働きませんわ。それでも王妃になります

鷹 綾

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7話 怠惰な返答

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7話 怠惰な返答

 舞踏会の翌朝、王都は噂で満ちていた。

 王太子が公開の場で婚約を破棄した。

 相手はルヴァリエ公爵令嬢。

 そして、聖女の存在。

 貴族街のサロンでは紅茶と共に話題が回り、市場の商人たちも耳打ちし合う。神殿前では信徒たちが囁き合い、王宮の回廊でも低い声が交錯していた。

 誰もが思っている。

 公爵家は激怒するのではないか。

 王太子は無事で済むのか。

 だが当のルヴァリエ公爵邸は、いつも通り静かだった。

 庭の噴水は規則正しく水を吐き、侍女たちは慌てる様子もなく動いている。

 その中心で、エルフィーナはいつもと変わらぬ時間に目を覚ました。

「おはようございます、お嬢様」

「おはよう」

 声は落ち着いている。

 鏡台の前に座り、髪を整えられながら、彼女は淡々と尋ねた。

「王宮からの使者は来ている?」

「すでに一名」

「応接間へ。少し待っていただいて」

 慌ただしさはない。

 怒りも見えない。

 まるで昨日の出来事が、遠い昔の話であるかのように。

 支度を整え、淡い水色のドレスを纏う。装飾は控えめ。婚約者を失った女としての過剰な演出はしない。

 彼女は歩く。

 ゆっくりと。

 応接間の扉を開けると、王宮の使者が深く頭を下げた。

「エルフィーナ様。昨夜の件につきまして、王太子殿下より」

「聞いておりますわ」

 椅子に腰掛ける仕草も、優雅で一定だ。

「正式な書面は後日とのことですが、まずは口頭で」

「結構です」

 遮る声は柔らかい。

「婚約破棄を受け入れた旨、父からもすでに伝達しております」

 使者は一瞬、言葉を失った。

 抗議も、条件提示もない。

 ただの了承。

「……よろしいのですか」

「何が?」

「名誉に関わる問題です」

 エルフィーナは微かに首を傾げる。

「殿下は国のためと仰ったのでしょう?」

「は、はい」

「ならば、私に異議はございません」

 淡々としている。

 使者は戸惑う。

 公爵家は王国随一の財力を持つ。怒り狂っても不思議ではない。

 だが彼女は静かだ。

「それだけお伝えください」

「かしこまりました」

 使者が去る。

 扉が閉まる。

 部屋に残るのは、穏やかな静寂。

 家宰が一歩前へ出る。

「お嬢様、本当に何もなさらないおつもりで」

「何も?」

 彼女は紅茶を注ぐ。

「抗議も、声明も」

「不要でしょう」

 カップを持ち上げる手は安定している。

「婚約とは契約。双方の合意で成立し、双方の意思で解消されるもの。公の場で宣言された以上、覆す意味はありません」

 感情ではなく、整理。

「では保証は」

「更新いたしません」

 即答だった。

 怒りではない。

 当然の処理。

「婚約という前提が失われました。再契約の必要があります」

「再契約」

「はい。王家とルヴァリエ家は別の主体ですもの」

 彼女は紅茶を一口飲む。

 その姿は、まるで午前の読書時間と変わらない。

「市場は動くでしょう」

 家宰が低く言う。

「動けばよろしいのです」

 彼女は微笑む。

「私は働きませんわ」

 その言葉は、いつも通り。

 だが意味は変わっている。

 働かないとは、奔走しないということ。

 騒がないということ。

 自ら動いて攻撃しないということ。

 ただ条件を整えるだけ。

 それだけで、十分だ。

 同じ頃、王宮では焦燥が広がっていた。

「公爵家は抗議してこないのか」

 アレクシスは苛立つ。

「いえ。正式に受諾の意思を示しております」

「それだけか」

「それだけです」

 その返答に、王太子は一瞬言葉を失う。

 もっと感情的な反応を想定していた。

 激怒、圧力、恫喝。

 だが何もない。

 静かな了承。

 それがかえって不気味だった。

「……レオン」

「はい」

「彼女は何を考えている」

「契約を整理しているのでしょう」

 冷静な答え。

「整理?」

「婚約という前提が消えました。保証や基金も再評価されます」

 アレクシスは眉をひそめる。

「それは脅しか」

「いいえ」

 レオンは静かに言う。

「自然な流れです」

 その言葉は、重い。

 違法でもない。

 敵意でもない。

 ただ秩序の再確認。

 だが王太子の胸に、わずかな焦りが芽生える。

 一方、エルフィーナは書斎に移り、分厚い契約書を開いていた。

 王家向け借款保証。

 神殿支援基金。

 都市流通契約。

 一つずつ、前提条件を確認する。

 婚約者の地位。

 王太子妃予定者の名義。

 その多くが、昨日をもって消えた。

「不要な部分は削除」

 淡々と指示を出す。

「再契約案を作成いたします」

「お願い」

 彼女は椅子に深く腰掛ける。

 怒りはない。

 後悔もない。

 王太子は動いた。

 彼女は動かない。

 だが、契約は動く。

 そしてそれは、王国の血流そのもの。

 窓の外で、雲がゆっくりと流れる。

「お嬢様は……悲しくはないのですか」

 侍女が小さく尋ねる。

 エルフィーナは少しだけ考え、首を振る。

「私は、最初から王妃になりたいとは思っていなかったもの」

 静かな本音。

「立場が変わっただけ」

 紅茶を飲み干す。

「さて、午後は読書の時間ね」

 それだけ。

 婚約破棄という大事件の翌日とは思えない。

 だがその静けさの裏で、王国の基盤は確実に再計算され始めていた。

 彼女は何もしていない。

 ただ、何も足さず、何も怒らず、何も騒がない。

 それだけで、世界は静かに揺れている。
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