働きませんわ。それでも王妃になります

鷹 綾

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10話 資金繰りの違和感

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10話 資金繰りの違和感

 港湾拡張事業の資金が凍結されてから、五日。

 王宮財務局は、これまでにない緊張感に包まれていた。

 書類の山が机を埋め、会計官たちは顔色を悪くしながら数字を追っている。壁際の掲示板には、事業ごとの支出予定と収入見込みが並び、その一部に赤い印が付けられていた。

「繰り延べられる支出は」

「三件。だが来月分までが限界です」

「代替融資は」

「打診はしておりますが、条件が厳しい」

 財務官長は額を押さえた。

 保証がない。

 それだけで、ここまで影響が出るとは思っていなかった。

 港湾事業だけではない。

 地方道路整備、王都防衛設備の更新、さらには神殿への補助金。

 王家の信用は、これまでルヴァリエ公爵家の保証を背景に組み立てられてきた。

 それが消えた。

「王太子殿下へ、正確な状況を報告する必要があります」

 秘書官が言う。

「正確に、か」

 財務官長は低く呟いた。

 正確に報告すれば、婚約破棄との因果関係が浮き彫りになる。

 それを避けて通ることはできない。



 王太子アレクシスは、報告書を前に沈黙していた。

「資金繰りが、ここまで逼迫しているとは」

「表面上は問題ございません」

 レオンが答える。

「ですが内部では余裕が削られております」

「港湾事業は止まったままか」

「はい。再契約が成立するまで、融資は実行されません」

 アレクシスは机を指で叩く。

「他の貴族家は」

「様子見です」

「様子見だと?」

「ルヴァリエ家の動向を見てから判断する、と」

 その言葉が意味するのは明白だった。

 公爵家が動かなければ、誰も前に出ない。

 王家が単独で信用を取り戻す力は、思ったほど強くない。

「父上は何と」

「再交渉を急げと」

 アレクシスは立ち上がる。

「ならば交渉すればいい」

「条件は市場基準です」

「それが問題か」

「これまでより大幅な負担増です」

 沈黙。

 王太子の胸に、初めて明確な違和感が芽生える。

 なぜ、ここまで影響が大きい。

 婚約破棄は政治的な決断だ。

 だがそれが、財政に直結するとは。

「彼女は、ここまで考えていたのか」

 小さく漏れた言葉。

「エルフィーナ嬢は常に契約を把握しております」

 レオンは淡々と言う。

「表に出ないだけで」

 ◇

 ルヴァリエ公爵邸では、別の数字が動いていた。

「王宮向け供給契約、再評価完了です」

 番頭が報告する。

「支払い期限を三十日から十五日に短縮。遅延金は通常利率」

「よろしいわ」

 エルフィーナは軽く頷く。

「他の商会の反応は」

「王宮への与信を引き締める動きが広がっております」

「当然ね」

 彼女は書類を閉じる。

「保証が消えた以上、リスクは各自が判断するもの」

 誰にも指示していない。

 圧力もかけていない。

 だが市場は動く。

 信用が揺らげば、商人は慎重になる。

「お嬢様」

 家宰が静かに言う。

「王家は再契約を求めてくるでしょう」

「その時は、条件を示せばいい」

「厳しすぎると思われるかと」

 エルフィーナは微笑む。

「市場価格よ」

 それ以上でも、それ以下でもない。

 これまでは特別だった。

 今は普通。

 それだけ。

 

 王宮。

 財務官長が国王の前で報告する。

「現状のままでは、来季予算に穴が生じます」

「原因は」

「保証消失による融資停止、並びに商会の与信引き締め」

 国王はゆっくりと目を閉じる。

「婚約破棄の影響か」

「直接的な因果関係はございません」

 財務官長は慎重に言葉を選ぶ。

「ただ、前提条件が変わったことは事実です」

 それは責任追及ではない。

 事実確認。

 だがその事実は重い。

 

 夜。

 王太子は一人、書類を見つめていた。

 数字が並ぶ。

 保証額。

 融資条件。

 支出項目。

 そこに浮かぶ、ルヴァリエの名。

「何もしていないはずだ」

 だが現実は揺れている。

 彼女は抗議も声明も出していない。

 ただ署名しなかっただけ。

 それだけで、これほどの影響。

 

 その頃、エルフィーナは静かな書斎で読書をしていた。

 灯りは柔らかく、空気は落ち着いている。

「王宮の混乱は続いております」

 マリアが小声で告げる。

「そう」

 彼女は本から目を離さない。

「市場は正直ね」

「お嬢様は、本当に動かれないのですか」

 エルフィーナはゆっくりと本を閉じる。

「私は働かないと決めたの」

 穏やかな声。

「動くのは契約だけ」

 窓の外には月が浮かぶ。

 王宮では資金繰りの再計算が続いている。

 王家の信用が初めて、数字として試されている。

 エルフィーナは椅子に深く座り直す。

 怒りも、喜びもない。

 ただ静かに、前提が崩れた世界を見つめている。

 違和感は、確実に広がっていた。

 だがそれは彼女が作ったものではない。

 選択の結果が、数字として現れているだけだった。
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