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第2章
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第2章
不正は、紙の上から始まる。
軍の経理室で俺が扱うのは、剣でも魔法でもなく、印章と帳簿と、そして人間の欲望だ。腐った王国では、金が血より速く流れる。だから俺は、血の匂いを嗅ぐ前に金の流れを嗅ぎ分ける術を身につけた。
帳簿の端に付いた指の汚れを、俺は布で拭う。拭ったところで、汚れが消えるわけじゃない。見えなくなるだけだ。人間の罪も同じだ。
机の引き出しから、封蝋の付いた小袋を取り出す。中身は銀貨ではない。銀貨より軽く、銀貨より人を殺す――偽造された支払命令書だ。軍の備蓄を横流しした形跡を、俺が「作る」ためのもの。真犯人は別にいる。だが、俺がそれを暴けば、未来が変わる。レナが死ぬ。
未来予知の呪いは、親切に「正解」を教えてくれない。教えてくれるのは、結果だけだ。半年後、王都の広場で、勇者が味方に処刑される。処刑台の木目、縄の擦れる音、群衆の唾の飛び方まで、俺の脳は嫌になるほど鮮明に記憶している。
だから俺は、結果を変えないために、原因をこちらから作る。
俺が悪役になる。勇者が俺を討つ。民意と正当性を彼女に与える。彼女が「裁いた」という事実が、王都の刃を鈍らせる。――そういう計算だ。
計算。合理。冷徹。金と権力の亡者。
その仮面は、俺の顔に癒着している。
指先が、わずかに痺れた。紙を押さえる力が、ほんの少しだけ抜ける。痺れは、石化の始まりの合図だ。四肢の感覚が薄れていくのに、痛みだけは鋭く残る。神経が焼けるみたいな痛みが、骨の奥から突き上げる。
俺は深呼吸して、痛みを喉の奥に押し込めた。誰にも見せない。見せた瞬間、誰かが「心配」する。心配は、言葉を引き出す。言葉は、未来を変える。
レナを殺す。
だから黙る。黙って、悪人を演じる。
偽造命令書に署名を入れる。筆跡は俺のものではない。だが、鑑定官が見れば「似ている」と言う程度には寄せてある。腐敗した王国では、真実より「それらしい」が優先される。
封を閉じると、紙が乾いた音を立てた。まるで棺の蓋だ。
その日の午後、俺は勇者のパーティに「参加」することになった。
正確には、軍の上層部がそう決めた。勇者の監視役。経理官のくせに前線へ。理由は簡単だ。俺が金の流れを握っているから。俺を近くに置けば、誰かが安心する。あるいは、誰かが俺を消したい。
どちらにせよ、俺にとっては好都合だった。
レナの一行が詰めている宿舎へ向かう廊下で、俺は足取りをわざと重くした。石化の進行で本当に重いのだが、理由は別にする必要がある。
「……また太ったのか、アルト」
すれ違った兵士が笑う。俺は肩をすくめた。
「贅沢が趣味でね。働き者にはご褒美が必要だろ」
返した声は軽い。軽すぎて、自分でも腹が立つ。だが、こういう軽さが人を遠ざける。遠ざければ、守れる。
扉を叩くと、すぐに中から声がした。
「どうぞ!」
扉を開けた瞬間、部屋の空気が変わった。清潔で、まっすぐで、眩しい。勇者の周りには、そういう空気が集まる。彼女自身が光源みたいなものだからだ。
レナは机に地図を広げていた。金色に近い淡い髪が肩に落ち、目は真剣に地形を追っている。俺の気配に顔を上げた瞬間、その瞳が一瞬だけ柔らかくなった。
「アルト! 来てくれたんだね。軍の人たち、あなたを寄越すなんて……」
その柔らかさが、胸の奥を刺した。
彼女は、まだ俺を信じている。少なくとも、信じたいと思っている。
その信頼を、俺はこれから踏みにじる。
喉の奥が熱くなった。泣きそうになるのを堪えて、俺は笑った。冷たく、計算された笑みだ。
「俺がいれば金勘定ができる。勇者様の旅も、帳簿がなければ破綻する」
「そんな言い方……」
レナの眉が少し寄る。彼女は正義感が強い。金を口にするだけで顔をしかめる。俺はそれを知っていて、わざとやる。
彼女の隣にいた剣士が俺を見下ろした。筋肉質で、目つきが鋭い。俺のような事務屋を信用していない顔だ。
「経理官が前線に来て何をする。足手まといになるなよ」
「足手まといにならないよう、指示だけは的確に出すさ」
俺は地図に目を落とす。視線を合わせると、彼女の温度に溶かされる。溶けたら最後、言葉が漏れる。真実が漏れる。未来が崩れる。
地図の上に指を置いた瞬間、指先の感覚が薄いことに気づいた。紙のざらつきが、遠い。代わりに、骨の奥の痛みが近い。俺は指を引っ込め、袖の中で握り締めた。
「今回の任務は?」
俺が問うと、レナは地図の一点を指した。
「北の街道沿いの補給隊が、何度も襲われてる。魔物じゃなくて、人間の盗賊団。しかも動きが妙に正確で……軍のルートが読まれてるみたいなの」
――読まれている。そうだろう。軍内部にスパイがいる。
俺は頷いた。頷きながら、同時に計算する。盗賊団の規模。襲撃の時間帯。地形。逃走経路。補給隊の速度。勇者パーティの戦力。俺の足の遅さ。石化の進行。痛みの波。
そして、囮作戦の条件。
スパイを炙り出すには、「漏洩した」と思わせる情報が必要だ。だが本当に漏洩すれば、レナたちが死ぬ可能性がある。死なせない。ギリギリで助かるようにする。助かれば、スパイは「情報が正しかった」と確信する。次の手を出す。そこを掴む。
問題は、レナにどう映るかだ。
――卑怯者。金で売った裏切り者。
それでいい。彼女が俺を憎めば、半年後に俺を裁く刃が鈍らない。
俺は口角を上げる。
「軍のルートが読まれているなら、答えは簡単だ。ルートを変える。あるいは、変えるふりをする」
「ふり?」
レナが首を傾げる。俺は地図の別の道を指した。
「ここ。崖沿いの旧街道。危険だから使われていない。だが、補給隊が通ると見せかければ盗賊は必ず食いつく。そこで叩く」
「危険だから使われてないんだよね? 補給隊が通ったら……」
「通らせない。囮だ。空の荷車に兵を乗せ、護衛を厚くする。勇者様がいれば、盗賊程度は掃討できる」
剣士が鼻で笑う。
「空の荷車? そんな手間をかけて何になる」
「内部の情報漏洩を疑っているなら、手間を惜しんで死ぬよりマシだろ」
俺は淡々と言った。淡々と。感情を殺して。
レナは少し考え、頷いた。
「……わかった。危険でも、誰かが止めないと被害が増える。やろう」
その決断の速さが、彼女らしい。正義のためなら危険を選ぶ。だからこそ、彼女は利用される。だからこそ、俺が守らなければならない。
守るために、壊す。
翌朝、俺たちは旧街道へ向かった。崖沿いの道は狭く、下を見れば霧の谷が口を開けている。風が冷たく、岩肌を舐める音がする。荷車の車輪が石に跳ね、木が軋む。
俺は荷車の脇を歩きながら、呼吸を数える。足の感覚がまた薄れてきている。膝から下が、自分のものではないみたいだ。だが顔には出さない。出せない。
「アルト、大丈夫? 顔色が……」
レナが隣に並び、囁く。心配の声。優しい声。俺の喉をこじ開けようとする声。
俺はわざと肩を揺らし、笑ってみせた。
「さっき言っただろ。贅沢で太った。坂道が辛いだけだ」
「太ったって……そんなに食べてないでしょ、あなた。軍の食堂、質素だし」
彼女は真面目に突っ込む。俺は視線を逸らし、崖の向こうを見た。霧の中に、未来が見える気がした。処刑台。縄。彼女の首。
「質素だからこそ、外で贅沢するんだよ。金はある」
わざと嫌味に言うと、レナは唇を結んだ。小さな失望。小さな距離。いい。距離は必要だ。
旧街道の途中、開けた岩場に出た。そこは待ち伏せに最適だった。左右は岩壁、前方は曲がり角、背後は崖。逃げ場がない。
俺は、ここで来ると読んでいた。読ませたのだから。
荷車が岩場に差しかかった瞬間、矢が飛んだ。空気が裂ける音。荷車の板に矢が突き刺さり、木片が跳ねる。
「伏せて!」
レナの声が鋭く響く。彼女が前に出る。盾役のように、自然に。勇者の身体は、誰かを守るために動くようにできている。
盗賊たちが岩陰から現れた。数は――十二。弓が四、剣が六、斧が二。統率された動き。盗賊にしては訓練されすぎている。軍の匂いがする。
剣士が抜刀し、魔法使いが詠唱を始める。レナは光を纏う。彼女の聖剣が淡く輝き、岩場の薄暗さを切り裂く。
戦闘は激しかったが、俺の計算通りだった。彼女たちは強い。強すぎるほどだ。盗賊たちは押され、焦りが動きに出る。
――だが、ここで終わってはいけない。
囮作戦の肝は、「情報が漏れていた」と確信させること。盗賊側に「内通者がいる」と思わせるために、俺がそれを演じる必要がある。
俺は戦闘の最中、荷車の影に身を寄せ、懐から小さな布包みを取り出した。中には、金貨が数枚と、軍の印章を模した偽物。そして、わざと目立つように作った「ルート変更の指示書」。本物の情報は別にある。これは捨て駒だ。
俺は岩陰にいる盗賊の一人に視線を送る。合図。彼は一瞬だけ頷いた。――こいつが連絡役。軍内部のスパイと繋がっている可能性が高い。
俺は包みを地面に滑らせ、彼の足元へ転がした。
その瞬間、レナの視線が俺に突き刺さった。
彼女は戦いながら見ていた。俺の手元を。俺の仕草を。勇者の目は、正義のために鋭い。
「……アルト?」
呼びかけは、疑念の音を含んでいた。
盗賊が包みを拾い、懐に入れる。次の瞬間、彼は撤退の合図を出した。盗賊たちは煙玉を投げ、白い煙が岩場に広がる。
「逃がすな!」
剣士が叫ぶ。レナが追おうとする。だが煙の中、矢が再び飛ぶ。狙いは――レナ。首筋。致命点。
俺の脳が、時間を引き延ばした。矢の角度、速度、風。レナの踏み込み。間に合わない。
俺は身体を動かした。
石のように重い足を、無理やり前に出す。痛みが爆発する。膝が砕ける感覚。だが構わない。構わない、はずだった。
矢が俺の肩を掠めた。肉が裂ける熱。血が温かい。俺は息を呑んだが、声は出さなかった。
レナが振り返り、目を見開く。
「アルト! 今……」
「大したことない」
俺は即座に言った。即座に。痛みより速く。
煙が晴れ始め、盗賊たちは崖沿いの細道へ消えていく。追えば追える。だが追えば、今度は別の罠がある。俺は知っている。予知ではない。単純な合理だ。彼らは撤退路を用意している。
レナが追おうとした瞬間、俺は彼女の腕を掴んだ。
掴んだはずの手の感覚が薄い。彼女の温度が、遠い。なのに、彼女の脈だけがやけに強く伝わってくる気がした。
「追うな」
「でも――!」
「崖だ。煙の中で足を滑らせたら終わりだ。補給隊を守るのが目的だろ」
俺は冷たく言い切った。正論は、人を縛る鎖になる。レナは唇を噛み、悔しそうに拳を握った。
盗賊は逃げ切った。俺の計算通り。――いや、「計算通り」という言葉は、あまりにも傲慢だ。俺はただ、彼女が死なない範囲で最悪を選んだだけだ。
戦闘が終わり、岩場に静けさが戻る。兵たちが負傷者を確認し、荷車の点検をする。血の匂いが漂う。
レナは俺の前に立った。彼女の瞳は、さっきまでの光とは別の冷たさを帯びている。
「……今、あなた、何を渡したの?」
その問いは、剣より鋭い。
俺は一瞬、答えそうになった。真実を。囮だと。スパイを炙り出すためだと。あなたを守るためだと。
言えば、彼女は理解するかもしれない。怒りは消えるかもしれない。信頼が戻るかもしれない。
戻ってはいけない。
信頼が戻れば、半年後、彼女は俺を裁てない。裁てなければ、彼女は王都で処刑される。
俺の喉の奥で、言葉が焼ける。吐き出せば楽になる。吐き出せば、彼女が死ぬ。
俺は笑った。乾いた笑いだ。
「金だよ」
レナの顔が凍る。
「……金?」
「そうだ。情報と引き換えに、少しばかり稼いだ。勇者様の旅に同行するなら、危険手当が必要だろ」
自分でも吐き気がする台詞だった。だが、吐き気は飲み込む。飲み込むのは得意だ。痛みも、恐怖も、愛情も。
レナの声が震えた。
「そんな……あなた、私たちを……」
「窮地に陥れた? そう見えるか」
俺は肩をすくめた。肩の傷が痛む。石化の痛みと重なり、視界の端が白くなる。だが顔は崩さない。
「でも助かっただろ。結果が全てだ」
剣士が一歩前に出て、俺の胸倉を掴もうとした。レナが手で制した。
「……アルト。私、あなたを信じてた」
その言葉が、一番きつかった。
信じてた。過去形。俺が望んだ通りの形。なのに、胸が裂ける。
俺は彼女の目を見ない。見れば、崩れる。崩れて、真実を言ってしまう。だから俺は、彼女の背後の岩壁を見る。無機物。石。俺の未来。
「信じる相手を間違えたな」
俺は冷笑した。口元だけで。内側では、泣いていた。泣き方を忘れたはずの心が、勝手に泣いていた。
レナの瞳に、怒りが灯る。怒りと、悲しみと、軽蔑。彼女の正義が、俺に刃を向ける準備を始める。
「……次に同じことをしたら、私はあなたを――」
「裁く?」
俺は言葉を奪うように続けた。
「いいね。勇者様らしい」
レナの頬が僅かに赤くなる。怒りで。悔しさで。彼女は拳を握りしめ、震える息を吐いた。
「あなたは……最低だ」
その一言で、俺の中の何かが静かに折れた。
最低。そうだ。最低でいい。最低でなければ、彼女は俺を許してしまう。許しは、死刑執行書に署名する手を鈍らせる。
俺は軽く手を振った。
「正義ごっこは終わりだ、レナ」
口にした瞬間、胸の奥で別の声が叫ぶ。
――終わってほしくない。
言葉にはしなかった。できなかった。喉の奥に、未来が詰まっている。言葉を吐けば、未来が溢れて、彼女が溺れる。
レナは背を向けた。肩が小さく震えている。泣いているのかもしれない。怒りで震えているのかもしれない。どちらでも、俺のせいだ。
彼女が仲間の方へ戻っていく背中を見ながら、俺は袖の中で指を握り締めた。感覚のない指が、空を掴む。
石化は、静かに進んでいる。俺の身体を、俺の言葉を、俺の未来を、少しずつ奪っていく。
それでも、奪われていい。
彼女の首に縄がかかる未来だけは、奪わせない。
俺は息を吐き、血の滲む肩を押さえた。痛みが遅れて押し寄せ、視界が揺れる。だが、倒れるわけにはいかない。倒れれば誰かが支える。支えれば、距離が縮まる。縮まれば、言葉が漏れる。
俺は歩き出す。重い足を引きずりながら。
背中に、レナの冷たい視線が刺さっているのを感じた。
その視線が、いつか刃に変わることを願いながら。願うこと自体が、どれほど醜いかを知りながら。
俺は、悪役の仮面を、さらに深く被り直した。
不正は、紙の上から始まる。
軍の経理室で俺が扱うのは、剣でも魔法でもなく、印章と帳簿と、そして人間の欲望だ。腐った王国では、金が血より速く流れる。だから俺は、血の匂いを嗅ぐ前に金の流れを嗅ぎ分ける術を身につけた。
帳簿の端に付いた指の汚れを、俺は布で拭う。拭ったところで、汚れが消えるわけじゃない。見えなくなるだけだ。人間の罪も同じだ。
机の引き出しから、封蝋の付いた小袋を取り出す。中身は銀貨ではない。銀貨より軽く、銀貨より人を殺す――偽造された支払命令書だ。軍の備蓄を横流しした形跡を、俺が「作る」ためのもの。真犯人は別にいる。だが、俺がそれを暴けば、未来が変わる。レナが死ぬ。
未来予知の呪いは、親切に「正解」を教えてくれない。教えてくれるのは、結果だけだ。半年後、王都の広場で、勇者が味方に処刑される。処刑台の木目、縄の擦れる音、群衆の唾の飛び方まで、俺の脳は嫌になるほど鮮明に記憶している。
だから俺は、結果を変えないために、原因をこちらから作る。
俺が悪役になる。勇者が俺を討つ。民意と正当性を彼女に与える。彼女が「裁いた」という事実が、王都の刃を鈍らせる。――そういう計算だ。
計算。合理。冷徹。金と権力の亡者。
その仮面は、俺の顔に癒着している。
指先が、わずかに痺れた。紙を押さえる力が、ほんの少しだけ抜ける。痺れは、石化の始まりの合図だ。四肢の感覚が薄れていくのに、痛みだけは鋭く残る。神経が焼けるみたいな痛みが、骨の奥から突き上げる。
俺は深呼吸して、痛みを喉の奥に押し込めた。誰にも見せない。見せた瞬間、誰かが「心配」する。心配は、言葉を引き出す。言葉は、未来を変える。
レナを殺す。
だから黙る。黙って、悪人を演じる。
偽造命令書に署名を入れる。筆跡は俺のものではない。だが、鑑定官が見れば「似ている」と言う程度には寄せてある。腐敗した王国では、真実より「それらしい」が優先される。
封を閉じると、紙が乾いた音を立てた。まるで棺の蓋だ。
その日の午後、俺は勇者のパーティに「参加」することになった。
正確には、軍の上層部がそう決めた。勇者の監視役。経理官のくせに前線へ。理由は簡単だ。俺が金の流れを握っているから。俺を近くに置けば、誰かが安心する。あるいは、誰かが俺を消したい。
どちらにせよ、俺にとっては好都合だった。
レナの一行が詰めている宿舎へ向かう廊下で、俺は足取りをわざと重くした。石化の進行で本当に重いのだが、理由は別にする必要がある。
「……また太ったのか、アルト」
すれ違った兵士が笑う。俺は肩をすくめた。
「贅沢が趣味でね。働き者にはご褒美が必要だろ」
返した声は軽い。軽すぎて、自分でも腹が立つ。だが、こういう軽さが人を遠ざける。遠ざければ、守れる。
扉を叩くと、すぐに中から声がした。
「どうぞ!」
扉を開けた瞬間、部屋の空気が変わった。清潔で、まっすぐで、眩しい。勇者の周りには、そういう空気が集まる。彼女自身が光源みたいなものだからだ。
レナは机に地図を広げていた。金色に近い淡い髪が肩に落ち、目は真剣に地形を追っている。俺の気配に顔を上げた瞬間、その瞳が一瞬だけ柔らかくなった。
「アルト! 来てくれたんだね。軍の人たち、あなたを寄越すなんて……」
その柔らかさが、胸の奥を刺した。
彼女は、まだ俺を信じている。少なくとも、信じたいと思っている。
その信頼を、俺はこれから踏みにじる。
喉の奥が熱くなった。泣きそうになるのを堪えて、俺は笑った。冷たく、計算された笑みだ。
「俺がいれば金勘定ができる。勇者様の旅も、帳簿がなければ破綻する」
「そんな言い方……」
レナの眉が少し寄る。彼女は正義感が強い。金を口にするだけで顔をしかめる。俺はそれを知っていて、わざとやる。
彼女の隣にいた剣士が俺を見下ろした。筋肉質で、目つきが鋭い。俺のような事務屋を信用していない顔だ。
「経理官が前線に来て何をする。足手まといになるなよ」
「足手まといにならないよう、指示だけは的確に出すさ」
俺は地図に目を落とす。視線を合わせると、彼女の温度に溶かされる。溶けたら最後、言葉が漏れる。真実が漏れる。未来が崩れる。
地図の上に指を置いた瞬間、指先の感覚が薄いことに気づいた。紙のざらつきが、遠い。代わりに、骨の奥の痛みが近い。俺は指を引っ込め、袖の中で握り締めた。
「今回の任務は?」
俺が問うと、レナは地図の一点を指した。
「北の街道沿いの補給隊が、何度も襲われてる。魔物じゃなくて、人間の盗賊団。しかも動きが妙に正確で……軍のルートが読まれてるみたいなの」
――読まれている。そうだろう。軍内部にスパイがいる。
俺は頷いた。頷きながら、同時に計算する。盗賊団の規模。襲撃の時間帯。地形。逃走経路。補給隊の速度。勇者パーティの戦力。俺の足の遅さ。石化の進行。痛みの波。
そして、囮作戦の条件。
スパイを炙り出すには、「漏洩した」と思わせる情報が必要だ。だが本当に漏洩すれば、レナたちが死ぬ可能性がある。死なせない。ギリギリで助かるようにする。助かれば、スパイは「情報が正しかった」と確信する。次の手を出す。そこを掴む。
問題は、レナにどう映るかだ。
――卑怯者。金で売った裏切り者。
それでいい。彼女が俺を憎めば、半年後に俺を裁く刃が鈍らない。
俺は口角を上げる。
「軍のルートが読まれているなら、答えは簡単だ。ルートを変える。あるいは、変えるふりをする」
「ふり?」
レナが首を傾げる。俺は地図の別の道を指した。
「ここ。崖沿いの旧街道。危険だから使われていない。だが、補給隊が通ると見せかければ盗賊は必ず食いつく。そこで叩く」
「危険だから使われてないんだよね? 補給隊が通ったら……」
「通らせない。囮だ。空の荷車に兵を乗せ、護衛を厚くする。勇者様がいれば、盗賊程度は掃討できる」
剣士が鼻で笑う。
「空の荷車? そんな手間をかけて何になる」
「内部の情報漏洩を疑っているなら、手間を惜しんで死ぬよりマシだろ」
俺は淡々と言った。淡々と。感情を殺して。
レナは少し考え、頷いた。
「……わかった。危険でも、誰かが止めないと被害が増える。やろう」
その決断の速さが、彼女らしい。正義のためなら危険を選ぶ。だからこそ、彼女は利用される。だからこそ、俺が守らなければならない。
守るために、壊す。
翌朝、俺たちは旧街道へ向かった。崖沿いの道は狭く、下を見れば霧の谷が口を開けている。風が冷たく、岩肌を舐める音がする。荷車の車輪が石に跳ね、木が軋む。
俺は荷車の脇を歩きながら、呼吸を数える。足の感覚がまた薄れてきている。膝から下が、自分のものではないみたいだ。だが顔には出さない。出せない。
「アルト、大丈夫? 顔色が……」
レナが隣に並び、囁く。心配の声。優しい声。俺の喉をこじ開けようとする声。
俺はわざと肩を揺らし、笑ってみせた。
「さっき言っただろ。贅沢で太った。坂道が辛いだけだ」
「太ったって……そんなに食べてないでしょ、あなた。軍の食堂、質素だし」
彼女は真面目に突っ込む。俺は視線を逸らし、崖の向こうを見た。霧の中に、未来が見える気がした。処刑台。縄。彼女の首。
「質素だからこそ、外で贅沢するんだよ。金はある」
わざと嫌味に言うと、レナは唇を結んだ。小さな失望。小さな距離。いい。距離は必要だ。
旧街道の途中、開けた岩場に出た。そこは待ち伏せに最適だった。左右は岩壁、前方は曲がり角、背後は崖。逃げ場がない。
俺は、ここで来ると読んでいた。読ませたのだから。
荷車が岩場に差しかかった瞬間、矢が飛んだ。空気が裂ける音。荷車の板に矢が突き刺さり、木片が跳ねる。
「伏せて!」
レナの声が鋭く響く。彼女が前に出る。盾役のように、自然に。勇者の身体は、誰かを守るために動くようにできている。
盗賊たちが岩陰から現れた。数は――十二。弓が四、剣が六、斧が二。統率された動き。盗賊にしては訓練されすぎている。軍の匂いがする。
剣士が抜刀し、魔法使いが詠唱を始める。レナは光を纏う。彼女の聖剣が淡く輝き、岩場の薄暗さを切り裂く。
戦闘は激しかったが、俺の計算通りだった。彼女たちは強い。強すぎるほどだ。盗賊たちは押され、焦りが動きに出る。
――だが、ここで終わってはいけない。
囮作戦の肝は、「情報が漏れていた」と確信させること。盗賊側に「内通者がいる」と思わせるために、俺がそれを演じる必要がある。
俺は戦闘の最中、荷車の影に身を寄せ、懐から小さな布包みを取り出した。中には、金貨が数枚と、軍の印章を模した偽物。そして、わざと目立つように作った「ルート変更の指示書」。本物の情報は別にある。これは捨て駒だ。
俺は岩陰にいる盗賊の一人に視線を送る。合図。彼は一瞬だけ頷いた。――こいつが連絡役。軍内部のスパイと繋がっている可能性が高い。
俺は包みを地面に滑らせ、彼の足元へ転がした。
その瞬間、レナの視線が俺に突き刺さった。
彼女は戦いながら見ていた。俺の手元を。俺の仕草を。勇者の目は、正義のために鋭い。
「……アルト?」
呼びかけは、疑念の音を含んでいた。
盗賊が包みを拾い、懐に入れる。次の瞬間、彼は撤退の合図を出した。盗賊たちは煙玉を投げ、白い煙が岩場に広がる。
「逃がすな!」
剣士が叫ぶ。レナが追おうとする。だが煙の中、矢が再び飛ぶ。狙いは――レナ。首筋。致命点。
俺の脳が、時間を引き延ばした。矢の角度、速度、風。レナの踏み込み。間に合わない。
俺は身体を動かした。
石のように重い足を、無理やり前に出す。痛みが爆発する。膝が砕ける感覚。だが構わない。構わない、はずだった。
矢が俺の肩を掠めた。肉が裂ける熱。血が温かい。俺は息を呑んだが、声は出さなかった。
レナが振り返り、目を見開く。
「アルト! 今……」
「大したことない」
俺は即座に言った。即座に。痛みより速く。
煙が晴れ始め、盗賊たちは崖沿いの細道へ消えていく。追えば追える。だが追えば、今度は別の罠がある。俺は知っている。予知ではない。単純な合理だ。彼らは撤退路を用意している。
レナが追おうとした瞬間、俺は彼女の腕を掴んだ。
掴んだはずの手の感覚が薄い。彼女の温度が、遠い。なのに、彼女の脈だけがやけに強く伝わってくる気がした。
「追うな」
「でも――!」
「崖だ。煙の中で足を滑らせたら終わりだ。補給隊を守るのが目的だろ」
俺は冷たく言い切った。正論は、人を縛る鎖になる。レナは唇を噛み、悔しそうに拳を握った。
盗賊は逃げ切った。俺の計算通り。――いや、「計算通り」という言葉は、あまりにも傲慢だ。俺はただ、彼女が死なない範囲で最悪を選んだだけだ。
戦闘が終わり、岩場に静けさが戻る。兵たちが負傷者を確認し、荷車の点検をする。血の匂いが漂う。
レナは俺の前に立った。彼女の瞳は、さっきまでの光とは別の冷たさを帯びている。
「……今、あなた、何を渡したの?」
その問いは、剣より鋭い。
俺は一瞬、答えそうになった。真実を。囮だと。スパイを炙り出すためだと。あなたを守るためだと。
言えば、彼女は理解するかもしれない。怒りは消えるかもしれない。信頼が戻るかもしれない。
戻ってはいけない。
信頼が戻れば、半年後、彼女は俺を裁てない。裁てなければ、彼女は王都で処刑される。
俺の喉の奥で、言葉が焼ける。吐き出せば楽になる。吐き出せば、彼女が死ぬ。
俺は笑った。乾いた笑いだ。
「金だよ」
レナの顔が凍る。
「……金?」
「そうだ。情報と引き換えに、少しばかり稼いだ。勇者様の旅に同行するなら、危険手当が必要だろ」
自分でも吐き気がする台詞だった。だが、吐き気は飲み込む。飲み込むのは得意だ。痛みも、恐怖も、愛情も。
レナの声が震えた。
「そんな……あなた、私たちを……」
「窮地に陥れた? そう見えるか」
俺は肩をすくめた。肩の傷が痛む。石化の痛みと重なり、視界の端が白くなる。だが顔は崩さない。
「でも助かっただろ。結果が全てだ」
剣士が一歩前に出て、俺の胸倉を掴もうとした。レナが手で制した。
「……アルト。私、あなたを信じてた」
その言葉が、一番きつかった。
信じてた。過去形。俺が望んだ通りの形。なのに、胸が裂ける。
俺は彼女の目を見ない。見れば、崩れる。崩れて、真実を言ってしまう。だから俺は、彼女の背後の岩壁を見る。無機物。石。俺の未来。
「信じる相手を間違えたな」
俺は冷笑した。口元だけで。内側では、泣いていた。泣き方を忘れたはずの心が、勝手に泣いていた。
レナの瞳に、怒りが灯る。怒りと、悲しみと、軽蔑。彼女の正義が、俺に刃を向ける準備を始める。
「……次に同じことをしたら、私はあなたを――」
「裁く?」
俺は言葉を奪うように続けた。
「いいね。勇者様らしい」
レナの頬が僅かに赤くなる。怒りで。悔しさで。彼女は拳を握りしめ、震える息を吐いた。
「あなたは……最低だ」
その一言で、俺の中の何かが静かに折れた。
最低。そうだ。最低でいい。最低でなければ、彼女は俺を許してしまう。許しは、死刑執行書に署名する手を鈍らせる。
俺は軽く手を振った。
「正義ごっこは終わりだ、レナ」
口にした瞬間、胸の奥で別の声が叫ぶ。
――終わってほしくない。
言葉にはしなかった。できなかった。喉の奥に、未来が詰まっている。言葉を吐けば、未来が溢れて、彼女が溺れる。
レナは背を向けた。肩が小さく震えている。泣いているのかもしれない。怒りで震えているのかもしれない。どちらでも、俺のせいだ。
彼女が仲間の方へ戻っていく背中を見ながら、俺は袖の中で指を握り締めた。感覚のない指が、空を掴む。
石化は、静かに進んでいる。俺の身体を、俺の言葉を、俺の未来を、少しずつ奪っていく。
それでも、奪われていい。
彼女の首に縄がかかる未来だけは、奪わせない。
俺は息を吐き、血の滲む肩を押さえた。痛みが遅れて押し寄せ、視界が揺れる。だが、倒れるわけにはいかない。倒れれば誰かが支える。支えれば、距離が縮まる。縮まれば、言葉が漏れる。
俺は歩き出す。重い足を引きずりながら。
背中に、レナの冷たい視線が刺さっているのを感じた。
その視線が、いつか刃に変わることを願いながら。願うこと自体が、どれほど醜いかを知りながら。
俺は、悪役の仮面を、さらに深く被り直した。
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