働きませんわ。それでも王妃になります

鷹 綾

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13話 焦る王太子

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13話 焦る王太子

 王宮の執務室は、かつてないほど重たい空気に包まれていた。

 机の上には山積みの報告書。港湾事業の進捗停止、小麦価格の緩やかな上昇、神殿補助金の再計算、そして王宮支出の圧縮案。

 どれも単独で見れば致命的ではない。

 だが同時に起きている。

 アレクシスは椅子から立ち上がり、書類を乱暴に閉じた。

「これは偶然ではない」

 低く、押し殺した声。

「婚約破棄の直後に、保証停止。基金再審査。流通条件変更。すべてが同時だ」

 レオンは静かに立っている。

「偶然ではありません」

「やはり彼女か」

 アレクシスの目に怒りが宿る。

「静かに復讐しているのだ」

「違います」

 即答だった。

「復讐であれば、もっと直接的です。名誉を傷つけ、貴族会議で糾弾し、世論を動かすでしょう」

「では何だ」

「契約の再評価です」

 その言葉に、王太子は拳を握る。

「言い換えれば、圧力だ」

「圧力ではありません」

 レオンの声は変わらない。

「王宮が特別扱いされなくなっただけです」

 その一言が、胸に重く落ちる。

 特別扱い。

 これまで王家は、それを当然としてきた。

 保証も、支払い猶予も、優先供給も。

 だが今は、すべてが通常条件に戻っている。

「彼女は、何も言ってこないのか」

「はい。抗議も要求もございません」

「ならばなぜ」

 アレクシスは机を叩く。

「なぜ市場が動く」

「信用が揺らいだからです」

 レオンは一歩前に出る。

「婚約破棄は政治的な決断です。だがそれは同時に、公爵家との結びつきが解消されたという宣言でもあります」

「だからといって」

「だからこそです」

 王太子は黙る。

 自分は国のために決断した。

 だがその決断は、国の基盤の一部を同時に切り離していた。

「彼女は怒っているはずだ」

 アレクシスは低く言う。

「怒っているなら、正面から来ればいい」

「怒っていないのでしょう」

「そんなはずはない」

 だが事実、エルフィーナは何も言っていない。

 公爵家からの抗議文もない。

 貴族会議での非難もない。

 ただ、淡々と契約を整理している。

「殿下」

 レオンは慎重に続ける。

「エルフィーナ嬢は、感情で動く方ではありません」

「知っている」

「だからこそ、行動は常に理屈に基づいています」

 理屈。

 市場価格。

 保証条件。

 支払い期限。

 すべてが数字。

「彼女は、私を困らせたいのではないのか」

 その問いは、どこか個人的だった。

「困らせたいのなら、もっと直接的な方法を選ぶでしょう」

 レオンは答える。

「今起きているのは、殿下の選択が前提を変えた結果です」

 静かな真実。

 アレクシスは視線を落とす。

 婚約破棄は、自分の意思だ。

 公の場で宣言した。

 その結果、前提が消えた。

 保証も基金も、特例も。

「私は、国のために」

 言葉が続かない。

 国のために動く王妃を求めた。

 だが今、国は揺れている。

「聖女の活動も縮小している」

 アレクシスは呟く。

「支援が再審査中です」

「彼女は聖女まで巻き込むのか」

「巻き込んではいません」

 レオンはきっぱりと言う。

「神殿支援も契約の一部です。前提が消えれば、再審査は当然です」

 当然。

 その言葉が、王太子の胸に重く積もる。

「私は間違えたのか」

 小さな声。

 レオンは少し間を置いて答えた。

「間違いかどうかは、まだ判断できません」

「歯切れが悪いな」

「決断の影響が見え始めただけです」

 王太子は椅子に座り込み、額に手を当てる。

 自分は理想を選んだ。

 だが理想は、数字と契約の上に成り立っていた。

 エルフィーナは動いていない。

 それがかえって、焦りを煽る。

「彼女に会う」

 突然、アレクシスは言った。

 レオンの目がわずかに動く。

「直接話す」

「再契約の件で、ですか」

「それもある」

 王太子は立ち上がる。

「彼女が何を考えているのか、確かめる」

 だがその言葉の奥には、別の感情があった。

 怒りか。

 焦燥か。

 あるいは、理解できない相手への戸惑いか。

「公の場ではなく、私的に」

「承知いたしました」

 レオンは深く一礼する。

 王太子の背中には、かすかな焦りが滲んでいる。

 理想は揺らいでいない。

 だが現実が追いついてこない。

 一方、ルヴァリエ公爵邸では、エルフィーナが穏やかな午後を過ごしていた。

 庭のベンチに腰掛け、本を開いている。

「王太子殿下が、来訪を希望されております」

 家宰の報告に、彼女はページをめくる手を止めた。

「そう」

 驚きはない。

「ご用件は」

「再契約と、直接の対話を」

 エルフィーナはしばらく考え、ゆっくりと本を閉じる。

「応じましょう」

「よろしいのですか」

「契約の話なら、聞く価値があるわ」

 感情ではなく、交渉。

「私は働きません」

 小さく呟く。

「でも、話し合いは拒まない」

 夕日が庭を染める。

 王太子は焦りを抱え、彼女のもとへ向かおうとしている。

 彼女は椅子に座ったまま、その訪れを待つ。

 焦るのは常に、動いた側。

 動かなかった側は、ただ静かに盤面を見つめている。
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