鉄の心臓、茨の涙

深渡 ケイ

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第1話:茨の檻と鉄の守り人

第1話:茨の檻と鉄の守り人

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 森は、世界が忘れた祈りの残骸のように沈黙していた。雪は降らない季節だというのに、空気には白い粉のような冷たさが漂い、吐息は灰色にほどけて消える。樹々は互いの影を噛み合い、黒々とした枝先が絡み合って、空の青を細い裂け目にまで削いでいた。

 その奥、獣道さえ途切れる場所に、塔が一本だけ立っている。石は古く、苔は湿った血のように壁面に貼りつき、窓は目を閉じた眼窩のように暗い。扉は錆びた蝶番でかろうじて繋がり、風が撫でるたび、かすれた呻き声を漏らした。

 塔の中は、外よりもいっそう冷たかった。冷えが骨に届く前に、皮膚の表面で刃に変わっていくような冷たさ。薄い光が高窓から落ち、床の埃を銀に染め、壁に掛かった古い鎖の影を長く引き伸ばす。火はない。煙もない。温もりの代わりにあるのは、静けさだけだった。

 その静けさの中心に、少女がいた。

 エリスは、窓辺の小さな机に身を寄せ、古びた布を縫っていた。指先は細く、白い。冷えに赤みを奪われた肌は、蝋のように透け、脈の青が儚く浮かんでいる。髪は夜色で、肩に落ちた先が微かに波打ち、光を吸って艶を失っていた。彼女の笑みは、誰にも見せるためではなく、自分の喉元に釘を打つように作られたものだった。表情が崩れれば、何かが始まってしまうのを知っているから。

 針が布を抜けるたび、微かな摩擦音が塔の内側を撫でた。世界で唯一、生きている音のように。

 だが、針は時に裏切る。

 ほんの一瞬、指先の感覚が鈍った。寒さが、痛覚の境界を曖昧にした。針先が皮膚を掠め、次の瞬間、鋭い痛みが赤い点となって咲いた。血は、あまりに少なく、あまりに静かに滲み出た。涙よりも軽いはずの一滴が、指の腹に丸く盛り上がり、光を受けて黒い宝石のように鈍く輝いた。

 エリスの肩が、針の穴ほど小さく震えた。

 彼女は息を呑んだ。喉の奥に声が引っかかり、出すことも飲み込むこともできず、ただ冷たい空気だけが肺を満たす。目を見開いたまま、血の滴を見つめる。泣いてはいけない。叫んではいけない。怒っても、怯えてもいけない。感情は刃で、刃は他者を裂き、自分をも裂く。

 指先の赤が、床へ落ちた。

 落ちるはずだった。

 血は木の床板に触れた瞬間、まるで大地がそれを待っていたかのように、異様な速度で形を変えた。赤は赤のままではいられず、黒ずんだ芯を持つ緑へと変色し、粘り気のある光沢を帯び、脈打つように膨らんだ。静かな滴が、次の瞬間には、音を立てて裂けた。

 ぱきり、と。

 乾いた骨が折れるような音。続いて、湿った肉が裂けるような音。床板の隙間から、尖ったものが突き上がり、木を内側から破壊していく。茨だった。血の熱を吸って育つのではなく、血の罪を糧にして生まれる茨。節々に鋭い棘を持ち、棘は針よりも細く、刃よりも冷たい。

 茨は一本では終わらなかった。

 血の落ちた場所を中心に、蔓が蜘蛛の脚のように四方へ走った。床を這うだけでは飽き足らず、壁へ、机の脚へ、鎖の影へと絡みつき、石をも噛む勢いで伸びる。棘が床板を穿ち、木片が剥がれ、埃が舞った。茨はそれらを雪のように散らしながら、塔の内側を自分の檻へと変えていく。

 エリスは椅子から立ち上がろうとして、足が縫い留められたように動かなかった。恐怖が彼女を石にしたのではない。恐怖を抱くことすら、彼女には許されない。感情が膨らめば、茨はもっと増える。だから彼女は、ただ、唇の端を持ち上げた。笑う形を作る。頬の筋肉が痙攣し、涙腺の奥が熱を持つ。その熱を、氷水で押し戻すように、彼女は瞬きを繰り返した。

 冷たい。冷たい。冷たい。

 指先の痛みだけが、彼女がまだ人間であることを告げていた。

 茨は机の天板を突き破り、縫いかけの布を裂いた。布の白が棘に引き裂かれ、糸が宙にほどけ、空気に漂う。エリスは反射的に手を引いた。指から血がもう一滴、落ちそうになる。落ちたら、また増える。彼女は傷口を唇に押し当て、血の鉄の味を舌で塞いだ。温かいはずの血が、口の中で冷えていく。まるで、体温さえ罪を恐れて逃げていくみたいに。

 茨は壁際の古い棚に絡み、瓶を倒した。乾いた薬草が床に散り、香りが一瞬だけ立ったが、すぐに湿った土と錆の匂いに押し潰された。棘が石壁に突き刺さるたび、硬い音が響き、塔が呻く。窓枠にも蔓が巻きつき、細い木を締め上げ、きしむ音が悲鳴のように続いた。

 その中で、エリスだけが、声を出さなかった。

 目だけが揺れる。瞳の黒が、棘の動きに追われて小さく震える。呼吸は浅く、胸はほとんど上下しない。泣けば終わる。泣けば、ここにあるものすべてが刺される。誰もいないはずの塔の中でさえ、彼女は「誰か」を傷つける想像から逃げられない。想像の中の誰かが、棘に貫かれて倒れる。その幻が、彼女の喉を締める。

 茨はやがて、天井へも手を伸ばした。梁に絡みつき、棘が木を裂き、黒い粉が降る。灰のように。塔の中に、灰が降る。火のない灰が、呪いの証のように。

 エリスは背を壁に預け、膝を抱えた。触れた石は氷のように冷たく、薄い衣の下から骨へと沁みた。彼女の体は柔らかい。柔らかいものほど、この世界では傷つきやすい。彼女はその柔らかさを、棘を生むために与えられた器として持て余していた。

 指先の傷は小さい。だが、そこから生まれたものは、部屋を満たすほど巨大だった。

 棘の森が、塔の一室に芽吹いていく。血の色から遠ざかった緑は、やがて黒に近い深さを帯び、光を吸い込んで艶やかに濡れた。棘の先端には、赤い雫が小さく震えている。彼女の血が、茨の唇に残った名残のように。

 エリスはその雫を見つめ、瞬きを止めた。涙が溜まるのを感じる。熱い。熱いものが目の裏に溜まっていく。彼女はそれを冷やすために、舌先でまだ血の残る指を舐め続けた。鉄の味が口内に広がり、痛みが甘く痺れる。痛みだけは、感情ではない。痛みだけは、許される。

 茨の成長が、ふと、止まった。

 部屋の空気が、張り詰めた糸のように静まる。棘が動きを止めたのではなく、彼女がようやく、呼吸を取り戻したからだ。笑みはまだ顔に貼りついたまま、目だけが濡れていた。涙は落ちない。落とさない。落とせない。

 塔の中には、破壊された布と、砕けた木片と、散った薬草と、伸びきった茨が残った。生き物のように脈打つ蔓が、彼女の周囲を囲み、檻を作る。外の森の闇よりも濃い闇が、棘の隙間に溜まっていく。

 エリスはその檻の中心で、小さく息を吐いた。吐息は白く、すぐに消えた。温もりは、どこにも残らない。

 ただ、指先の傷口だけが、まだ赤く、静かに滲んでいた。


 塔の石壁は、夜の湿り気を吸って黒く汗ばんでいた。ひび割れた窓から差し込む月光は、埃の粒を銀の灰のように浮かび上がらせ、床に散る羽虫の死骸を小さな墓標に変えている。エリスの指先は膝の上で固く絡まり、爪が白くなるほどに自分の皮膚を押し潰していた。笑おうとしている唇は薄く引きつり、喉の奥で息が鳴るたび、かすかな震えが肩を揺らした。

 ガルドは彼女の少し前に立ち、扉へ向けて身体を斜めに構えていた。鉄の胸郭の奥で駆動音が低くうねり、時折、古い歯車が噛み合わないようなきしみが混じる。関節の隙間から滲むオイルは黒い涙のように床へ落ち、石の冷たさに吸い取られていった。彼の視線だけが、扉の向こうの闇をじっと掴んで離さない。まばたきのないその静けさが、かえって不吉の輪郭を際立たせた。

 外から、金属が擦れる音が来た。鎖、鎧、槍先が石に触れる乾いた響き。ついで、低い号令が風に乗る。塔の周囲で火が生まれる気配がした。木の脂が焼ける匂いが、まだ見えぬ炎の舌となって、隙間から忍び込んでくる。

 扉が震えた。重い木が、外側から殴られるたびに呻き、蝶番が泣いた。エリスの肩が跳ね、笑顔の仮面がひび割れる。彼女は唇を噛み、血の味を飲み込んだ。泣いてはいけない、と自分に言い聞かせるように、喉の奥を押し殺す。しかし恐怖は、言葉よりも先に身体を裏切る。目尻に溜まったものが、熱を帯びたまま震え、落ちる寸前で光った。

 ガルドが半歩、彼女の前へ滑るように移動した。床が僅かに軋み、彼の足裏の鉄が石を削る。駆動音が一段低くなり、獣が唸るような振動が室内の空気を揺らした。彼は振り返らない。ただ、彼女の方へわずかに肩を傾ける。その仕草は、触れられない手で背を撫でる代わりの祈りのようだった。

 次の瞬間、扉の隙間から炎が舌を差し込んだ。赤は血よりも鮮やかで、黒い木目に沿って走り、塔の中へ熱を撒き散らす。煙が押し寄せ、喉を刺す。石壁の冷たさはそのままなのに、空気だけが焼けていく。冷たい牢獄の中に、熱い死が入り込んだ。

 扉が破れた。裂けた木片が飛び、火の粉が雪のように舞った。甲冑の列が月明かりを反射しながら、塔の口へ流れ込む。彼らの顔は兜の影に隠れ、ただ目だけが獣のように光っていた。掲げられた松明は、炎というより呪いの旗だった。鉄靴が石を踏み鳴らし、槍先が空気を裂く。

「魔女を出せ」

 声が響いた。その言葉が、エリスの胸の奥にしまっていた棘を叩き起こした。彼女の呼吸が乱れ、押し殺していた震えが一気に溢れる。笑顔は崩れ、歯の間から漏れた息が嗚咽へ変わった。耐えようとするほど、涙は熱を増し、視界を曇らせる。恐怖は冷たいはずなのに、彼女の目から落ちるものは熱く、皮膚を焼くように頬を伝った。

 涙が落ちた瞬間、床の石が鳴った。湿り気が一瞬で凍るように硬くなり、その一点から黒い芽が突き出した。芽は花ではない。茨だった。血管のように脈打ちながら、鋭い棘を増やし、空気を裂いて伸びる。一本が二本に、二本が十に。泣き声に呼応するように、茨は音もなく増殖し、塔の内側を檻へ変えていく。

 エリスは叫んだ。喉が裂けるほどの悲鳴だった。止めたくても止まらない。涙が次々に落ち、そのたびに茨が生まれ、伸び、絡み合い、まるで黒い森が一夜で育つように広がっていく。棘の先端は月光を拾い、冷たい銀の刃になった。花の代わりに、毒の匂いが漂う。甘くもなく、ただ金属と腐敗を混ぜたような、舌を痺れさせる臭気。

 騎士が一歩踏み込んだ。次の瞬間、茨が彼の足首を絡め取り、引き裂くように跳ね上がった。甲冑の隙間へ棘が潜り込み、肉を探り当てる。鈍い音がして、鉄と骨が同時に割れた。騎士の身体が持ち上げられ、槍のように串刺しにされる。叫びは兜の中でこもり、血が熱い霧となって松明の炎に混じった。赤は黒い茨に吸われ、茨はさらに艶を増した。

 別の騎士が槍を突き出す。だが槍先は茨の網に絡まり、次の瞬間、その腕ごと引き寄せられた。棘が指の間、肘の内側、首の柔らかな部分へ潜り込み、甲冑の硬さが彼を守るどころか、肉を逃がさぬ檻になった。硬い鉄に挟まれた柔らかい肌が、棘のために裂ける。血が滴り落ち、床の石に染み、そこからまた茨が芽吹いた。死が、死を肥やして増えていく。

 塔の中は、火の赤と血の赤と、茨の黒で塗りつぶされていった。騎士たちは後退しようとするが、足元から茨が伸び、踵を縫い留める。逃げるほどに棘が深く食い込み、呻き声が重なって、祈りのような雑音になった。松明が落ち、茨に触れて火花を散らす。炎は茨を焼き切れない。黒い棘は燃えるより先に、火の熱を吸ってさらに硬くなり、赤い光を内側に閉じ込めた。

 エリスの身体は小さく震え、涙と鼻水と血が混じったものが唇を汚した。彼女は自分の両腕を抱きしめ、爪で肌を引っ掻く。痛みで泣き止めるかもしれないと、どこかで思ったのだろう。だが痛みは恐怖を追い出さず、ただ涙を濃くした。彼女の足元で茨がさらに盛り上がり、床を割り、石の冷たさを突き破って伸びる。その棘の一本一本が、彼女の感情の破片だった。

 ガルドは動いた。彼は騎士ではなく、まず彼女の前へ身を滑り込ませた。茨が彼の脚へ絡みつく。棘が鉄の表面を掻き、細い音を立てる。触れた瞬間、鉄が変色した。銀灰だった脚部に、茶色い斑点が咲く。錆が花のように広がり、腐食が皮膚の代わりに剥がれ落ちる。オイルが滲み、黒い筋となって流れた。だが彼は止まらない。駆動音が一瞬高く跳ね、痛覚の代わりに、機械の悲鳴が室内を震わせた。

 彼は腕を広げ、エリスと騎士たちの間に盾のように立った。茨が彼の胴へも這い上がり、胸板の隙間に棘を差し込む。鉄が軋み、内部で何かが削れる音がした。彼の視線が僅かに揺れ、エリスの顔を探す。泣き濡れた瞳と、鉄の無表情が交わるその一瞬、ガルドの駆動音がほんの少しだけ柔らかくなった。慰めの言葉の代わりに、彼は自分の身体を差し出した。

 茨は騎士たちをなおも刺し貫き、塔の入口を屍の門に変えていく。甲冑が串のように吊り上げられ、血が滴り、煙と混ざって灰色の霧を作った。外からはさらに足音が迫り、火の匂いが濃くなる。塔は燃え、石は熱を含み始め、冷たさと熱さが同じ空間で互いを噛み合った。

 エリスの喉は枯れ、叫びは嗚咽へと崩れた。それでも涙は止まらない。彼女はガルドの背に手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。触れれば、彼がもっと腐る。触れられない指先が空を掴み、震え、落ちる。落ちた涙がまた茨を生み、彼の足元に黒い輪を広げた。

 ガルドはその輪の中で、錆びながら立ち続けた。鉄の身体に咲く腐食の花は、火の赤に照らされて不気味に美しい。彼のオイルは床へ滴り、血と混ざり、黒い池を作る。池の表面に火の粉が落ち、じゅっと音を立てて消えた。冷たい石の上で、熱い死が静かに踊っている。

 塔の外で、誰かが新しい松明に火を移した。炎の列が、夜の闇を押し潰すように揺れた。茨の檻はさらに伸び、入口を塞ぎ、騎士の死体を飾りに変えた。だがその檻の中心にいる少女は、泣くほどに自分を縛り、守り人は守るほどに腐っていく。

 火と血と錆と涙が混ざった空気の中で、ガルドの駆動音だけが、低く、途切れず鳴り続けた。まるで、言葉にならない誓いを、鉄の心臓で刻むように。


 地下は、冬の墓穴のように冷えていた。崩れた石積みの隙間から吹き込む風は灰を運び、古い戦の匂い――煤と鉄と乾いた血――を撫でて通り過ぎる。壁には焼けた紋章が剥がれ落ち、床には鎖の影が絡まり合っていた。茨の檻は、ここにまで根を伸ばしている。黒い棘が石を割り、錆びた杭に巻きつき、まるで地下そのものが痛みを覚えているかのように脈打っていた。

 その檻の中心に、少女がいた。

 エリスの膝は震え、指先は白く固まっている。笑おうとして、唇だけが歪む。泣いてはいけないと、喉の奥で何度も言い聞かせた痕が、呼吸の浅さに残っていた。だが炎が上から落ちてきた。天井の裂け目から、崩落とともに火が舌を伸ばし、乾いた木片と布切れを舐め、赤い光が地下の闇を裂いた。

 熱が頬を叩いた瞬間、堪えきれなかったものが睫毛の縁から溢れた。

 一粒。透明で、温い。

 それが頬を滑り落ちた途端、涙はただの水ではなくなった。微かな光を孕み、肌の上で冷えて、針のような痛みを残しながら結晶めいた棘へと変わる。棘は彼女の鎖骨のあたりから芽吹き、呼吸に合わせて伸び、伸びるたびに肉の内側を裂いた。血は薄く、しかし鮮やかに、雪のない冬の花のように肌を染めた。

 棘は外へ向かって暴れた。石を削り、鎖を裂き、空気そのものを刺す。近づくものを拒むための、致死の花。

 その時、檻の外れ――崩れた柱の陰に横たわる鉄の塊が、わずかに震えた。

 古代の廃棄兵器。胸に埋め込まれた心臓部は、長い眠りの間に灰を噛み、錆を抱いていた。関節は固着し、装甲は剥がれ、刻印は読めないほど摩耗している。だが、涙が棘になる瞬間に生まれた魔力の波が、地下の冷気を押しのけてそこへ触れた。

 最初は、音だった。

 深い井戸の底で石が鳴るような、低い駆動音。沈黙の中にひと筋の震えが走り、鉄の胸が内側から叩かれる。次に、鈍い光が眼窩の奥で灯った。煤に汚れたガラス越しの、青白い灯火。まるで凍った夜明けが、忘れられた機械の中に差し込むように。

 ガルドの指が動いた。石屑を掴み、砕き、ゆっくりと身体を起こす。軋む音が骨のない身体から漏れ、錆が擦れるたびに粉が舞った。胸部の板金の隙間から、古いオイルが一筋、黒い涙のように垂れた。

 炎が近くで爆ぜ、熱が装甲を焼いた。鉄は熱を受けて赤くはならない。ただ、冷たさを失い、痛みの代わりに歪みを覚える。だが彼は引かなかった。灯った眼が、檻の中心の少女を捉える。視線は揺れた。迷うように、確かめるように、そして次の瞬間、迷いを切り捨てるように一直線になった。

 彼は立ち上がり、歩き出した。

 一歩ごとに床の灰が舞い、足跡が黒く残る。茨の棘が彼の前で蠢き、警告のように空を裂いた。だがガルドは腕を上げ、盾のように胸を晒し、少女へと距離を詰める。焼け落ちた梁が落ちてきて肩を叩き、火の粉が関節に入り込む。駆動音が一瞬高くなり、次いで低く落ち着いた。恐れを知らぬのではない。恐れを、命令の下へ押し沈めている音だった。

 エリスは息を呑んだ。笑顔を作る余裕はもうない。唇が開き、声にならない震えが漏れた。目の縁に溜まった湿り気が、次の棘を呼びそうになる。彼女は両腕で自分を抱きしめ、肩を縮めた。近づくな、と言いたいのに、言葉は喉で凍ったままだった。

 ガルドの手が伸びる。

 指先は硬い。冷たい。人の肌を知らぬまま鍛えられた鉄の指は、それでも慎重に空気を掬うように動いた。抱き上げるための形を作ろうとする。だが、その動きが茨を刺激した。

 棘が跳ねた。

 黒い矢のような茨が、ガルドの前腕に突き刺さる。金属を裂く甲高い音が、地下に響いた。装甲の表面が削れ、そこから白い地金が覗く。次の棘が肘の継ぎ目に潜り込み、毒のように腐食が走った。錆が、まるで血管に流れ込む病のように広がり、関節が一瞬ぎくりと止まる。

 それでも彼は腕を引かなかった。

 駆動音が乱れ、喉のない胸から短い機械音声が漏れた。意味を持たないはずのノイズが、ひどく切実に聞こえる。オイルが傷口から滲み、黒い滴が床に落ちるたび、炎の光を吸って鈍く光った。

 エリスの目が大きく開かれる。棘が彼を殺す。自分の涙が、彼の身体を腐らせる。理解が遅れてやってきて、胸の奥を締めつけた。泣きたくない。泣けばもっと棘が増える。けれど、泣きたいほどに――

 ガルドは彼女の視線の揺れを見た。灯火の眼が一瞬だけ細くなる。躊躇いではない。彼女の恐怖を受け止めるための、静かな調整のような揺らぎだった。彼は片膝をつき、少女と同じ高さまで降りる。熱で歪んだ空気の中、鉄の額が僅かに傾いた。触れずに、触れるように。距離の中で、守る意思だけを差し出す仕草。

 そして、もう一度、腕を伸ばした。

 今度は、棘が伸びるより速く。炎が背後で唸り、天井が崩れ、灰が雪のように降る。ガルドの腕は茨に削られながらも、少女の背中の後ろへ回り込む。棘が肩甲骨のあたりをかすめ、血が薄く流れた。彼はその血に触れぬよう、指の角度を変えた。硬い指が、布の端だけを掴む。肌に触れない抱擁。熱を伝えない温もり。

 棘がさらに突き立ち、胸板に深く食い込む。腐食が広がり、金属の表面が花弁のように剥がれ落ちる。錆は赤褐色の雪となって舞い、彼の足元に積もった。駆動音が苦しげに震え、それでも止まらない。

 ガルドはエリスを持ち上げた。

 軽すぎる重みが、鉄の腕に乗る。少女の体温が布越しに伝わりそうで、伝わらない。彼の胸は冷たいまま、彼女の震えだけが近くなる。エリスは息を詰め、目を閉じた。自分の棘が彼を削る音が、刃を研ぐ音のように耳を刺す。痛みを知っているのは彼のはずなのに、痛みは彼女の中で膨らんだ。

 ガルドは一歩、炎から遠ざかる方向へ踏み出す。茨が追いすがり、装甲を裂き、錆を咲かせる。だが彼は進む。守るために造られた鉄の身体が、守ることで死に近づいていく。その残酷な対比が、炎の光の中で絵のように浮かび上がった。

 少女の頬に、新しい涙が生まれかける。ガルドの眼がそれを捉え、ほんの僅かに首を振った。言葉のない拒止。泣かないで、ではない。泣いてもいい、と言えない代わりに、泣かせないように運ぶという決意。

 彼の胸の隙間から、黒いオイルがまた一筋落ちた。床の灰に染み込み、まるで誰にも見えない血痕のように広がる。エリスの棘はなおも暴れ、彼の鉄を削り続ける。それでも、彼の腕は揺れない。冷たい鉄が、温かい命を抱えたまま、炎と茨の檻を抜けていく。


 塔はまだ燃えていた。夜の骨格を赤く透かし、崩れ落ちる梁が火の舌に舐められるたび、乾いた悲鳴のような爆ぜ音が雪の闇へ散った。煤は灰の花粉となって降り、エリスの睫毛に薄い影を結ぶ。彼女の頬は笑みの形を保っているのに、指先だけが、凍えた小鳥のように震えていた。

 ガルドは彼女の前に立ち、背を向けかけて、すぐに止まった。肩甲の装甲がきしみ、駆動音が一瞬だけ高くなる。背負うという動作の影——それが、彼の鉄の背に茨を招き入れることを、鉄が先に知ってしまったかのようだった。

 エリスの足元、薄布の裾の下で、茨は眠りきれずにいる。涙をこらえた喉の奥の熱が、肌の内側を撫でるたび、皮膚の下で細い痛みが芽吹く。彼女が一歩踏み出すと、その痛みは根を張ろうとする。目に見えない棘の気配が、彼女の周囲の空気をわずかに硬くした。

「背中、貸してやれよ」

 頭上から、煤にまみれた声が落ちた。カラスが燃える塔の残骸に止まり、炎を映した目で二人を覗き込んでいる。黒い羽根の縁が赤く縁取られ、まるで血で染めた羽根飾りのようだった。

 ガルドは顔を上げた。眼窩の奥の淡い光が、揺れた。次の瞬間、彼はゆっくりと首を横に振る。関節が擦れる音は、雪の上で刃を研ぐように冷たい。胸の奥で、鉄の心臓が一拍だけ重く鳴った。命令の機構が、欲望のバグに引き裂かれかけている音だった。

 エリスは笑った。笑いは薄く、割れやすい硝子の膜のように、唇の上に張りついた。

「大丈夫。歩けるから」

 言葉が出た瞬間、彼女は自分の声に驚いたように瞬きをした。泣いてはいない。泣いていないのに、目の奥が熱い。熱は涙になり、涙は茨になる。彼女はその変換の速さを知っている。だから、笑う。笑って、喉の奥の熱を押し戻す。

 ガルドは一歩下がった。雪が圧され、鈍い音がした。彼は彼女に近づけないのではない。近づけば、彼の鉄は腐り、彼女の呪いはさらに強くなる。それを理解しているのに、理解していないふりをするように、彼の視線は彼女の足元を追った。裸足ではない。粗い靴がある。それでも、彼女が踏むたびに雪が赤くなる幻が、彼の視界の端でちらつく。

 彼は右腕を上げ、掌を開いた。触れない距離で、彼女の肩の高さに、壁のような影を作る。彼女が転べば受け止めたい——だが受け止めれば棘が刺さる。だから彼は、受け止めるのではなく、転ばせないための風除けになることを選ぶ。鉄の体が彼女の前方の冷気を受け、雪混じりの風を砕く。

 エリスはその影に気づき、ほんの少しだけ歩幅を揃えた。揃えた瞬間、胸の奥に温かいものが湧き上がり、すぐに恐怖がそれを押し潰した。温かさは涙を呼ぶ。涙は棘を呼ぶ。彼女は唇の端をさらに持ち上げ、笑みを深くすることで、感情の泉に蓋をした。

 カラスがくつくつと喉を鳴らした。

「抱いてやれない守り人。いいねえ、泣ける」

 ガルドは返事をしない。返事の代わりに、足元の瓦礫を踏み砕いた。砕けた石の粉が舞い、灰と混じって白い霧になる。彼の駆動音が低く落ち、怒りのようにも、焦りのようにも聞こえた。だがその怒りは、カラスではなく、己の無力へ向いている。

 塔の門を抜けると、燃える光は背後に押しやられた。世界は急に冷たく、静かになった。雪原が広がり、月は薄い刃のように雲の腹を切っている。遠くの木々は黒い骨、凍った川は銀の傷跡。滅びの美しさが、何事もなかったかのように横たわっていた。

 二人の間には、手を伸ばせば届く距離がある。だがそれは、刃の幅ほどの隔たりでもあった。エリスが息を吐くたび、白い息がその隔たりを渡りかけて、途中でほどけて消える。ガルドの吐く蒸気は、鉄の口元から短く噴き、すぐに凍りついて細かな霜となり、顎の装甲に貼りつく。

 エリスは一度だけ、背後の塔を振り返った。燃える光が彼女の瞳に映り、そこに涙の膜が一瞬だけ張った。彼女はすぐに瞬きをして、膜を破った。破れたものが落ちる前に、笑みで押し留める。

 そのとき、彼女の袖口から、細い棘が一本だけ覗いた。血の色を持たない、青白い茨。生まれたばかりのそれは、雪の光を受けて儚く輝き、次の瞬間には彼女が指で押し戻した。皮膚の下に戻る棘は、戻りながら彼女の肉を裂き、わずかな赤が袖の内側に滲んだ。

 ガルドの視線がそれを捉えた。眼の光が揺れ、胸の駆動が一拍乱れる。彼は歩みを止めかけ、しかし止まらない。止まって彼女に近づけば、彼女は「大丈夫」と笑い、笑いの裏で泣くだろう。泣けば棘が増える。増えれば彼は腐る。だから彼は、止まらない。止まらずに、彼女の歩調のわずかな乱れを読み取り、次の一歩の着地点を先に踏み固める。雪を圧し、滑りを殺し、彼女が足を取られぬように道を作る。

 触れられない手が作る、触れられるべき道。

 カラスは二人の上を旋回し、灰の匂いをくちばしに残したまま言った。

「世界の最果てってのはな、あんたらみたいなのが辿り着く場所じゃない。辿り着いたって、何もない」

 エリスは返さない。返せば、声が震える。震えれば涙が出る。彼女はただ、笑みの仮面を月光に晒しながら歩く。頬の筋肉が痛み、唇の端が切れそうになる。笑うことが、こんなにも痛い行為だと、追放される前は知らなかった。

 ガルドの足音は一定だった。鉄と雪が擦れる音、関節の軋み、胸の奥の規則正しい鼓動。だが時折、その規則がほんのわずかに乱れる。エリスが転びそうになるとき。棘の気配が濃くなるとき。彼女の笑みが薄くなるとき。彼の機械は、彼女の心の揺らぎに反応してしまう。

 雪が深くなり、エリスの歩みが重くなる。膝が笑い、足首が冷え、靴の中で指が痺れる。彼女は転びそうになり、反射的にガルドへ手を伸ばしかけた。指先が空を掴み、すぐに引っ込む。触れたいという衝動は、毒のように甘い。

 ガルドはその瞬間、彼女の前に半歩だけ身を滑らせた。触れない距離で、彼女の進行方向に自分の体を差し入れる。彼女が倒れるなら、彼の肩ではなく、彼の影に倒れればいい。影は刺されない。影は腐らない。

 エリスは影に膝をつき、雪がふわりと舞った。冷たさが布越しに骨へ染みる。彼女は笑いながら息を吐き、吐いた息が震えた。震えは涙を呼びそうになり、彼女は歯を食いしばって、笑みを固めた。

 ガルドは動かない。助け起こす腕を、上げない。上げれば触れてしまう。代わりに、彼は自分の外套の端——錆びた鎖で留められた粗布——をゆっくりと引きずり、彼女の手の届くところへ落とした。布は雪を吸い、すぐに冷たい重みを帯びる。それでも、直接の肌よりはましだ。彼の行為は、触れられない愛の形を、布一枚の距離に押し込める。

 エリスはその布を掴んだ。指先が冷え、布の粗さが皮膚を削る。だがその擦過の痛みが、逆に彼女を現実へ繋ぎ止めた。彼女は布を頼りに立ち上がり、ガルドの視線を見た。鉄の眼差しは、動かないのに、どこか怯えているように揺れていた。

 彼女は頷いた。ありがとうと言わない。言えば、胸がいっぱいになって泣いてしまうから。ありがとうの代わりに、笑う。笑って、また歩く。

 燃える塔は遠ざかり、赤い光は雪の地平に飲まれていく。灰はやがて降り止み、代わりに、無垢な雪だけが降り始めた。白はすべてを覆い隠し、血も、錆も、茨も、いまはまだ見えない。

 それでも、ガルドの関節の隙間には、見えない腐食が静かに忍び込んでいる。エリスの胸の奥には、抑え込まれた涙が黒い水位を上げている。二人は一定の距離を保ち、互いの温度を奪い合うことも与え合うこともできないまま、ただ同じ方向へ進む。

 雪原に残る足跡は二列。並んでいるのに、触れない。並んでいるからこそ、残酷に美しい。

 そしてその足跡の先に、世界の最果てが待っている。何もない場所か、すべてが終わる場所か、あるいは、触れられないまま触れ合うための、最後の檻か。二人はそれを知らず、知ることを恐れ、燃える塔を背にして歩き続けた。


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