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第九話 最初の署名
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第九話 最初の署名
隣国の王城にある円卓の間は、王宮のそれとは空気が違った。
重厚な石壁に囲まれ、長い楕円の卓を挟んで皇帝ディルクと重臣たちが座る。だが視線は交錯し、言葉は飛び交い、沈黙は議論のために使われる。
「軍需再配分案、価格は妥当か?」
「妥当です。ただし輸送路の確保が条件となります」
「王都経由は不安定だ。港湾を直接押さえる必要がある」
反対意見も遠慮なく出る。
エリシアは資料を差し出しながら言う。
「王都を経由しない海路を提案いたします。ルーヴェン家の港湾管理権は維持されておりますから」
「王家優遇の終了で、妨害はないと?」
「契約上、干渉は不可能です」
淡々と。
理屈で積み上げる。
ディルクは満足げに頷いた。
「合理的だ。感情がない」
「感情は契約を守りません」
エリシアは静かに答える。
「守るのは条文と合意です」
その言葉に、数名の重臣が微笑を浮かべる。
やがて議論は収束し、第一の再配分契約書が卓上に置かれた。
ペンが差し出される。
エリシアは迷いなく署名する。
最初の一筆。
王家の庇護がなくとも、契約は成立する。
それは、彼女の立場が“王太子の婚約者”ではなく“ルーヴェン家当主代理”であることを明確に示す瞬間だった。
一方、王宮では。
軍需支払いの期限が迫っている。
「不足分はどれほどだ」
「三日以内に金貨五百枚」
「商会からの前借りは?」
「信用枠が縮小されております」
アルベルトは机を叩く。
「王家だぞ」
「王家であっても、契約は契約です」
その言葉が、やけに耳に刺さる。
財務官の最後の言葉と重なる。
リュシエラがそっと肩に触れる。
「殿下はお疲れですわ」
「問題はない」
言い切るが、円卓の空気は変わらない。
誰も提案をしない。
誰も強く否定もしない。
ただ、待つ。
責任がどこに落ちるかを。
夜。
アルベルトは執務室で一人になる。
窓の外は暗い。
帳簿の数字が赤く見える。
赤。
一瞬、文字が滲んだように見え、瞬きをする。
ただのインクだ。
血ではない。
だが胸の奥がざわつく。
隣国では、祝宴が開かれていた。
再配分契約の成立を祝う小規模な晩餐会。
過度な豪奢はないが、拍手がある。
意見を戦わせた後の、納得の拍手。
ディルクが杯を掲げる。
「契約は互いの信義の証だ。ルーヴェン家の誠実さに敬意を」
拍手が広がる。
エリシアは静かに杯を掲げる。
「合意に感謝いたします」
祝福は控えめだが確かだ。
その頃、王宮ではまた一つの報告が届く。
「辺境へ転属した騎士が、急な発熱で倒れました」
「……重篤か?」
「回復の見込みはあるとのことです」
事故ではない。
死でもない。
ただの不調。
それでも、囁きは広がる。
“殿下に逆らうな”。
アルベルトは苛立つ。
「偶然だろう」
「その通りでございます」
だが、その“偶然”が続いている。
リュシエラは穏やかに言う。
「殿下に従わぬ者は、不安定なのですわ」
笑顔。
血はない。
だがその言葉は、冷たい。
夜更け。
アルベルトは寝台に横たわる。
目を閉じる。
暗闇の中、白い衣が揺れる。
床に赤い線が走る。
はっと目を開ける。
何もない。
ただ静かな天井。
隣でリュシエラが穏やかに眠っている。
白い寝衣。
赤はない。
だが、胸の奥のざわめきは消えない。
隣国では、契約書が封印され、正式発効の準備が進む。
交易路は再設計され、港湾の帳簿は整い始める。
王宮では、帳簿の赤字が広がる。
まだ小さい。
だが確実だ。
エリシアは窓辺に立ち、隣国の夜景を見下ろす。
「お嬢様、第一段階は成功です」
「ええ」
彼女は頷く。
「契約は守られました」
王太子の名は口にしない。
関係はない。
舞台は分かれている。
片や、合意と拍手の場。
片や、沈黙と囁きの場。
誰も叫ばない。
だが流れは、はっきりと形を取り始めている。
隣国の王城にある円卓の間は、王宮のそれとは空気が違った。
重厚な石壁に囲まれ、長い楕円の卓を挟んで皇帝ディルクと重臣たちが座る。だが視線は交錯し、言葉は飛び交い、沈黙は議論のために使われる。
「軍需再配分案、価格は妥当か?」
「妥当です。ただし輸送路の確保が条件となります」
「王都経由は不安定だ。港湾を直接押さえる必要がある」
反対意見も遠慮なく出る。
エリシアは資料を差し出しながら言う。
「王都を経由しない海路を提案いたします。ルーヴェン家の港湾管理権は維持されておりますから」
「王家優遇の終了で、妨害はないと?」
「契約上、干渉は不可能です」
淡々と。
理屈で積み上げる。
ディルクは満足げに頷いた。
「合理的だ。感情がない」
「感情は契約を守りません」
エリシアは静かに答える。
「守るのは条文と合意です」
その言葉に、数名の重臣が微笑を浮かべる。
やがて議論は収束し、第一の再配分契約書が卓上に置かれた。
ペンが差し出される。
エリシアは迷いなく署名する。
最初の一筆。
王家の庇護がなくとも、契約は成立する。
それは、彼女の立場が“王太子の婚約者”ではなく“ルーヴェン家当主代理”であることを明確に示す瞬間だった。
一方、王宮では。
軍需支払いの期限が迫っている。
「不足分はどれほどだ」
「三日以内に金貨五百枚」
「商会からの前借りは?」
「信用枠が縮小されております」
アルベルトは机を叩く。
「王家だぞ」
「王家であっても、契約は契約です」
その言葉が、やけに耳に刺さる。
財務官の最後の言葉と重なる。
リュシエラがそっと肩に触れる。
「殿下はお疲れですわ」
「問題はない」
言い切るが、円卓の空気は変わらない。
誰も提案をしない。
誰も強く否定もしない。
ただ、待つ。
責任がどこに落ちるかを。
夜。
アルベルトは執務室で一人になる。
窓の外は暗い。
帳簿の数字が赤く見える。
赤。
一瞬、文字が滲んだように見え、瞬きをする。
ただのインクだ。
血ではない。
だが胸の奥がざわつく。
隣国では、祝宴が開かれていた。
再配分契約の成立を祝う小規模な晩餐会。
過度な豪奢はないが、拍手がある。
意見を戦わせた後の、納得の拍手。
ディルクが杯を掲げる。
「契約は互いの信義の証だ。ルーヴェン家の誠実さに敬意を」
拍手が広がる。
エリシアは静かに杯を掲げる。
「合意に感謝いたします」
祝福は控えめだが確かだ。
その頃、王宮ではまた一つの報告が届く。
「辺境へ転属した騎士が、急な発熱で倒れました」
「……重篤か?」
「回復の見込みはあるとのことです」
事故ではない。
死でもない。
ただの不調。
それでも、囁きは広がる。
“殿下に逆らうな”。
アルベルトは苛立つ。
「偶然だろう」
「その通りでございます」
だが、その“偶然”が続いている。
リュシエラは穏やかに言う。
「殿下に従わぬ者は、不安定なのですわ」
笑顔。
血はない。
だがその言葉は、冷たい。
夜更け。
アルベルトは寝台に横たわる。
目を閉じる。
暗闇の中、白い衣が揺れる。
床に赤い線が走る。
はっと目を開ける。
何もない。
ただ静かな天井。
隣でリュシエラが穏やかに眠っている。
白い寝衣。
赤はない。
だが、胸の奥のざわめきは消えない。
隣国では、契約書が封印され、正式発効の準備が進む。
交易路は再設計され、港湾の帳簿は整い始める。
王宮では、帳簿の赤字が広がる。
まだ小さい。
だが確実だ。
エリシアは窓辺に立ち、隣国の夜景を見下ろす。
「お嬢様、第一段階は成功です」
「ええ」
彼女は頷く。
「契約は守られました」
王太子の名は口にしない。
関係はない。
舞台は分かれている。
片や、合意と拍手の場。
片や、沈黙と囁きの場。
誰も叫ばない。
だが流れは、はっきりと形を取り始めている。
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