成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第25話:卒業制作

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 第3進路室のドアの前に、段ボール箱が置かれていた。

 ガムテープで雑に封がされ、上に赤ペンで「卒業制作 素材」と書かれている。静が箱の端を持ち上げると、金属と木材が擦れる乾いた音がした。

「先生、これ、こっち運ぶ?」

 背後から声。相沢陸が、腕まくりしたまま覗き込む。

「運ぶ。廊下に置いとくと、誰か転ぶ」

 静が箱を抱え直した瞬間、室内から椅子が引かれる音がした。

「うわ、重っ……」

 先に手が伸びてきた。森カイ。三年の男子で、体格は細い。なのに箱の底を軽々と支え、静より先に中へ滑り込ませる。

「早いな」

「手ぇ動かすしか取り柄ないんで」

 カイは照れ隠しみたいに言って、箱を床に置く。ガムテープを爪で引っかけて、ビリビリと剥がした。

 中から、薄い合板、L字金具、蝶番、ネジの袋、スプレー缶が現れる。新品と中古が混ざっていて、どれも寄せ集めの匂いがした。

「卒業制作、今年は『学校に残すもの』だっけ」

 陸が合板を持ち上げる。

「そう。美術と技術の合同。三年は全員、提出。提出しないと評定に響く」

 静が言いながら、机の上のプリント束を整えた。そこに、カイがプリントを指で押さえる。

「……先生さ」

「なに」

「俺、足切りって言われた」

 静の視線がプリントから上がる。カイは目を逸らさない。いつも、ふざけて笑って逃げるタイプのはずなのに、今日は口元が固い。

「誰に」

「担任。『森は制作班に入る前に、補習だ』って。『欠点あるやつは制作より先に成績』って。俺、数学と英語、二つ欠点。で、制作班のリーダー、俺だったのに」

 陸が合板を机にそっと戻した。音を立てないように。

「リーダーだったの?」

 静が聞くと、カイは肩をすくめた。

「だって、俺が一番早いし。図面も引ける。先生、去年の文化祭の看板、覚えてる? あれ俺」

「覚えてる。下書きから完成まで、二日で終わらせたやつ」

「あれ、寝てない。寝ないでやるの得意」

 カイが言った瞬間、静は一拍置いた。寝ないでやるのが得意、は、褒め言葉じゃない。

「足切りの理由、もう一回言って」

「欠点。補習優先。制作は後回し」

「制作の締切は」

「二週間後。展示は卒業式の前日」

 静はプリントの端を指で叩いた。

「現実言う。二週間は短い。補習で毎日残ったら、制作の時間は消える。作品は間に合わない。評定も落ちる」

 カイの喉が動く。飲み込んだのが見えた。

「じゃあ、俺、詰み?」

「詰みって言葉で逃げるな。選択肢作る」

 静は椅子に座り、机の引き出しからメモ帳を出した。ペン先が紙に触れる音。

「まず、欠点二つ。補習の条件は、出席と小テストの点?」

「たぶん。先生、いつもそう」

「制作は、班の構成変えると揉める。担任は、成績を数字で戻したい」

 陸が小さく言う。

「……教頭も、そういうの好きだよね。『数字が先』って」

 静は返事をしなかった。返事の代わりに、ペンを走らせた。

「カイ。担任に言われたのは、『制作班に入る前に』だよな。『制作禁止』じゃない」

「……言葉遊び?」

「言葉はルールだ。ルールの穴じゃなくて、ルールの範囲で動く」

 カイが鼻で短く息を吐いた。

「範囲で動いても、相手が変えたら終わりじゃん」

「だから、相手が変えにくい形にする」

 静はメモ帳を机の上でカイの方へ回した。そこには短い箇条ではなく、矢印で繋いだ線がある。「補習」「制作」「提出」「評定」。

「提案は二つ。ひとつ、補習に出ながら制作もやる。時間を捻る。現実的にきつい。もうひとつ、制作の役割を『授業外でも成立する作業』に寄せる。例えば、図面と加工の下準備。昼休みと放課後の前半で進める」

「でも補習、放課後だよ」

「補習の開始時間、担任に確認する。毎日同じか。週何回か。そこを詰める」

 カイはメモを見つめたまま、指で紙の端をいじった。

「担任、俺のこと嫌いなんだよ。『森は手は動くけど頭が動かない』って、平気で言う」

 陸がムッとした顔で口を開きかけ、静が先に言った。

「嫌いかどうかは置いとけ。担任が見てるのは『欠点がある生徒を制作に回すと、評定が下がってクレームになる』って恐怖だ」

「クレーム?」

「保護者。あと、上」

 静は「上」の言葉を濁した。机の上に置いたスマホが、画面を伏せたまま存在感を出している。さっきの不在着信。学校番号。

 カイが唇を噛んでから言った。

「俺、家、親いない時間多い。じいちゃん寝てる。だから作業、家でできる。夜も。電動工具はないけど、手作業なら」

「夜は寝ろ」

 静の声は強くないが、止める線が入っていた。

「寝ないでやるの得意って言ったろ」

「得意と必要は違う。寝ないでやると、次の日に補習で落ちる。落ちたら、制作も消える」

 カイが机に肘をつく。指先がこめかみを押した。

「じゃあ、どうすりゃいい」

 静はカイの手元のプリントを引き寄せた。担任の名前と、補習日程の欄が空白のまま。

「今から担任に行く。補習の条件と時間、制作の扱いを確認する。そこで『制作は提出が必須で、提出しないと評定が落ちる』って事実を言う。担任の目的は欠点解消。こっちは提出も欠点も両方落とさない形を出す」

「先生が言ってくれるの?」

「一緒に行く。お前が言う。俺は横で、話が逸れたら戻す」

 カイが目を瞬いた。

「俺が?」

「お前の卒業制作だ。お前の成績だ。俺が前に出たら、『第3が勝手に』って話になる」

 陸が小さく頷いた。静が言わない言葉を、陸は知っている。学校の中で「勝手に」は一番叩きやすい。

 カイは椅子の背に手をかけたまま動かなかった。

「……言えねえよ。担任の前だと、舌回んない」

「じゃあ、練習する」

 静はメモ帳の新しいページを開き、ペンを置いた。

「最初の一言。短く。『補習は出ます。制作も提出したいです。時間の調整を相談させてください』。これだけ」

 カイが口を開けたまま、何度か言い直す。

「ほしゅうは……出ます。せいさくも……ていしゅつ……したい、です。時間の……」

 陸が横から口を挟む。

「『相談させてください』、いいね。喧嘩にならない」

「喧嘩にする気ない。勝ち負けじゃない」

 静が言って、カイを見る。

「カイ。作品、何作る予定だった」

「靴箱の上に置く、忘れ物ボックス。鍵付き。あと、返却棚。先生ら、プリント山積みじゃん」

 陸が吹き出した。

「それ、先生に刺さってる」

「刺さるのはいい。便利なら残る」

 静は机の上のプリントの山を軽く押さえた。確かに、返却棚は欲しい。

「鍵付きは、学校が嫌がるかもしれない。管理責任って言う」

「じゃあ鍵なし。フタだけ。中見えないやつ」

 カイは即答した。手が動く速さが、頭の切り替えにも出る。

「それなら通る。図面、今ある?」

 カイは鞄を開け、くしゃっとした紙束を出した。線は荒いが寸法が入っている。静は紙の角を指で伸ばす。

「悪くない。これ、担任に見せる。『制作は現実に進んでます』って証拠になる」

「でも、俺、班から外されるかも」

「外されたら、個人制作に切り替える。作品の規模落として、提出を最優先にする。悔しいのは分かる。でも、提出しないのが一番損」

 カイの指が図面の端を掴む。紙が少し破れた。

「リーダー、やりたかった」

 静は破れた端を、指で押さえたまま言う。

「やりたいなら、形を変えて残せ。リーダーじゃなくても、作品が残れば、お前の名前は残る」

 カイは何か言い返そうとして、飲み込んだ。喉の奥が鳴った。

 静のスマホが、机の上で震えた。画面が光る。表示は「職員室」。

 静は一瞬だけ画面を見て、伏せた。出ない。

 陸がその動きを見て、口元を引き締めた。

「……また?」

「後で折り返す。今はカイの話」

 静が立ち上がると、カイも反射みたいに立った。図面を胸に抱える。

「行くぞ。担任のとこ」

「今?」

「今。時間は減るだけだ」

 廊下に出ると、三年の教室前がざわついていた。木材の匂い、スプレーの甘い溶剤の匂い、誰かが「のこぎりどこ」と叫ぶ声。

 その中で、カイは一歩遅れて歩く。靴音が揃わない。

 陸が後ろから追いつき、カイの肩を軽く叩いた。

「森、さっきの一言だけでいいから」

「……分かってる」

 カイは小さく答えたが、図面を抱える腕に力が入っている。紙がまた鳴った。

 静は廊下の角を曲がり、職員室の扉の前で止まった。ガラス越しに見える教師たちの背中。電話が鳴る音。コピー機の唸り。

 扉の横の掲示板に、「進学実績速報」の紙が貼られている。太字の数字が並ぶ。

 静はその紙を見ない。カイの方を向いた。

「言うぞ。短く。目的は二つ。補習の条件を確定。制作の提出ルートを確保」

 カイが息を吸う。吐く。もう一度吸う。

「……先生、もし俺、担任に『無理』って言われたら」

「その時は、次の扉を叩く。学年主任。教務。最後は俺が責任持つ」

 静の声は淡々としていた。保証はしない。でも、逃げ道を消さない声だった。

 カイが頷いた。

 静が扉に手をかける。その瞬間、職員室の中から低い声が聞こえた。

「……第3は、余計なことをするな。数字が落ちる」

 誰の声かは見えない。けれど、空気が硬くなる。

 静は手を止めず、扉を開けた。

「失礼します。森カイの件で、担任の先生、少し時間いいですか」

 カイが一歩前に出る。喉が動く。

「補習は出ます。制作も提出したいです。時間の調整を、相談させてください」

 その言葉が、職員室のざわめきの中で小さく揺れた。

 静はカイの横に立ったまま、返事を待った。次にどんな壁が出てくるか、もう見えている顔で。


「森、補習は週三。開始は四時十分。小テスト合格で解除」

 担任は書類から目を上げずに言った。静が横に立っていても、声の温度は変わらない。

「制作は?」

「補習が優先。制作班は外す。欠点二つ抱えたまま展示前に倒れられても困る」

 カイの指が図面の端を潰した。

「倒れません」

「根拠は?」

 静が口を挟む前に、カイが言う。

「寝ます。補習出ます。制作は昼休みと、補習のない日にやります。提出だけはします」

 担任がようやく顔を上げた。

「提出ね。誰が責任見るの」

「俺が」

「君の『俺が』は、今まで何回も聞いた」

 空気が薄くなる。静が一歩、前へ出た。

「担任の先生。条件、整理していいですか」

「どうぞ」

「補習は週三。解除条件は小テスト。制作は班から外すが、個人提出は認める。提出しなければ評定が落ちる。ここまでは一致」

 担任の眉が少し動いた。

「一致って、あなたが決める話じゃない」

「決めません。確認です」

 静はカイの図面を机に置いた。指で寸法の部分を叩く。

「森の制作は、棚とボックス。規模は調整できます。鍵は外す。材料も余りで足ります。作業時間は昼休み十五分×十日と、補習のない放課後二回で形になります」

 担任が図面を見た。目線だけで。

「そんなに甘くない」

「甘くしません。提出ラインまで落とすだけです」

 担任がため息を吐く。

「……個人でやるなら勝手にしなさい。ただし、制作で欠点が増えたら、あなたが責任取るの?」

 静は即答しなかった。代わりに、カイの顔を見た。カイは唇を結んで、頷いた。

「責任は森が取ります。欠点が増えたら、制作を縮める。提出物を最低限にする。ここで約束させます」

 担任が椅子にもたれた。

「約束で成績は上がらない」

 静は一度だけ頷く。

「だから、見える形にします」

「見える形?」

「作品の進捗を、週二で写真にして提出します。担任の先生に。制作の遅れが見えたら、その時点で止められる」

 担任が静を見た。ようやく、対話の顔になる。

「あなたが管理するの?」

「森が撮る。提出は森。私はフォーマット作るだけです」

 担任は首を傾けたまま、しばらく黙った。沈黙が「面倒」の形をしていた。

「……分かった。写真、見せなさい。遅れたら止める。それでいい」

 カイの肩がわずかに落ちた。力が抜けたのが分かる。

「ありがとうございます」

 担任は手で追い払うように言った。

「補習、遅れるなよ」

 職員室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽い。カイは図面を抱え直して、静を見た。

「先生、今の、勝った?」

「勝ち負けじゃない。止められない形を作った」

「写真とか、だるい」

「だるいのが現実のコスト。払えるなら続く」

 カイは口を尖らせたが、反論しなかった。

 陸が廊下の端から駆け寄ってくる。息が切れている。

「どうだった」

「個人提出、いける」

 カイが言うと、陸が目を見開いた。

「マジで?」

「ただし、遅れたら止まる。写真提出」

 陸が静を見る。

「先生、また増やしたね。管理」

「管理じゃない。外に見せる準備」

 静は歩きながらスマホを取り出した。さっきから画面の端に、未着信の通知が残っている。学校番号。折り返すと面倒になるのは分かっていたが、避け続けると別の形で刺さる。

 静は職員室の手前で足を止め、電話をかけた。

 呼び出し音が二回で切れた。

「桐生です」

 受話口の向こうの声は低い。黒川の声だった。

「今、どこですか」

「校内です」

「第3進路室、鍵を渡してください。私の指示は聞いてもらいます」

 静は廊下の窓の外を見た。グラウンドで、三年が材料を運んでいる。木材が陽に白く光る。

「鍵は渡しません」

「あなたは、学校を私物化している。家庭問題に首を突っ込み、今度は制作まで使って外に売り込むつもりですか」

 静の指がスマホを強く握る。陸が少し離れて、カイを先に行かせるように手で合図した。カイは振り返り、何か言いかけて、黙って歩き出した。

 静は声を落とした。

「売り込みじゃない。進路の材料です。成績表に書けない部分を、成果物にする」

「前例がない」

「前例がないから、今の子が落ちる」

「落ちるのは、本人の努力不足です。学校は企業です。成果がすべて」

 静は一瞬、言い返す言葉を探したが、やめた。黒川の価値観を崩す時間はない。崩せるとも限らない。

「教頭。許可をくださいとは言いません。学校の名前は出さない。外部に見せるのは、本人の作品だけ。個人のポートフォリオとして」

「校内で作ったものです。学校の管理下です」

「作品の著作は本人です。展示は学校の行事。行事で見せるのと、写真で見せるの、何が違いますか」

 黒川が息を吸う音がした。

「あなたは言葉がうまい。だが、責任を取れるのか」

「責任は、線を引いて取ります」

「線?」

「学校の評価を下げない線。生徒の選択肢を増やす線」

 黒川は短く笑った。笑いというより、鼻で切った音だった。

「線引きができるなら、鍵を渡せるはずです」

「渡したら、線が消える」

 沈黙。廊下の先で、誰かが笑っている声が反響する。

 黒川が言った。

「では、正式に文書で提出しなさい。外部に見せる? どこに、誰に、何を、いつ。責任者は誰。学校名を出さない証拠はどうする。前例がないなら、手続きを作るしかない」

 静はその言葉の裏を読む。文書にした瞬間、止めやすくなる。それでも、文書にしなければ「勝手に」が刺さる。

「分かりました。今日中に出します」

「今日中」

 黒川が念を押す。

「あなたが動くほど、私は止める準備ができる。忘れないでください」

 通話が切れた。画面が暗くなる。

 陸が戻ってくる。声を落として聞いた。

「教頭?」

「うん」

「やめろって?」

 静は歩き出した。第3進路室の方向へ。廊下の床が、靴底に少しだけ引っかかる。

「やめろじゃない。止めるための書類を出せって」

 陸が顔をしかめる。

「それ、めんどいやつ」

「めんどい方が、通ることもある」

 静は第3進路室のドアの前に立ち、鍵を回した。カチリと音がして開く。

 室内の段ボール箱が、さっきのまま口を開けている。合板の角が、光を吸って鈍く光っていた。

 静は机に鞄を置き、白紙を引っ張り出す。ペン先を揃え、スマホを横に置いた。

「陸。卒業制作の作品、外に見せる先、どこが現実的だと思う」

「……外?」

「就職の面接。専門の推薦。職業訓練校。あと、地域の工房の見学。作品があると話が早い」

 陸は唾を飲んだ。

「森だけじゃないってこと?」

「三年の制作、全員分。成績で切られる子ほど、手元に残る武器がいる」

 陸が眉を寄せる。

「でも、全員は……」

「全員は無理。だから、優先順位をつける」

 静はペンを走らせ始めた。紙に、日付、目的、対象、外部提示の範囲。淡々と、逃げ道と責任の線を引く文章。

 陸が机の端に手を置く。

「先生、これ、教頭に出すの?」

「出す。止められる前に、こちらの形を先に置く」

「止められたら?」

 静は書く手を止めずに言った。

「止められても、作品は作れる。校内で。写真は残る。本人の手元に。『見せる』方法を変えるだけ」

 陸は黙った。静のペンの音が、室内の時計の秒針と混ざる。

 静のスマホが、今度は別の通知で震えた。画面に短い名前が出る。

「シキ」

 静の指が一瞬止まる。陸も画面を見て、息を詰めた。

 静はペンを置き、スマホを取った。

「……出る」

 陸が小さく頷く。

 静が通話ボタンを押す直前、机の上の文書のタイトルが見えた。

「卒業制作成果物の外部提示に関する提案書」

 静は息を整え、耳に当てた。

「もしもし、シキ?」


「もしもし、シキ?」

 静の声に、受話口の向こうはしばらく無音だった。息だけが擦れる。

『……今、学校?』

「学校。どうした」

『……面談、明日だよね』

「明日。夕方。場所と時間、送ったメモ見た?」

『見た。……行く』

「ひとりで来れるか」

『……陸に、頼んでる』

 静は目だけで陸を見る。陸は頷いた。

「分かった。今夜はどこだ」

『……漫喫。いつものとこ』

「連泊はやめたい。明日までの一晩だけ、どうにかできるならしたい」

『無理。戻ったら、スマホ取られる』

「分かった。じゃあ、明日、学校に来い。遅刻してもいい。連絡はこっちで処理する」

『学校に、連絡しないでって……』

「学校の番号は使わない。私の携帯で動く。約束する」

 また無音。静は言葉を足さなかった。足すと、逃げ道が塞がることがある。

『……切る』

 通話が切れた。

 陸が小さく息を吐く。

「明日、俺、駅のとこで拾えばいい?」

「頼む。無理なら言え」

「無理じゃない。……でも、怖い」

「怖いまま動くしかない」

 静はペンを取り直し、提案書の続きを書こうとして、遠くから金属の甲高い音がした。次に、木が割れる鈍い音。

 廊下がざわつく。

 陸が顔を上げる。

「今の、制作室?」

 静は椅子を引いた。

「行く」

 ***

 技術室の前の廊下は、いつもより人が多かった。覗き込む肩が重なり、誰かが笑っている。

「やっば」

「ほら、言ったじゃん。森、雑なんだって」

「リーダー外されて正解」

 笑い声が跳ねる。空気が軽く、残酷だった。

 陸が人の隙間を割って入る。

「どけって」

 静も後ろから入った。床に、木片が散っている。ネジが転がり、光っていた。

 作業台の上で、半分組み上がったボックスが傾いている。蝶番の付いたフタが、片側だけ外れ、合板が裂けていた。

 森カイは、その前に立ち尽くしていた。軍手を外した右手が、白く粉をまとっている。指先が小さく震えているのが見えた。

「……やったな」

 誰かが言って、また笑いが起きた。

 カイは笑わなかった。視線はボックスの裂け目に刺さったまま。

 静が近づくと、技術の担当教師が眉間に皺を寄せて言った。

「桐生先生。森、危ない作業してた。クランプかけずに打ったろ」

 カイが小さく言う。

「時間、なくて……」

「時間ないなら、なおさら安全にやれ。指飛ぶぞ」

 担当教師は周りに向けて手を振った。

「見物やめ。散れ」

 散らない。誰かがスマホを構えているのが見えた。

 陸がそのスマホに手を伸ばしかけ、静が腕で止めた。陸の目が赤くなる。

「撮ってんじゃねえよ」

「別に。記録」

「記録って言えば何でも許されると思うな」

 相手の男子が笑った。

「森がやらかしただけじゃん。自業自得。ほら、手が速いんだろ?」

 カイの肩がぴくりと動いた。静が、カイの正面に回り込む。

「カイ。今、何した」

 カイの喉が動く。

「ネジ、打った。フタの蝶番、固定して……閉めたら、バキって」

 静は裂け目を見る。ネジ穴の位置が端に寄りすぎている。下穴が浅い。合板の木目に逆らっている。

「端すぎる。下穴も足りない」

 カイが唇を噛む。

「分かってた。分かってたのに……早く形にしたくて」

 静は作業台の上のプリントを拾った。進捗写真提出のフォーマット。今日の欄は空白だった。

「写真、撮った?」

 カイは首を振った。

「途中で、担任に見せるの、怖くなって……。遅れてるって言われるの嫌で……」

 周りの笑い声がまた上がる。

「ほらな」

「口だけ」

 陸が一歩前に出た。

「お前ら、黙れよ」

「相沢、お前関係ないだろ」

「関係ある。ここ、先生の——」

 陸の言葉が止まった。第3進路室と言いかけたのが、口の形で分かった。静が目で制した。ここでそれを出したら、別の刃が飛んでくる。

 技術担当教師が静に小声で言う。

「森、個人制作だろ。提出間に合うのか」

 静はカイの顔を見る。目の焦点が合っていない。

「間に合わせる方法はある」

「方法って」

 静はボックスの裂け目を指でなぞった。指先に木のささくれが引っかかる。

「これは捨てない。補修する。だけど、フタの構造を変える。蝶番やめて、差し込み式にする。木目に逆らわない」

 カイがかすれた声を出す。

「でも、見た目……ダサくなる」

「提出できないよりマシ」

 静は言い切った。カイの瞳が揺れた。

「……俺、いつも、そうだ。途中までいけるのに、最後で壊す」

「いつも、って言うな。今の話をしろ」

 静は落ちたネジを拾って、カイの手のひらに置いた。

「これ、何ミリ」

「……四十」

「合板は?」

「……十二」

「長すぎる。突き抜ける。だから割れる」

 カイの顔が、少しだけ歪んだ。言い訳の余地が消えると、人は黙る。

 陸が拳を握りしめたまま言う。

「笑ってる奴ら、手伝えよ。口だけで気持ちよくなってんな」

「は? なんで」

「同じ卒業制作だろ」

 相手が肩をすくめる。

「俺ら、班。森は個人。自己責任」

 その言葉が、空気に釘みたいに刺さった。

 静が技術担当教師に向き直る。

「廃材、ありますか。端材で補強材作りたい」

「あるけど……時間は?」

「今日、放課後一時間。明日、昼休み。あとは家で仕上げは無理なので、学校でやる」

 担当教師が眉を上げる。

「補習は」

 カイが小さく言った。

「……今日、補習」

 静が即座に返した。

「補習は出る。制作は、昼休みと朝。あと、補習前の三十分」

 担当教師が渋い顔をした。

「廊下でやるなよ。工具の管理、うるさいからな。教頭が——」

 教頭、という単語で周囲の生徒が一瞬だけ静かになった。誰の頭にも同じ顔が浮かぶ。

 静は頷いた。

「鍵付きの工具庫、使わせてください。記録つけます。責任者は私」

 担当教師が目を細める。

「桐生先生、背負いすぎだろ」

「背負いません。線を引きます」

 静はカイの肩ではなく、作業台を叩いた。

「ここでやる。ここで終わらせる。家に持ち帰らせない。夜に無理させない」

 カイが静を見た。目が赤いが、こぼれない。

「……笑われた」

 陸がすぐ言う。

「笑う方が悪い」

 静は首を横に振った。

「笑うやつはいる。消せない。だから、見返す形にする」

「見返すって……」

「提出する。展示に置く。壊れた跡が残ってもいい。『直した』が残る」

 カイが小さく笑った。笑いというより、息が漏れた。

「直した跡、ダサいって言われる」

「言わせとけ。直した跡は、手が動く証拠だ」

 その時、廊下の端で、学年主任がこちらを見ているのが見えた。主任は静と目が合うと、視線を外し、職員室の方向へ歩いていった。背中が「報告する」の形だった。

 陸がそれに気づいて、静の袖を引く。

「……先生、今の、見られた」

「見られる前提で動け」

 静は周囲に残っている生徒に目を向けた。

「散れ。撮ったやつ、消せ。今ここで消せないなら、担任に見せる。どっちがいい」

「え、は?」

「選べ」

 静の声は低かった。技術室の空気が少し冷える。スマホを構えていた手が下がり、数人が渋々画面を操作した。

「……消した」

「見せろ」

 静が言うと、男子は舌打ちしながら画面を突き出した。削除済みの表示。静はそれ以上追わなかった。

 生徒たちが引いていく。笑い声も薄れていく。

 残ったのは、作業台と、壊れたボックスと、カイと、陸と、静。

 静はカイに軍手を投げた。

「やるぞ。まず補強材。割れたとこ、接着剤。クランプは二つ。時間測る」

 カイが軍手を受け取る。指先が少しだけ落ち着いた。

「……先生」

「なに」

「俺、提出できる?」

 静はカイの手元を見る。軍手の縫い目が、ボロい。何度も使ってる。

「提出できる形にはする。ただし、最初の案のままじゃない」

「……分かった」

 陸が工具箱を引き寄せながら言った。

「俺もやる。手、貸す」

 静が陸を見る。

「お前は自分のこともある」

「分かってる。でも、今ここ、放っとけない」

 静は一拍置いて、頷いた。

「じゃあ、クランプ係。締めすぎるな」

「了解」

 作業が始まると、技術室の時計の音が急に大きく聞こえた。接着剤の匂い。木粉。金具が擦れる音。

 カイが裂け目に接着剤を流し込む。溢れた分を指で拭い、慌てて布で拭き直す。

「……くそ」

「言葉より手」

 静が言うと、カイは黙って続けた。

 廊下の向こうで、チャイムが鳴った。補習開始の合図に近い。

 カイが顔を上げる。

「補習……」

 静が時計を見る。

「今から五分でクランプ締める。締めたらお前は補習行け。ここは固定しておく」

「でも——」

「補習は切るな。切ったら担任が止める。止めたら終わる」

 カイの喉が鳴る。頷いて、クランプを持った。

 陸がボソッと言う。

「……クソみたいなルール」

 静は聞こえないふりをしなかった。

「クソでも、今は使う。壊すのは、卒業してからだ」

 クランプが締まる音が、短く続いた。

 カイは手を止め、ボックスを見た。割れ目が、押さえ込まれている。

「……行ってくる」

「行け」

 カイが教室の方へ走り出す。背中が小さく見える。

 陸がその背中を睨むみたいに見送ってから、静に言った。

「先生、あいつら、またやるよ。絶対」

「やる。だから、次は『完成品』で殴る」

「殴るって……」

「言葉の殴り合いは負ける。見せるもので殴る」

 静はクランプの締まり具合を確認し、接着剤のはみ出しを布で拭いた。

 その布を捨てる手が、一瞬止まる。スマホが震えた。画面に「職員室」の文字。

 静は出なかった。代わりに、画面を伏せて机の端へ滑らせた。

 陸がそれを見て、唇を噛んだ。

「……また圧かけてくる」

「来る。来る前提で、こっちの手を増やす」

 静は工具庫の鍵を回し、記録用紙を取り出した。ペン先が紙を擦る。

「陸。明日、シキの面談、付き添い。終わったら、ここ寄れるか」

 陸が顔を上げる。

「……寄る。森の補修、続きやる?」

「続きは森にやらせる。お前は、時間管理と写真。『進捗』を残す。止められない形にする」

 陸が小さく頷いた。

 技術室の窓の外で、夕方の光が傾き始めていた。展示まで、二週間を切っている。

 静はクランプに手を置いたまま、次に起きる面倒を数えた。補習。評定。教頭の書類。シキの面談。壊れた木。

 それでも、木はまだ、ここにある。

「乾くまで、動かすなよ」

 静が言うと、陸が答えた。

「動かさない。……動かせないように、見張ってる」

 廊下から、補習教室の方へ向かう足音が遠ざかる。代わりに、職員室の方向から近づく足音がひとつ、はっきりと響いてきた。


 足音は、技術室の前で止まった。

 引き戸が開き、学年主任が顔だけ覗かせる。視線がクランプとボックスに落ち、静に戻る。

「桐生。ちょっといいか」

「今、接着中です」

「分かってる。だから短く。教頭が探してる」

 陸の背筋が固まる。静は手を止めず、布で接着剤のはみ出しを拭った。

「文書、今日中に出すって言いました」

「それとは別。鍵の件も。『校内の管理違反』って言葉が出てる」

 学年主任は声を低くしたが、言葉自体が刃だった。

 静はクランプを一度押さえ、立ち上がった。

「今は生徒の制作の安全管理です。終わったら行きます」

「終わったら、って……教頭は『今』が好きだぞ」

「だから『終わったら』です」

 学年主任は言い返しかけて、諦めたように息を吐いた。

「……分かった。十分だけ待つ。逃げるなよ」

「逃げません」

 引き戸が閉まる。残った空気が、少し冷えた。

 陸が小声で言う。

「先生、やばい?」

「やばいのはいつも。今は木が乾くの待つ」

 静は作業台に戻り、壊れた蝶番側の合板を手に取った。裂けた断面が毛羽立っている。ネジ穴が端に寄って、木目が割れていた。

「陸、スマホ」

「え?」

「カイの。今日の進捗、写真ない。代わりに、これ撮る」

 陸が自分のスマホを出しかけて、止めた。

「俺のじゃだめ?」

「ダメじゃない。でも、森の提出用。本人の記録として残す。あとで森に撮らせる」

 静は陸のスマホを受け取り、壊れた断面をアップで撮った。次に、ネジ穴の位置、下穴の浅さ、ネジの長さ、合板の厚みが分かるように並べて撮る。

「先生、何してんの」

「失敗のログ」

 静は画面を確認しながら言った。

「『壊れた』で終わらせると、次も壊れる。『何が原因で壊れたか』を残すと、技術になる」

 陸が眉を寄せる。

「でも、森、写真見せるの嫌がってた」

「完成を見せるのが怖いなら、途中と失敗を見せる。逆に、こっちが主導権取れる」

「主導権?」

「担任は『遅れ』を怖がってる。こっちは『対策』を見せる。遅れてても、対策があるなら止めにくい」

 陸がゆっくり頷く。

「……なるほど。怖いものを、別の形にする」

 静は続けて、メモアプリを開いた。

「書く。短く。『破損原因:ネジ長すぎ、端距離不足、下穴不足。対策:ネジ長30mm、端距離20mm確保、下穴径2.5mm』」

 陸が目を丸くする。

「数字、出すんだ」

「数字は武器。教頭が好きなやつだ」

 静は言い切って、壊れたパーツを机に置いた。

「森が『手が速い』って言ってたな。速いのは才能。でも、速いと雑になる。雑を直すのは根性じゃない。手順」

 陸が口を尖らせる。

「根性って言われがち」

「根性は再現性がない。手順は真似できる」

 静は作業台の端材を一枚取り、ペンで線を引いた。端から二センチの位置に印を付ける。

「端距離。これ守る。で、下穴。ドリルはこれ」

 陸が工具を指差す。

「径、どうやって決めるの」

「ネジの芯より少し細く。今日は2.5でいける。分からなきゃ、端材で試す。試す時間を最初に取る。壊す時間より安い」

 陸が笑いかけて、すぐ真顔に戻った。

「森、戻ってきたら、これ言う?」

「言う。本人にやらせる」

「また落ち込みそう」

「落ち込むのは止めない。落ち込んだまま動ける形を渡す」

 静はスマホを机に置き、壊れた蝶番を指でつまんだ。金属が冷たい。

「この蝶番、捨てるなよ。『やめた理由』が説明できる」

 陸が首を傾げる。

「説明、必要?」

「面接で聞かれる。『工夫した点は?』って」

 陸がはっとした。

「……外に見せる戦略って、こういうことか」

「そう。作品だけじゃない。制作過程も成果物」

 静は壊れた合板の断面をもう一度見た。

「森の武器は、速さと手数。そこに『失敗を記録して直す』が乗れば、強い」

 陸が小さく言う。

「……成績じゃ測れないやつだ」

「でも、提出物にすれば測れる」

 静はスマホを閉じた。

 廊下から足音が戻ってくる。靴底が硬い。学年主任が引き戸を開けて、言った。

「桐生。教頭室」

「今行きます」

 静はクランプを確認し、陸に目で合図した。

「陸、ここ見てて。森が戻ったら、まず水飲ませて。手順だけ渡す。説教するな」

「説教してないし」

「する顔してる」

 陸が口を閉じた。

 静が技術室を出ると、廊下の空気がさらに冷たい。教頭室のドアは閉まっている。ノックをすると、すぐに「入れ」と声がした。

 黒川教頭は机の上の書類を整えながら、静を見もしない。

「鍵は」

「渡しません」

「あなたは、私の指示に従う義務がある」

「生徒の安全管理の義務もあります」

 黒川が顔を上げた。目が細い。

「安全管理? あなたが現場を混乱させている。制作を外部に見せるなど、前例がない」

「前例がないから、説明書きを作ってます。今日中に文書で出します」

「文書?」

 黒川が鼻で笑う。

「出したところで通らない。学校の名前を出さない? そんなもの、ネットに上がったら終わりだ」

 静は机の上に、さっきの提案書の下書きを置いた。紙が一枚、滑る音。

「ネットに上げません。提出先は限定。面接、学校見学、職業訓練校の相談。本人の端末で、個別に提示。学校名は写さない。背景は無地。撮影場所も限定」

 黒川の指が紙の端を押さえる。

「あなたが管理するのか」

「管理しません。手順を作ります。生徒が自分で守れる形にする」

「理想論だ」

「理想じゃない。現実のコストです。守れないなら、外部提示はしない。選択肢として持つだけ」

 黒川が静を見た。静の返事の隙間を探すように。

「選択肢。あなたの好きな言葉だ」

「好きじゃない。必要なだけです」

 黒川は紙から目を離し、窓の外を見た。

「学校は企業だ。成果がすべて。余計なリスクは背負えない」

 静は一歩も引かなかった。

「成果の定義を、増やしたいだけです」

 黒川の口元がわずかに動いた。怒りでも笑いでもない、計算の顔。

「……分かった。条件がある」

「何ですか」

「外部提示をする生徒は、事前に名单提出。保護者の同意書。学校名を出さない誓約書。撮影データは、学校の端末にバックアップ。あなたが管理。教頭室で保管」

 静の喉が動く。学校の端末。教頭室保管。鍵の話と同じ匂いがした。

「それだと、生徒が持てません」

「持たせない。リスクだからだ」

 静は息を吸って、吐いた。

「……バックアップは学校端末でいいです。保管も。だけど、提示用のデータは本人が持つ。持てないなら、この戦略は死にます」

 黒川が即答する。

「死なせればいい。前例がない」

 静は視線を逸らさず言った。

「前例を作るのが仕事です。教頭の仕事は、学校を守る。私の仕事は、生徒の進路を守る。両方守れる線を引きます」

 黒川の沈黙が長い。時計の秒針がやけに聞こえる。

「……あなたは、厄介だ」

「よく言われます」

 黒川が紙を指で弾いた。

「今日中に正式版を出せ。条件を盛り込め。折衷案にしろ。できなければ、明日から制作室への出入りを制限する。あなた個人の裁量は終わりだ」

 静は頷いた。

「出します」

 教頭室を出ると、廊下の向こうから、走る足音がした。

 陸だった。息が上がっている。

「先生! 森、戻ってきた。……やばいかも」

「何が」

 陸が唾を飲む。

「壊れたパーツ、ずっと握ってる。手、真っ赤。血は出てないけど、爪が食い込んでて」

 静は歩幅を速めた。

 技術室に入ると、カイが作業台の前に立っていた。クランプで固定されたボックスを見下ろし、左手で壊れた蝶番側の合板を握り潰している。関節が白い。

「森」

 静が呼ぶと、カイはゆっくり顔を上げた。目が乾いている。泣いた跡はない。

「補習、どうだった」

「小テスト、落ちた」

「点は」

「……四十八」

「合格は」

「六十」

 静は頷くだけにした。余計な慰めは、今は邪魔になる。

 カイが壊れた合板を静の方へ突き出す。

「これ、俺のせい」

「そうだな」

 カイの目が揺れる。静は続けた。

「だから、次は『俺の技術』にする」

「技術?」

 静は作業台の上にスマホを置き、さっき撮った写真を開いた。壊れた断面、ネジの長さ、合板の厚み、端距離の線。

「見ろ。壊れた理由を、ここに残した。これがログ。ログは、次の成功の材料」

 カイが画面に目を落とす。呼吸が少しだけ整う。

「……こんなの、誰が見るんだよ」

「見る。担任が見る。面接官が見る。あと、お前が見る」

 陸が横で言う。

「笑ってたやつらも、見ればいいのに」

 静は首を振った。

「笑ってたやつらに見せるのが目的じゃない。お前が自分を説明できるようにする」

 カイの指が、画面の端距離の線をなぞった。

「……二センチ」

「守れ。守れないなら、端材で試せ。試すのが手順」

 カイが壊れた合板を握り直す。今度は潰すんじゃなく、支えるみたいに。

「俺、速いのに」

「速いから、最初に試せ。速い人間は、試しも速い」

 陸が小さく笑った。

「変な日本語」

「通じればいい」

 静が言うと、カイの口元がほんの少しだけ動いた。笑いにはならない。でも、さっきの硬さが緩む。

 静はカイの手から壊れた合板を受け取り、作業台に置いた。

「立て。やることは三つ」

 カイが反射で言う。

「箇条書きやめろ」

 陸が目を丸くした。静は一瞬だけ口角を上げて、すぐ戻した。

「じゃあ順番。まず、接着が乾いてるか確認。次に、差し込み式のフタの寸法を引く。最後に、写真とメモを担任に出す」

 カイが頷き、クランプに手を伸ばした。締め具合を指で確かめる。さっきより慎重だ。

「……先生」

「なに」

「俺、また壊したら」

 静は即答した。

「またログにする。壊す回数が増えるほど、手順が増える。手順が増えるほど、壊れにくくなる」

 カイは壊れた蝶番を拾い上げた。握りしめず、指で挟んで、ポケットに入れる。

「捨てない」

「捨てるな」

 カイが、背筋を伸ばした。軍手をはめ直し、ペンで端材に線を引き始める。端から二センチ。ゆっくり、確かめるように。

 陸が静に小声で言った。

「先生、あいつ、立った」

「立たせただけだ。歩くのは本人」

 静は机の端に置いた提案書の下書きを見た。今日中に正式版。条件を盛り込む。折衷案。止められない線。

 技術室の窓の外で、夕方の光がさらに薄くなる。

 静はスマホを取り、画面を開いた。提出用の文書ファイル。まだ白い部分が多い。

「森、明日の昼休み、ここ来い。写真撮る。メモ書く。担任に出す」

「分かった」

「陸、明日、シキの付き添い終わったら、ここに来い。時間、十分彩値で動く」

「分かった」

 静は指を動かし、文書のタイトルを打ち直した。

「卒業制作成果物の外部提示に関する提案書(改訂案)」

 背後で、ドリルの低い音が鳴り始めた。端材に下穴が開く、乾いた音。失敗の音じゃない。

 静はその音を聞きながら、次に来る圧力の形を想像した。明日、教頭が何を言うか。担任が何を見るか。支援センターの面談で、シキが何を言えなくなるか。

 それでも、今は。

 木が削れる音が、一定のリズムで続いていた。


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