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第三十七話 名を失った男
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第三十七話 名を失った男
国境を越えた先の町は、王都よりも風が強かった。
石造りの家々は低く、通りは狭い。
華やかさも威厳もない。
そこに、一人の男が立っている。
粗末な外套。
磨かれていない靴。
かつて王族の証であった指には、何もない。
門を出た瞬間から、彼は何者でもなくなった。
最初の数日は、まだ余裕があった。
追放の際に渡されたわずかな銀貨。
宿屋に泊まり、酒を飲み、誰かに命令する癖が抜けないまま椅子に座った。
だが誰も従わない。
給仕は冷淡に言う。
「代金を先に」
その言葉に、彼はわずかに顔をしかめる。
かつては請求などされなかった。
請求する側だった。
銀貨は減る。
宿代は上がる。
仕事を探す。
「字は読めるか」
問われる。
「……当然だ」
だが次の問いに詰まる。
「何ができる」
答えられない。
命じることはできた。
だが働いたことはない。
拒否される。
追い払われる。
笑われる。
町は彼を知らない。
王太子だった事実は、ここでは無価値。
銀貨が尽きる。
宿を追い出される。
荷物は少ない。
持ち出せる財産はなかった。
路地裏。
焚き火を囲む者たちの中に混ざる。
臭いが鼻を刺す。
視線が鋭い。
「新入りか」
低い声。
うなずくしかない。
ここでは誰も過去を問わない。
問う意味がない。
夜が更ける。
空腹が腹を締め付ける。
隣の男がパンを持っている。
視線がぶつかる。
奪う。
奪われる。
拳が飛ぶ。
殴られる。
倒れる。
石畳に頬を打つ。
血の味。
かつて剣を持たずとも守られていた体。
今は無防備。
誰も止めない。
ここでは力がすべて。
彼は理解する。
王位とは、守られていたこと。
その保護が消えた瞬間、自分は何もない。
数日後。
さらに寒さが増す。
外套は破れ、体温を奪われる。
焚き火の場所を巡って争いが起こる。
彼は押しのけられる。
地面に倒れる。
立ち上がろうとする。
足に力が入らない。
夜風が吹き抜ける。
空を見上げる。
王城の塔は見えない。
玉座も見えない。
思い出すのは、あの日の広間。
婚約破棄を宣言した瞬間。
歓声が上がると信じていた。
誰も祝福しなかった。
それでも、自分は正しいと信じた。
平民娘の言葉も蘇る。
「お前もいずれ同じ運命だ」
歯を食いしばる。
否定したい。
だが寒さが思考を鈍らせる。
朝。
路地裏は静かだ。
動かぬ影が一つ。
通りがかりの荷車が止まる。
「凍死か」
短い言葉。
布がかけられる。
名前は問われない。
戸籍もない。
王族籍は剥奪された。
記録も削除された。
彼は、歴史の外に落ちた。
王都では新たな旗が掲げられ、市場は安定し、軍は再編されている。
国は進んでいる。
誰も振り返らない。
かつて王太子と呼ばれた男は、名もなき者として消えた。
救済はない。
歴史は、無能を記さない。
国境を越えた先の町は、王都よりも風が強かった。
石造りの家々は低く、通りは狭い。
華やかさも威厳もない。
そこに、一人の男が立っている。
粗末な外套。
磨かれていない靴。
かつて王族の証であった指には、何もない。
門を出た瞬間から、彼は何者でもなくなった。
最初の数日は、まだ余裕があった。
追放の際に渡されたわずかな銀貨。
宿屋に泊まり、酒を飲み、誰かに命令する癖が抜けないまま椅子に座った。
だが誰も従わない。
給仕は冷淡に言う。
「代金を先に」
その言葉に、彼はわずかに顔をしかめる。
かつては請求などされなかった。
請求する側だった。
銀貨は減る。
宿代は上がる。
仕事を探す。
「字は読めるか」
問われる。
「……当然だ」
だが次の問いに詰まる。
「何ができる」
答えられない。
命じることはできた。
だが働いたことはない。
拒否される。
追い払われる。
笑われる。
町は彼を知らない。
王太子だった事実は、ここでは無価値。
銀貨が尽きる。
宿を追い出される。
荷物は少ない。
持ち出せる財産はなかった。
路地裏。
焚き火を囲む者たちの中に混ざる。
臭いが鼻を刺す。
視線が鋭い。
「新入りか」
低い声。
うなずくしかない。
ここでは誰も過去を問わない。
問う意味がない。
夜が更ける。
空腹が腹を締め付ける。
隣の男がパンを持っている。
視線がぶつかる。
奪う。
奪われる。
拳が飛ぶ。
殴られる。
倒れる。
石畳に頬を打つ。
血の味。
かつて剣を持たずとも守られていた体。
今は無防備。
誰も止めない。
ここでは力がすべて。
彼は理解する。
王位とは、守られていたこと。
その保護が消えた瞬間、自分は何もない。
数日後。
さらに寒さが増す。
外套は破れ、体温を奪われる。
焚き火の場所を巡って争いが起こる。
彼は押しのけられる。
地面に倒れる。
立ち上がろうとする。
足に力が入らない。
夜風が吹き抜ける。
空を見上げる。
王城の塔は見えない。
玉座も見えない。
思い出すのは、あの日の広間。
婚約破棄を宣言した瞬間。
歓声が上がると信じていた。
誰も祝福しなかった。
それでも、自分は正しいと信じた。
平民娘の言葉も蘇る。
「お前もいずれ同じ運命だ」
歯を食いしばる。
否定したい。
だが寒さが思考を鈍らせる。
朝。
路地裏は静かだ。
動かぬ影が一つ。
通りがかりの荷車が止まる。
「凍死か」
短い言葉。
布がかけられる。
名前は問われない。
戸籍もない。
王族籍は剥奪された。
記録も削除された。
彼は、歴史の外に落ちた。
王都では新たな旗が掲げられ、市場は安定し、軍は再編されている。
国は進んでいる。
誰も振り返らない。
かつて王太子と呼ばれた男は、名もなき者として消えた。
救済はない。
歴史は、無能を記さない。
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