余命半年の僕は、君を英雄にするために「裏切り者」の汚名を着る

深渡 ケイ

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第2章

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 第2章

 不正は、紙の上から始まる。

 軍の経理室で俺が扱うのは、剣でも魔法でもなく、印章と帳簿と、そして人間の欲望だ。腐った王国では、金が血より速く流れる。だから俺は、血の匂いを嗅ぐ前に金の流れを嗅ぎ分ける術を身につけた。

 帳簿の端に付いた指の汚れを、俺は布で拭う。拭ったところで、汚れが消えるわけじゃない。見えなくなるだけだ。人間の罪も同じだ。

 机の引き出しから、封蝋の付いた小袋を取り出す。中身は銀貨ではない。銀貨より軽く、銀貨より人を殺す――偽造された支払命令書だ。軍の備蓄を横流しした形跡を、俺が「作る」ためのもの。真犯人は別にいる。だが、俺がそれを暴けば、未来が変わる。レナが死ぬ。

 未来予知の呪いは、親切に「正解」を教えてくれない。教えてくれるのは、結果だけだ。半年後、王都の広場で、勇者が味方に処刑される。処刑台の木目、縄の擦れる音、群衆の唾の飛び方まで、俺の脳は嫌になるほど鮮明に記憶している。

 だから俺は、結果を変えないために、原因をこちらから作る。

 俺が悪役になる。勇者が俺を討つ。民意と正当性を彼女に与える。彼女が「裁いた」という事実が、王都の刃を鈍らせる。――そういう計算だ。

 計算。合理。冷徹。金と権力の亡者。

 その仮面は、俺の顔に癒着している。

 指先が、わずかに痺れた。紙を押さえる力が、ほんの少しだけ抜ける。痺れは、石化の始まりの合図だ。四肢の感覚が薄れていくのに、痛みだけは鋭く残る。神経が焼けるみたいな痛みが、骨の奥から突き上げる。

 俺は深呼吸して、痛みを喉の奥に押し込めた。誰にも見せない。見せた瞬間、誰かが「心配」する。心配は、言葉を引き出す。言葉は、未来を変える。

 レナを殺す。

 だから黙る。黙って、悪人を演じる。

 偽造命令書に署名を入れる。筆跡は俺のものではない。だが、鑑定官が見れば「似ている」と言う程度には寄せてある。腐敗した王国では、真実より「それらしい」が優先される。

 封を閉じると、紙が乾いた音を立てた。まるで棺の蓋だ。

 その日の午後、俺は勇者のパーティに「参加」することになった。

 正確には、軍の上層部がそう決めた。勇者の監視役。経理官のくせに前線へ。理由は簡単だ。俺が金の流れを握っているから。俺を近くに置けば、誰かが安心する。あるいは、誰かが俺を消したい。

 どちらにせよ、俺にとっては好都合だった。

 レナの一行が詰めている宿舎へ向かう廊下で、俺は足取りをわざと重くした。石化の進行で本当に重いのだが、理由は別にする必要がある。

「……また太ったのか、アルト」

 すれ違った兵士が笑う。俺は肩をすくめた。

「贅沢が趣味でね。働き者にはご褒美が必要だろ」

 返した声は軽い。軽すぎて、自分でも腹が立つ。だが、こういう軽さが人を遠ざける。遠ざければ、守れる。

 扉を叩くと、すぐに中から声がした。

「どうぞ!」

 扉を開けた瞬間、部屋の空気が変わった。清潔で、まっすぐで、眩しい。勇者の周りには、そういう空気が集まる。彼女自身が光源みたいなものだからだ。

 レナは机に地図を広げていた。金色に近い淡い髪が肩に落ち、目は真剣に地形を追っている。俺の気配に顔を上げた瞬間、その瞳が一瞬だけ柔らかくなった。

「アルト! 来てくれたんだね。軍の人たち、あなたを寄越すなんて……」

 その柔らかさが、胸の奥を刺した。

 彼女は、まだ俺を信じている。少なくとも、信じたいと思っている。

 その信頼を、俺はこれから踏みにじる。

 喉の奥が熱くなった。泣きそうになるのを堪えて、俺は笑った。冷たく、計算された笑みだ。

「俺がいれば金勘定ができる。勇者様の旅も、帳簿がなければ破綻する」

「そんな言い方……」

 レナの眉が少し寄る。彼女は正義感が強い。金を口にするだけで顔をしかめる。俺はそれを知っていて、わざとやる。

 彼女の隣にいた剣士が俺を見下ろした。筋肉質で、目つきが鋭い。俺のような事務屋を信用していない顔だ。

「経理官が前線に来て何をする。足手まといになるなよ」

「足手まといにならないよう、指示だけは的確に出すさ」

 俺は地図に目を落とす。視線を合わせると、彼女の温度に溶かされる。溶けたら最後、言葉が漏れる。真実が漏れる。未来が崩れる。

 地図の上に指を置いた瞬間、指先の感覚が薄いことに気づいた。紙のざらつきが、遠い。代わりに、骨の奥の痛みが近い。俺は指を引っ込め、袖の中で握り締めた。

「今回の任務は?」

 俺が問うと、レナは地図の一点を指した。

「北の街道沿いの補給隊が、何度も襲われてる。魔物じゃなくて、人間の盗賊団。しかも動きが妙に正確で……軍のルートが読まれてるみたいなの」

 ――読まれている。そうだろう。軍内部にスパイがいる。

 俺は頷いた。頷きながら、同時に計算する。盗賊団の規模。襲撃の時間帯。地形。逃走経路。補給隊の速度。勇者パーティの戦力。俺の足の遅さ。石化の進行。痛みの波。

 そして、囮作戦の条件。

 スパイを炙り出すには、「漏洩した」と思わせる情報が必要だ。だが本当に漏洩すれば、レナたちが死ぬ可能性がある。死なせない。ギリギリで助かるようにする。助かれば、スパイは「情報が正しかった」と確信する。次の手を出す。そこを掴む。

 問題は、レナにどう映るかだ。

 ――卑怯者。金で売った裏切り者。

 それでいい。彼女が俺を憎めば、半年後に俺を裁く刃が鈍らない。

 俺は口角を上げる。

「軍のルートが読まれているなら、答えは簡単だ。ルートを変える。あるいは、変えるふりをする」

「ふり?」

 レナが首を傾げる。俺は地図の別の道を指した。

「ここ。崖沿いの旧街道。危険だから使われていない。だが、補給隊が通ると見せかければ盗賊は必ず食いつく。そこで叩く」

「危険だから使われてないんだよね? 補給隊が通ったら……」

「通らせない。囮だ。空の荷車に兵を乗せ、護衛を厚くする。勇者様がいれば、盗賊程度は掃討できる」

 剣士が鼻で笑う。

「空の荷車? そんな手間をかけて何になる」

「内部の情報漏洩を疑っているなら、手間を惜しんで死ぬよりマシだろ」

 俺は淡々と言った。淡々と。感情を殺して。

 レナは少し考え、頷いた。

「……わかった。危険でも、誰かが止めないと被害が増える。やろう」

 その決断の速さが、彼女らしい。正義のためなら危険を選ぶ。だからこそ、彼女は利用される。だからこそ、俺が守らなければならない。

 守るために、壊す。

 翌朝、俺たちは旧街道へ向かった。崖沿いの道は狭く、下を見れば霧の谷が口を開けている。風が冷たく、岩肌を舐める音がする。荷車の車輪が石に跳ね、木が軋む。

 俺は荷車の脇を歩きながら、呼吸を数える。足の感覚がまた薄れてきている。膝から下が、自分のものではないみたいだ。だが顔には出さない。出せない。

「アルト、大丈夫? 顔色が……」

 レナが隣に並び、囁く。心配の声。優しい声。俺の喉をこじ開けようとする声。

 俺はわざと肩を揺らし、笑ってみせた。

「さっき言っただろ。贅沢で太った。坂道が辛いだけだ」

「太ったって……そんなに食べてないでしょ、あなた。軍の食堂、質素だし」

 彼女は真面目に突っ込む。俺は視線を逸らし、崖の向こうを見た。霧の中に、未来が見える気がした。処刑台。縄。彼女の首。

「質素だからこそ、外で贅沢するんだよ。金はある」

 わざと嫌味に言うと、レナは唇を結んだ。小さな失望。小さな距離。いい。距離は必要だ。

 旧街道の途中、開けた岩場に出た。そこは待ち伏せに最適だった。左右は岩壁、前方は曲がり角、背後は崖。逃げ場がない。

 俺は、ここで来ると読んでいた。読ませたのだから。

 荷車が岩場に差しかかった瞬間、矢が飛んだ。空気が裂ける音。荷車の板に矢が突き刺さり、木片が跳ねる。

「伏せて!」

 レナの声が鋭く響く。彼女が前に出る。盾役のように、自然に。勇者の身体は、誰かを守るために動くようにできている。

 盗賊たちが岩陰から現れた。数は――十二。弓が四、剣が六、斧が二。統率された動き。盗賊にしては訓練されすぎている。軍の匂いがする。

 剣士が抜刀し、魔法使いが詠唱を始める。レナは光を纏う。彼女の聖剣が淡く輝き、岩場の薄暗さを切り裂く。

 戦闘は激しかったが、俺の計算通りだった。彼女たちは強い。強すぎるほどだ。盗賊たちは押され、焦りが動きに出る。

 ――だが、ここで終わってはいけない。

 囮作戦の肝は、「情報が漏れていた」と確信させること。盗賊側に「内通者がいる」と思わせるために、俺がそれを演じる必要がある。

 俺は戦闘の最中、荷車の影に身を寄せ、懐から小さな布包みを取り出した。中には、金貨が数枚と、軍の印章を模した偽物。そして、わざと目立つように作った「ルート変更の指示書」。本物の情報は別にある。これは捨て駒だ。

 俺は岩陰にいる盗賊の一人に視線を送る。合図。彼は一瞬だけ頷いた。――こいつが連絡役。軍内部のスパイと繋がっている可能性が高い。

 俺は包みを地面に滑らせ、彼の足元へ転がした。

 その瞬間、レナの視線が俺に突き刺さった。

 彼女は戦いながら見ていた。俺の手元を。俺の仕草を。勇者の目は、正義のために鋭い。

「……アルト?」

 呼びかけは、疑念の音を含んでいた。

 盗賊が包みを拾い、懐に入れる。次の瞬間、彼は撤退の合図を出した。盗賊たちは煙玉を投げ、白い煙が岩場に広がる。

「逃がすな!」

 剣士が叫ぶ。レナが追おうとする。だが煙の中、矢が再び飛ぶ。狙いは――レナ。首筋。致命点。

 俺の脳が、時間を引き延ばした。矢の角度、速度、風。レナの踏み込み。間に合わない。

 俺は身体を動かした。

 石のように重い足を、無理やり前に出す。痛みが爆発する。膝が砕ける感覚。だが構わない。構わない、はずだった。

 矢が俺の肩を掠めた。肉が裂ける熱。血が温かい。俺は息を呑んだが、声は出さなかった。

 レナが振り返り、目を見開く。

「アルト! 今……」

「大したことない」

 俺は即座に言った。即座に。痛みより速く。

 煙が晴れ始め、盗賊たちは崖沿いの細道へ消えていく。追えば追える。だが追えば、今度は別の罠がある。俺は知っている。予知ではない。単純な合理だ。彼らは撤退路を用意している。

 レナが追おうとした瞬間、俺は彼女の腕を掴んだ。

 掴んだはずの手の感覚が薄い。彼女の温度が、遠い。なのに、彼女の脈だけがやけに強く伝わってくる気がした。

「追うな」

「でも――!」

「崖だ。煙の中で足を滑らせたら終わりだ。補給隊を守るのが目的だろ」

 俺は冷たく言い切った。正論は、人を縛る鎖になる。レナは唇を噛み、悔しそうに拳を握った。

 盗賊は逃げ切った。俺の計算通り。――いや、「計算通り」という言葉は、あまりにも傲慢だ。俺はただ、彼女が死なない範囲で最悪を選んだだけだ。

 戦闘が終わり、岩場に静けさが戻る。兵たちが負傷者を確認し、荷車の点検をする。血の匂いが漂う。

 レナは俺の前に立った。彼女の瞳は、さっきまでの光とは別の冷たさを帯びている。

「……今、あなた、何を渡したの?」

 その問いは、剣より鋭い。

 俺は一瞬、答えそうになった。真実を。囮だと。スパイを炙り出すためだと。あなたを守るためだと。

 言えば、彼女は理解するかもしれない。怒りは消えるかもしれない。信頼が戻るかもしれない。

 戻ってはいけない。

 信頼が戻れば、半年後、彼女は俺を裁てない。裁てなければ、彼女は王都で処刑される。

 俺の喉の奥で、言葉が焼ける。吐き出せば楽になる。吐き出せば、彼女が死ぬ。

 俺は笑った。乾いた笑いだ。

「金だよ」

 レナの顔が凍る。

「……金?」

「そうだ。情報と引き換えに、少しばかり稼いだ。勇者様の旅に同行するなら、危険手当が必要だろ」

 自分でも吐き気がする台詞だった。だが、吐き気は飲み込む。飲み込むのは得意だ。痛みも、恐怖も、愛情も。

 レナの声が震えた。

「そんな……あなた、私たちを……」

「窮地に陥れた? そう見えるか」

 俺は肩をすくめた。肩の傷が痛む。石化の痛みと重なり、視界の端が白くなる。だが顔は崩さない。

「でも助かっただろ。結果が全てだ」

 剣士が一歩前に出て、俺の胸倉を掴もうとした。レナが手で制した。

「……アルト。私、あなたを信じてた」

 その言葉が、一番きつかった。

 信じてた。過去形。俺が望んだ通りの形。なのに、胸が裂ける。

 俺は彼女の目を見ない。見れば、崩れる。崩れて、真実を言ってしまう。だから俺は、彼女の背後の岩壁を見る。無機物。石。俺の未来。

「信じる相手を間違えたな」

 俺は冷笑した。口元だけで。内側では、泣いていた。泣き方を忘れたはずの心が、勝手に泣いていた。

 レナの瞳に、怒りが灯る。怒りと、悲しみと、軽蔑。彼女の正義が、俺に刃を向ける準備を始める。

「……次に同じことをしたら、私はあなたを――」

「裁く?」

 俺は言葉を奪うように続けた。

「いいね。勇者様らしい」

 レナの頬が僅かに赤くなる。怒りで。悔しさで。彼女は拳を握りしめ、震える息を吐いた。

「あなたは……最低だ」

 その一言で、俺の中の何かが静かに折れた。

 最低。そうだ。最低でいい。最低でなければ、彼女は俺を許してしまう。許しは、死刑執行書に署名する手を鈍らせる。

 俺は軽く手を振った。

「正義ごっこは終わりだ、レナ」

 口にした瞬間、胸の奥で別の声が叫ぶ。

 ――終わってほしくない。

 言葉にはしなかった。できなかった。喉の奥に、未来が詰まっている。言葉を吐けば、未来が溢れて、彼女が溺れる。

 レナは背を向けた。肩が小さく震えている。泣いているのかもしれない。怒りで震えているのかもしれない。どちらでも、俺のせいだ。

 彼女が仲間の方へ戻っていく背中を見ながら、俺は袖の中で指を握り締めた。感覚のない指が、空を掴む。

 石化は、静かに進んでいる。俺の身体を、俺の言葉を、俺の未来を、少しずつ奪っていく。

 それでも、奪われていい。

 彼女の首に縄がかかる未来だけは、奪わせない。

 俺は息を吐き、血の滲む肩を押さえた。痛みが遅れて押し寄せ、視界が揺れる。だが、倒れるわけにはいかない。倒れれば誰かが支える。支えれば、距離が縮まる。縮まれば、言葉が漏れる。

 俺は歩き出す。重い足を引きずりながら。

 背中に、レナの冷たい視線が刺さっているのを感じた。

 その視線が、いつか刃に変わることを願いながら。願うこと自体が、どれほど醜いかを知りながら。

 俺は、悪役の仮面を、さらに深く被り直した。
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