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19話 名も呼ばれない日
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19話 名も呼ばれない日
朝、霧が低く垂れていた。
山の輪郭がぼやけ、木々は輪郭だけを残して白に溶けている。ファーファは扉を開け、その景色をしばらく眺めた。寒さはあるが、刺すほどではない。外套を一枚足せば十分だ。
足元を見る。
箱は、いつもの場所に置かれていた。
霧に濡れないよう、覆いが掛けられている。
それだけで、今日が始まる。
箱を中へ運び、蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。いつもと同じ構成だが、霧が続く時期に合わせて、防湿用の包みがひとつ加えられている。実務の判断。感情の混入はない。
必要な分だけ取り出し、棚に置く。
残りは、そのまま。
数は数えない。
名も付けない。
王都にいた頃、何にでも名が付いていた。役職、評価、立場、序列。呼ばれるたびに、返事をしなければならなかった。返事をしないことは、無礼や反抗とみなされた。
ここでは、名を呼ばれない。
だから、返事をする必要がない。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。霧で光は柔らかく、室内に影はできない。椅子に腰掛け、湯気を見つめる。思考は、自然とほどけていく。
――今日は、何もしない。
決意ではない。
選択でもない。
ただ、そうなる。
午前中、本を開く。数頁進んで止まり、閉じる。霧が薄くなり、山の輪郭が戻り始めた。開いて、また閉じる。読む速度に意味はない。
昼、簡単な食事を取る。味付けは控えめ。霧の中で食べると、温かさが分かりやすい。それで十分だった。
午後、外に出る。霧は晴れつつあり、地面は湿っているが歩ける。家の周囲を一回りする。草は折れていない。道は変わらない。
変わらないことを、ただ見る。
王都では、今日も名が呼ばれているだろう。
会議で。
廊下で。
帳簿の中で。
名を呼ばれるたびに、役割が貼り付く。
役割が貼り付くたびに、判断が要求される。
ここには、それがない。
夕方、霧は完全に消えた。光が戻り、山の色がはっきりする。ファーファは箱の置き場所を一度だけ見て、室内に戻った。確認は、それで足りる。
火を入れ、薪を足す。音は小さい。炎は安定している。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
名を呼ばれない一日。
評価されない一日。
説明を求められない一日。
それは、逃避ではない。
拒絶でもない。
ただ、世界と距離が保たれている状態だ。
ファーファ・ノクティスは、名を呼ばれないまま、静かに呼吸を続けた。
――明日も、きっと同じだ。
そう思っても、期待は生まれない。
同じであることに、理由は要らない。
名も呼ばれない日々は、
彼女にとって、
最も正確な現在だった。
朝、霧が低く垂れていた。
山の輪郭がぼやけ、木々は輪郭だけを残して白に溶けている。ファーファは扉を開け、その景色をしばらく眺めた。寒さはあるが、刺すほどではない。外套を一枚足せば十分だ。
足元を見る。
箱は、いつもの場所に置かれていた。
霧に濡れないよう、覆いが掛けられている。
それだけで、今日が始まる。
箱を中へ運び、蓋を開ける。保存食、乾燥野菜、油、布。いつもと同じ構成だが、霧が続く時期に合わせて、防湿用の包みがひとつ加えられている。実務の判断。感情の混入はない。
必要な分だけ取り出し、棚に置く。
残りは、そのまま。
数は数えない。
名も付けない。
王都にいた頃、何にでも名が付いていた。役職、評価、立場、序列。呼ばれるたびに、返事をしなければならなかった。返事をしないことは、無礼や反抗とみなされた。
ここでは、名を呼ばれない。
だから、返事をする必要がない。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。霧で光は柔らかく、室内に影はできない。椅子に腰掛け、湯気を見つめる。思考は、自然とほどけていく。
――今日は、何もしない。
決意ではない。
選択でもない。
ただ、そうなる。
午前中、本を開く。数頁進んで止まり、閉じる。霧が薄くなり、山の輪郭が戻り始めた。開いて、また閉じる。読む速度に意味はない。
昼、簡単な食事を取る。味付けは控えめ。霧の中で食べると、温かさが分かりやすい。それで十分だった。
午後、外に出る。霧は晴れつつあり、地面は湿っているが歩ける。家の周囲を一回りする。草は折れていない。道は変わらない。
変わらないことを、ただ見る。
王都では、今日も名が呼ばれているだろう。
会議で。
廊下で。
帳簿の中で。
名を呼ばれるたびに、役割が貼り付く。
役割が貼り付くたびに、判断が要求される。
ここには、それがない。
夕方、霧は完全に消えた。光が戻り、山の色がはっきりする。ファーファは箱の置き場所を一度だけ見て、室内に戻った。確認は、それで足りる。
火を入れ、薪を足す。音は小さい。炎は安定している。
夜、灯りを落とし、寝台に横になる。
名を呼ばれない一日。
評価されない一日。
説明を求められない一日。
それは、逃避ではない。
拒絶でもない。
ただ、世界と距離が保たれている状態だ。
ファーファ・ノクティスは、名を呼ばれないまま、静かに呼吸を続けた。
――明日も、きっと同じだ。
そう思っても、期待は生まれない。
同じであることに、理由は要らない。
名も呼ばれない日々は、
彼女にとって、
最も正確な現在だった。
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