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8話 何もしない宣言
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8話 何もしない宣言
婚約破棄から三日。
王都は未だざわめいていた。
だがルヴァリエ公爵邸の空気は、変わらず穏やかだった。
昼近く、エルフィーナはテラスに出る。
柔らかな陽光。整えられた芝。遠くで噴水の水音が響く。
テーブルの上には紅茶と焼き菓子、そして分厚い書類の束が一つ。
「お嬢様、王宮より再度の問い合わせが届いております」
家宰が控えめに告げる。
「保証更新について、最終確認を急ぎたいとのことです」
「そう」
エルフィーナは椅子に腰を下ろし、カップを手に取った。
焦りはない。
紅茶の香りを確かめてから、一口。
「期限はいつだったかしら」
「あと七日でございます」
「十分ね」
彼女は書類に視線を落とす。
王家向け借款保証。
署名欄は空白のまま。
「更新はいたしません」
あまりにもあっさりとした言葉。
家宰は一瞬だけ息を止めたが、すぐに頭を下げる。
「承知いたしました」
「理由は明確に」
エルフィーナは続ける。
「婚約関係の解消により、前提条件が消失したため。以上」
「敵意を示さない文面で?」
「もちろん」
彼女は微笑む。
「私は争うつもりはありませんもの」
ただ、条件が変わっただけ。
婚約という政治的な結びつきが消えた以上、無償の保証を続ける理由はない。
それだけの話。
「王家との関係は」
「新規契約を提示すればよろしいわ」
「条件は」
「市場価格で」
当然のことを言う。
これまでは、未来の王妃という立場を前提とした特別条件だった。
それが消えたのなら、特別扱いも消える。
「お嬢様」
家宰は慎重に尋ねる。
「殿下は、再考を求める可能性がございます」
「その時は、その時」
彼女は視線を庭へ向ける。
「契約書を持っていらっしゃれば、お話を伺いましょう」
感情で揺らがない。
泣きもしない。
怒鳴りもしない。
ただ書類を見るだけ。
それが彼女のやり方だった。
◇
同じ頃、王宮財務局。
「更新拒否だと」
財務官長の声が震える。
「正式通知が届きました」
書簡が机に広げられる。
文面は丁寧で、冷静で、非難の言葉は一切ない。
ただ、前提条件の消失を理由に再契約を求めるとある。
「再契約だと」
「保証料率は市場基準。さらに王宮支出の透明化を条件と」
財務官長は椅子に崩れ落ちる。
これまでの優遇が消える。
港湾事業は再計算。
融資は一時停止の可能性。
「王太子殿下へ報告を」
◇
執務室。
「何もしないと言っていたではないか」
アレクシスは書簡を握りしめる。
「何もしておりません」
レオンは静かに答える。
「契約を更新しないという選択をしただけです」
「それが何もしないということか」
「はい」
王太子は黙る。
違法ではない。
侮辱でもない。
ただ、特別扱いをやめただけ。
「彼女は怒っているのか」
「いえ」
「ならばなぜ」
「怒っていないからこそ、冷静に整理しているのです」
その言葉が胸に刺さる。
感情的な反発なら、説得もできた。
だがこれは理屈だ。
「……聖女の基金は」
「ルヴァリエ家経由です」
「まさか」
「継続は未定とのこと」
アレクシスは目を閉じる。
自分は光を選んだ。
だがその光を支える油を、誰が注いでいたのか。
初めて、明確に意識する。
◇
夕刻。
エルフィーナは書斎で次の書類を確認していた。
「神殿支援基金も、再審査に」
「はい」
「貧民街の炊き出しは?」
「三か月分は確保済みです」
「それで十分」
彼女はペンを置く。
「突然止めることはしないわ。秩序が乱れるもの」
復讐ではない。
混乱も望まない。
ただ、適正に戻すだけ。
「私は働きません」
小さく呟く。
「だからこそ、仕組みだけ整えておくの」
彼女は椅子に深く腰掛ける。
外では王都の夕陽が赤く染まり始めている。
婚約破棄という劇的な出来事の後、彼女は走り回らない。
王宮へ乗り込まない。
声明を出さない。
ただ、一つ一つ、前提を消していく。
その結果が、どれほど大きいかを知りながら。
◇
夜。
王宮の塔の上から王都を見下ろし、アレクシスは低く呟く。
「彼女は、本当に何もしていないのか」
答えは出ない。
だが数字は動いている。
保証は止まり、基金は再審査。
市場は様子見。
貴族たちは沈黙。
動いていないのは、彼女だけ。
椅子に座り、紅茶を飲み、書類に目を通すだけ。
それだけで、王国は揺れ始めている。
ルヴァリエ邸では、灯りが静かに消える。
エルフィーナは寝台に横たわり、目を閉じる。
「何もしないわ」
それは怠慢ではない。
宣言だ。
動かずに、世界を再計算するという。
舞踏会での一言は終わりではなかった。
本当の始まりは、この静かな拒否からだった。
婚約破棄から三日。
王都は未だざわめいていた。
だがルヴァリエ公爵邸の空気は、変わらず穏やかだった。
昼近く、エルフィーナはテラスに出る。
柔らかな陽光。整えられた芝。遠くで噴水の水音が響く。
テーブルの上には紅茶と焼き菓子、そして分厚い書類の束が一つ。
「お嬢様、王宮より再度の問い合わせが届いております」
家宰が控えめに告げる。
「保証更新について、最終確認を急ぎたいとのことです」
「そう」
エルフィーナは椅子に腰を下ろし、カップを手に取った。
焦りはない。
紅茶の香りを確かめてから、一口。
「期限はいつだったかしら」
「あと七日でございます」
「十分ね」
彼女は書類に視線を落とす。
王家向け借款保証。
署名欄は空白のまま。
「更新はいたしません」
あまりにもあっさりとした言葉。
家宰は一瞬だけ息を止めたが、すぐに頭を下げる。
「承知いたしました」
「理由は明確に」
エルフィーナは続ける。
「婚約関係の解消により、前提条件が消失したため。以上」
「敵意を示さない文面で?」
「もちろん」
彼女は微笑む。
「私は争うつもりはありませんもの」
ただ、条件が変わっただけ。
婚約という政治的な結びつきが消えた以上、無償の保証を続ける理由はない。
それだけの話。
「王家との関係は」
「新規契約を提示すればよろしいわ」
「条件は」
「市場価格で」
当然のことを言う。
これまでは、未来の王妃という立場を前提とした特別条件だった。
それが消えたのなら、特別扱いも消える。
「お嬢様」
家宰は慎重に尋ねる。
「殿下は、再考を求める可能性がございます」
「その時は、その時」
彼女は視線を庭へ向ける。
「契約書を持っていらっしゃれば、お話を伺いましょう」
感情で揺らがない。
泣きもしない。
怒鳴りもしない。
ただ書類を見るだけ。
それが彼女のやり方だった。
◇
同じ頃、王宮財務局。
「更新拒否だと」
財務官長の声が震える。
「正式通知が届きました」
書簡が机に広げられる。
文面は丁寧で、冷静で、非難の言葉は一切ない。
ただ、前提条件の消失を理由に再契約を求めるとある。
「再契約だと」
「保証料率は市場基準。さらに王宮支出の透明化を条件と」
財務官長は椅子に崩れ落ちる。
これまでの優遇が消える。
港湾事業は再計算。
融資は一時停止の可能性。
「王太子殿下へ報告を」
◇
執務室。
「何もしないと言っていたではないか」
アレクシスは書簡を握りしめる。
「何もしておりません」
レオンは静かに答える。
「契約を更新しないという選択をしただけです」
「それが何もしないということか」
「はい」
王太子は黙る。
違法ではない。
侮辱でもない。
ただ、特別扱いをやめただけ。
「彼女は怒っているのか」
「いえ」
「ならばなぜ」
「怒っていないからこそ、冷静に整理しているのです」
その言葉が胸に刺さる。
感情的な反発なら、説得もできた。
だがこれは理屈だ。
「……聖女の基金は」
「ルヴァリエ家経由です」
「まさか」
「継続は未定とのこと」
アレクシスは目を閉じる。
自分は光を選んだ。
だがその光を支える油を、誰が注いでいたのか。
初めて、明確に意識する。
◇
夕刻。
エルフィーナは書斎で次の書類を確認していた。
「神殿支援基金も、再審査に」
「はい」
「貧民街の炊き出しは?」
「三か月分は確保済みです」
「それで十分」
彼女はペンを置く。
「突然止めることはしないわ。秩序が乱れるもの」
復讐ではない。
混乱も望まない。
ただ、適正に戻すだけ。
「私は働きません」
小さく呟く。
「だからこそ、仕組みだけ整えておくの」
彼女は椅子に深く腰掛ける。
外では王都の夕陽が赤く染まり始めている。
婚約破棄という劇的な出来事の後、彼女は走り回らない。
王宮へ乗り込まない。
声明を出さない。
ただ、一つ一つ、前提を消していく。
その結果が、どれほど大きいかを知りながら。
◇
夜。
王宮の塔の上から王都を見下ろし、アレクシスは低く呟く。
「彼女は、本当に何もしていないのか」
答えは出ない。
だが数字は動いている。
保証は止まり、基金は再審査。
市場は様子見。
貴族たちは沈黙。
動いていないのは、彼女だけ。
椅子に座り、紅茶を飲み、書類に目を通すだけ。
それだけで、王国は揺れ始めている。
ルヴァリエ邸では、灯りが静かに消える。
エルフィーナは寝台に横たわり、目を閉じる。
「何もしないわ」
それは怠慢ではない。
宣言だ。
動かずに、世界を再計算するという。
舞踏会での一言は終わりではなかった。
本当の始まりは、この静かな拒否からだった。
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