『やりたくないからやらないだけ 〜自分のために働かない選択をした元貴族令嬢の静かな失踪〜』

鷹 綾

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28話 何も起こらないことの確かさ

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28話 何も起こらないことの確かさ

 雨は、夜のうちに上がっていた。

 朝、目を覚ましたファーファは、まずそのことを音で知った。屋根を叩く規則的な雨音がない。代わりに、遠くで鳥が一声鳴いただけだ。窓の外は薄く霞み、地面はまだ湿っているが、空気は重くない。

 寝台の上で、しばらく動かずに呼吸を整える。

 昨日の夜、雨が降った。
 今朝、雨は止んでいる。

 それ以上の意味はない。

 起き上がり、外套を羽織る。扉を開けると、ひんやりとした空気が頬に触れた。山は変わらず、何も言わない。箱は、置かれていた。昨日の雨を考慮して、わずかに高い位置に移されている。

「……ちゃんと、何も起こさない判断ね」

 誰かが余計なことをしない。
 それは、ここでは最大の配慮だった。

 箱を中へ運び、蓋を開ける。中身は変わらない。保存食、乾燥野菜、油、布。濡れた形跡もなく、包みは乾いている。対策は十分だが、過剰ではない。

 必要な分だけ取り出し、棚に置く。残りは箱に戻す。今日は、棚の位置をほんの少しだけ調整した。湿気が籠もらないように、風の通り道を確保するためだ。ほんの数歩分の移動だが、効果は大きい。

 湯を沸かし、紅茶を淹れる。今日は湯を沸かす音がよく響いた。雨上がりの静けさのせいだろう。椅子に腰掛け、カップを手に取る。湯気がゆっくりと立ち上る。

 ――何も起こらない。

 王都にいた頃、この言葉は不安の前触れだった。事件が起きる前の静けさ。嵐の前の沈黙。だから、人は無理に動き、無理に騒ぎ、無理に「何か」を起こそうとした。

 ここでは違う。

 何も起こらないことは、
 そのまま成功を意味する。

 午前中、本を読む。今日は数頁進んだが、内容を覚えようとはしない。覚える必要がない。ここで得た知識は、誰にも披露されない。だから、焦る理由もない。

 昼、簡単な食事を取る。今日は雨上がりの湿気のせいか、温かいものが身体に心地よかった。味は相変わらず淡泊だが、それでいい。刺激が少ないから、身体が騒がない。

 食後、椅子に座ったまま、外を見る。地面に残った水たまりが、少しずつ光を反射し始めている。太陽は高くないが、確実に動いている。

 午後、外に出る。雨の後なので、足元に注意しながら家の周囲を一回りする。水の流れは問題ない。昨日整えた場所が、ちゃんと機能している。

 ――何も起きていない。

 それを確認して、戻る。

 王都では、こうした確認は報告書になった。
 「異常なし」という一行を書くために、
 大量の手順と承認が必要だった。

 ここでは、確認は自分の中で終わる。

 夕方、空気が乾き始める。火を入れ、室内を整える。薪は乾いている。問題ない。火は静かに燃え、音も控えめだ。

 ファーファは炎を見つめながら、ふと思う。

 ――私は、何かを待っているわけではない。

 誰かが来るのを待っているわけでも、
 状況が変わるのを期待しているわけでもない。

 ただ、何も起こらない日が、
 今日も無事に終わることを受け入れている。

 夜、灯りを落とし、寝台に横になる。

 今日も、大きな出来事はなかった。
 誰も訪れず、
 誰も呼ばず、
 何も壊れなかった。

 ファーファ・ノクティスは、
 何も起こらないことの確かさを、
 疑うことなく、静かに受け取っている。

 それは退屈ではない。
 それは停滞でもない。

 何も起こらないという事実が、
 ここでの生活が、
 今日もきちんと続いている証だった。

 その確かさを胸に、
 彼女は今日も、
 何事もなく眠りについた。
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