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第一話 完璧であることに、疲れましたわ
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第一話 完璧であることに、疲れましたわ
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、完璧な令嬢だった。
少なくとも――周囲からは、そう見えていた。
王太子妃候補として必要とされる教養、礼儀作法、社交術、政治知識。幼い頃から与えられた課題は一つも欠かさず身につけ、誰に言われるでもなく、求められる以上の成果を出してきた。失言はなく、立ち居振る舞いに無駄もない。笑顔は柔らかく、しかし距離感は完璧。
王宮において、彼女の存在は“空気のように自然”だった。
――あまりにも自然すぎて、誰も気に留めなくなった。
「本日の政務日程ですが、こちらが修正案です」
そう言って差し出した書類を、王太子はろくに見もせず頷く。
大丈夫だろう、彼女がまとめたのだから。
そんな信頼があるのか、あるいは単なる無関心か。リュシエンヌにはもう、どちらでも同じことだった。
王太子ユリウスは、基本的に仕事ができないわけではない。だが、判断が遅く、優先順位をつけるのが苦手で、感情に流されやすい。致命的ではないが、放っておくと確実に問題を生むタイプだった。
その“放っておけない部分”を、誰が補ってきたのか。
――答えを、彼は考えたこともないだろう。
「今日は舞踏会だな。準備は任せる」
「かしこまりました」
淡々と返事をしながら、リュシエンヌは心の中でため息をついた。
準備とは、招待客の顔ぶれの確認、席次、派閥バランス、王家に不利益が出ない会話の誘導。舞踏会は社交の場であると同時に、政治の延長線でもある。それを“任せる”という言葉で一括りにされることにも、もう慣れていた。
慣れていた。
そう、慣れてしまったのだ。
いつからだろう。
努力が当たり前になり、成果が当然になり、感謝が消えていったのは。
自分が動かなければ回らない。
そんな自負があった時期も、確かにあった。
だがある日、ふと気づいたのだ。
――回らなくなるのは、私がいなくなったときだけなのでは?
リュシエンヌは、自室で鏡を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
完璧に整えられた髪。寸分の狂いもないドレス。王太子妃候補として相応しい姿。
それを作るために、どれほどの時間と労力を費やしてきたのか。
「……疲れましたわ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと零れた言葉は、驚くほど軽かった。
王宮では今日も、彼女の知らないところで話が進んでいる。
最近、王太子が親しげにしている平民出身の令嬢の噂も、耳には入っていた。
愛だの、情熱だの。
正直に言えば、どうでもいい。
貴族の婚約に恋愛感情を期待したことなど、一度もない。
王太子妃という立場に必要なのは、感情ではなく機能だ。
そして、その機能を果たしてきたのは――ほかでもない、自分だった。
なのに。
もし、その役目が不要だと言われるのなら。
もし、愛を理由に切り捨てられるのなら。
――それは、それで構わない。
リュシエンヌは椅子に腰を下ろし、静かに紅茶を口に含んだ。
温度も、香りも、完璧に調整された一杯。
その完璧さすら、今は少しだけ、重たい。
「婚約破棄、ですか」
まだ正式に告げられてもいない未来を、彼女は先取りするように呟いた。
「承知いたしましたわ」
それは怒りでも、諦めでもなかった。
ただの事実確認に過ぎない。
もしそうなるのなら――
私は、もう働かなくていい。
その瞬間、胸の奥に、奇妙なほど穏やかな風が吹いた。
重荷が外れる予感。
責任という名の鎖が、音もなく緩む感覚。
「……明日は、少し長く眠りましょうか」
誰にも期待されない時間。
誰の役にも立たない一日。
それを思い描いただけで、心が軽くなる自分に、リュシエンヌは小さく笑った。
完璧であることに、疲れた。
だから――次は、何もしないことを選ぶ。
その選択が、どれほどの波紋を呼ぶのかを、
この時の彼女は、まだ知らない。
リュシエンヌ・フォン・ヴァイセルは、完璧な令嬢だった。
少なくとも――周囲からは、そう見えていた。
王太子妃候補として必要とされる教養、礼儀作法、社交術、政治知識。幼い頃から与えられた課題は一つも欠かさず身につけ、誰に言われるでもなく、求められる以上の成果を出してきた。失言はなく、立ち居振る舞いに無駄もない。笑顔は柔らかく、しかし距離感は完璧。
王宮において、彼女の存在は“空気のように自然”だった。
――あまりにも自然すぎて、誰も気に留めなくなった。
「本日の政務日程ですが、こちらが修正案です」
そう言って差し出した書類を、王太子はろくに見もせず頷く。
大丈夫だろう、彼女がまとめたのだから。
そんな信頼があるのか、あるいは単なる無関心か。リュシエンヌにはもう、どちらでも同じことだった。
王太子ユリウスは、基本的に仕事ができないわけではない。だが、判断が遅く、優先順位をつけるのが苦手で、感情に流されやすい。致命的ではないが、放っておくと確実に問題を生むタイプだった。
その“放っておけない部分”を、誰が補ってきたのか。
――答えを、彼は考えたこともないだろう。
「今日は舞踏会だな。準備は任せる」
「かしこまりました」
淡々と返事をしながら、リュシエンヌは心の中でため息をついた。
準備とは、招待客の顔ぶれの確認、席次、派閥バランス、王家に不利益が出ない会話の誘導。舞踏会は社交の場であると同時に、政治の延長線でもある。それを“任せる”という言葉で一括りにされることにも、もう慣れていた。
慣れていた。
そう、慣れてしまったのだ。
いつからだろう。
努力が当たり前になり、成果が当然になり、感謝が消えていったのは。
自分が動かなければ回らない。
そんな自負があった時期も、確かにあった。
だがある日、ふと気づいたのだ。
――回らなくなるのは、私がいなくなったときだけなのでは?
リュシエンヌは、自室で鏡を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
完璧に整えられた髪。寸分の狂いもないドレス。王太子妃候補として相応しい姿。
それを作るために、どれほどの時間と労力を費やしてきたのか。
「……疲れましたわ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと零れた言葉は、驚くほど軽かった。
王宮では今日も、彼女の知らないところで話が進んでいる。
最近、王太子が親しげにしている平民出身の令嬢の噂も、耳には入っていた。
愛だの、情熱だの。
正直に言えば、どうでもいい。
貴族の婚約に恋愛感情を期待したことなど、一度もない。
王太子妃という立場に必要なのは、感情ではなく機能だ。
そして、その機能を果たしてきたのは――ほかでもない、自分だった。
なのに。
もし、その役目が不要だと言われるのなら。
もし、愛を理由に切り捨てられるのなら。
――それは、それで構わない。
リュシエンヌは椅子に腰を下ろし、静かに紅茶を口に含んだ。
温度も、香りも、完璧に調整された一杯。
その完璧さすら、今は少しだけ、重たい。
「婚約破棄、ですか」
まだ正式に告げられてもいない未来を、彼女は先取りするように呟いた。
「承知いたしましたわ」
それは怒りでも、諦めでもなかった。
ただの事実確認に過ぎない。
もしそうなるのなら――
私は、もう働かなくていい。
その瞬間、胸の奥に、奇妙なほど穏やかな風が吹いた。
重荷が外れる予感。
責任という名の鎖が、音もなく緩む感覚。
「……明日は、少し長く眠りましょうか」
誰にも期待されない時間。
誰の役にも立たない一日。
それを思い描いただけで、心が軽くなる自分に、リュシエンヌは小さく笑った。
完璧であることに、疲れた。
だから――次は、何もしないことを選ぶ。
その選択が、どれほどの波紋を呼ぶのかを、
この時の彼女は、まだ知らない。
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