成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第26話:合格発表の朝

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 校門前の掲示板に、人が固まっていた。

 白い紙の上を指が滑り、番号を追う。声が弾ける。肩が叩かれる。泣き笑いの鼻声が混じる。

「やった! あった!」
「マジで!? どれどれ!」
「写真、撮ろ、撮ろ!」

 スマホが一斉に上がる。画面の中で、紙の番号が小さく揺れた。

 第3進路室の窓から、桐生静はその塊を見下ろしていた。机の端には、昨夜作った提案書の束。クリップが斜めに噛んでいる。

 ドアがノックもなく開いて、相沢陸が顔だけ出した。

「先生、外、すごいっす」
「見えてる」
「……受かったやつ、もう教室行って自慢してます」
「落ちたやつは?」
「……散ってます。解散早い」

 静は椅子から立ち上がり、上着を羽織った。

「行く」
「え、今から?」
「今しかない」

 廊下に出ると、掲示板の方から戻ってくる生徒の流れとぶつかった。目が合うと、わざとらしく視線を逸らす子もいる。嬉しさに浮かれた笑いが、廊下の壁に反射していた。

「桐生先生! 受かりました!」
「おめでとう。入学金、期限確認しろ」
「はい!」
「制服、採寸の予約もな」

 喜びを受け止めるより先に、現実の手続きを突きつける。静の声は淡々としているのに、相手はそれでも笑った。

 掲示板の前はもうまばらだった。紙の端が風でめくれ、画鋲がきしむ。

 その横、校門柱の影に、ひとりだけ立っている背中があった。

 真鍋ミオ。

 髪を耳にかけた指が、何度も同じ動きを繰り返す。手袋はしていないのに、指先が赤い。制服の袖口が少し湿って見えた。

 静が近づくと、ミオは笑おうとして失敗した。

「……先生」
「見た?」
「うん」

 短い返事。声が掠れていないのが逆に痛々しい。

 陸が一歩引いて、でも離れきれずに立った。手に持っていたペットボトルを握り直す。

 静は掲示板を見上げた。番号の列。ミオの受験票番号は、ない。

「落ちた?」
 ミオは頷いた。頷き方だけがやけに大きい。

「……私、さ。落ちる気、してたんだよね」
「してたなら、今ここで立ち尽くさない」
「……うるさい」

 ミオは笑って、すぐ口角を引っ込めた。喉が動く。飲み込んだものが戻ってきそうな顔。

「家、なんて言う?」
 静が聞くと、ミオは目を伏せた。

「……『だから言ったでしょ』って言われる」
「誰に」
「母親」
「言われたことある?」
「ある。いっぱい」

 ミオは靴先で砂利を押した。砂利が擦れる音が、やけに大きい。

「私、勉強、してたよ」
「知ってる」
「塾も行って」
「知ってる」
「……でも、落ちた」

 ミオが静を見た。責める目じゃない。助けを求める目でもない。何かを確かめる目だ。

「先生さ、あのとき、言ったじゃん」
「第2話のとき?」
 ミオは苦笑した。

「話数とか言うなよ。……『現実は厳しい。だから道を増やす』って」
「言った」
「道、増えてないじゃん」

 陸が息を吸って、何か言いかけて止めた。静はミオの視線を外さない。

「増えるのは、今からだ」
「今からって……落ちたのに?」
「落ちたから」
「意味わかんない」

 静はポケットから、折りたたんだメモを出した。そこには、ミオが受けた学校名と、併願先、そして今日の動きが雑に書かれている。

「一般の二次募集。私立の追加。通信。定時。あと、専門」
 ミオの眉が動く。

「専門って……私、何の専門よ」
「まだ決めてない。だから、決める」
「今さら?」
「今さらじゃない。今」

 ミオは鼻で笑った。笑うしかないみたいに。

「母親に言ったら、『金ない』って言われる」
「金がないなら、金がかからない順に並べる」
「……そんなの、あるの?」
「ある。だけど、条件がつく」

 静は指を一本ずつ折るみたいに、言葉を置いた。

「公立の二次は安い。ただ席が少ない。私立追加は高い。通信は自己管理が要る。定時は時間がずれる。専門は学費がある。でも奨学金が使える場合がある。全部、楽じゃない」
 ミオは唇を噛んだ。噛んだ跡が白くなる。

「……先生、どれが正解?」
「正解はない」
「じゃあ、どれがマシ?」
「マシは、あなたの生活で変わる」

 ミオの肩が落ちた。落ちたまま、少しだけ震えた。

「……私、もう、やだ。受験とか」
「やめていい」
 ミオが顔を上げる。
 静は続ける。

「でも、やめるなら、代わりの道を持ってからやめろ」
「……ずるい言い方」
「現実はずるい」

 ミオは目を逸らし、校門の外を見た。合格者の親らしい人が、花束を抱えて立っている。そこへ走っていく子。抱き合う影。

 ミオの手が、制服のスカートの端をぎゅっと掴んだ。

「……母親、今日、仕事なんだよね。連絡しなきゃ」
「ここで電話する?」
「無理」
「じゃあ第3進路室来い」
 ミオが一瞬だけ目を丸くした。

「……鍵、返したんじゃ」
 陸が口を挟んだ。

「それ、今……」
 静が陸を制して、ミオに言う。

「返せって言われてるだけ。まだ返してない」
 ミオは笑いかけて、また止めた。

「……また怒られるよ、先生」
「怒られるのは慣れてる」
「怖くないの?」
「怖い。だから、書類で殴る」

 陸が小さく噴き出した。すぐに口を押さえて、ミオを見た。

 ミオは泣きそうな顔をしたまま、笑った。笑いながら、息が詰まる。

「……先生、私、バカだよね」
 静は首を横に振らない。頷きもしない。

「バカかどうかは知らない。落ちたのは事実。で、ここからどうするかは、あなたが決める」
「決められるかな」
「決めるために、材料を出す」

 静が歩き出すと、ミオは遅れてついてきた。陸も、少し距離を空けて後ろにつく。

 校舎に入る手前で、職員玄関の方から、教務主任らしい教師が静に目を向けた。視線が、静の手元の書類束に刺さる。何も言わないが、空気が硬くなる。

 陸が小声で言った。

「……また、上から何か言われますよ」
「言われる前に、動く」
「今日、提案書……」
「出す。だから、今も動く」

 ミオが聞き取って、眉を寄せた。

「提案書?」
「先生の仕事」
「私、巻き込んでる?」
「巻き込まれてるのは、最初から」

 静が第3進路室の前で立ち止まる。ドアの鍵穴にキーを差し込む手が、一瞬だけ止まった。

 廊下の向こう、職員室側から足音が近づいてくる。靴音が規則正しい。誰かが巡回している音。

 静は鍵を回した。カチリと乾いた音。

「入れ」
 ミオが戸口で立ち尽くした。

「……ここ、なくなるって噂、ある」
「噂じゃない」
「え」
「なくされそうになってる」

 ミオが唇を開いたまま、言葉を探す。

 静は机の上の紙束を押さえ、椅子を引いた。

「合格発表の朝に言う話じゃない。でも、今があなたの期限だ」
 ミオはゆっくり椅子に座った。背筋が固い。

 陸がドアを閉めかけて、廊下の足音を気にした。静が低く言う。

「陸、廊下見てて」
「……了解」

 陸が外に出て、ドアを少しだけ開けたままにする。隙間から、職員室の気配が流れ込む。

 静はミオの前に、白紙のメモ用紙を置いた。

「まず、今日できること。電話。二次募集の確認。家の金の話。逃げない順番を決める」
 ミオはペンを握らない。指先が震えて、机の端に爪が当たる。

「母親に……なんて言えばいいの」
 静は少しだけ息を吐いた。言葉を選ぶ間が、短い。

「『落ちた』は言う。隠すと後で詰む。次に『どうするか候補がある』を言う。で、金の話は『必要な額を調べてから相談したい』にする。今ここで喧嘩しない」
 ミオが小さく頷く。頷きながら、目が潤んでいく。

「……先生、私、怖い」
 静はティッシュ箱をミオの手元に滑らせた。

「怖いままやれ」
 ミオはティッシュを一枚取って、鼻をかんだ。音が大きい。恥ずかしそうに笑い、すぐ顔を隠した。

 ドアの隙間から、陸の声が入った。

「先生、教務主任、こっち来ます」
 静は机の書類束を引き寄せ、ミオのメモ用紙の上に別の紙を重ねた。タイトルだけが見える——「第3進路室 外部連携提案書」。

 ミオの目がそこに落ちる。

「……先生、これ、出すの?」
「出す。出さないと、ここが消える」
「私のせいで?」
「あなたのせいにされる。されないように、先に動く」

 廊下の足音が止まる。ドアの向こうで、誰かが咳払いをした。

 静はミオを見た。

「電話するなら、今。私が横にいる」
 ミオはスマホを取り出した。画面のロックを外す指が、何度も滑る。

「……先生」
「なに」
「もし、母親が……『もう働け』って言ったら」
 静は頷かない。否定もしない。

「働く道もある。高校に残る道もある。どっちも、今日一日で決めなくていい。ただ、連絡先と期限は今日決める」

 ミオは深く息を吸って、発信ボタンに指を置いた。

 ドアの外で、教務主任が声を上げる。

「桐生先生、ちょっといいですか。教頭から……」

 静は視線をミオのスマホに固定したまま、声だけで返した。

「今、面談中です。五分待ってください」

 ミオの指が震えたまま、発信を押した。呼び出し音が、狭い部屋に響く。

 静は椅子の背に手を置き、立ち上がる気配を見せない。

「……行ける」
 小さく、ミオにだけ届く声だった。

 呼び出し音が続く。その間に、廊下の空気がさらに硬くなる。

 次の瞬間、通話が繋がった。ミオの喉が鳴る。

「……もしもし。お母さん。あのね」

 静は机の提案書に指を添えたまま、ドアの方へ視線を投げた。外では、待たされている大人の気配が動かない。

 ミオの声が、少しずつ言葉になっていく。そこに、合格者の歓声はもう届かない。

 静は時計を見た。針が、容赦なく進んでいく。


「……もしもし。お母さん。あのね」

 真鍋ミオの声は、最初だけ妙に明るかった。明るくしないと崩れる、と喉が知っているみたいに。

「うん。……うん。落ちた」

 沈黙。スマホの向こうの音は聞こえないのに、ミオの肩が硬くなる。

「うん、分かってる。……ごめん」

 静は机の上の提案書の角を押さえたまま、ミオの横顔だけを見ていた。泣くでも怒るでもなく、ただ、息を止めて聞いている横顔。

「……二次募集、あるって。先生が今……調べてくれるって」

 ミオの目が一瞬、静に向く。助けを借りることを許していいのか、確認する目。静は頷かない。視線を外さないだけで、返事の代わりにした。

「……うん。お金の話は、金額調べてから……」

 スマホの向こうで何か言われたらしい。ミオの口元が引きつる。

「……働けって? 今すぐ? ……うん、分かった」

 その「分かった」は、相手を納得させるための音でしかなかった。

 ミオは通話を切った。画面が暗くなるのを見届けてから、笑った。

「……やっぱ私、無理だわ」

 声が軽い。軽すぎて、机の上で跳ねた。

「無理って、何が」
 静が聞くと、ミオは肩をすくめた。

「受験とか。進学とか。ちゃんとするとか」
「ちゃんとって何」
「普通に。みんなみたいに」

 ミオは笑いながら、ティッシュをもう一枚取った。笑い声と一緒に鼻をかむ音が出る。

「……ねえ、先生。私さ、落ちたって言った瞬間、母親の声がさ」
 ミオは喉を鳴らした。
「『だから言った』って顔してた。声だけで分かった」

 静は否定しない。代わりに、机の引き出しから一枚の紙を出した。学校の印が入った、二次募集の案内のコピー。赤ペンで締切が丸されている。

「二次。来週まで」
 ミオは紙を見て、笑いが止まった。

「……これ、受けたって受かるの?」
「受かる保証はない」
「ほら。無理じゃん」
「無理って言うなら、ルートを増やす」

 静はもう一枚、別の紙を出した。通信制の資料。さらに、定時制の説明が載ったページを開く。

「通信。定時。あと、就職」
 ミオが眉を寄せた。

「就職……って、私、高卒じゃないよ?」
「中卒扱いになる前に、在籍を切らさないのが優先。学校に残るなら二次。残らないなら、別の学校に籍を作る」
「籍?」
「籍がないと、支援も奨学金も遠くなる」

 ミオは口を開けて、閉じた。笑いの代わりに、呼吸が浅くなる。

 ドアの隙間から陸が顔をのぞかせた。

「先生、教務主任、まだ廊下で待ってます。あと……職員室、ざわついてます」
「黒川?」
 陸は一瞬、目を泳がせた。

「……教頭、来るかもって」
 静は「そう」とだけ言って、資料をミオの前に並べ直した。紙の端が揃う音が、やけにきっちりして聞こえる。

 ミオが小さく笑った。

「先生、今、私のことやってる場合じゃなくない? 潰されるよ」
「潰されるかは、結果次第」
「結果って……」
「生徒が次の一歩を踏む。それが結果」

 ミオは唇を尖らせた。

「……私、次の一歩とか言われてもさ」
「じゃあ、もっと小さくする」
 静はミオのスマホを指さした。
「今日やるのは三つ。二次募集の学校に電話。定時の見学予約。母親に『金額調べてから決める』ってもう一回送る」

 ミオが笑う。

「母親、既読スルーするよ」
「スルーされたら、学校から連絡する。担任に頼むか、私が行く」
「先生が電話したら、余計こじれる」
「こじれる可能性はある。だから順番を守る。あなたが先に送る」

 ミオはスマホを持ち上げた。画面を見たまま、指が止まる。

「……ねえ。私さ、ほんとは進学したかったんだよ」
 静は「うん」とだけ返した。
 ミオは苦笑する。

「こういうの言うと、負けたみたいで嫌なんだけど」
「負けたのは試験。人生じゃない」
「綺麗事」
「綺麗じゃない。手続きの話」

 ミオは鼻で笑って、でも目を逸らさなかった。

「先生、私、何ができるの」
「今は、連絡ができる」
「それ、才能じゃない」
「才能じゃなくてもいい。必要な作業」

 静は机の上のペンをミオの方へ押し出した。

「あなたの『無理』は、結論じゃなくて反射だ。反射は止めなくていい。手だけ動かせ」
 ミオはペンを取った。握り方が幼い。力が入りすぎて、指の関節が白い。

「……送る」
「短く。『二次募集調べる。費用確認して相談したい』」
「はいはい」

 ミオは入力して、送信した。送信音が鳴った瞬間、また笑った。

「……私、こういうの得意じゃないのに」
「得意じゃなくても送れた」
「……送れたね」

 ドアの外で、靴音が近づく。今度は一人じゃない。複数。止まる位置が、すぐそこだ。

 陸が小声で言った。

「先生、来ます。教頭と……学年主任も」
 静は立ち上がらない。代わりに、ミオの前の紙を一枚だけ残して、他を素早くファイルに挟んだ。提案書の表紙が一瞬、覗く。

 ミオがそれを見て、息を呑んだ。

「……先生、これ、ほんとに出すんだ」
「出す。条件が増えるだけだ」
「条件?」
「名单。同意書。誓約書。端末管理。全部、黒川式」

 ミオは眉をひそめた。

「……私たち、犯罪者みたい」
「学校は怖がってる。外と繋がるのを」

 ノック。今度は遠慮のない音。

「桐生先生。開けてもらえますか」
 学年主任の声がした。その後ろに、もう一つ低い咳払い。黒川のものだと、誰もが分かった。

 静はミオに目を向ける。

「ここからは大人の時間。あなたは、次の電話の準備をして」
「……先生」
「泣くのは後でいい。今は番号を探せ」

 ミオは頷いた。頷きながら、掲示板の前で止まっていた自分の背中を思い出したみたいに、肩をすくめる。

 静がドアへ歩く。鍵に手をかけた瞬間、ミオが小さく言った。

「……先生。私、やっぱ無理って言ったけど」
 静は振り返らずに返した。

「言っていい。言いながら動け」

 鍵が回る音。ドアが開く。廊下の冷たい空気が流れ込み、学年主任の顔、その奥に黒川の影が立っているのが見えた。

 静は一歩、廊下へ出た。

 ミオの指が、スマホの検索窓に学校名を打ち込む。画面の光が、机の上の白紙を照らしたまま揺れていた。


 廊下に出た瞬間、空気が変わった。

 学年主任が腕時計を見て、静の背後――第3進路室の室内――へ視線を滑らせる。視線の先にミオがいるのを確認して、口角を動かさずに言った。

「面談中?」
「はい」
「今は、合格発表の日だ。職員室も回ってる。長引かせないでくれ」

 その後ろに、黒川が立っていた。スーツの襟元がきっちりしている。目だけが動く。

「桐生先生」
 黒川が名を呼んだだけで、廊下の音が一段小さくなった気がした。

 静はドアを半分閉めた。鍵はかけない。逃げないという形。

「教頭」
「教頭室へ。今すぐ」
「五分ください」
「五分も要らない。今ここでいい」

 黒川は廊下の壁に貼られた合格速報の紙を見もしなかった。視線は静の手元のファイルに落ちている。

「提案書は?」
「今日中に」
「今日中、では困る。今、見せてください」
「まだ整ってません」
「整っていないものを学校に持ち込むのが、あなたのやり方ですか」

 学年主任が咳払いを挟んだ。

「桐生、今日は揉める日じゃない。生徒の前では――」
「生徒の前で揉めるのは嫌です。だから五分ください」
 静が言うと、黒川は小さく頷いた。

「では、その生徒の話をしましょう。今中にいるのは、真鍋ですか」
 静の目がわずかに細くなる。

「そうです」
「落ちましたね」
「はい」
「なら、もう終わりです」

 黒川の声は淡々としていた。天気の話みたいに。

「終わり?」
 静が聞き返すと、黒川は眉一つ動かさない。

「あなたの担当は、進路実績に繋がる支援です。落ちた生徒に時間を割く必要はない」
「二次募集があります」
「二次は“実績”にカウントされない場合がある」
「本人の人生にはカウントされます」
 静が言った瞬間、学年主任が息を呑んだ。

 黒川は首を傾けた。

「桐生先生。学校は企業です。評価は数字。あなたも分かっているはずだ」
「分かってます」
「なら、切りなさい」
「切りません」

 静の返事が早すぎて、学年主任が一歩前に出た。

「桐生、言い方――」
「切りません」
 静は繰り返した。今度は学年主任の方を見ずに、黒川だけを見る。

 黒川の目が細くなる。

「感情ですか」
「作業です」
「作業?」
「落ちた生徒を放置すると、退学、未進学、未就労になります。家庭が荒れます。生活が崩れます。学校に苦情が来ます。結局、学校の手間が増えます」
 黒川が鼻で笑う。

「脅しですか」
「現場の見通しです」

 静はファイルを抱え直した。指先が白い。声だけは揺れていない。

「真鍋は、今日ここで手続きを始めた。二次の電話をする。見学予約をする。母親に連絡を入れた。今切ったら、あの子は“落ちたまま”だけ残る」
「残ればいい。身の程を知ることも教育です」
 黒川が言い切った。

 静の口が一瞬、止まった。止まって、次の言葉が出るまでの間だけ、廊下の蛍光灯がじっと鳴った。

「身の程を知るのは、落ちた瞬間に十分です」
 静が言った。
「追加で叩くのは教育じゃない。管理です」

 学年主任が慌てて声を落とす。

「桐生、声」
「声は落としてます」
 静は黒川から目を逸らさないまま言った。

 黒川の表情が少しだけ硬くなる。

「あなたは、何の権限で言っている?」
「進路指導担当として」
「第3進路室は、あなたの遊び場ではない」
「遊びなら、こんな書類作りません」

 静がファイルを軽く叩く。紙の角が鳴った。

 黒川は一歩近づいた。距離が詰まる。圧が増す。

「提案書の条件、覚えていますね」
「名单、同意書、誓約書、学校端末の保管。全部」
「守れないなら、鍵を返却してもらう」
「守ります」
「では、落ちた生徒の対応は切れ」
「それは条件にありません」

 黒川の目が動いた。静の言葉尻を探す目。

「条件にないことは、やっていい」
 静が続ける。
「条件にあることは、守る。だから、外部提示も止めた。校内でやってます」

 黒川の口元がわずかに歪む。

「校内なら、何をしてもいいと?」
「校内でできることを、全部やるだけです」

 黒川が学年主任に目配せする。学年主任は困った顔で静を見る。

「桐生……お前、今日、教頭を立てない気か」
「立ててます」
 静が言った。
「教頭が守りたい“学校”を守るために、私は“生徒”を落とさない」

 黒川が間を置いて、低く言った。

「生徒を守る? 全員は無理でしょう」
「はい。無理です」
 静は即答した。
「でも、切るのは私じゃない。本人が選ぶ。家庭が決める。制度が決める。私は“選べる状態”まで運ぶ」

 黒川の眉がわずかに上がった。静が初めて、真正面から噛みついているのが面白くない。

「あなたの理想で、学校の評判を落とすな」
「評判を落とすのは、落ちた生徒を放置したときです」
 静は言葉を切った。
「“うちは見捨てる学校です”って、外に出ます」

 黒川の視線が、閉めきれていないドアの隙間に向いた。中の気配。ミオの気配。

「聞かせるつもりですか」
「聞こえるなら、聞いていい」
 静は言った。
「学校が何を優先するか。あの子も知るべきです」

 学年主任が顔色を変えた。

「桐生……!」
「学年主任」
 静は初めて学年主任に目を向けた。
「合格した子の祝福だけが仕事じゃない。落ちた子の後始末も、学校の仕事です」

 学年主任は口を開けて、閉じた。反論が出ない代わりに、視線が下がる。

 黒川が静を見たまま、ゆっくり息を吐いた。

「いいでしょう。五分」
「ありがとうございます」
「ただし」
 黒川が言葉を切り、静のファイルに指を向けた。
「提案書は昼休みに提出。条件は一つでも欠けたら却下です」
「分かりました」
「そして、真鍋の件」
 黒川の声が冷える。
「二次で結果が出なければ、あなたの責任です。余計な希望を与えた、と言われますよ」
「言われます」
 静は言った。
「それでも、やります」

 黒川は踵を返した。学年主任が追う。二人の靴音が職員室の方へ遠ざかっていく。

 静はその背中を見送ってから、ようやく息を吐いた。掌の中でファイルの角が食い込んで痛い。

 ドアの隙間から、ミオの声が小さく漏れた。

「……先生、今の、私のこと?」
 静はドアを押し開けて室内に戻った。

 ミオは椅子に座ったまま、スマホを握っていた。画面には二次募集の学校名。検索結果の電話番号が並んでいる。指が止まっている。

 静は椅子の背に手を置いた。

「あなたのこと」
 ミオが笑った。さっきより短い笑い。

「……私、疫病神じゃん」
「違う」
 否定は一言だけで、静はすぐ続けた。
「今のは、学校の都合の話。あなたの都合は、あなたが決める」

 ミオの喉が動く。

「でも、教頭、切れって言った」
「言った」
「……先生、切らないの」
「切らない。ただし、私も万能じゃない」

 静は机の上の紙を指で押さえた。締切日の丸。

「この期限までに動けなきゃ、あなたは止まる。止まったら、私も追えない」
 ミオは唇を噛んで、頷いた。

「……動く」
「よし。電話しろ。今」

 ミオは番号をタップした。耳に当てる。呼び出し音。

 そのとき、ドアの外で陸が小さく囁いた。

「先生、シキから。今夜、漫喫、いつもより早めがいいって」
 静は目だけで陸を見る。

「分かった。後で返す」

 ミオの通話が繋がった。声が震える。

「……あ、もしもし。二次募集の件で……」

 静は椅子に腰を下ろさず、立ったままメモを取る準備をした。昼休みまでに提案書を出す。黒川の条件。ミオの期限。シキの今夜。

 時計の針がまた一つ進む音が、聞こえた気がした。


「……はい。えっと、二次募集の、出願って……」

 ミオの声が途切れ途切れになるたび、静はメモの上でペン先を止めた。相手の言葉を待ち、ミオの言葉を待つ。急かさない。

「はい……はい。え、書類……調査書……」

 ミオがスマホを耳から少し離して、口元を手で覆った。息が漏れる。

 静が手を伸ばし、机の端に置いてあった学校の封筒を引き寄せる。中から、調査書申請の用紙を抜き出してミオの前へ置いた。指で項目を示すだけで、声は出さない。

 ミオは視線だけで追って、また電話口に戻った。

「……はい、分かりました。締切、来週の……何曜日ですか」

 静のメモに「締切:○/○(○)必着」と書かれる。ペンの音が小さく響く。

「……はい。ありがとうございます……失礼します」

 通話が切れた。

 ミオはスマホを机に置いた。置いた瞬間、肩が落ちる。落ちたまま、動かない。

 静はメモをミオの前に滑らせた。電話で聞いたことを、箇条書きにせず、短い行で並べた走り書き。必要書類、提出方法、受付時間、問い合わせ先。

「次」
 静が言うと、ミオは笑った。

「先生、容赦ない」
「容赦したら、締切が勝つ」
「……うん」

 ミオは目を擦ろうとして、指先が濡れていることに気づいた。頬に一本、透明な線が残っていた。

「あれ……」
 声が軽くなる。軽くしてしまう。

 静はティッシュ箱を少しだけ近づけた。それ以上はしない。

 ミオはティッシュを取って、目尻を押さえた。押さえても、次が溢れる。鼻の奥がつんとするのが、顔に出る。

「……止まんない」
「止めなくていい」
 静はそれだけ言って、立ったまま時計を見た。昼休みまでの残り時間を頭の中で割る。

 ミオは笑いながら泣いた。

「やば。私、ほんと無理」
「無理って言いながら、電話できた」
「電話くらいで……」
「電話ができない人もいる」

 ミオはティッシュを握りつぶした。紙が湿って丸まる。

「……私、落ちたのにさ。こうやって次とか言われると、余計……」
 言葉が続かない。喉が詰まる。

 静は椅子に座らない。ミオの背中に手も置かない。距離を保ったまま、そこにいる。

 ミオが顔を上げた。目が赤い。

「先生、私さ。受かってる子たち、さっき廊下で見て」
「うん」
「花束とか、親とか」
「うん」
「……私、何もない」

 静は一拍置いた。否定しないまま、机の上のメモを指で叩く。

「今、これがある」
「……紙じゃん」
「紙がないと、進めない」

 ミオは笑って、鼻をすすった。笑いがすぐ嗚咽に変わる。

「くそ……くそ……っ」
 言葉が汚くなる。自分に腹が立つみたいに。

 静はミオの目の前に、もう一枚、別の資料を置いた。定時制の学校の見学案内。日付欄に丸がついている。

「二次がダメだったときの次。先に予約する」
 ミオが涙で滲んだ視界のまま、紙を見た。

「……ダメだったとき、って言うなよ」
「言う。保険は先に取る」
「縁起悪い」
「縁起で合否は変わらない」

 ミオは舌打ちしそうになって、堪えた。堪えた顔がまた崩れる。

「……先生さ」
「なに」
「私、ほんとは、先生に『大丈夫』って言ってほしい」
 静は言わない。代わりに、ペンをミオに渡した。

「見学、予約するなら書け」
 ミオはペンを受け取った。受け取った手が震えて、ペン先が紙に当たって小さく跳ねる。

「……大丈夫じゃないのに」
「大丈夫じゃない。だから予約する」

 ミオは笑ってしまった。涙が落ちて、紙に丸い染みができる。

「……最悪。紙、濡れた」
「乾く」
「乾かないよ。私のメンタル」
「乾かないなら、持ったまま行け」

 ミオは鼻を鳴らし、でもペンを走らせた。見学希望日、名前、連絡先。書くたびに涙が落ちる。字が滲む。滲んでも、最後まで書いた。

 書き終えた瞬間、ミオはペンを置いて、両手で顔を覆った。

「……うう……っ」
 声が漏れるのを止められない。肩が上下する。机に額がつきそうになる。

 静はただ、隣で立っていた。足を組み替えるでもなく、時計を見るでもなく。そこにいる。

 ドアの隙間から、陸が小さく声を落とした。

「先生、職員室から電話です。教頭が、昼休みの提出、念押しって」
 静は視線だけで陸に返し、短く頷いた。

「分かった。出る」

 ミオの嗚咽が少しだけ弱まる。顔を上げると、睫毛にティッシュの繊維がついていた。

「……先生、行くの?」
「職員室に一分」
「……置いてかない?」
 静は否定の言葉を選ばず、机の上のメモをミオの指の近くに置き直した。

「これ、見てろ。次の電話先、ここ」
「……うん」

 ミオは頷いた。頷いた途端、また涙がこぼれる。止める気はもうないみたいに、ただ落ちる。

 静はドアへ向かいかけて、足を止めた。

「真鍋」
 ミオが顔を上げる。

 静は「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。代わりに、机の端に置いてあった封筒をミオの前へ押し出した。調査書申請の封筒。宛名欄が空白のまま。

「これ、書けたら勝ち。書けなきゃ、私が戻ったら一緒に書く」
 ミオは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑った。

「……勝ちって、何それ」
「今日の勝ち」

 ミオは封筒を抱えた。紙が胸に当たって、少しだけ姿勢が起きる。

「……今日、勝つ」
「うん」

 静はその「うん」を短く置いて、廊下へ出た。

 背後で、ミオが鼻をすすりながら、封筒の宛名欄にペンを当てる音がした。滲む音。擦れる音。

 ドアの向こう、職員室の方から黒川の声が誰かに指示するのが聞こえる。鍵、名单、誓約書――単語だけが断片で流れてくる。

 静は足を止めずに、廊下を早足で進んだ。昼休みまで、あと少し。

 第3進路室の中では、涙が落ちる音と、ペンが走る音が、同じリズムで続いていた。


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