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令嬢リディスと魔族の皇子 1
しおりを挟むふわりとした浮遊感の次に感じたのは、とん、と地に足がつく感覚だった。
瞬時に知らない場所にいくのは、カミ様に執拗に呼び出されたので慣れてしまった。二度もあの真っ白くて面白みのない空間に呼び出されたのも意外と役に立つものだ。唐突に景色が変わっても驚かずにいられるのだから、何事も経験が大事だということだろう。
私はぐるりと周りの風景を見渡した。
細長い空間だった。
足元も壁も、高い天井も、灰色の石で作られている回廊が長く続いている。回廊の両脇には白い光を放つ四面体が規則的に並んでいて、壁の途中途中には美しい装飾が施された小さな窓がある。
建物の作りは立派だが、どことなく薄暗くどことなく黴臭い。よくよく見ると床の端には黒い汚れや、べたべたした緑色の何かがこびりついていて、不潔にみえる。
私はクライブが履かせてくれた足首まである編み上げのブーツを履いているので、床が不潔だとしても我慢できる。だがもし公爵家のメイドたちが手を抜いて床をこんな状態にしたまま放置したとしたら、即刻呼び出して再教育である。ここがどこかのかは分からないが、この館の住人はこの状態で平気なのだろうか。
魔族というのは不潔を好む、ということだろうか。
クライブはいつも服装も髪形も立ち振る舞についても一寸の隙も乱れもなかったけれど。ちなみに一寸の隙も乱れもないというのは、きちんとお仕事をしている時であって、私と話している時は大抵精神が乱れている。
私は一先ずまっすぐ前に進むことにした。
魔族の国の誰の館にいるのかは分からないが、立ち止まっているよりは前に進んだ方が生産的だろう。真直ぐ歩けばどこかに辿り着くはずだ。
靴の底が回廊を歩くたびに、かつんかつんと音を立てる。とても静かで、色のない場所である。屋敷の様子というのは住人を表していると私は思っている。こちらの方は、館を清潔に保つ心のゆとりも、回廊に花を飾ったり絵を飾ったりといった遊び心や優雅さもないのかもしれない。
ここは魔族の国なのだし、私のいた国とは様式が違うのだろう。必要ならば教え諭して差し上げれば良いのだ。様式が違うのであれば、良いところを尊重し、悪いところを補いあえば良いのである。
回廊の窓から外をのぞいてみると、黒く深い森が見えた。
街は見当たらない。そのかわり、遠くに立派な城のようなものがぽつんと見える。城は塔がいくつか連なってできているもので、エヴァンディア王国の王城や、貴族の屋敷に比べると随分背が高い。空は曇っていて薄暗く、月の光なのか陽光なのかよく分からない薄ぼんやりとした光が、分厚い雲の隙間から差し込んでいる。
どうにも陰鬱で陰気な風景だ。景色だけでは、この世界がどのぐらい発展しているのか、まるで分からない。
「千年ぶりの来訪者だというのに、迎えの一つもありませんのね」
私は溜息をついた。
「……何をしに来た、人間」
溜息と同時に再び景色が揺れる。聞こえてきた深みのある低い声がした方向に顔を向けると、細長い回廊から一転してそこは広い部屋だった。
やはり石でできていて、なんだか少し小汚い広い部屋には、先程よりも大きな四面体の光がいくつも浮かんでいる。床には金の縁取りのある赤い絨毯が足元に敷かれていて、それだけは場違いに豪奢だ。
私の正面には骨と鉄鋼を組み合わせたような趣味の悪い大きな椅子がある。
そこには黒に近い赤い髪を持った目つきの良くない男がだらしない姿勢で座っている。彼は王国の騎士団長のように背が高く、たくましい体をしている男だ。騎士、なのだろうか。騎士団の服に似ているが、それよりも飾りの少ない簡素な服をだらしなく着崩している。あまり柔らかそうではない赤黒い髪は長く、顔にかかっている。睨みつけるように此方を眺めている目は金色で、唇は薄い。
良く言えば野性味あふれる、悪く言えば粗野な風情の男だ。
「はじめまして、魔族の方。私、リディス・アマリア・フォンテーヌと申します。エヴァンディア王国のフォンテーヌ公爵家からまいりました」
「知っている。悪食で物好きなクライブが、魔界の門をひらいただろ」
「こちら、魔族の国は、魔界と申しますのね。魔族の世界で魔界、とても分かりやすくてよろしいですわ」
ここは魔界と言うらしい。
だとしたら、私の世界は人間界とでもいうのだろうか。安易だが、分かりやすい表現ではある。
男は趣味の悪い椅子に片肘をついて、だらしない姿勢をさらにだらしなくした。
「あなたのお名前を伺っても?」
「必要ない。さっさと帰れ小娘」
男はうるさい虫でも払うように、ひらひらと手を振った。
私は目を見開いた。驚いたのだ。
これほどまでに礼儀がない人物に出会ったのは初めてかもしれない。小娘と呼ばれたのも、うまれて初めてだ。『小娘』とは、幼い少女を嘲る言葉だ。男はお兄様と同じぐらいの年齢に見えるが、吸血鬼であるクライブはとても長生きのようなので、彼も見た目よりはずっと年を取っているのかもしれない。
「私の事を小娘と呼ぶほど成熟しているのでしょうに、自分の名前も名乗れませんのね。それとも、そういった教育を、魔族の方というのは受けないのかしら。こちらの世界も、たいしたことありませんのね」
心からそう思ったので、私は魔族の方に挨拶の大切さを教えてあげる事にした。
男は目を細めると口元を歪めて、更にきつく私を睨む。
しかし視線だけで私が萎縮すると思ったら大間違いなので、私は胸を張ってそれを見返した。腹が立ったのなら言葉で表現すれば良いのだ。視線や態度で相手に伝わると思うのは傲慢な考え方である。親しい相手ならいざ知らず、礼儀をわきまえない相手の心情を慮ってあげる必要などない。
「……ジルベルト。ジルベルト・ユール・ハインゾルデ」
「ハインゾルデ様」
「ユール・ハインゾルデは先代の名だ。ジルベルトが、俺の名前」
私は首を傾げる。どういう事か分からないが、ともかくジルベルトというのが男の名前らしい。
名前が分かったので、私はきちんと挨拶をすることにした。
「ジルベルト様、はじめまして。私は、リディスと申しますわ」
「何の用だか知らねぇが、人間が来る必要のない場所だ、ここは。クライブもどういうつもりなんだか。さっさと帰れ、リディス嬢」
ジルベルトはため息交じりに、とてもめんどくさそうに言った。
私は重たい鞄を床に置くと、一歩足を踏み出した。
「ジルベルト様は、魔族の王でいらっしゃるの?」
「だったら、なんだっていうんだ?」
クライブには魔族の王の元へと送ってくれと頼んでいる。
彼が約束をたがえる事はない筈なので、だとしたらジルベルトは王族かそれに近い立場の魔族だと考えられた。
確認のために尋ねてみると、彼は苛立ったように眉間に皺を寄せる。
「きちんと答えてくださいまし。これはとても、重要で、大事な確認ですのよ?」
「なんで俺がお前の質問に答える必要がある?」
「ジルベルト様におかれましては、私ごとき小娘の質問にこたえることなど、至極簡単なことではないのですか? それとも、答えることに生死に関わるほどの労力が必要だと、そういうことですの?」
「……王であるユール・ハインゾルデはもう眠った。俺は一応、皇子ってところだな」
「まぁ、それはよろしいですわ」
ジルベルトの言っている意味は半分ぐらいしか分からないが、ともかく彼が皇子だという事が分かったので、私は両手を胸の前で組むと微笑んだ。
確認が終われば、あとは目的を果たすだけである。皇族の割に粗野で礼儀がなく、話し方も粗暴ではあるが、魔族とはそういうものなのかもしれない。
「ジルベルト様。私、あなたにこの身を捧げに来ましたの」
「はぁ?……何言ってんだ、お前」
「つまり、私は人間の世界からあなたに嫁ぎにきたと、そういうことですわ」
「……お前も、なのか」
私の申し出を受けて、どういう訳かジルベルトは両手で顔を覆って頭を抱えた。
お前も、ということは他にも候補がいるということだろうか。確かに、魔族の皇子という立場であれば、正妻からはじまり側室の十人や二十人いてあたりまえかもしれない。
正妻の座が空いていないとして、側室に迎えられたとしても、私の魅力と賢さがあれば頂点に立つことが出来るだろう。何ら問題はない。
「お前も、人間の癖に魔族の女たちと同じことを言うのか……!」
ジルベルトは頭を抱えて首を振った。
なんだかよく分からないが、千年ぶりに訪問した美しい少女であるところの私をさっさと嫁に貰わないとは、男としてどうなのかと私は呆れた。
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