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1話 働かない令嬢の優雅な朝
しおりを挟む1話 働かない令嬢の優雅な朝
公爵令嬢エルフィーナ・ルヴァリエは、その日も昼近くになってから目を覚ました。
分厚いカーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、白い天蓋を淡く照らしている。遠くで小鳥のさえずりが聞こえ、庭師が剪定ばさみを入れる小さな音が風に乗って届く。王都でも屈指の広さを誇るルヴァリエ公爵邸の朝は、いつも静かで、そして整っていた。
「おはようございます、お嬢様」
控えていた侍女のマリアが、穏やかに頭を下げる。
「……おはよう。今日は何時?」
「間もなく正午でございます」
「まあ、ちょうど良い時間ね」
エルフィーナは欠伸を一つ噛み殺し、ゆっくりと上体を起こした。焦る様子も、慌てる様子もない。彼女にとって“朝”とは、日が高く昇ってから始まるものだった。
社交界では彼女のことをこう呼ぶ。
――働かない公爵令嬢。
舞踏会への出席は必要最小限。慈善事業は顔を出すだけで実務には関わらない。領地経営も商会運営も、すべて代理人任せ。王太子の婚約者でありながら、王宮行事への出席すら控えめ。
怠惰。無責任。やる気がない。
そんな評価を、彼女は一度も否定したことがなかった。
寝台から降り、侍女に手伝われながらゆったりと支度を整える。淡いクリーム色のドレスに身を包み、金の刺繍が施された軽いショールを肩にかける。鏡の中の自分を一瞥し、満足そうに微笑んだ。
「今日の予定は?」
「午前中は特にございません。午後に商会の決算報告書が届く予定です」
「そう。ではテラスで紅茶を」
彼女はそう言って、何の迷いもなく歩き出した。
◇
中庭に面したテラスには、すでに白いクロスのかかった丸テーブルが用意されていた。銀のポットから立ちのぼる湯気が、初夏の風に揺れる。焼き立てのスコーンと季節の果実。すべてが完璧な状態で整えられている。
エルフィーナは椅子に腰掛け、紅茶を一口含んだ。
「……いい香り」
ダージリンの爽やかな風味が広がる。彼女は目を細め、庭を眺めた。
ルヴァリエ公爵家は、古くから王国の財政を支えてきた家だ。広大な領地、鉱山、穀物輸出、そして王都最大の流通商会。王家が大規模な公共事業を行う際、その資金の保証を引き受けてきたのもこの家である。
だが、表に立つのは父である公爵と、優秀な家宰や番頭たちだ。
エルフィーナは――表向き、何もしていない。
「お嬢様、本日の王宮からの使者は」
「断ってちょうだい。体調不良ということで」
マリアは一瞬だけ視線を伏せたが、すぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
王太子アレクシスからの招待は、ここ最近増えていた。慈善事業の視察、神殿行事への同席、新しい政策発表の場への出席。
彼は言うのだ。
『未来の王妃として、もっと国のために動いてほしい』
もっと働け、と。
エルフィーナは紅茶をくるりと回す。
「……私は、働かないわ」
ぽつりと零れた言葉は、風に溶けた。
働かない。それは彼女の選択だった。
幼い頃から、彼女は多くを見てきた。王宮で奔走する官僚たち、慈善事業に心血を注ぎ疲弊する貴族夫人たち、功績を争い足を引っ張り合う政治家たち。
皆、必死に“動いて”いる。
だが本当に国を動かしているのは、表で汗を流す者ではない。
契約書。保証状。資金の流れ。信用。
それらを握る者が、実際には盤面を支配している。
エルフィーナは、それを知っている。
「お嬢様、商会より早馬が」
庭の向こうから家宰が足早に現れた。年配の彼は、エルフィーナの前に書簡を差し出す。
「王家向け借款の更新時期が迫っております。ご判断を」
彼女は封を切らず、淡々と尋ねた。
「王太子殿下は何と?」
「特に言及はございません」
「そう」
彼女は封筒を机に置いたまま、スコーンを割る。
更新期限まで、あと二週間。
王家の大型港湾事業は、ルヴァリエ家の保証が前提となっている。もし更新されなければ、融資は停止。工事は凍結。信用は揺らぐ。
だがそれを、王太子は理解していない。
彼の目に映るのは、華やかに民衆へ微笑みかける“努力家の聖女”リリアの姿ばかりだ。彼女は貧民街を歩き、孤児院を慰問し、祈りを捧げる。
確かに眩しい存在だろう。
けれど、その活動資金の大半がどこから出ているか。
エルフィーナは何も言わない。
言う必要がないからだ。
「お嬢様は……本当に何もなさらないおつもりで?」
家宰が慎重に問う。
エルフィーナはゆっくりと紅茶を置き、穏やかに微笑んだ。
「ええ。何も」
「しかし、王太子殿下は――」
「動きたい方が動けばよろしいのです」
彼女の声は柔らかい。だがそこには、揺るぎない芯があった。
彼女は知っている。
自分が動けば、事態はすぐに収まる。王太子の機嫌を取り、王宮行事に積極的に参加し、資金を惜しみなく提供すれば、国は安定する。
だがそれは――彼女が“働く”ことを意味する。
そして一度働き始めれば、二度と手放せない。
「私は、働きませんわ」
それは怠慢ではない。
選択だ。
自分の価値を、自分で決めるための。
庭の噴水がきらりと光を弾く。風がショールを揺らし、花の香りが漂う。
王都では今日も、彼女の噂が流れているだろう。
無能な令嬢。やる気のない婚約者。王妃に相応しくない女。
だがエルフィーナは、微塵も動じない。
盤面は、まだ動いていない。
けれど駒は、すでに置かれている。
そして彼女は椅子に座ったまま、その瞬間を待っている。
自分が動かずとも、世界が動く瞬間を。
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