【改稿版】光を忘れたあなたに、永遠の後悔を

桜野なつみ

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第5話 紅き誓い

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国境は“疫病対策”の名で閉ざされた。
セラフィムの外交官と商人は順次退去を命じられ、残されたのはルシエルで家を持つ者だけ。
彼らが運ぶ私信が、しばらくは唯一の橋だった――

「フィアナ様は大事なくお過ごしです」
「光草は確かに効いています」

そんな細い橋も、ここ数月は途切れがちだ。
宛名に王妃の名がある手紙ほど、途中で見えなくなる。

風の精霊は、滅多に使われることのない“緊急の伝令手段”だった。
王家の血に強く馴染む個体だけが応じ、願って呼べるものではない。
セラフィムでも十年に一度使うかどうか――それほど稀な術だ。

セラフィム王国の王弟カリスは、対のブローチに返る妹の翡翠ペンダントの『呼吸(いき)』が痩せ、途切れがちになった瞬間、すぐさま風の精霊を呼び出した。

カリスの持つ対のブローチは、フィアナのペンダントが刻む『呼吸(いき)』を映す。
鼓動の強弱や所在を知らせるだけの素朴な響き――生死までは断じて量らない。
ゆえに彼は、これまで“平常”に灯された微かな脈を信じ、踏みとどまっていた。

フィアナの持つペンダントは、ただの装飾品ではない。



フィアナが嫁ぐ前の日――

「これは、セラフィム王家の秘宝だ。王家の光の魔力を注がねば、ただの翡翠にすぎん」
そう言って、兄カリスは小さなペンダントを差し出した。

「もしもの時、お前を必ず守ってくれる。だから――身からは絶対に離すな」

「……お兄様、これ、何重に封が?」

翡翠の奥に漂う魔力の層を覗き込みながら、フィアナが不思議そうに眉をひそめた。

「ええと……一、二、三……わたくし、四重までしか見えませんわ」

「六重だ」
カリスは少し鼻を鳴らして笑った。

「念には念を。お前に渡すものだ、当然だろう」

「過保護ですわね」
フィアナは小さく笑い、けれどその手はそっと、ペンダントを大切に包み込んだ。

「ありがとう、お兄様。……この石が、私の“希望”であってくれますように」

「それは、お前が“希望”を捨てない限り、必ず応えてくれる」

「ええ、決して希望は捨てません。」

ふわりと微笑むフィアナとペンダントが呼応し、光の精霊が現れて祝福の花びらを降らせる。
その美しい光景を、カリスは対となる自分のブローチを見るたび思い出す。



しかし今、ペンダントは主の命の鼓動とともに消えていくかのように、魔力を注いでも呼応しなくなっていた。

「……フィアナ……」

その名を口にしたカリスの声は、押し殺した怒りと焦燥に満ちていた。

すぐさま、風の精霊にルシエル王都宛ての緊急文を託す。

この時点でカリスは、王都を包む“闇”の存在をまだ知らない。
翡翠の『呼吸(いき)』の異常――それだけが、手掛かりのすべてだった。

(後に知るのだが)風は黒霧に阻まれにくい。
重い空気の底でも薄皮一枚の隙を縫い、短い言葉だけは運べる――ゆえに“緊急伝令”が成り立ったのだ。

風の伝令は長文を運べない。
要件はひとつだけ――『異変の有無と王妃の現状を報せよ』。

だが、返ってきたのは――

「王妃殿下は静養中。特に問題は確認されず」

ここ数月、公文は遅れつつも届いていた。だが妹の直筆は絶え、王都発の報せはどれも「静養中」で揃っていた。
外交は表向き続く――しかし文は、おそらく、誰かの手で改ざんされている。

緊急伝令への返書でさえ、氷のように冷たかった。

「……嘘だ」

カリスがその伝達文書をグシャリと潰す。

「だったら、なぜ対のブローチが“翡翠の沈黙”を告げた……!」

その瞬間、部屋の扉が激しく開かれた。

「殿下! 砦より急使です!」

叫ぶ衛士と入れ替わるように、ひとりの男が飛び込んできた。
泥と血にまみれた女性を腕の中に抱え――

「……ルーク!?」

「カリス殿下、伝令を使用すべきかと存じましたが、急使転移陣を利用させていただきました! 申し訳ありません。」

「よい、何があった?」

「は…実は……」

「…るーく、まって…わたしから…殿下……これを……」

かすれる声と共に、女性が掲げたのは――あのペンダント。

「それは……お前は、エマか!?」

頷く彼女の顔は蒼白で、唇はかすかに震えていた。

「お願いです……フィアナ様を……!」

それは、命を削って紡がれた祈りだった。

渡された翡翠は、ほのかに温かかった。
国境を越えた途端、纏わせてあった“平常”の光が剝がれ、対のブローチにはじめて“真の沈黙”が返った――それが、カリスに届いた合図だった。

カリスは直ちに急使転移陣の構築を命じ、最短座標を国境の砦へ設定した。



限界であったエマの身体を横たえさせると、ルークが代理で経緯を語り始めた。
その間、カリスは一言も発さず、ただ静かに立ち上がり甲冑棚の前に立つ。

棚の上段から、肩当て、胸当て、腕当て――一つひとつを丁寧に装着していく。
まるで、儀式のような静けさの中に、ひたひたと怒りの熱が広がっていく。

ルークは一礼し、言葉を選ぶように息を整えた。

「まず、最も重要な伝言を申し上げます。
――『強い光を持つ者がルシエルに入ると、爆ぜてしまう』。
『私は突破口を探す。だから“今は来ないで”――無理はしないで』。
『もし来れば、お兄様の命も、この両国も危うい。戦になる』。
以上、フィアナ様の言葉、そのままに」

短く区切られる一文ごとに、カリスの指の関節が白くなる。

「併せて現況です。王妃様は王宮から離され、離宮に“静養”の名で隔離。侍女は“帰国”の名目で追放。
リゼはルシエル出国の途上で行方不明。
王都からの書状は検閲ののち『静養中』で統一――助けを呼べない状況です」

黙って聞いているカリスが、最後に手にしたのは棚の奥深くにしまってあった深紅の剣帯。

「それは……」

従者が驚いたように呟いた。

それは、普段カリスが使っている、妻の手による銀糸の剣帯ではない。
赤い、濃紅の織帯。

それは、妹フィアナがまだ少女だった頃。
兄の初陣を前に、震える手で一本一本織り込んだ、光の加護を纏う剣帯だった。

「お兄様、戦場へ赴くのですね」
「……ああ」
「では、わたくしに、帯を織らせてください。きっと守りの加護になります」
「守られるのは、いつだってお前の方だろうに」
「でも、守るのです。精一杯の私の光を込めて、織ります」

――記憶の中で笑う、無邪気な声。
守られるべき者が織ったその帯は、幾度の戦場を越え、今なお命を繋ぎ続けてくれていた。

それは希望の象徴であり、家族の絆だった。

キィ――

剣帯の革を引き絞る音が、やけに大きく響いた。
あまりにも静まり返った部屋の中で、その音だけが、感情の爆発を予告していた。

一拍の沈黙。やがて、低く、決断の声。

「行く。だが正面からは入らない。
近くまで詰め、継ぎ目がないかを探る。偵察を先行させろ。
転移で踏み込めば光が爆ぜる。軍を動かせば戦端が開く。――それだけは避ける」

従者が頷くのを見届け、カリスは続けた。

「救うために、壊さない道を選ぶ。真実を確かめ、縫い目を裂かずに、扉を開ける」

剣の柄に手を添え、彼は歩み出した。
妹が守ろうとしたものを、今度は自分が守るために。

「……フィアナは、まだ希望を手放してはいない。だから、あの光を――ペンダントに託したんだ」

妹の想いが、魔力の痕跡を欺き、監視の目をすり抜けた。
エマとリゼが王都を離れるその瞬間まで、フィアナは光の魔力を纏わせ、ペンダントを通じて“異常なし”と伝え続けていたのだ。

なぜそんな危うい策を取ったのか――。

ルークの言葉で、全てが繋がる。

「……『私が信じていたいから』……そう、フィアナ様は仰られたそうです」

「……」

「『私は、あの人を信じたい。光を忘れた人の中にも、まだ愛があると信じたいのです』と」

一瞬だけ、カリスの手が止まり――

ギリ、と剣帯をきつく締め直す。

「何があったのか。誰が、フィアナから“家族”を奪ったのか。
確かめに行かねばなるまい」

剣を腰に帯し、最後の装備を整えたその姿は、ただの兄ではなかった。

かつて「聖騎将カリス」と呼ばれ、王国を守り抜いた英雄。
その影が、再び、確かな意志とともに立ち上がっていた。

「真実を、明らかにするために行く」

その声音は静かで、しかし誰もが逆らえぬ重みを持っていた。

「陛下へのご報告は?」と、従者が控えめに尋ねる。

「後だ!」

カリスは短くそう返し、マントを翻して歩き出した。

その腰に揺れる、真紅の帯――
それは、たったひとりの妹が織った、決して折れない祈りの証。

今、その祈りが――風となり、炎となって、真実の扉を開こうとしていた。
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