『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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第1話 婚約破棄、めんどくさい

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第1話 婚約破棄、めんどくさい

 王宮の謁見の間は、よく整えられていた。
 磨かれた床、左右に並ぶ貴族たち、そして正面の玉座。そのすべてが、ファーファ・ノクティスにとってはひどく既視感のある光景だった。

 ――またか。

 そう思っただけで、感情は特に動かなかった。

「ファーファ・ノクティス。君との婚約を、ここに破棄する」

 王太子の声はよく通り、どこか得意げでもあった。
 隣には、白い衣を纏った聖女が控えめな表情で立っている。周囲の貴族たちは、すでに筋書きを知っていたかのように、小さくざわめいた。

 理由の説明は、想像通りだった。
 価値観の違い。
 冷淡さ。
 国を想う心が足りない、というお決まりの台詞。

 ファーファは、最後まで口を挟まなかった。

「……以上だ。何か言うことは?」

 促されて、初めて顔を上げる。
 視線が集まった。泣くのか、抗議するのか、あるいは取り乱すのか。皆、そういう反応を期待している。

 けれど、ファーファは小さく頷いただけだった。

「そうですか」

 それだけ。

 間が生まれた。
 王太子が一瞬、言葉に詰まったのが分かった。

「……それだけか?」

「はい」

 特に付け加えることもない。
 婚約が破棄された。それ以上でも以下でもなかった。

 貴族たちは困惑したように顔を見合わせ、ひそひそと声を潜める。感情的な場面を期待していた者ほど、落胆を隠せない様子だった。

 ファーファは、内心で小さくため息をついた。

 ――貴族、めんどくさい。

 婚約破棄そのものよりも、その後に続くであろう面倒なやり取りの方が、よほど気が重い。慰め、忠告、同情、噂。どれも必要ない。

「では、失礼いたします」

 深く頭を下げることもせず、形式的に一礼して踵を返す。
 背後で、誰かが呼び止めようとした気配があったが、無視した。

 廊下に出ると、空気が少し軽くなった気がした。
 付き従ってきた侍女が、おずおずと口を開く。

「お嬢様……これから、どうなさるおつもりで……?」

 ファーファは立ち止まり、少し考えた。

 泣きたいわけでもない。
 怒りたいわけでもない。
 見返したいとも思わない。

 ただ、関わりたくない。

「降ります」

「……はい?」

「貴族社会から。めんどくさいので」

 侍女は言葉を失ったが、ファーファはそれ以上説明する気はなかった。

 評価されたいから生きているわけではない。
 正しい判断かどうかも、正直どうでもいい。

 やりたくないから、やらないだけ。

 それだけの話だった。

 王宮の外に出ると、春の風が吹き抜けた。
 思ったより、悪くない。

 ファーファ・ノクティスは、まだ何も失っていなかった。
 むしろ――これから、ようやく静かになれる気がしていた。
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