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第1話 婚約破棄? それより寝かせてください
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第1話 婚約破棄? それより寝かせてください
――人生には、転ぶときに思い出す記憶というものがあるらしい。
アーデルハイド公爵家の大理石の階段で、私は見事に足を滑らせた。
視界がぐるりと回り、ふわりと浮くような感覚の直後、後頭部に鈍い衝撃。
――あ、これ、痛いやつ。
そう思った瞬間、頭の中に流れ込んできたのは、この世界の記憶ではなかった。
終電。
光らないパソコン。
鳴り続けるチャット。
「これ、今日中で」
「悪いけど君しかいない」
ブラック企業に勤め、心も身体もすり減らしていた、前世の私。
「……ああ、そうか」
階段の途中で仰向けに転がりながら、私は妙に冷静だった。
「私、死ぬほど働いて、死ぬほど後悔して、死ぬほど疲れて……それで、今は――」
――公爵令嬢、レイラ・フォン・アーデルハイド。
目を開けると、見慣れた高い天井と、慌てふためく使用人たちの顔が視界に入る。
「お嬢様! しっかりしてください!」 「すぐ医師を!」
大丈夫、と言おうとして、喉が乾いていることに気づいた。
代わりに小さく息を吐く。
「……ねえ、ちょっと待って」
私の声に、周囲が一斉に静まる。
「今、何が起きてるの?」
すると、侍女のマーガレットが、おずおずと前に出てきた。
「……本日、王宮にて、王太子殿下より正式に……婚約破棄が告げられました。その後、お戻りになって……」
「ああ、そうだったわね」
思い出す。
王宮の広間。
淡々と読み上げられた文書。
私の隣で、気まずそうに視線を逸らす王太子。
浮気? 心変わり? 政略?
正直、どうでもよかった。
「それで、私、ショックで階段から落ちたってこと?」
「い、いえ……ショックを受けていらっしゃるご様子では……」
マーガレットは言葉を濁した。
周囲の使用人たちも、なぜか困惑している。
私は内心で頷いた。
そうだろう。
私は泣いていなかったし、怒ってもいなかった。
むしろ――
「婚約、破棄……」
その言葉を口にして、胸の奥が、すうっと軽くなる。
前世の記憶がはっきりと蘇った今、私は分かっていた。
結婚。
王太子妃。
社交、政務、派閥、責任。
――全部、仕事じゃない。
しかも、超・激務の。
「……よかった」
ぽつりと漏れた私の本音に、周囲が凍りつく。
「お、お嬢様……?」 「よ、よかった、とは……?」
私は天井を見上げたまま、心からそう思っていた。
婚約が続いていたら、きっと私はまた“働かされる側”になっていた。
立場は違えど、前世と同じだ。
「復讐? 見返す? 後悔させる?」
そんなもの、もうどうでもいい。
だって私は――
「……疲れたのよ。前世で、十分すぎるほど」
身体を起こそうとすると、医師が慌てて止めに入る。
「お嬢様、まだ安静に――」
「ええ、分かってるわ。今日はもう、何もしません」
きっぱりと言うと、部屋の空気がさらにざわついた。
「何もしない……?」 「それは、その……」
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「そう。何もしないの。働かない。頑張らない。考えすぎない」
前世で学んだ、たったひとつの真理。
――無理をした人間から、壊れていく。
「婚約が破棄されたなら、私はもう王太子妃になる必要もない。
なら、公爵令嬢として、静かに、優雅に、好きに生きればいいでしょう?」
沈黙。
やがて、誰かがごくりと唾を飲む音がした。
私は布団に身を沈め、目を閉じる。
「というわけで……今日はもう休みます。
起こすのは、お茶の時間だけでお願いします」
「お、お嬢様!?」
驚く声を背に、私は思った。
――復讐しなくてもいい。
――見返さなくてもいい。
ただ、もう二度と、無理はしない。
こうして私は決めたのだ。
何もしない公爵令嬢として、生きていくと。
――それが、後にどれほど周囲を巻き込むことになるかも知らずに。
――人生には、転ぶときに思い出す記憶というものがあるらしい。
アーデルハイド公爵家の大理石の階段で、私は見事に足を滑らせた。
視界がぐるりと回り、ふわりと浮くような感覚の直後、後頭部に鈍い衝撃。
――あ、これ、痛いやつ。
そう思った瞬間、頭の中に流れ込んできたのは、この世界の記憶ではなかった。
終電。
光らないパソコン。
鳴り続けるチャット。
「これ、今日中で」
「悪いけど君しかいない」
ブラック企業に勤め、心も身体もすり減らしていた、前世の私。
「……ああ、そうか」
階段の途中で仰向けに転がりながら、私は妙に冷静だった。
「私、死ぬほど働いて、死ぬほど後悔して、死ぬほど疲れて……それで、今は――」
――公爵令嬢、レイラ・フォン・アーデルハイド。
目を開けると、見慣れた高い天井と、慌てふためく使用人たちの顔が視界に入る。
「お嬢様! しっかりしてください!」 「すぐ医師を!」
大丈夫、と言おうとして、喉が乾いていることに気づいた。
代わりに小さく息を吐く。
「……ねえ、ちょっと待って」
私の声に、周囲が一斉に静まる。
「今、何が起きてるの?」
すると、侍女のマーガレットが、おずおずと前に出てきた。
「……本日、王宮にて、王太子殿下より正式に……婚約破棄が告げられました。その後、お戻りになって……」
「ああ、そうだったわね」
思い出す。
王宮の広間。
淡々と読み上げられた文書。
私の隣で、気まずそうに視線を逸らす王太子。
浮気? 心変わり? 政略?
正直、どうでもよかった。
「それで、私、ショックで階段から落ちたってこと?」
「い、いえ……ショックを受けていらっしゃるご様子では……」
マーガレットは言葉を濁した。
周囲の使用人たちも、なぜか困惑している。
私は内心で頷いた。
そうだろう。
私は泣いていなかったし、怒ってもいなかった。
むしろ――
「婚約、破棄……」
その言葉を口にして、胸の奥が、すうっと軽くなる。
前世の記憶がはっきりと蘇った今、私は分かっていた。
結婚。
王太子妃。
社交、政務、派閥、責任。
――全部、仕事じゃない。
しかも、超・激務の。
「……よかった」
ぽつりと漏れた私の本音に、周囲が凍りつく。
「お、お嬢様……?」 「よ、よかった、とは……?」
私は天井を見上げたまま、心からそう思っていた。
婚約が続いていたら、きっと私はまた“働かされる側”になっていた。
立場は違えど、前世と同じだ。
「復讐? 見返す? 後悔させる?」
そんなもの、もうどうでもいい。
だって私は――
「……疲れたのよ。前世で、十分すぎるほど」
身体を起こそうとすると、医師が慌てて止めに入る。
「お嬢様、まだ安静に――」
「ええ、分かってるわ。今日はもう、何もしません」
きっぱりと言うと、部屋の空気がさらにざわついた。
「何もしない……?」 「それは、その……」
私は、ゆっくりと微笑んだ。
「そう。何もしないの。働かない。頑張らない。考えすぎない」
前世で学んだ、たったひとつの真理。
――無理をした人間から、壊れていく。
「婚約が破棄されたなら、私はもう王太子妃になる必要もない。
なら、公爵令嬢として、静かに、優雅に、好きに生きればいいでしょう?」
沈黙。
やがて、誰かがごくりと唾を飲む音がした。
私は布団に身を沈め、目を閉じる。
「というわけで……今日はもう休みます。
起こすのは、お茶の時間だけでお願いします」
「お、お嬢様!?」
驚く声を背に、私は思った。
――復讐しなくてもいい。
――見返さなくてもいい。
ただ、もう二度と、無理はしない。
こうして私は決めたのだ。
何もしない公爵令嬢として、生きていくと。
――それが、後にどれほど周囲を巻き込むことになるかも知らずに。
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