが隠そうとしていた。
「番号、押せるか」
「……押せる」
「じゃあ押せ。スピーカーにはしない」
「なんで」
「お前の声が逃げる。耳で聞け」
シキは紙を見て、スマホを取り出した。画面が一瞬、指紋で曇る。深呼吸の代わりに、短く鼻で息を吸って、発信。
呼び出し音が二回鳴って、繋がった。
「はい、市子ども家庭支援センターです」
女性の落ち着いた声。
シキが固まる。喉が動くのに、声が出ない。
静が口を挟まない。代わりに、指で紙の一行目を軽く叩く。「名前」「高校生」「今夜の寝場所」。
シキがようやく言う。
「……藤堂です。高校、二年で……今、家、帰れなくて」
「藤堂さん。今は安全な場所にいますか」
「学校……の、廊下……」
「学校の先生と一緒ですか」
シキがちらっと静を見る。静は頷くだけ。
「……はい」
「分かりました。今夜の居場所は確保できていますか」
シキの唇が歪む。
「漫喫……」
「何日くらい続いていますか」
「……何回も……」
質問が続くたび、シキの膝の揺れが速くなる。静は一歩だけ近づき、シキの足元に影を落とした。視界の端に入るだけの距離。
「ありがとうございます。今日この後、面談の予約を取りたいのですが、可能ですか」
「……」
シキが言葉を探していると、背後から革靴の音が近づいてきた。
廊下の空気が、すっと締まる。
黒川教頭が現れた。書類の束を腕に抱え、いつもの穏やかな顔を崩さないまま、静とシキを見下ろす。
「桐生先生」
静は目線を上げただけで応えた。シキはスマホを耳に当てたまま、肩をすくめる。
黒川は声量を落とさない。周囲に聞こえる程度に、きれいな発音で言う。
「今、授業時間ですよね」
静は短く返す。
「昼休みです」
「……そうでしたか。電話、何です?」
静は一瞬だけ、シキのスマホに目をやる。受話器の向こうで、支援センターの担当が待っている気配がする。
静は言った。
「安全確保の相談です」
黒川の眉がわずかに動く。
「学校の電話を使って?」
「私物です」
「なるほど。ではなおさら、学校の業務ではありませんね」
静は息を吐く。吐いた息が、喉の奥で引っかかる。
「学校の生徒です」
「生徒であっても、家庭の問題は学校の責任外です」
黒川は言い切る。優しい声のまま、線だけ引く。
「家庭内の事情に学校が踏み込めば、トラブルになります。訴訟リスクもある。あなたは分かっているはずだ」
静は一歩も引かない。
「分かってます。だから専門に繋いでます」
黒川が静の手元を見る。紙。連絡先。時間。手続きの匂い。
「繋ぐのは結構。しかし“学校が動いた”形にするのはやめてください」
「形?」
「あなたが同席して電話する。あなたが段取りを組む。外から見れば学校主導です」
静は、シキのスマホを見た。シキが電話口に向かって、小さく言う。
「……すみません、今……」
担当者の声が漏れる。「大丈夫ですよ。落ち着いて」
黒川は続ける。
「桐生先生。あなたは第3進路室を任されている。進路実績を上げるのが役割です。生活問題まで抱え込まない」
静の口元がわずかに動く。笑わない。噛みつく準備だけが整う。
「進路は生活の上にしか乗りません」
黒川は肩をすくめる。
「理想論です。学校は企業です。成果がすべて」
その言葉が、廊下に落ちた。通り過ぎる生徒が一瞬だけ足を止め、何も聞こえないふりで去っていく。
静は声を低くした。
「藤堂を“成果”に数えないなら、私は数字を増やせません」
黒川の目が細くなる。
「脅しですか」
「現実です」
黒川は静の横を通り、シキの方に視線を落とした。顔は穏やかだが、声は冷たい。
「藤堂くん。学校は君の生活の責任は取れない。だが、欠席が増えれば単位は落ちる。そこは君の責任だ」
シキの指がスマホを強く押さえる。耳が赤くなる。
静が言う。
「今、彼は電話中です」
黒川は一拍置いて、にこりともしない微笑を作った。
「では、邪魔をしないように。桐生先生、あとで職員室に」
「分かりました」
黒川は踵を返し、革靴の音を残して去っていった。去った後の廊下が、さっきより広く感じる。広い分だけ、守るものが露出する。
静はシキに目で合図した。「続けろ」。
シキは喉を鳴らして、電話口へ戻る。
「……すみません。えっと、面談……明日、学校、終わってからなら……」
「ありがとうございます。では明日の夕方、センターで面談できます。場所は——」
担当者が住所と持ち物を伝える。シキは必死にメモしようとして、手が追いつかない。
静が紙を差し出し、短く言う。
「言って。俺が書く」
「……“俺”って言うな」
「今だけだ」
シキは鼻で笑い、でも言葉はちゃんと出した。
「……住所、もう一回、お願いします」
静のペン先が走る。書きながら、シキの横顔を見る。唇が乾いている。目は泳ぐ。けれど、逃げない。
電話が終わると、シキはスマホを膝の上に落とした。画面が暗くなる。
「……明日、行けって」
「行く」
「俺、行けるかな」
静は紙を折り、シキの手に押し込む。
「行けるかどうかは分からない。だから、行ける形にする」
「形って」
「交通費。時間。言い訳。全部先に作る」
シキが顔をしかめる。
「言い訳とか、ダサ」
「ダサい方が生き残る」
静の言葉に、シキは笑うでもなく、俯いた。
廊下の向こうでチャイムが鳴った。授業開始の合図。周囲の生徒が教室へ吸い込まれていく。
静は腕時計を見て、立ち上がる。
「藤堂。次の授業は出ろ」
「出たら、帰れって言われる」
「言われたら、私が受ける。お前は座ってろ」
シキが立ち上がり、紙をポケットにねじ込む。
「……教頭、あれ、何。人間?」
「人間だよ。学校を守る人間」
「俺は守られない?」
静は一瞬だけ黙った。答えの代わりに、廊下の窓の外を指で示す。校門の向こう。現実が続く場所。
「学校は守れないものがある。だから学校の外の手を借りる」
シキが唇を噛む。
「……先生、怒られんの?」
「怒られる」
「じゃあ、やめれば」
静はシキの目を見る。短く。
「やめない。線を引く人がいるなら、線の外に道を作る」
遠くで職員室の扉が開く音がした。誰かが静の名前を呼ぶ気配がする。
静は廊下の角を見た。そこへ向かえば、黒川が待っている。
それでも静は、先にシキの背中を教室の方向へ押した。
「行け。授業に戻れ。明日の放課後、ここに来い」
「……わかった」
シキが歩き出す。数歩進んで、振り返らずに言った。
「先生。俺、着いたって連絡、した方がいい?」
静は頷く。
「“着いた”だけでいい」
シキが教室の扉の向こうへ消える。
静は一人、職員室へ向かって歩き出した。廊下の途中でスマホが震える。相沢陸からだ。
『七瀬、バス乗せました。水飲めてます』
静は画面を消し、ポケットに戻した。
次は、黒川の線を越えない形で、越える。そう決めた足取りで、職員室の扉に手をかけた。
職員室の扉を閉めた瞬間、空気が一段重くなった。
黒川は席に戻っていた。机の上に鍵の台帳。茶封筒。静が目を向ける前に、黒川が指先で台帳を叩いた。
「桐生先生。あなた、最近“外”と繋がりすぎです」
静は椅子に座らない。立ったまま言う。
「繋がらないと、壊れる生徒が出ます」
「壊れる、という言い方」
「倒れる。消える。言い換えますか」
黒川の口元が僅かに引きつる。
「感情で動くな。学校の責任範囲を越えるな」
「越えないように、外へ繋いでます」
「その“外”が問題なんです。あなた個人の判断で市の機関と連絡を取り、同席し——」
静は視線を逸らさない。
「同席しないと、電話ができない子がいる」
黒川は手を組んだ。
「あなたの善意で、学校が巻き込まれる。分かりますね」
「分かってます」
「では、やめてください」
静は一拍置いてから言った。
「やめません」
職員室の誰かが息を飲む音がした。キーボードの打鍵が一瞬止まり、すぐ再開する。見なかったことにする速度だ。
黒川は声を荒げない。
「命令です」
静の返事は短い。
「拒否します」
黒川の目が冷える。
「あなた一人の正義で、学校を危険に晒すな」
静は台帳に触れない距離を保ったまま、言葉を選ぶ。
「危険に晒してるのは、私じゃない。現実です」
黒川は椅子の背にもたれ、静を測るように見た。
「あなた、最近“第3進路室”を盾にしすぎだ。進路指導は進路指導。生活指導は生活指導。家庭の問題は家庭の問題」
「分けられないケースがある」
「分けろ」
静は呼吸を整えた。ここで噛みつけば、シキに戻る時間が削れる。勝ち負けじゃない。手数だ。
「分けます。学校の責任外の部分は、外の責任に繋ぎます」
黒川が頷く。
「そう。それなら——」
静が続ける。
「繋ぐのはやめません」
黒川の頷きが止まった。
「……桐生先生」
静は淡々と言う。
「学校の名前は出しません。書類も学校では保管しません。面談の同行も、必要があるときだけ。線は守ります」
黒川は沈黙し、机の上の茶封筒を指で揃えた。揃えながら、静の方を見ない。
「あなたが線を守ると言っても、周りは守らない。噂が立つ。保護者が騒ぐ。教育委員会が動く」
「動くなら動けばいい」
黒川の視線が静に戻る。
「あなた、首が飛びますよ」
静は瞬きを一回だけした。
「それでも、やります」
黒川は言った。
「あなたは教師です。社会福祉士ではない」
「だから、社会福祉士に繋ぐ」
黒川は小さく息を吐いた。諦めではなく、計算の息だ。
「……分かりました。あなたの責任でやるなら、学校を巻き込むな。記録も残すな。第3進路室の鍵は、今日から職員室管理に戻します」
静の眉が僅かに動く。
「不便になります」
「不便で結構。統制です」
静は頷いた。飲み込む。今は。
「了解です」
黒川が視線を落とす。
「戻っていいです」
静は職員室を出た。廊下に出ると、胸の奥の圧が少しだけ抜ける。抜けた分、疲れが入ってくる。
放課後。
相談室前のベンチに、藤堂シキがいた。制服のまま。鞄はある。だが肩に掛けず、床に置いている。逃げる準備ができている置き方だ。
静が近づくと、シキは顔を上げた。
「先生、呼び出し、どうだった」
「線を引かれた」
「……やっぱ」
「引かれた線の外で動く」
シキが鼻で笑う。
「外って、どこ」
静は隣に座らず、ベンチの前に立ったまま言う。
「明日、センター。行く」
「行かない」
即答だった。シキは目を逸らさない。逸らさないことで、拒否を固めている。
静は声のトーンを変えない。
「行く。行かないと、今夜も漫喫」
「漫喫でいい」
「良くない。未成年の深夜滞在は店に断られることもある。補導もある。体調崩す。金が尽きる」
「尽きたら、なんとかする」
「なんとか、って何」
シキの口が止まる。答えがないところだけ、静は詰める。
「家に戻る? 怒鳴られる場所に?」
「……」
「路上?」
「……」
静は一枚の紙を出した。センターの面談予約票の控えと、地図のコピー。コピーは学校の複合機ではなく、コンビニの白黒。角にレシートの跡が残っている。
「学校を巻き込まない形で用意した」
シキが紙を見て、唇を歪める。
「そういうとこ、ずるい」
「ずるくないと勝てない」
シキは紙を受け取らない。
「先生さ、信じてんの? ああいう人ら」
「信じてない」
シキが一瞬、拍子抜けした顔をした。
「……は?」
静は続ける。
「信じるかどうかは後。今は“手続き”」
「手続き?」
「話を聞いてもらう。記録を作る。次の支援に繋がる材料を作る。信用は要らない」
シキが眉を寄せる。
「人に話したら、利用されるだけ」
「利用されるのが嫌なら、利用しろ」
「意味わかんね」
静は言い直す。
「向こうは仕事で動く。お前はお前の目的で動く。目的が一致する部分だけ使え」
シキが小さく笑った。乾いた音。
「誰も信用できないっすよ。親も、先生も、友達も」
静は頷かない。否定もしない。
「信用しなくていい」
シキの目が揺れる。そこに入ってくる言葉が予想外だったからだ。
静は紙をシキの膝の上に置いた。
「明日、行く。お前は信用しなくていい。私も信用しなくていい。センターの人も信用しなくていい」
「じゃあ何で行く」
「寝る場所を増やすため」
シキは視線を落とした。紙の地図を指でなぞる。駅からの道順。徒歩何分。バス停。小さな矢印。
「……施設とか言われるんだろ」
「言われる可能性はある。選択肢として出る」
「嫌だ」
「嫌なら断れる。断れるように、条件を持って行く」
「条件?」
静はポケットからメモを出す。小さな紙片。今日の昼に書いたものだ。
「お前が絶対に嫌なこと、三つ」
シキは顔をしかめる。
「そんなの、いっぱい」
「三つに絞れ。言える形にする」
シキは黙って、指を折り始めた。
「……スマホ取り上げ。外出禁止。学校に連絡」
静はすぐ書いた。
「よし。逆に、必要なことは」
「……寝れる。風呂。勉強できる」
「それも書く」
シキがぼそっと言う。
「勉強って言うと、笑うじゃん」
「笑わない。単位落としたら、また選択肢が減る」
静はメモを見せる。
「これを持って行く。相手が勝手に決める前に、こっちが条件を出す」
シキは喉を鳴らした。口の中で何かを飲み込む音。
「……先生、そこまでやって、なんか得あんの」
静は即答しない。廊下の向こうで部活の掛け声。窓の外で自転車のブレーキ音。日常が、シキの外側だけで回っている。
静は言った。
「得はない。損もある」
「じゃあ、なんで」
「損を引き受ける大人がいないと、お前が全部払うことになる」
シキの指が地図の端を握り潰しかけて、離した。
「……信用しなくていいって、ズルい」
「ズルい方が生き残るって言った」
シキが顔を上げる。
「明日、先生、来んの」
「センターまでは行かない。学校を巻き込まない線がある」
「じゃあ一人?」
「一人が無理なら、相沢を頼れ」
シキの眉が動く。
「陸?」
「お前、あいつのことは信用できるか」
シキは即答しない。口を開きかけて閉じる。結局、視線を逸らした。
「……あいつ、いいやつだよ。たぶん」
「たぶんで十分。連絡するか」
シキがスマホを取り出し、画面を見つめる。指が止まる。
「……先生、番号教えて」
静は自分のスマホを出し、連絡先を送った。送信音が小さく鳴る。
シキは画面を見て、短く打った。
『明日、付き添い頼める?』
送ったあと、スマホを裏返して膝に置いた。返事を見るのが怖い置き方だ。
静は言った。
「今夜は」
「漫喫」
「着いたら連絡」
「……“着いた”だけ?」
「それだけ」
廊下の角で、教師の影が止まった。見回りだ。視線がこちらに向いて、すぐ逸れる。誰も踏み込まない。踏み込めない線が、学校の中にも引かれている。
シキが立ち上がった。
「先生」
「何」
「俺、明日、バックれたら?」
静は答えを急がない。代わりに、シキの足元を見る。靴。紐。少し汚れたつま先。今日ここまで来た足。
「バックれてもいい」
シキが固まる。
静は続ける。
「でも、バックれたって連絡を入れろ。“行けなかった”だけでいい。次の手を出す」
シキの喉が動く。
「……次、あんの」
「作る」
シキは小さく頷き、廊下を歩き出した。
数歩先でスマホが震えた。裏返しにしていたのを、慌てて表にする。画面に相沢陸の名前。
シキの指が止まったまま、静の方を見ないで言う。
「……返ってきた」
静は一歩だけ近づいた。
「読め」
シキが画面を見て、短く息を吐く。
『行ける。時間教えて。水も持ってく』
シキはそのままスマホを握りしめ、何も言わずに歩き出した。背中が少しだけ軽く見えたのに、足取りは慎重なままだった。
静はその背中を見送り、ポケットの中の鍵の感触を確かめる癖を止めた。もう鍵は、自分の手の中にはない。
明日、センター。明後日、その次。学校の線の外で、道を増やす。
静のスマホが震えた。今度は学校の番号だった。画面には、無機質な着信表示。
静は立ち止まり、指を画面の上に置いたまま、動かさなかった。
桐生静が机の上の封筒を数え直していると、ドアが二回、控えめに叩かれた。
「……開いてる」
引き戸がわずかに滑って、細い影が入ってくる。制服の上着は着ているのに、シャツの裾が出ていた。鞄はない。手ぶらのまま、藤堂シキは壁に背を預けた。
「帰らないのか」
「帰んないっす」
「家?」
「……無理」
静は椅子を回して、真正面に座らない。横向きに、出入口とシキの間に自分の体を置く。
「担任には?」
「言うと、連絡いくじゃん。家に」
「行くな」
「だから言わない」
静は封筒を引き出しにしまい、鍵をかけた。金属音が小さく鳴る。
「鍵、厳しくなった」
シキの目が鍵に一瞬だけ落ちる。
「教頭のやつ?」
「名前は出すな。耳が多い」
「……はは」
笑いともため息ともつかない音が喉から出た。シキは靴のつま先で床をこすった。
「今日、どこで寝る」
「いつも通り。漫喫」
「会員証」
「ある」
「未成年の夜間、店によっては断る」
「行けるとこ知ってる」
静は机の端のメモ用紙を一枚引き寄せる。ペンを持つが、すぐには書かない。
「何時まで学校にいるつもりだ」
「終電まで」
「終電までここにいるのは無理だ。見回りが来る」
「じゃあ、どこ行けばいいっすか」
その言い方は、投げているのに、投げ切れていない。
静は視線を上げる。
「家に帰れない理由、三つに分ける。暴力、金、ルール。どれ」
シキは黙った。喉仏が上下に動く。視線が窓の外へ逃げる。
「……ルール」
「門限」
「門限つーか。父親の機嫌」
「機嫌がルール?」
「そうっす。今日は帰っていい日じゃない、みたいな」
静はペン先を置いたまま、紙を押し出す。
「“今日は”って言ったな。じゃあ、帰れる日もある」
「あるけど」
「その『けど』が、命に関わるかどうかだけ教えろ」
シキは肩をすくめて、笑うふりをした。
「死なないっすよ。殴られたことは……ないし」
「言い直すな。『ないし』の後がある」
「……怒鳴る。物投げる。俺のスマホ、壁に」
静は頷いた。そこで止める。深入りを急がない。
「今夜、家に帰らない。漫喫に行く。明日、学校来れる?」
「来れる。つか来ないと、単位」
「出席は?」
「ギリ。だから来る」
静は紙に小さく書いた。「出席ギリ」「夜:漫喫」。
ドアの外で足音がして、遠ざかった。静は声を落とす。
「ここで、選択肢を増やす。今ある選択肢は二つ。家か漫喫。増やす」
シキは眉をひそめた。
「増やすって、何」
「第三の寝場所。第四の逃げ道。第五の相談先」
「……施設とか?」
「そういう言い方をするな。お前が拒否したくなる」
シキの口元がわずかに歪む。
「じゃあ何。友達の家とか? 迷惑だし」
「迷惑かどうかは、相手が決める。お前が先に切るな」
「でも」
「でも、じゃない。現実を見る。友達宅は不安定。漫喫も不安定。安定するのは、制度か大人の手配だ」
シキは壁から背を離し、少しだけ前に出た。
「先生、そういうの、学校に言うんすか」
「学校に言うと、学校が“管理”したがる」
「……教頭みたいに?」
静は返事をせず、椅子のキャスターを少し鳴らしただけだった。シキはそれで答えを受け取ったように口を閉じる。
「じゃあ、どうすんの」
「まず、今夜の安全。次、明日の居場所。次、家の中のルールを“見える化”する。交渉できる形にする」
「交渉って。父親と?」
「お前一人でやるな。第三者を入れる。担任じゃなくていい」
「誰」
静は机の引き出しを開け、学校の相談窓口のカードを一枚取り出した。だが、すぐには渡さず机の上に置くだけにした。
「スクールソーシャルワーカー。市の担当。学校と繋がってるけど、学校の評価とは別の仕事」
シキがカードを見て、手を伸ばしかけて止めた。
「それ、バレる?」
「バレる可能性はある。だけど、漫喫で寝てるのが続けば、別の形でバレる。補導、財布、体調、欠席。どれかで」
「……」
「今のままは、運任せだ」
シキは小さく舌打ちした。怒りではなく、自分に向けた短い音だった。
「俺、悪いことしてないのに」
「してない。けど、“悪くない人”から先に崩れる。体が」
静は机の上の紙を指でトントンと叩く。
「藤堂。お前、どこが得意だ」
「は?」
「勉強じゃないのは知ってる」
「……知られてんの、最悪」
「出席ギリでも来る。単位を落としたくない。そこは偉い」
シキは「偉い」と言われたのが気に食わないようで、眉間にしわを寄せた。
「偉くないっす。普通」
「普通を続けるのが難しい状況で、普通を続けてる。で、得意は」
沈黙が伸びる。静は待つ。急かさない代わりに、逃がさない。
「……寝ないで起きてられる」
「それは才能じゃなくて危険だ」
「じゃあ、知らね」
「店、どこ選ぶ?」
「静かなとこ。個室。鍵っぽいやつ」
「鍵“っぽい”」
「……」
静はカードを指で押し、シキの方へ少しだけ滑らせた。
「“安全を選ぶ”のは得意だ。危ない道を避ける勘がある。今、その勘を制度にも使え」
シキはカードを取らず、机の端を指でなぞった。
「制度って、めんどい」
「めんどい。だから一緒にやる。ただし、学校の中で勝手にやるとまた揉める」
「また?」
静は目を細めただけで、答えなかった。代わりに、ドアの方へ視線を一瞬投げる。そこに誰もいないのに、いる前提の動きだった。
「明日、昼休み。ここじゃなくて、相談室前のベンチ。人の目がある方が、学校は余計なことをしにくい」
「人の目、嫌い」
「嫌いでも使う。盾になる」
シキは肩を落とし、ようやくカードを取った。指先が少し白くなるほど強く握る。
「これ、電話すんの」
「今夜はしない。夜は繋がりにくい。明日、昼。俺が同席する」
「先生、同席できんの?」
「できる範囲でやる。できないなら、できる大人を連れてくる」
シキはカードをポケットに入れた。
「……先生、怒られんじゃん」
「もう怒られてる」
「はは」
短い笑いが出た。今度は、少しだけ温度があった。
静は立ち上がり、時計を見る。
「終電までいるな。今出ろ。駅までの道、明るい方。店に着いたら、何時でもいいから一回だけメッセージ入れろ」
「先生に?」
「俺に。内容は『着いた』だけでいい」
「それ、先生のスマホに?」
「学校のじゃなく、個人に」
シキは一瞬、目を見開いた。そこに躊躇が走る。
「……それ、問題になんない?」
「問題にする人間はいる。だから、線引きする。雑談はしない。連絡は安全確認だけ」
「線引き、うまいっすね」
「うまくない。必要だからやる」
ドアの外で、今度は別の足音が近づいてきて止まった。見回りの気配だった。
静はシキの背中を軽く促す。
「行け」
「……明日、昼っすね」
「ああ」
シキが廊下へ出る。靴音が遠ざかる前に、静は低い声で付け足した。
「藤堂。漫喫は“家じゃない”。いつか、家以外の“帰れる場所”に変える」
シキは振り返らずに、手だけ上げた。指が二本、短く立つ。
足音が曲がり角で消える。
静はドアを閉め、鍵を確かめた。机の上には、さっきのメモと、もう一枚の白紙。明日の昼に書くべきことが、すでに頭の中で並んでいた。
廊下の向こうで、誰かが「桐生先生」と呼ぶ声がする。職員室の方向だ。
静は息を一つ吐き、白紙を引き寄せた。次の一手は、学校の目の届く場所で打つしかない。
職員室の入口で、桐生静は一度だけ立ち止まった。
扉の向こうは、いつもより声が低い。紙の擦れる音がやけに大きく聞こえる。
「桐生先生」
教務の佐伯が手招きする。机の上には、鍵の台帳と、茶封筒。進路関係の書類だと一目でわかる厚み。
「これ。第3進路室の鍵、返却時間が曖昧って指摘が来てます」
「曖昧じゃない。私が管理してる」
「管理の仕方が“個人裁量”だって」
佐伯の視線が、背後の席へ流れる。教頭席の方。黒川は席にいない。いないのに、空気だけはそこにいる。
静は台帳を覗き込む。
「今日、誰が見た」
「用務員さんが。見回りで」
「用務員さんは悪くない。そういう仕事だ」
佐伯は言いにくそうに声を落とす。
「……面接練習も、勝手にやってるって」
「勝手じゃない。昼休みの指導だ」
「“統制外”って言葉が回ってます」
静は、机の端に指を置いた。爪が少し白くなる。
「統制したいのは、数字だけだろ」
「……それ、ここで言うと面倒です」
「もう面倒だ」
佐伯がため息をつく。
「桐生先生。今、火種抱えてるの自覚あります?」
静は答えず、職員室の時計を見る。昼休みまで、あと十分。シキとの約束の時間だ。
その時、職員室の電話が鳴った。近い席の若手が受話器を取る。
「はい、東高……え、七瀬? ……本人から? いえ、今は……」
若手の目が静に向く。静はすぐ近づいた。
「代わる」
受話器を取ると、耳の奥に、荒い息が入ってきた。
「……き、桐生、先生……?」
七瀬アオの声は細く、途切れがちだった。駅のアナウンスが遠くで混じる。
「アオ。今どこ」
「……会場、出て……電話、学校から……出ちゃって……」
「今、一人?」
「……うん」
静は職員室のざわめきから一歩離れ、壁際に寄った。
「立ってる?」
「……立ってる」
「座れ。ベンチ探せ」
「……ない……人、多い……」
「壁に寄れ。背中つけろ。荷物、抱えるな。下に置け」
受話器の向こうで布が擦れる音。アオの息が少しだけ整う。
「……先生、落ちた、よね……」
「今その話はしない」
「でも……」
「今は安全。帰り道。水はある?」
「……ない」
「自販機見える?」
「……見える」
「買える?」
沈黙。硬貨を探るような音がして、止まった。
「……財布、軽い……」
静は目を閉じ、短く息を吐いた。職員室の机の上。ペン立て。メモ。視線の端で、佐伯がこちらを見ている。後ろの空気が重い。
「アオ。誰かと合流できる?」
「……陸、くん……でも、迷惑……」
「迷惑かどうかは、本人が決める」
静は受話器を肩に挟み、ポケットから自分のスマホを出した。指が早い。相沢陸の連絡先。送信。
『七瀬が会場出た。今一人。駅。迎え行ける? 水も』
すぐ既読がつく。返信が短い。
『行けます。どこの駅?』
静はアオに聞く。
「駅名」
「……み、南口……」
静は陸へ転送する。次に、アオへ戻る。
「今から陸が行く。南口で動くな。人の流れから外れろ」
「……先生、学校、怒ってる……?」
「学校の機嫌は後でいい」
「でも……先生が……」
「私のことは私が処理する。お前は今、倒れない」
アオが小さく笑うような息を漏らした。笑えていない。喉が震えているだけだ。
「……怖い……」
静は声を低くした。
「怖いのは正常。だから、やることを増やす。今、手を見ろ」
「……手……」
「指、一本ずつ握る。親指。人差し指。中指。薬指。小指」
「……うん」
「できたら、背中を壁に押し付ける。足裏、床。今ここにいる」
向こうで靴が床を擦る音。息が少し落ち着く。
職員室の入口で、教務主任がこちらへ近づいてきた。声は丁寧だが、目が硬い。
「桐生先生、電話、長いです。外線は——」
静は受話器を押さえた。
「生徒の帰路安全確認です。切れません」
「今、教頭が——」
「教頭が何だ」
主任は言葉を飲み込む。飲み込ませる空気が、職員室にある。
静は受話器へ戻る。
「アオ。陸が着くまで、ここから切らない」
「……先生、職員室……?」
「そう」
「……怒られる……」
「怒られるのは、私の仕事」
アオが息を吸って、吐く。その間隔が少しだけ長くなった。
「……面接、型……使えた……」
「よし」
「でも……最後、声、震えて……」
「震えたまま出せた。十分だ」
静の背後で、椅子が引かれる音がした。誰かが立ち上がる。黒川の席の方から、別の教師が静を見て、視線を外す。見て見ぬふり。巻き込まれたくない顔。
静は机の端に置かれた茶封筒に目をやる。進路室の封筒。鍵。管理。統制。全部が一本の糸で繋がって、首に絡む。
受話器の向こうで、アオが小さく言った。
「……先生、私、学校、戻った方がいい……?」
「今は戻らない。帰る。陸と」
「……でも、電話……学校、またかけてくる……」
「出るな。今は出ない。必要なら私が折り返す」
「……怒られる……」
「怒られるのは、順番がある。命が先」
その言葉の端を、主任が聞いたのか、眉をしかめた。
「桐生先生、言い方——」
静は主任を見た。目だけで止める。
「言い方の前に、倒れたら誰が責任取る」
主任は何も言えなくなり、唇を閉じた。
受話器の向こうが少し騒がしくなる。人の声。足音。アオが息を止める気配。
「……陸、くん……?」
「着いた?」
「……うん、見えた……」
そこで、別の声が入った。陸だ。少し息が上がっている。
「七瀬、こっち。……先生?」
静は受話器の奥で、陸がスマホをアオから受け取る音を聞いた。
「相沢。水、買えたか」
「買いました。今、渡します」
「家まで送れる?」
「途中まで。七瀬、どっち方面?」
「……バス……」
陸の声が柔らかくなる。
「じゃ、バス停まで。座れるとこ探す」
静は短く頷く。
「相沢、無理はするな。危なくなったら、駅員に頼れ。七瀬は今、電話に出ない。学校から着信が来ても」
「了解です」
陸が少し迷って、声を落とした。
「先生、職員室、大丈夫ですか」
静は、茶封筒の角を指で押さえた。折れ目が白くなる。
「大丈夫じゃない。でも、やる」
「……はい」
電話が切れる。受話器を置いた瞬間、職員室の空気が戻ってきた。ざわめきが、静の周りだけ避けて流れる。
主任が低い声で言う。
「今の、記録に残します。外線の私用利用、って言われますよ」
「私用じゃない。安全確認だ」
「でも、規定が——」
「規定で息は止められない」
静が言い切ると、主任は口をつぐんだ。代わりに、佐伯が小さく割って入る。
「……桐生先生、昼休み、進路室じゃなくて、どこで面談するんですか」
静は時計を見る。あと数分。
「相談室前のベンチ。人目のあるところ」
「藤堂、来ます?」
「来るようにしてある」
佐伯が頷きかけたところで、職員室の奥から、紙を叩く音がした。黒川の席の引き出しが閉まる音に似ていた。本人はいないのに、背筋が伸びる。
主任が言う。
「教頭、戻ってきたら呼ばれますよ。今日中に」
「分かってる」
静は自分のスマホを握り直し、ポケットにしまった。
「でも、今は昼休みが先だ」
職員室を出ると、廊下の空気が少し暖かかった。窓から差す光が床に伸びている。
静は歩き出しながら、頭の中で順番を並べる。藤堂シキ。今夜。明日。制度。学校の目。黒川の圧。
曲がり角の先で、相沢陸がいない廊下が一瞬だけ寂しく見えた。代わりに、ベンチの方から、制服の影がひとつ、壁にもたれているのが見える。
手ぶらのままの藤堂シキが、こちらを見た。
「……先生。今日、呼び出し、食らってたっしょ」
静は歩みを止めない。
「食らってる最中だ。座れ。話す」
シキは鼻で笑って、ベンチに腰を落とした。
「俺の話、してる場合?」
「今する。お前が今夜、どこで息できるかの方が、学校の機嫌より先」
シキが視線を落とし、靴紐を弄った。
「……命とか言うと、大げさ」
静は隣に座らず、少し前に立ったまま言う。
「大げさにしないと、学校は動かない。お前も動かない」
シキの指が止まる。
「……で。どうすんの」
静はベンチの端に手を置いた。廊下の向こうに、見回りの教師の影がちらつく。聞かれてもいい言葉だけを選ぶ。
「選択肢を増やす。今日、まず一個。今夜の行き先を、漫喫だけにしない」
シキが顔を上げた。
「……増やせんの?」
静は頷く代わりに、ポケットから一枚の紙を出した。さっきの白紙に、急いで書いた連絡先と時間。
「ここに電話する。昼休みの間に。私が隣にいる」
シキは紙を受け取らず、じっと見た。
「それ、学校にバレる?」
「バレる可能性はある」
「じゃあ——」
「だから、人目のある場所でやる。隠さない。言い訳しない。安全のためって言う」
シキが唇を噛んだ。
「……先生、詰むじゃん」
静は紙をもう一度、差し出した。
「詰まないように手数を増やす。お前のためでもあるし、私のためでもある」
シキはようやく紙を取った。指先が震えているのを、本人は見ないふりをした。
廊下の遠くで、チャイムが鳴り始める。昼休みの終わりが近い。
静は視線を上げ、相談室の扉を見た。中にいるはずの担当者の影が、窓ガラス越しに動く。
「行くぞ。今、繋がるうちに繋ぐ」
シキが立ち上がる。
「……もし繋がんなかったら」
「繋がるまで、次を出す」
静は歩き出した。背中に、職員室の視線が刺さるのを感じながら。
それでも足を止めなかった。
相談室前のベンチは、人の往来が絶えなかった。
静は壁際に立ち、藤堂シキに座らせる。シキの膝が小刻みに揺れているのを、靴の先だけが隠そうとしていた。
「番号、押せるか」
「……押せる」
「じゃあ押せ。スピーカーにはしない」
「なんで」
「お前の声が逃げる。耳で聞け」
シキは紙を見て、スマホを取り出した。画面が一瞬、指紋で曇る。深呼吸の代わりに、短く鼻で息を吸って、発信。
呼び出し音が二回鳴って、繋がった。
「はい、市子ども家庭支援センターです」
女性の落ち着いた声。
シキが固まる。喉が動くのに、声が出ない。
静が口を挟まない。代わりに、指で紙の一行目を軽く叩く。「名前」「高校生」「今夜の寝場所」。
シキがようやく言う。
「……藤堂です。高校、二年で……今、家、帰れなくて」
「藤堂さん。今は安全な場所にいますか」
「学校……の、廊下……」
「学校の先生と一緒ですか」
シキがちらっと静を見る。静は頷くだけ。
「……はい」
「分かりました。今夜の居場所は確保できていますか」
シキの唇が歪む。
「漫喫……」
「何日くらい続いていますか」
「……何回も……」
質問が続くたび、シキの膝の揺れが速くなる。静は一歩だけ近づき、シキの足元に影を落とした。視界の端に入るだけの距離。
「ありがとうございます。今日この後、面談の予約を取りたいのですが、可能ですか」
「……」
シキが言葉を探していると、背後から革靴の音が近づいてきた。
廊下の空気が、すっと締まる。
黒川教頭が現れた。書類の束を腕に抱え、いつもの穏やかな顔を崩さないまま、静とシキを見下ろす。
「桐生先生」
静は目線を上げただけで応えた。シキはスマホを耳に当てたまま、肩をすくめる。
黒川は声量を落とさない。周囲に聞こえる程度に、きれいな発音で言う。
「今、授業時間ですよね」
静は短く返す。
「昼休みです」
「……そうでしたか。電話、何です?」
静は一瞬だけ、シキのスマホに目をやる。受話器の向こうで、支援センターの担当が待っている気配がする。
静は言った。
「安全確保の相談です」
黒川の眉がわずかに動く。
「学校の電話を使って?」
「私物です」
「なるほど。ではなおさら、学校の業務ではありませんね」
静は息を吐く。吐いた息が、喉の奥で引っかかる。
「学校の生徒です」
「生徒であっても、家庭の問題は学校の責任外です」
黒川は言い切る。優しい声のまま、線だけ引く。
「家庭内の事情に学校が踏み込めば、トラブルになります。訴訟リスクもある。あなたは分かっているはずだ」
静は一歩も引かない。
「分かってます。だから専門に繋いでます」
黒川が静の手元を見る。紙。連絡先。時間。手続きの匂い。
「繋ぐのは結構。しかし“学校が動いた”形にするのはやめてください」
「形?」
「あなたが同席して電話する。あなたが段取りを組む。外から見れば学校主導です」
静は、シキのスマホを見た。シキが電話口に向かって、小さく言う。
「……すみません、今……」
担当者の声が漏れる。「大丈夫ですよ。落ち着いて」
黒川は続ける。
「桐生先生。あなたは第3進路室を任されている。進路実績を上げるのが役割です。生活問題まで抱え込まない」
静の口元がわずかに動く。笑わない。噛みつく準備だけが整う。
「進路は生活の上にしか乗りません」
黒川は肩をすくめる。
「理想論です。学校は企業です。成果がすべて」
その言葉が、廊下に落ちた。通り過ぎる生徒が一瞬だけ足を止め、何も聞こえないふりで去っていく。
静は声を低くした。
「藤堂を“成果”に数えないなら、私は数字を増やせません」
黒川の目が細くなる。
「脅しですか」
「現実です」
黒川は静の横を通り、シキの方に視線を落とした。顔は穏やかだが、声は冷たい。
「藤堂くん。学校は君の生活の責任は取れない。だが、欠席が増えれば単位は落ちる。そこは君の責任だ」
シキの指がスマホを強く押さえる。耳が赤くなる。
静が言う。
「今、彼は電話中です」
黒川は一拍置いて、にこりともしない微笑を作った。
「では、邪魔をしないように。桐生先生、あとで職員室に」
「分かりました」
黒川は踵を返し、革靴の音を残して去っていった。去った後の廊下が、さっきより広く感じる。広い分だけ、守るものが露出する。
静はシキに目で合図した。「続けろ」。
シキは喉を鳴らして、電話口へ戻る。
「……すみません。えっと、面談……明日、学校、終わってからなら……」
「ありがとうございます。では明日の夕方、センターで面談できます。場所は——」
担当者が住所と持ち物を伝える。シキは必死にメモしようとして、手が追いつかない。
静が紙を差し出し、短く言う。
「言って。俺が書く」
「……“俺”って言うな」
「今だけだ」
シキは鼻で笑い、でも言葉はちゃんと出した。
「……住所、もう一回、お願いします」
静のペン先が走る。書きながら、シキの横顔を見る。唇が乾いている。目は泳ぐ。けれど、逃げない。
電話が終わると、シキはスマホを膝の上に落とした。画面が暗くなる。
「……明日、行けって」
「行く」
「俺、行けるかな」
静は紙を折り、シキの手に押し込む。
「行けるかどうかは分からない。だから、行ける形にする」
「形って」
「交通費。時間。言い訳。全部先に作る」
シキが顔をしかめる。
「言い訳とか、ダサ」
「ダサい方が生き残る」
静の言葉に、シキは笑うでもなく、俯いた。
廊下の向こうでチャイムが鳴った。授業開始の合図。周囲の生徒が教室へ吸い込まれていく。
静は腕時計を見て、立ち上がる。
「藤堂。次の授業は出ろ」
「出たら、帰れって言われる」
「言われたら、私が受ける。お前は座ってろ」
シキが立ち上がり、紙をポケットにねじ込む。
「……教頭、あれ、何。人間?」
「人間だよ。学校を守る人間」
「俺は守られない?」
静は一瞬だけ黙った。答えの代わりに、廊下の窓の外を指で示す。校門の向こう。現実が続く場所。
「学校は守れないものがある。だから学校の外の手を借りる」
シキが唇を噛む。
「……先生、怒られんの?」
「怒られる」
「じゃあ、やめれば」
静はシキの目を見る。短く。
「やめない。線を引く人がいるなら、線の外に道を作る」
遠くで職員室の扉が開く音がした。誰かが静の名前を呼ぶ気配がする。
静は廊下の角を見た。そこへ向かえば、黒川が待っている。
それでも静は、先にシキの背中を教室の方向へ押した。
「行け。授業に戻れ。明日の放課後、ここに来い」
「……わかった」
シキが歩き出す。数歩進んで、振り返らずに言った。
「先生。俺、着いたって連絡、した方がいい?」
静は頷く。
「“着いた”だけでいい」
シキが教室の扉の向こうへ消える。
静は一人、職員室へ向かって歩き出した。廊下の途中でスマホが震える。相沢陸からだ。
『七瀬、バス乗せました。水飲めてます』
静は画面を消し、ポケットに戻した。
次は、黒川の線を越えない形で、越える。そう決めた足取りで、職員室の扉に手をかけた。
職員室の扉を閉めた瞬間、空気が一段重くなった。
黒川は席に戻っていた。机の上に鍵の台帳。茶封筒。静が目を向ける前に、黒川が指先で台帳を叩いた。
「桐生先生。あなた、最近“外”と繋がりすぎです」
静は椅子に座らない。立ったまま言う。
「繋がらないと、壊れる生徒が出ます」
「壊れる、という言い方」
「倒れる。消える。言い換えますか」
黒川の口元が僅かに引きつる。
「感情で動くな。学校の責任範囲を越えるな」
「越えないように、外へ繋いでます」
「その“外”が問題なんです。あなた個人の判断で市の機関と連絡を取り、同席し——」
静は視線を逸らさない。
「同席しないと、電話ができない子がいる」
黒川は手を組んだ。
「あなたの善意で、学校が巻き込まれる。分かりますね」
「分かってます」
「では、やめてください」
静は一拍置いてから言った。
「やめません」
職員室の誰かが息を飲む音がした。キーボードの打鍵が一瞬止まり、すぐ再開する。見なかったことにする速度だ。
黒川は声を荒げない。
「命令です」
静の返事は短い。
「拒否します」
黒川の目が冷える。
「あなた一人の正義で、学校を危険に晒すな」
静は台帳に触れない距離を保ったまま、言葉を選ぶ。
「危険に晒してるのは、私じゃない。現実です」
黒川は椅子の背にもたれ、静を測るように見た。
「あなた、最近“第3進路室”を盾にしすぎだ。進路指導は進路指導。生活指導は生活指導。家庭の問題は家庭の問題」
「分けられないケースがある」
「分けろ」
静は呼吸を整えた。ここで噛みつけば、シキに戻る時間が削れる。勝ち負けじゃない。手数だ。
「分けます。学校の責任外の部分は、外の責任に繋ぎます」
黒川が頷く。
「そう。それなら——」
静が続ける。
「繋ぐのはやめません」
黒川の頷きが止まった。
「……桐生先生」
静は淡々と言う。
「学校の名前は出しません。書類も学校では保管しません。面談の同行も、必要があるときだけ。線は守ります」
黒川は沈黙し、机の上の茶封筒を指で揃えた。揃えながら、静の方を見ない。
「あなたが線を守ると言っても、周りは守らない。噂が立つ。保護者が騒ぐ。教育委員会が動く」
「動くなら動けばいい」
黒川の視線が静に戻る。
「あなた、首が飛びますよ」
静は瞬きを一回だけした。
「それでも、やります」
黒川は言った。
「あなたは教師です。社会福祉士ではない」
「だから、社会福祉士に繋ぐ」
黒川は小さく息を吐いた。諦めではなく、計算の息だ。
「……分かりました。あなたの責任でやるなら、学校を巻き込むな。記録も残すな。第3進路室の鍵は、今日から職員室管理に戻します」
静の眉が僅かに動く。
「不便になります」
「不便で結構。統制です」
静は頷いた。飲み込む。今は。
「了解です」
黒川が視線を落とす。
「戻っていいです」
静は職員室を出た。廊下に出ると、胸の奥の圧が少しだけ抜ける。抜けた分、疲れが入ってくる。
放課後。
相談室前のベンチに、藤堂シキがいた。制服のまま。鞄はある。だが肩に掛けず、床に置いている。逃げる準備ができている置き方だ。
静が近づくと、シキは顔を上げた。
「先生、呼び出し、どうだった」
「線を引かれた」
「……やっぱ」
「引かれた線の外で動く」
シキが鼻で笑う。
「外って、どこ」
静は隣に座らず、ベンチの前に立ったまま言う。
「明日、センター。行く」
「行かない」
即答だった。シキは目を逸らさない。逸らさないことで、拒否を固めている。
静は声のトーンを変えない。
「行く。行かないと、今夜も漫喫」
「漫喫でいい」
「良くない。未成年の深夜滞在は店に断られることもある。補導もある。体調崩す。金が尽きる」
「尽きたら、なんとかする」
「なんとか、って何」
シキの口が止まる。答えがないところだけ、静は詰める。
「家に戻る? 怒鳴られる場所に?」
「……」
「路上?」
「……」
静は一枚の紙を出した。センターの面談予約票の控えと、地図のコピー。コピーは学校の複合機ではなく、コンビニの白黒。角にレシートの跡が残っている。
「学校を巻き込まない形で用意した」
シキが紙を見て、唇を歪める。
「そういうとこ、ずるい」
「ずるくないと勝てない」
シキは紙を受け取らない。
「先生さ、信じてんの? ああいう人ら」
「信じてない」
シキが一瞬、拍子抜けした顔をした。
「……は?」
静は続ける。
「信じるかどうかは後。今は“手続き”」
「手続き?」
「話を聞いてもらう。記録を作る。次の支援に繋がる材料を作る。信用は要らない」
シキが眉を寄せる。
「人に話したら、利用されるだけ」
「利用されるのが嫌なら、利用しろ」
「意味わかんね」
静は言い直す。
「向こうは仕事で動く。お前はお前の目的で動く。目的が一致する部分だけ使え」
シキが小さく笑った。乾いた音。
「誰も信用できないっすよ。親も、先生も、友達も」
静は頷かない。否定もしない。
「信用しなくていい」
シキの目が揺れる。そこに入ってくる言葉が予想外だったからだ。
静は紙をシキの膝の上に置いた。
「明日、行く。お前は信用しなくていい。私も信用しなくていい。センターの人も信用しなくていい」
「じゃあ何で行く」
「寝る場所を増やすため」
シキは視線を落とした。紙の地図を指でなぞる。駅からの道順。徒歩何分。バス停。小さな矢印。
「……施設とか言われるんだろ」
「言われる可能性はある。選択肢として出る」
「嫌だ」
「嫌なら断れる。断れるように、条件を持って行く」
「条件?」
静はポケットからメモを出す。小さな紙片。今日の昼に書いたものだ。
「お前が絶対に嫌なこと、三つ」
シキは顔をしかめる。
「そんなの、いっぱい」
「三つに絞れ。言える形にする」
シキは黙って、指を折り始めた。
「……スマホ取り上げ。外出禁止。学校に連絡」
静はすぐ書いた。
「よし。逆に、必要なことは」
「……寝れる。風呂。勉強できる」
「それも書く」
シキがぼそっと言う。
「勉強って言うと、笑うじゃん」
「笑わない。単位落としたら、また選択肢が減る」
静はメモを見せる。
「これを持って行く。相手が勝手に決める前に、こっちが条件を出す」
シキは喉を鳴らした。口の中で何かを飲み込む音。
「……先生、そこまでやって、なんか得あんの」
静は即答しない。廊下の向こうで部活の掛け声。窓の外で自転車のブレーキ音。日常が、シキの外側だけで回っている。
静は言った。
「得はない。損もある」
「じゃあ、なんで」
「損を引き受ける大人がいないと、お前が全部払うことになる」
シキの指が地図の端を握り潰しかけて、離した。
「……信用しなくていいって、ズルい」
「ズルい方が生き残るって言った」
シキが顔を上げる。
「明日、先生、来んの」
「センターまでは行かない。学校を巻き込まない線がある」
「じゃあ一人?」
「一人が無理なら、相沢を頼れ」
シキの眉が動く。
「陸?」
「お前、あいつのことは信用できるか」
シキは即答しない。口を開きかけて閉じる。結局、視線を逸らした。
「……あいつ、いいやつだよ。たぶん」
「たぶんで十分。連絡するか」
シキがスマホを取り出し、画面を見つめる。指が止まる。
「……先生、番号教えて」
静は自分のスマホを出し、連絡先を送った。送信音が小さく鳴る。
シキは画面を見て、短く打った。
『明日、付き添い頼める?』
送ったあと、スマホを裏返して膝に置いた。返事を見るのが怖い置き方だ。
静は言った。
「今夜は」
「漫喫」
「着いたら連絡」
「……“着いた”だけ?」
「それだけ」
廊下の角で、教師の影が止まった。見回りだ。視線がこちらに向いて、すぐ逸れる。誰も踏み込まない。踏み込めない線が、学校の中にも引かれている。
シキが立ち上がった。
「先生」
「何」
「俺、明日、バックれたら?」
静は答えを急がない。代わりに、シキの足元を見る。靴。紐。少し汚れたつま先。今日ここまで来た足。
「バックれてもいい」
シキが固まる。
静は続ける。
「でも、バックれたって連絡を入れろ。“行けなかった”だけでいい。次の手を出す」
シキの喉が動く。
「……次、あんの」
「作る」
シキは小さく頷き、廊下を歩き出した。
数歩先でスマホが震えた。裏返しにしていたのを、慌てて表にする。画面に相沢陸の名前。
シキの指が止まったまま、静の方を見ないで言う。
「……返ってきた」
静は一歩だけ近づいた。
「読め」
シキが画面を見て、短く息を吐く。
『行ける。時間教えて。水も持ってく』
シキはそのままスマホを握りしめ、何も言わずに歩き出した。背中が少しだけ軽く見えたのに、足取りは慎重なままだった。
静はその背中を見送り、ポケットの中の鍵の感触を確かめる癖を止めた。もう鍵は、自分の手の中にはない。
明日、センター。明後日、その次。学校の線の外で、道を増やす。
静のスマホが震えた。今度は学校の番号だった。画面には、無機質な着信表示。
静は立ち止まり、指を画面の上に置いたまま、動かさなかった。
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