『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾

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第5話 沈黙の中で

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第5話 沈黙の中で

 どれほどの時が過ぎたのか、分からなかった。

 耳鳴りのような静寂の中で、シルフィーネは意識の底へ沈んでいく。
 身体は重く、指先ひとつ動かせない。目を開けようとしても、暗闇しか応えなかった。

 ――ここは、どこ?

 問いかけは、声にならない。

 遠くで、誰かが名前を呼んでいる気がした。
 切羽詰まった声。泣きそうな声。
 けれど、その音は水の底から聞くように歪み、やがて溶けて消えた。



「……意識は、まだ戻りません」

 淡々とした医師の声が、重苦しい空気を切り裂く。

 白い天蓋に囲まれた寝台の上で、シルフィーネは静かに眠っていた。
 顔色は青白く、包帯が額に巻かれている。

「命に別状はありませんが……長引く可能性はあります」

 その言葉に、公爵夫妻は息を詰めた。

「娘は……娘は、目を覚ましますよね?」

 震える声で問いかけた母に、医師はすぐには答えなかった。

「……最善は尽くします」

 それは、希望でもあり、同時に現実だった。

 扉の外、廊下の陰で、ライオネルは壁に背を預けていた。
 蒼白な顔で、拳を握りしめている。

「階段から……落ちた?」

 信じられない、というように呟く。

 あの夜会。
 最後に見た、彼女の背中。
 自分が声をかける前に、視界から消えた姿。

 胸の奥が、ざわりと波立つ。

「……そんな、はずは……」

 だが、すぐに否定するように首を振った。

 ――もう、婚約者ではない。
 そうだ。自分は、正しい選択をした。

「……」

 そのとき、背後から足音が近づく。

「ライオネル様」

 アメリアだった。

 顔色は悪く、指先がかすかに震えている。
 それでも、懸命に微笑みを作った。

「大変な夜になってしまいましたわね……」

「……ああ」

 短く応じると、彼は視線を逸らした。

 アメリアは一歩、距離を詰める。

「シルフィーネ様も、きっとすぐに目を覚ましますわ。……そう、信じましょう?」

 その声には、祈るような響きがあった。
 だが、ライオネルは気づかない。

 その祈りが、誰のためのものなのかを。



 日が過ぎ、また日が過ぎた。

 屋敷に戻ったシルフィーネの部屋は、静まり返っていた。
 カーテンは閉め切られ、時間の感覚が失われていく。

 彼女は、眠り続けていた。

 目を覚ますこともなく。
 声に応えることもなく。

 ただ、規則正しい呼吸だけが、生きている証だった。

 マリアは、毎日ベッド脇に腰を下ろし、そっと手を握る。

「……お嬢様。起きてください」

 返事はない。

「夜会が……終わってしまいました。皆、帰ってしまいましたよ」

 それでも、まぶたは動かない。

 季節が、ゆっくりと移ろっていく。

 春が過ぎ、夏が訪れ、屋敷の庭の緑が濃くなる頃――
 人々は、囁き始めていた。

「……あの公爵令嬢、まだ目を覚まさないらしい」 「可哀想に……」 「運がなかったのね」

 同情と好奇が入り混じった声が、再び彼女を包み込む。

 けれど。

 眠りの底で、シルフィーネは、かすかに何かを感じていた。

 ――変わらない。

 心の奥で、静かな声が響く。

 ――私は、変わらない。

 その想いだけが、闇の中で、確かに息づいていた。

 彼女の時間は、止まったまま。
 だが、その沈黙が、やがて世界を揺らすことになると――

 まだ、誰も知らなかった。
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