余命半年の僕は、君を英雄にするために「裏切り者」の汚名を着る

深渡 ケイ

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第1章

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 第1章

 灰色の朝は、いつだって同じ匂いがする。

 湿った紙と、墨と、古い革の帳簿。窓の外からは訓練場の掛け声が聞こえるのに、ここ――王国軍の経理・記録係の部屋には、血の匂い一滴すら届かない。戦争は数字になって、棚に並ぶ。死者は行数になって、署名欄の余白に押し込まれる。

 僕はそれを整える役目だった。

「アルト、昨日の補給申請、差し戻しだ。担当者の印が一つ足りない」

 上官の声に、僕は顔を上げずに頷く。紙面の上でペン先が止まる。止まったのは僕の判断ではなく、指のほうだ。ほんの一瞬、関節が軋んだような感覚がした。

 疲労だ、と僕は自分に言い聞かせる。昨夜も遅くまで帳簿を締めていた。軍の金は、戦場よりもこの城内でよく流れる。誰かの懐へ、誰かの口止め料へ。そういう流れを把握しないと、今度は僕が流される。

「合理的にやれ。余計なことを考えるな」

 口に出さず、胸の内で反芻する。そうやって生きてきた。魔力も剣も持たない僕が、この腐った王国で生き残る唯一の方法は、感情を削り落として、計算だけで動くことだった。

 だから、誰も僕を優しいとは言わない。言われないようにしている。

「金と権力の亡者」――そう見えるように振る舞うのは簡単だった。帳簿を正確に付け、誰の不正にも目をつぶらず、時にそれを利用して取引する。冷徹で合理的。人間の命より数字を優先する男。

 仮面を被っていれば、誰も僕の手が震えていることに気づかない。

 その震えが、恐怖から来ていることにも。

 その日、僕は古代遺跡の調査隊に「同行」することになった。と言っても、剣を振るうわけじゃない。遺跡から持ち帰った遺物の管理、報酬の算定、功績の記録――要するに、戦果を「物語」に変換する係だ。

 王国は今、魔王軍よりも内側が危険だった。貴族同士の派閥争い、軍内部の利権、教会の介入。誰がどの遺物を持ち帰り、誰がそれを献上したか。記録一つで首が飛ぶ。

 だから、僕が必要だった。

 遺跡は王都から二日。灰色の空の下、崩れた石柱が骨のように突き出し、苔むした階段が地の底へ続いていた。空気が冷たい。湿った土と、古い死の匂い。

「ここが……」

 先頭に立つ少女が、息を呑む。金色に近い栗毛を結い上げ、白いマントを羽織った姿は、遺跡の暗がりでも妙に目立った。

 勇者レナ。

 王国が掲げる希望。剣の才も、魔力も、何より人を信じる力も持っている――そういう、僕とは正反対の存在。

 彼女は振り返り、僕を見て笑った。

「アルト、怖い?」

 その笑顔が、胸の奥を刺す。僕は肩をすくめ、わざと嫌味っぽく返す。

「怖いのは遺跡より、報告書の締切だ。君たちが派手に壊すと、弁償額の計算が面倒になる」

「もう。相変わらずね」

 レナは笑う。信じている顔で。僕の仮面の下にあるものを、見ようともしないで。

 その無邪気さが救いであり、同時に残酷だった。

 遺跡の内部は、想像以上に静かだった。魔物の気配も薄い。壁面には古い文字と紋様が刻まれ、ところどころに黒ずんだ血痕が残っている。昔、ここで何かが行われた。祈りか、儀式か、虐殺か。

 僕は記録係として、壁の文様を写し取り、遺物の位置を図面に落とす。頭は冴えていた。数字も文字も、僕の手の中では整然と並ぶ。処理速度だけが取り柄の脳は、こういうときに裏切らない。

 問題は、心臓のほうだった。

 遺跡の最深部。封じられた扉の前に、黒い石台があった。石台の上には、ひび割れた朱色の水晶――いや、宝石とも違う。まるで、固まった血を光にしたような色。

 レナが近づこうとするのを、僕は反射的に止めた。

「触るな」

 自分でも驚くほど強い声が出た。レナが目を丸くする。

「どうしたの?」

 どうしたの、じゃない。説明できるなら、僕はもう少し楽に生きている。

 僕は息を整え、冷たく言い直す。

「古代遺物は危険だ。勇者でも呪いは受ける。……王国の財産でもあるしな」

 最後にわざと金の匂いを混ぜる。レナは少し眉をひそめたが、引き下がった。

「分かった。じゃあ、どうする?」

 どうする――その問いが、僕の胸の奥で反響する。

 僕は石台に近づいた。手袋越しに、朱色の水晶に触れる。冷たい。なのに、触れた瞬間、指先から腕へ、焼けるような痛みが走った。

 視界が朱に染まった。

 ――見える。

 それは「映像」ではなく、確定した未来の断片だった。僕の脳が勝手に組み立てる、逃げ場のない結論。

 半年後。

 王都の広場。雨。泥。群衆の叫び。レナが膝をついている。白いマントは裂け、髪は濡れ、顔には血が混じっている。

 彼女の前に立つのは――味方だ。

 同じ軍服。同じ紋章。彼女が信じた者たち。剣を握る手が震えているのは、レナではなく、彼らのほうだった。恐怖と憎悪と、誰かに命じられた従順。

「勇者は魔王と通じていた」

 誰かが叫ぶ。嘘だ。嘘だと分かっているのに、群衆は石を投げる。唾を吐く。正義の名で、彼女を殺そうとする。

 レナは叫ばない。ただ、信じられない顔で、味方を見ている。

「……どうして?」

 その声が、僕の喉を裂いた。

 次の瞬間、刃が彼女の腹を貫く。もう一つ。もう一つ。刺すたびに、彼女の目から光が消えていく。最後に、誰かが首を落とす。

 朱色の雨が降る。

 僕の視界は、その朱で満ちたまま、別のものを映した。

 石の蔓が、僕の腕を這い上がってくる。皮膚の下で、冷たい鉱物が血管を塞ぐ。指が動かなくなる。膝が曲がらなくなる。胸が固まり、心臓に到達する。

 半年。

 そこまでで終わりだと、はっきり分かった。

 呪いの代償として、未来を見せられた。逃げ道はない。変えようとすれば、もっと悪い未来になる――そういう種類の呪いだと、直感が告げていた。

 そして、もっと残酷な条件が、同時に刻まれた。

 ――真実を話せば、未来が変わり、レナが死ぬ。

 僕がこの未来を見たことを告げるだけで、歯車がずれる。誰かが疑い、誰かが先に動き、レナは別の形で死ぬ。呪いはそういうふうにできている。善意を罰するように。

 僕は叫びたかった。「逃げろ」と。「信じるな」と。「お前はこの国に殺される」と。

 でも、その言葉が彼女の死を早める。

 だから、沈黙するしかない。

 沈黙して、僕が死ぬしかない。

 気づけば、僕は石台の前に膝をついていた。息が荒い。手袋の下の皮膚が、じんじんと痺れている。まるで、そこだけ別の物質になったみたいに。

 レナが駆け寄ってくる。

「アルト! 大丈夫!?」

 彼女の手が僕の肩に触れる。温かい。人間の温度だ。その温度が、さっき見た未来の冷たさと対比になって、吐き気がした。

 僕は顔を上げ、笑おうとした。仮面を被らなければ。

「……大げさだな。少し目眩がしただけだ」

「本当に? 顔色が……」

「遺跡の空気が悪い。君は平気なのか、勇者様」

 皮肉を混ぜる。レナは少し安心したように、でもまだ心配そうに僕を見る。

 その瞳が、僕を信じている。

 その信頼が、僕を殺す。

 僕は立ち上がろうとして、足が一瞬、言うことを聞かない。痺れが膝まで広がっている気がした。痛みが遅れてやってくる。骨の内側から針で刺されるような、鋭い痛み。

 僕は歯を食いしばり、顔に出さない。出せない。

「……太っただけだ。最近、城の飯が良くてな」

 自分で言って、自分が嫌になった。こんな嘘で誤魔化すしかない。レナは苦笑する。

「太ってないよ。ちゃんと動けてるし」

 動けている。今は。

 半年後には、動けない。心臓まで石になって、息もできない。

 それでも、レナが生きるなら――いや、生かすなら。

 遺跡からの帰路、僕は馬車の揺れの中で、何度も未来の断片を反芻した。広場の雨。群衆の顔。味方の刃。レナの「どうして」。

 どうして、って。

 答えは分かっている。この国は、勇者すら政治の道具にする。必要なくなれば切り捨てる。邪魔になれば悪魔に仕立てる。正義はいつでも、権力者の都合で形を変える。

 レナは純粋すぎる。信じすぎる。だから殺される。

 なら、信じる対象を変えればいい。

 彼女が信じるべきは、この国じゃない。正義でもない。自分自身だ。彼女が「裁く」べきは、腐敗した王国の構造そのものだ。

 そのためには――彼女に「敵」を与える必要がある。

 分かりやすい、憎むべき悪役を。

 僕だ。

 王都に戻った夜、僕は自室に籠もった。狭い部屋。机と椅子と、棚に並んだ帳簿。窓の外では、城の灯りが揺れている。静かだ。静かすぎて、自分の呼吸がうるさい。

 手袋を外す。

 右手の指先が、ほんのわずかに灰色がかっていた。爪の付け根が硬い。触れると、皮膚の下に冷たいものがある。石だ。

 笑える。魔力ゼロの事務員が、古代の呪いだけは一人前に受け取った。

 僕は指を曲げ伸ばしする。痛みが走る。鋭く、容赦なく。だが、その痛みはまだ「生きている」証拠でもあった。

 半年。タイムリミット。

 僕は紙を広げ、ペンを取った。震える手を、左手で押さえる。インク壺にペン先を浸し、深呼吸する。

 ここから先は、計算だ。

 未来を変えずに、レナだけを生かす。僕が真実を言えば駄目なら、真実を言わずに、彼女が生き残る状況を作るしかない。

 彼女が殺されるのは、「味方の裏切り」によってだ。なら、裏切りの矛先を逸らす。裏切りを起こす構造を先に壊す。あるいは、裏切りが起こっても彼女が死なないように配置する。

 しかし、僕が表立って動けば、誰かが気づく。レナが僕を信じている限り、彼女は僕の言葉で動く。それが未来を変えてしまう。呪いの条件は残酷だ。僕の善意は、彼女の死に直結する。

 だから、僕は彼女の「敵」にならなければならない。

 彼女が僕を信じないようにする。いや、信じたくても信じられないようにする。彼女の中で僕を「裁くべき悪」として固定する。

 そうすれば、僕の言葉は彼女に届かない。届かないことが、彼女を生かす。

 僕はペンを走らせた。

 題名を書く。

『英雄作成計画』

 滑稽な名前だ。英雄を作る? 違う。英雄に「させる」。彼女が生き延びるために、彼女が英雄として完成するために、必要な犠牲を算定する。

 その犠牲が僕だ。

 計画書には、冷たい項目が並ぶ。

 ・レナの信頼を意図的に破壊する方法

 ・王国上層部の腐敗を暴くタイミング

 ・軍内部の派閥争いを利用し、敵を一つに集約する手順

 ・最終的にレナが「僕を討つ」ことで得る民意と正当性

 ・その後、彼女が孤立しないための支持基盤の形成

 文字にすると、ますます僕は悪党に見える。実際、やることは悪党のそれだ。裏工作、情報操作、汚名の引き受け。

 でも、いい。

 どうせ僕は死ぬ。

 死ぬことは怖い。怖いに決まっている。夜になると、胸の奥が冷えていく。心臓が石になる瞬間を想像して、息が詰まる。痛みで叫びたくなる未来を、もう見てしまった。

 それでも、レナがあの広場で殺される未来よりはましだ。

 ペンが止まる。インクが紙に滲む。

 ――本当に、それでいいのか?

 胸の奥で、弱い声がする。

 僕はレナが好きだ。多分、誰にも言えない形で。彼女の正義感が眩しくて、彼女の笑顔が痛いほど温かくて、彼女が僕を信じるたびに、僕は自分が人間に戻ってしまいそうになる。

 その彼女に、僕は裏切りを演じる。

 彼女に憎まれる。

 彼女に「裁かれる」。

 それは、救いなのか。罰なのか。

 分からない。分からないまま、僕は書き続けた。理屈で塗り固めないと、手が止まってしまう。止まれば、僕はただの臆病者になる。

 机の上に、石化が進む指先の灰色が落ちるように見えた。錯覚だ。まだ欠片は落ちていない。だが時間の問題だ。

 窓の外で鐘が鳴る。夜半。王都の眠りを告げる音。

 僕は最後の行に、震える文字で書いた。

「真実は言わない。沈黙して死ぬ。――それだけが救済ルート」

 書き終えた瞬間、肩の力が抜けた。吐いた息が白い気がした。部屋は寒くないのに。

 僕は紙束を閉じ、革紐で縛る。まるで棺に蓋をするみたいに。

 そして、笑った。

 誰も見ていないのに、仮面の笑みを作った。冷徹で合理的な男の顔。金と権力の亡者の顔。そうやっていれば、明日から僕は計画を実行できる。

 レナの前で、僕は悪役になれる。

 ――怖い。

 独白だけは、仮面の裏から漏れた。

 怖い。死ぬのが怖い。痛みが怖い。何より、彼女の瞳から信頼が消える瞬間が怖い。

 それでも。

 僕は机に額をつけ、目を閉じた。朱色の未来が瞼の裏に滲む。雨の広場。刃。血。

 あの未来だけは、絶対に許さない。

 半年後、僕の心臓が石になるとしても。

 彼女が生きるなら――僕は、喜んで悪になろう。
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