『婚約破棄され追放されましたが、隣国の氷の公爵様に“白い結婚”を提案されましたので、心穏やかに幸せになりますわ

鷹 綾

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3-1夫婦らしさの芽生えと、忍び寄る不穏な影

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第3章 3-1夫婦らしさの芽生えと、忍び寄る不穏な影


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 春の終わりを告げる風が、グレイス本邸の庭を優しく撫でていた。

 庭では温室から溢れる花々の香りが漂い、セレナはその真ん中で大きく息を吸い込んだ。

(……穏やか。こんな空気を吸うの、初めてかもしれない)

 追放されたあの日、倒れた彼女を助け、保護してくれたアーヴィング公爵。
 “白い結婚”でありながら、彼は毎日のように気遣いを向けてくれる。

 距離を置くどころか、むしろ――近い。

「セレナ、花の苗が届いた。植え替えるのを手伝え」

「えっ……あの、私、まだあまり上手では……」

「問題ない。私が教える」

 淡々とした声だが、妙に穏やかで優しい。

(公爵様って……本当に花の世話が好きなのね)

「そこは土をもう少し崩して……そうだ、指を怪我するから気を付けろ」

「はい……っ」

 アーヴィングが後ろからセレナの手をそっと取る。
 その瞬間――胸が跳ね上がった。

(ち、近い! ふ、不意打ちすぎます……!)

 淡々と教えているだけなのに、意識してしまうのはどうしてだろう。

 アーヴィングの手は大きくて温かい。
 その温度が、心の奥まで流れ込んでくるようだった。

「……セレナ?」

「ひゃいっ……!?」

「驚くほどのことか?」

「い、いえ……すみません……!」

 耳まで真っ赤なセレナを見て、アーヴィングは少しだけ目を細めた。

 冷徹な公爵と呼ばれる男が、こんな風に柔らかく微笑むなど――
 かつてのセレナには想像もできなかった。

(私……変な期待してない、よね……?)

 “白い結婚”――互いの自由を尊重し、干渉しない関係。
 セレナにとっては、これ以上ないほど嬉しい条件だったはずだ。

 なのに。

(……最近、公爵様を見ると胸が痛くなるのは、どうして?)

     ◇

 午後。
 セレナは使用人のアリスとともに、王都へ仕入れに出ていた。

 街に下りるのは久しぶりだが、以前のように周囲の視線を気にする必要はない。
 ――グレイス公爵夫人という身分があるからだ。

「セレナ様、こちらの紅茶は旦那様もお好きですよ!」

「そ、そうなの? では……これも買っていきましょうか」

 会計を済ませたとき。

「あれ……? あの人、倒れてない?」

「えっ?」

 通りの先で、若い女性が路肩に倒れ込むのが見えた。

 周囲の人々がざわついている。

「最近、多いわね……」
「何が原因なんだろう……こわいわ……」

 セレナとアリスが駆け寄ると、女性は青ざめた顔で息を切らしていた。

「だ、大丈夫ですか?」

「……う……あ……力が……抜けて……」

 セレナは手を取って肩を支えた。
 その女性の体は驚くほど冷たく、魔力がまったく感じられない。

(まるで……魔力を吸われたみたい……?)

 ただの疲労や病気ではない。

「アリス、馬車を! 早く!」

「はい!」

 幸い、女性は医師のもとへ運ばれ、命に別状はなかった。
 だが、医師は首を傾げていた。

「原因が……わからないのです。
 まるで魔力の根源がごっそり抜かれているような……」

 その言葉に、セレナの背筋がぞくりとした。

(魔力が……抜かれる?
 そんなこと、いったい誰が……?)

     ◇

 その夜。
 セレナはアーヴィングに、街での出来事を話した。

 アーヴィングは深く頷き、険しい顔でつぶやく。

「……王都では、ここ最近“謎の魔力枯渇症”が続いている。
 治癒魔導士ですら原因が掴めていない」

「そんな……」

「セレナ。王都へ行くときは、必ず護衛をつけろ。
 何が起きているかわからない」

「……はい」

 アーヴィングの声は低いが、そこには確かな“心配”があった。

「お前に何かあれば、困る」

(……っ)

 胸がじんわり熱くなる。

「……ご迷惑をおかけしたくありませんから」

「迷惑ではない。むしろ――」

「むしろ?」

「“お前を守る理由”が増える」

「っ!?」

 セレナの心臓は一気に跳ね上がった。

(な、なに……それ……!?)

 アーヴィングは普段通り冷静に見えるが、その目は優しく光っている。

(白い結婚なのに……そんな……)

 その夜、セレナはなかなか寝つけなかった。

(どうして公爵様の言葉だけで、こんな……)

     ◇

 その頃――王城では、王太子アレクシスが激しい頭痛に襲われていた。

「う……っ……また……」

「アレクシス様、大丈夫ですか?」

 背中をさする聖女リリアン。
 だがアレクシスはその手を無意識に振り払った。

「触れるな――っ!」

 リリアンが怯えたように目を大きくする。

「ア、アレクシス様……!? どうして……私、何か……?」

(……違う。
 だが、お前が触れた瞬間……体から魔力が消えていくような感覚があるんだ……)

 しかし、口にはできない。

 アレクシスは荒い息を整えた。

「……すまない。体調が悪いだけだ」

「アレクシス様……最近、私の側にいてくださらないのですもの……」

 リリアンが涙を浮かべてしがみついてくる。

 その瞬間――また胸が痛む。

(……まさか……)

 アレクシスの顔色が悪くなる。

(この痛み……リリアンが触れた時にしか……起きない……?)

 疑念はゆっくりと確信へ変わり始めていた。

     ◇

 一方で、セレナにはそんな王都の不穏も、王太子の体調の異変も届かない。

 彼女の日常は、少しずつ“夫婦らしさ”を増していた。

 翌朝、温室に向かうとすでにアーヴィングがいた。

「おはよう、セレナ」

「お、おはようございます!」

 いつもより柔らかい笑み。

「今日は……紅茶を淹れてみた。
 アリスに教わった」

「公爵様が……紅茶を!?」

「文句は受け付けない」

「い、いえっ、とても嬉しいですっ!」

 テーブルに置かれた紅茶は、香り高くて優しい味だった。

(……公爵様……こんなことまでしてくれるなんて)

 胸の奥が、ゆっくり、あたたかくほどけていく。

 そして――ふと気づけば。

(あれ……? 私……)

 アーヴィングの姿を目で追ってしまう自分がいた。

(まるで……本当に夫婦みたい……)

 ほんの少し、恥ずかしくて甘い気持ちが胸を満たす。

 しかし、その穏やかな時間の裏では――
 王都で“聖女リリアン”が密かに力を膨らませ、
 王太子アレクシスが絶望の淵に足を踏み入れつつあった。

 セレナの幸せな日常と、王都の不穏。

 両者はゆっくりと、しかし確実に交わろうとしていた。
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