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第1章
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第1章
灰色の朝は、いつだって同じ匂いがする。
湿った紙と、墨と、古い革の帳簿。窓の外からは訓練場の掛け声が聞こえるのに、ここ――王国軍の経理・記録係の部屋には、血の匂い一滴すら届かない。戦争は数字になって、棚に並ぶ。死者は行数になって、署名欄の余白に押し込まれる。
僕はそれを整える役目だった。
「アルト、昨日の補給申請、差し戻しだ。担当者の印が一つ足りない」
上官の声に、僕は顔を上げずに頷く。紙面の上でペン先が止まる。止まったのは僕の判断ではなく、指のほうだ。ほんの一瞬、関節が軋んだような感覚がした。
疲労だ、と僕は自分に言い聞かせる。昨夜も遅くまで帳簿を締めていた。軍の金は、戦場よりもこの城内でよく流れる。誰かの懐へ、誰かの口止め料へ。そういう流れを把握しないと、今度は僕が流される。
「合理的にやれ。余計なことを考えるな」
口に出さず、胸の内で反芻する。そうやって生きてきた。魔力も剣も持たない僕が、この腐った王国で生き残る唯一の方法は、感情を削り落として、計算だけで動くことだった。
だから、誰も僕を優しいとは言わない。言われないようにしている。
「金と権力の亡者」――そう見えるように振る舞うのは簡単だった。帳簿を正確に付け、誰の不正にも目をつぶらず、時にそれを利用して取引する。冷徹で合理的。人間の命より数字を優先する男。
仮面を被っていれば、誰も僕の手が震えていることに気づかない。
その震えが、恐怖から来ていることにも。
その日、僕は古代遺跡の調査隊に「同行」することになった。と言っても、剣を振るうわけじゃない。遺跡から持ち帰った遺物の管理、報酬の算定、功績の記録――要するに、戦果を「物語」に変換する係だ。
王国は今、魔王軍よりも内側が危険だった。貴族同士の派閥争い、軍内部の利権、教会の介入。誰がどの遺物を持ち帰り、誰がそれを献上したか。記録一つで首が飛ぶ。
だから、僕が必要だった。
遺跡は王都から二日。灰色の空の下、崩れた石柱が骨のように突き出し、苔むした階段が地の底へ続いていた。空気が冷たい。湿った土と、古い死の匂い。
「ここが……」
先頭に立つ少女が、息を呑む。金色に近い栗毛を結い上げ、白いマントを羽織った姿は、遺跡の暗がりでも妙に目立った。
勇者レナ。
王国が掲げる希望。剣の才も、魔力も、何より人を信じる力も持っている――そういう、僕とは正反対の存在。
彼女は振り返り、僕を見て笑った。
「アルト、怖い?」
その笑顔が、胸の奥を刺す。僕は肩をすくめ、わざと嫌味っぽく返す。
「怖いのは遺跡より、報告書の締切だ。君たちが派手に壊すと、弁償額の計算が面倒になる」
「もう。相変わらずね」
レナは笑う。信じている顔で。僕の仮面の下にあるものを、見ようともしないで。
その無邪気さが救いであり、同時に残酷だった。
遺跡の内部は、想像以上に静かだった。魔物の気配も薄い。壁面には古い文字と紋様が刻まれ、ところどころに黒ずんだ血痕が残っている。昔、ここで何かが行われた。祈りか、儀式か、虐殺か。
僕は記録係として、壁の文様を写し取り、遺物の位置を図面に落とす。頭は冴えていた。数字も文字も、僕の手の中では整然と並ぶ。処理速度だけが取り柄の脳は、こういうときに裏切らない。
問題は、心臓のほうだった。
遺跡の最深部。封じられた扉の前に、黒い石台があった。石台の上には、ひび割れた朱色の水晶――いや、宝石とも違う。まるで、固まった血を光にしたような色。
レナが近づこうとするのを、僕は反射的に止めた。
「触るな」
自分でも驚くほど強い声が出た。レナが目を丸くする。
「どうしたの?」
どうしたの、じゃない。説明できるなら、僕はもう少し楽に生きている。
僕は息を整え、冷たく言い直す。
「古代遺物は危険だ。勇者でも呪いは受ける。……王国の財産でもあるしな」
最後にわざと金の匂いを混ぜる。レナは少し眉をひそめたが、引き下がった。
「分かった。じゃあ、どうする?」
どうする――その問いが、僕の胸の奥で反響する。
僕は石台に近づいた。手袋越しに、朱色の水晶に触れる。冷たい。なのに、触れた瞬間、指先から腕へ、焼けるような痛みが走った。
視界が朱に染まった。
――見える。
それは「映像」ではなく、確定した未来の断片だった。僕の脳が勝手に組み立てる、逃げ場のない結論。
半年後。
王都の広場。雨。泥。群衆の叫び。レナが膝をついている。白いマントは裂け、髪は濡れ、顔には血が混じっている。
彼女の前に立つのは――味方だ。
同じ軍服。同じ紋章。彼女が信じた者たち。剣を握る手が震えているのは、レナではなく、彼らのほうだった。恐怖と憎悪と、誰かに命じられた従順。
「勇者は魔王と通じていた」
誰かが叫ぶ。嘘だ。嘘だと分かっているのに、群衆は石を投げる。唾を吐く。正義の名で、彼女を殺そうとする。
レナは叫ばない。ただ、信じられない顔で、味方を見ている。
「……どうして?」
その声が、僕の喉を裂いた。
次の瞬間、刃が彼女の腹を貫く。もう一つ。もう一つ。刺すたびに、彼女の目から光が消えていく。最後に、誰かが首を落とす。
朱色の雨が降る。
僕の視界は、その朱で満ちたまま、別のものを映した。
石の蔓が、僕の腕を這い上がってくる。皮膚の下で、冷たい鉱物が血管を塞ぐ。指が動かなくなる。膝が曲がらなくなる。胸が固まり、心臓に到達する。
半年。
そこまでで終わりだと、はっきり分かった。
呪いの代償として、未来を見せられた。逃げ道はない。変えようとすれば、もっと悪い未来になる――そういう種類の呪いだと、直感が告げていた。
そして、もっと残酷な条件が、同時に刻まれた。
――真実を話せば、未来が変わり、レナが死ぬ。
僕がこの未来を見たことを告げるだけで、歯車がずれる。誰かが疑い、誰かが先に動き、レナは別の形で死ぬ。呪いはそういうふうにできている。善意を罰するように。
僕は叫びたかった。「逃げろ」と。「信じるな」と。「お前はこの国に殺される」と。
でも、その言葉が彼女の死を早める。
だから、沈黙するしかない。
沈黙して、僕が死ぬしかない。
気づけば、僕は石台の前に膝をついていた。息が荒い。手袋の下の皮膚が、じんじんと痺れている。まるで、そこだけ別の物質になったみたいに。
レナが駆け寄ってくる。
「アルト! 大丈夫!?」
彼女の手が僕の肩に触れる。温かい。人間の温度だ。その温度が、さっき見た未来の冷たさと対比になって、吐き気がした。
僕は顔を上げ、笑おうとした。仮面を被らなければ。
「……大げさだな。少し目眩がしただけだ」
「本当に? 顔色が……」
「遺跡の空気が悪い。君は平気なのか、勇者様」
皮肉を混ぜる。レナは少し安心したように、でもまだ心配そうに僕を見る。
その瞳が、僕を信じている。
その信頼が、僕を殺す。
僕は立ち上がろうとして、足が一瞬、言うことを聞かない。痺れが膝まで広がっている気がした。痛みが遅れてやってくる。骨の内側から針で刺されるような、鋭い痛み。
僕は歯を食いしばり、顔に出さない。出せない。
「……太っただけだ。最近、城の飯が良くてな」
自分で言って、自分が嫌になった。こんな嘘で誤魔化すしかない。レナは苦笑する。
「太ってないよ。ちゃんと動けてるし」
動けている。今は。
半年後には、動けない。心臓まで石になって、息もできない。
それでも、レナが生きるなら――いや、生かすなら。
遺跡からの帰路、僕は馬車の揺れの中で、何度も未来の断片を反芻した。広場の雨。群衆の顔。味方の刃。レナの「どうして」。
どうして、って。
答えは分かっている。この国は、勇者すら政治の道具にする。必要なくなれば切り捨てる。邪魔になれば悪魔に仕立てる。正義はいつでも、権力者の都合で形を変える。
レナは純粋すぎる。信じすぎる。だから殺される。
なら、信じる対象を変えればいい。
彼女が信じるべきは、この国じゃない。正義でもない。自分自身だ。彼女が「裁く」べきは、腐敗した王国の構造そのものだ。
そのためには――彼女に「敵」を与える必要がある。
分かりやすい、憎むべき悪役を。
僕だ。
王都に戻った夜、僕は自室に籠もった。狭い部屋。机と椅子と、棚に並んだ帳簿。窓の外では、城の灯りが揺れている。静かだ。静かすぎて、自分の呼吸がうるさい。
手袋を外す。
右手の指先が、ほんのわずかに灰色がかっていた。爪の付け根が硬い。触れると、皮膚の下に冷たいものがある。石だ。
笑える。魔力ゼロの事務員が、古代の呪いだけは一人前に受け取った。
僕は指を曲げ伸ばしする。痛みが走る。鋭く、容赦なく。だが、その痛みはまだ「生きている」証拠でもあった。
半年。タイムリミット。
僕は紙を広げ、ペンを取った。震える手を、左手で押さえる。インク壺にペン先を浸し、深呼吸する。
ここから先は、計算だ。
未来を変えずに、レナだけを生かす。僕が真実を言えば駄目なら、真実を言わずに、彼女が生き残る状況を作るしかない。
彼女が殺されるのは、「味方の裏切り」によってだ。なら、裏切りの矛先を逸らす。裏切りを起こす構造を先に壊す。あるいは、裏切りが起こっても彼女が死なないように配置する。
しかし、僕が表立って動けば、誰かが気づく。レナが僕を信じている限り、彼女は僕の言葉で動く。それが未来を変えてしまう。呪いの条件は残酷だ。僕の善意は、彼女の死に直結する。
だから、僕は彼女の「敵」にならなければならない。
彼女が僕を信じないようにする。いや、信じたくても信じられないようにする。彼女の中で僕を「裁くべき悪」として固定する。
そうすれば、僕の言葉は彼女に届かない。届かないことが、彼女を生かす。
僕はペンを走らせた。
題名を書く。
『英雄作成計画』
滑稽な名前だ。英雄を作る? 違う。英雄に「させる」。彼女が生き延びるために、彼女が英雄として完成するために、必要な犠牲を算定する。
その犠牲が僕だ。
計画書には、冷たい項目が並ぶ。
・レナの信頼を意図的に破壊する方法
・王国上層部の腐敗を暴くタイミング
・軍内部の派閥争いを利用し、敵を一つに集約する手順
・最終的にレナが「僕を討つ」ことで得る民意と正当性
・その後、彼女が孤立しないための支持基盤の形成
文字にすると、ますます僕は悪党に見える。実際、やることは悪党のそれだ。裏工作、情報操作、汚名の引き受け。
でも、いい。
どうせ僕は死ぬ。
死ぬことは怖い。怖いに決まっている。夜になると、胸の奥が冷えていく。心臓が石になる瞬間を想像して、息が詰まる。痛みで叫びたくなる未来を、もう見てしまった。
それでも、レナがあの広場で殺される未来よりはましだ。
ペンが止まる。インクが紙に滲む。
――本当に、それでいいのか?
胸の奥で、弱い声がする。
僕はレナが好きだ。多分、誰にも言えない形で。彼女の正義感が眩しくて、彼女の笑顔が痛いほど温かくて、彼女が僕を信じるたびに、僕は自分が人間に戻ってしまいそうになる。
その彼女に、僕は裏切りを演じる。
彼女に憎まれる。
彼女に「裁かれる」。
それは、救いなのか。罰なのか。
分からない。分からないまま、僕は書き続けた。理屈で塗り固めないと、手が止まってしまう。止まれば、僕はただの臆病者になる。
机の上に、石化が進む指先の灰色が落ちるように見えた。錯覚だ。まだ欠片は落ちていない。だが時間の問題だ。
窓の外で鐘が鳴る。夜半。王都の眠りを告げる音。
僕は最後の行に、震える文字で書いた。
「真実は言わない。沈黙して死ぬ。――それだけが救済ルート」
書き終えた瞬間、肩の力が抜けた。吐いた息が白い気がした。部屋は寒くないのに。
僕は紙束を閉じ、革紐で縛る。まるで棺に蓋をするみたいに。
そして、笑った。
誰も見ていないのに、仮面の笑みを作った。冷徹で合理的な男の顔。金と権力の亡者の顔。そうやっていれば、明日から僕は計画を実行できる。
レナの前で、僕は悪役になれる。
――怖い。
独白だけは、仮面の裏から漏れた。
怖い。死ぬのが怖い。痛みが怖い。何より、彼女の瞳から信頼が消える瞬間が怖い。
それでも。
僕は机に額をつけ、目を閉じた。朱色の未来が瞼の裏に滲む。雨の広場。刃。血。
あの未来だけは、絶対に許さない。
半年後、僕の心臓が石になるとしても。
彼女が生きるなら――僕は、喜んで悪になろう。
灰色の朝は、いつだって同じ匂いがする。
湿った紙と、墨と、古い革の帳簿。窓の外からは訓練場の掛け声が聞こえるのに、ここ――王国軍の経理・記録係の部屋には、血の匂い一滴すら届かない。戦争は数字になって、棚に並ぶ。死者は行数になって、署名欄の余白に押し込まれる。
僕はそれを整える役目だった。
「アルト、昨日の補給申請、差し戻しだ。担当者の印が一つ足りない」
上官の声に、僕は顔を上げずに頷く。紙面の上でペン先が止まる。止まったのは僕の判断ではなく、指のほうだ。ほんの一瞬、関節が軋んだような感覚がした。
疲労だ、と僕は自分に言い聞かせる。昨夜も遅くまで帳簿を締めていた。軍の金は、戦場よりもこの城内でよく流れる。誰かの懐へ、誰かの口止め料へ。そういう流れを把握しないと、今度は僕が流される。
「合理的にやれ。余計なことを考えるな」
口に出さず、胸の内で反芻する。そうやって生きてきた。魔力も剣も持たない僕が、この腐った王国で生き残る唯一の方法は、感情を削り落として、計算だけで動くことだった。
だから、誰も僕を優しいとは言わない。言われないようにしている。
「金と権力の亡者」――そう見えるように振る舞うのは簡単だった。帳簿を正確に付け、誰の不正にも目をつぶらず、時にそれを利用して取引する。冷徹で合理的。人間の命より数字を優先する男。
仮面を被っていれば、誰も僕の手が震えていることに気づかない。
その震えが、恐怖から来ていることにも。
その日、僕は古代遺跡の調査隊に「同行」することになった。と言っても、剣を振るうわけじゃない。遺跡から持ち帰った遺物の管理、報酬の算定、功績の記録――要するに、戦果を「物語」に変換する係だ。
王国は今、魔王軍よりも内側が危険だった。貴族同士の派閥争い、軍内部の利権、教会の介入。誰がどの遺物を持ち帰り、誰がそれを献上したか。記録一つで首が飛ぶ。
だから、僕が必要だった。
遺跡は王都から二日。灰色の空の下、崩れた石柱が骨のように突き出し、苔むした階段が地の底へ続いていた。空気が冷たい。湿った土と、古い死の匂い。
「ここが……」
先頭に立つ少女が、息を呑む。金色に近い栗毛を結い上げ、白いマントを羽織った姿は、遺跡の暗がりでも妙に目立った。
勇者レナ。
王国が掲げる希望。剣の才も、魔力も、何より人を信じる力も持っている――そういう、僕とは正反対の存在。
彼女は振り返り、僕を見て笑った。
「アルト、怖い?」
その笑顔が、胸の奥を刺す。僕は肩をすくめ、わざと嫌味っぽく返す。
「怖いのは遺跡より、報告書の締切だ。君たちが派手に壊すと、弁償額の計算が面倒になる」
「もう。相変わらずね」
レナは笑う。信じている顔で。僕の仮面の下にあるものを、見ようともしないで。
その無邪気さが救いであり、同時に残酷だった。
遺跡の内部は、想像以上に静かだった。魔物の気配も薄い。壁面には古い文字と紋様が刻まれ、ところどころに黒ずんだ血痕が残っている。昔、ここで何かが行われた。祈りか、儀式か、虐殺か。
僕は記録係として、壁の文様を写し取り、遺物の位置を図面に落とす。頭は冴えていた。数字も文字も、僕の手の中では整然と並ぶ。処理速度だけが取り柄の脳は、こういうときに裏切らない。
問題は、心臓のほうだった。
遺跡の最深部。封じられた扉の前に、黒い石台があった。石台の上には、ひび割れた朱色の水晶――いや、宝石とも違う。まるで、固まった血を光にしたような色。
レナが近づこうとするのを、僕は反射的に止めた。
「触るな」
自分でも驚くほど強い声が出た。レナが目を丸くする。
「どうしたの?」
どうしたの、じゃない。説明できるなら、僕はもう少し楽に生きている。
僕は息を整え、冷たく言い直す。
「古代遺物は危険だ。勇者でも呪いは受ける。……王国の財産でもあるしな」
最後にわざと金の匂いを混ぜる。レナは少し眉をひそめたが、引き下がった。
「分かった。じゃあ、どうする?」
どうする――その問いが、僕の胸の奥で反響する。
僕は石台に近づいた。手袋越しに、朱色の水晶に触れる。冷たい。なのに、触れた瞬間、指先から腕へ、焼けるような痛みが走った。
視界が朱に染まった。
――見える。
それは「映像」ではなく、確定した未来の断片だった。僕の脳が勝手に組み立てる、逃げ場のない結論。
半年後。
王都の広場。雨。泥。群衆の叫び。レナが膝をついている。白いマントは裂け、髪は濡れ、顔には血が混じっている。
彼女の前に立つのは――味方だ。
同じ軍服。同じ紋章。彼女が信じた者たち。剣を握る手が震えているのは、レナではなく、彼らのほうだった。恐怖と憎悪と、誰かに命じられた従順。
「勇者は魔王と通じていた」
誰かが叫ぶ。嘘だ。嘘だと分かっているのに、群衆は石を投げる。唾を吐く。正義の名で、彼女を殺そうとする。
レナは叫ばない。ただ、信じられない顔で、味方を見ている。
「……どうして?」
その声が、僕の喉を裂いた。
次の瞬間、刃が彼女の腹を貫く。もう一つ。もう一つ。刺すたびに、彼女の目から光が消えていく。最後に、誰かが首を落とす。
朱色の雨が降る。
僕の視界は、その朱で満ちたまま、別のものを映した。
石の蔓が、僕の腕を這い上がってくる。皮膚の下で、冷たい鉱物が血管を塞ぐ。指が動かなくなる。膝が曲がらなくなる。胸が固まり、心臓に到達する。
半年。
そこまでで終わりだと、はっきり分かった。
呪いの代償として、未来を見せられた。逃げ道はない。変えようとすれば、もっと悪い未来になる――そういう種類の呪いだと、直感が告げていた。
そして、もっと残酷な条件が、同時に刻まれた。
――真実を話せば、未来が変わり、レナが死ぬ。
僕がこの未来を見たことを告げるだけで、歯車がずれる。誰かが疑い、誰かが先に動き、レナは別の形で死ぬ。呪いはそういうふうにできている。善意を罰するように。
僕は叫びたかった。「逃げろ」と。「信じるな」と。「お前はこの国に殺される」と。
でも、その言葉が彼女の死を早める。
だから、沈黙するしかない。
沈黙して、僕が死ぬしかない。
気づけば、僕は石台の前に膝をついていた。息が荒い。手袋の下の皮膚が、じんじんと痺れている。まるで、そこだけ別の物質になったみたいに。
レナが駆け寄ってくる。
「アルト! 大丈夫!?」
彼女の手が僕の肩に触れる。温かい。人間の温度だ。その温度が、さっき見た未来の冷たさと対比になって、吐き気がした。
僕は顔を上げ、笑おうとした。仮面を被らなければ。
「……大げさだな。少し目眩がしただけだ」
「本当に? 顔色が……」
「遺跡の空気が悪い。君は平気なのか、勇者様」
皮肉を混ぜる。レナは少し安心したように、でもまだ心配そうに僕を見る。
その瞳が、僕を信じている。
その信頼が、僕を殺す。
僕は立ち上がろうとして、足が一瞬、言うことを聞かない。痺れが膝まで広がっている気がした。痛みが遅れてやってくる。骨の内側から針で刺されるような、鋭い痛み。
僕は歯を食いしばり、顔に出さない。出せない。
「……太っただけだ。最近、城の飯が良くてな」
自分で言って、自分が嫌になった。こんな嘘で誤魔化すしかない。レナは苦笑する。
「太ってないよ。ちゃんと動けてるし」
動けている。今は。
半年後には、動けない。心臓まで石になって、息もできない。
それでも、レナが生きるなら――いや、生かすなら。
遺跡からの帰路、僕は馬車の揺れの中で、何度も未来の断片を反芻した。広場の雨。群衆の顔。味方の刃。レナの「どうして」。
どうして、って。
答えは分かっている。この国は、勇者すら政治の道具にする。必要なくなれば切り捨てる。邪魔になれば悪魔に仕立てる。正義はいつでも、権力者の都合で形を変える。
レナは純粋すぎる。信じすぎる。だから殺される。
なら、信じる対象を変えればいい。
彼女が信じるべきは、この国じゃない。正義でもない。自分自身だ。彼女が「裁く」べきは、腐敗した王国の構造そのものだ。
そのためには――彼女に「敵」を与える必要がある。
分かりやすい、憎むべき悪役を。
僕だ。
王都に戻った夜、僕は自室に籠もった。狭い部屋。机と椅子と、棚に並んだ帳簿。窓の外では、城の灯りが揺れている。静かだ。静かすぎて、自分の呼吸がうるさい。
手袋を外す。
右手の指先が、ほんのわずかに灰色がかっていた。爪の付け根が硬い。触れると、皮膚の下に冷たいものがある。石だ。
笑える。魔力ゼロの事務員が、古代の呪いだけは一人前に受け取った。
僕は指を曲げ伸ばしする。痛みが走る。鋭く、容赦なく。だが、その痛みはまだ「生きている」証拠でもあった。
半年。タイムリミット。
僕は紙を広げ、ペンを取った。震える手を、左手で押さえる。インク壺にペン先を浸し、深呼吸する。
ここから先は、計算だ。
未来を変えずに、レナだけを生かす。僕が真実を言えば駄目なら、真実を言わずに、彼女が生き残る状況を作るしかない。
彼女が殺されるのは、「味方の裏切り」によってだ。なら、裏切りの矛先を逸らす。裏切りを起こす構造を先に壊す。あるいは、裏切りが起こっても彼女が死なないように配置する。
しかし、僕が表立って動けば、誰かが気づく。レナが僕を信じている限り、彼女は僕の言葉で動く。それが未来を変えてしまう。呪いの条件は残酷だ。僕の善意は、彼女の死に直結する。
だから、僕は彼女の「敵」にならなければならない。
彼女が僕を信じないようにする。いや、信じたくても信じられないようにする。彼女の中で僕を「裁くべき悪」として固定する。
そうすれば、僕の言葉は彼女に届かない。届かないことが、彼女を生かす。
僕はペンを走らせた。
題名を書く。
『英雄作成計画』
滑稽な名前だ。英雄を作る? 違う。英雄に「させる」。彼女が生き延びるために、彼女が英雄として完成するために、必要な犠牲を算定する。
その犠牲が僕だ。
計画書には、冷たい項目が並ぶ。
・レナの信頼を意図的に破壊する方法
・王国上層部の腐敗を暴くタイミング
・軍内部の派閥争いを利用し、敵を一つに集約する手順
・最終的にレナが「僕を討つ」ことで得る民意と正当性
・その後、彼女が孤立しないための支持基盤の形成
文字にすると、ますます僕は悪党に見える。実際、やることは悪党のそれだ。裏工作、情報操作、汚名の引き受け。
でも、いい。
どうせ僕は死ぬ。
死ぬことは怖い。怖いに決まっている。夜になると、胸の奥が冷えていく。心臓が石になる瞬間を想像して、息が詰まる。痛みで叫びたくなる未来を、もう見てしまった。
それでも、レナがあの広場で殺される未来よりはましだ。
ペンが止まる。インクが紙に滲む。
――本当に、それでいいのか?
胸の奥で、弱い声がする。
僕はレナが好きだ。多分、誰にも言えない形で。彼女の正義感が眩しくて、彼女の笑顔が痛いほど温かくて、彼女が僕を信じるたびに、僕は自分が人間に戻ってしまいそうになる。
その彼女に、僕は裏切りを演じる。
彼女に憎まれる。
彼女に「裁かれる」。
それは、救いなのか。罰なのか。
分からない。分からないまま、僕は書き続けた。理屈で塗り固めないと、手が止まってしまう。止まれば、僕はただの臆病者になる。
机の上に、石化が進む指先の灰色が落ちるように見えた。錯覚だ。まだ欠片は落ちていない。だが時間の問題だ。
窓の外で鐘が鳴る。夜半。王都の眠りを告げる音。
僕は最後の行に、震える文字で書いた。
「真実は言わない。沈黙して死ぬ。――それだけが救済ルート」
書き終えた瞬間、肩の力が抜けた。吐いた息が白い気がした。部屋は寒くないのに。
僕は紙束を閉じ、革紐で縛る。まるで棺に蓋をするみたいに。
そして、笑った。
誰も見ていないのに、仮面の笑みを作った。冷徹で合理的な男の顔。金と権力の亡者の顔。そうやっていれば、明日から僕は計画を実行できる。
レナの前で、僕は悪役になれる。
――怖い。
独白だけは、仮面の裏から漏れた。
怖い。死ぬのが怖い。痛みが怖い。何より、彼女の瞳から信頼が消える瞬間が怖い。
それでも。
僕は机に額をつけ、目を閉じた。朱色の未来が瞼の裏に滲む。雨の広場。刃。血。
あの未来だけは、絶対に許さない。
半年後、僕の心臓が石になるとしても。
彼女が生きるなら――僕は、喜んで悪になろう。
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幼少の頃は、兄王子のお菓子や服、弟王子のおもちゃ。王妃の宝飾品まで。
大きくなってからもそれは続き、国王の買ったばかりの魔術具まで欲しがった。
しかし、王家の者はだれも王女の欲しがりを止めることなく、王女の言うがままになって、王女の我が儘を許している。
王女の欲しがりを断った、先の宰相はその立場を失ったという噂すら流れている。
微笑みのまま行われる王女の欲しがりは断ってはならない。そんな不文律から、各貴族家は多くのものを差し出した。
伯爵家の家宝、辺境伯家の家畜、子爵家の商会まで。
そんな王女がついに、他人の婚約者まで欲しがった。
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