働きませんわ。それでも王妃になります

鷹 綾

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26話 噂という波紋

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26話 噂という波紋

 王都の噂は、水面の波紋に似ている。

 小さな石でも、落ちれば広がる。

 西方侯爵家の縁談は正式な発表に至らぬまま、社交界で独り歩きしていた。

「殿下は前向きだそうよ」

「いえ、まだ返答していないとか」

「公爵令嬢はどう出るのかしら」

 出る。

 その前提が、すでに誤りだ。

 エルフィーナは何も出ない。

 動かない。

 だが動かないことが、逆に波紋を大きくする。

 ルヴァリエ公爵邸の応接室。

「西方侯爵家より、さりげない探りが来ております」

 家宰が静かに告げる。

「どのような」

「お嬢様のお気持ちについて」

 エルフィーナは紅茶を置く。

「お気持ちなど、ないわ」

「そう伝えますか」

「いいえ」

 少し考える。

「伝えないで」

 否定は波を立てる。

 肯定も波を立てる。

 沈黙が一番静かだ。

「私は働かないの」

 穏やかな声。

「だから噂にも働きかけない」

 それが彼女の流儀。

 一方、王宮では。

「殿下、侯爵家は正式な返答を求めております」

 レオンが書簡を差し出す。

「急ぎ過ぎだ」

 アレクシスは眉を寄せる。

「ですが、長引けば不誠実と受け取られます」

 正論だ。

 政治は曖昧を嫌う。

 だが彼の心は、曖昧のままだ。

「公爵令嬢の反応は」

「一切ございません」

 その報告に、わずかな安堵と、わずかな苛立ちが混じる。

 何も言わない。

 止めもしない。

 引き留めもしない。

「彼女は、本当に動かないな」

「はい」

 レオンは表情を変えない。

「それが、彼女の強さです」

 強さ。

 それは時に、残酷だ。

 数日後、王都の小さな茶会で。

「公爵令嬢は余裕ですわね」

「殿下が誰と結ばれても揺るがないとか」

「さすがですわ」

 賞賛のようで、少しだけ棘がある。

 エルフィーナは穏やかに微笑む。

「殿下のご判断は、国のためのものです」

 事実のみ。

 自分の立場を絡めない。

「寂しくはありませんの?」

 無邪気を装った問い。

 彼女は一瞬だけ考える。

「寂しいとは、何を指すのでしょう」

 問い返し。

 令嬢たちは言葉を失う。

「私は、自分の椅子に座っているだけですわ」

 それ以上でも、それ以下でもない。

 夜、王宮の塔。

「彼女は何と言っていた」

 アレクシスの声は低い。

「殿下のご判断は国のため、と」

 レオンが答える。

「それだけか」

「はい」

 それだけ。

 止めない。

 嫉妬しない。

 期待しない。

 その無風が、胸に刺さる。

「私は、彼女を試しているのか」

 ふと漏れる。

「そのおつもりは」

「ない」

 即答する。

 だが無意識に、反応を探している自分がいる。

 対等であるということは、相手を揺らさないということだ。

 だが揺れないことは、存在を遠く感じさせる。

 一方、エルフィーナは書斎で静かに本を閉じる。

「噂はまだ続いております」

 マリアが小声で告げる。

「続けばよいわ」

「よいのですか」

「波はやがて消えるもの」

 彼女は窓の外を見る。

「私が石を投げない限り」

 働かない。

 噂にも、感情にも。

 だがその静けさは、王太子の心に波紋を広げている。

 近づかない距離。

 揺らがない態度。

 それは均衡を守るための選択。

 しかし均衡は、常に片側の自制に支えられている。

 王都の夜は静かだ。

 噂という波紋は、まだ完全には消えていない。

 そしてアレクシスは、自分が石を握っていることに気づき始めていた。

 投げるのか。

 それとも手放すのか。

 その答えは、まだ出ていない。
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