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しおりを挟む私がジルベルト……、いや、たとえジルベルトが野蛮で礼儀知らずで若干の厄介さが感じられる人物であったとしても、次期魔族の王であることに変わりはない。ここは、ジルベルト様、または私の伴侶となる方であるので、旦那様と呼ぶべきかもしれない。ともかく私がジルベルト様に会いに来たのは、魔族の国を私の手中におさめて、人の世界の小競り合いを繰り返す七つの国を全て私の支配下に置くためである。
私は別に権力に固執しているわけではないのだが、理由としては統治者というのは優れた者であるべきであって、私には相応しい仕事であるということがまずひとつ。私のような優秀で可憐で神の奇跡ともいえる人物に統治される人々はさぞ幸せであるだろうということがふたつ。どうせ二回生きるのならより高みを目指すべきだろうというのがみっつ。
当たり前だが、私は別に目の前でだらしなく座っている体格だけは良い目つきの悪い男に、好意を抱いているというわけではない。好意に関して言えば、道端で出会った野良猫の方が「あぁ可愛いな」と思える分上だといえる。
つまりジルベルト様は私にとっては野良猫以下というわけなのだが、婚姻をするにはその程度の事はたいして問題にはならない。大事なのは立場であって感情ではないからだ。
しかしジルベルト様は、どうやら感情にこだわり続けて二百年、非生産的な生き方をし続けているらしい。
これは看過できない問題だ。
十六歳の私でも、今の魔族の国の状態は良いものではないと分かるというのに、己の感情に従って我儘を言い続けているなど、図体ばかりおおきいのに中身はたまに花壇の中に潜んでいるマルマル虫みたいなものだ。
マルマル虫の方が、小さくて触ると丸くなって可愛らしいという意味で、まだ良いかもしれない。ジルベルト様はお世辞にも可愛いとはいえない。
「マルマル虫……、いえ、ジルベルト様」
「今、俺の事を虫とか言わなかったか」
「いいえ、言っておりませんわジルベルト様。旦那様と呼んだ方がよろしくて?」
私が自他共に認める天使が祝福のラッパを吹き鳴らしているとでも表現するべき微笑みを浮かべて言うと、ジルベルト様は俄かに目を見開いて唇の端を歪めた。
「お前、お前なぁ、良いか小娘。悪い事言わねぇから、人間の国へ帰れ。お前のその性格じゃ、そりゃあもう嫌われてるだろうし、人間の国に居場所がないのは分かる。だからって魔族にそんなちびっちゃい体で身を捧げるとか、やめとけ。俺がもし山のようにでかくて癇癪もちで残忍なミノスみたいな魔族だったら大変なことになってだぞ?」
「若君、長く敵対関係にあった人間の娘に対して、随分優しい……、お嬢さん、もう一押し、もう一押し、その調子!」
「アスタロト、黙れ」
にこにこしながら私を応援してくれるアスタロトを、ジルベルト様は睨む。
先程から私を睨んだりアスタロトを睨んだり、忙しい方だ。
「そこに愛があれば、体格差や残忍さなどはさしたる問題ではありませんわ。ジルベルト様、いかに冷酷で残忍な方でも、私の降り注ぐ慈雨のような愛情があれば、その心を溶かす事など容易でしょう。私はたとえジルベルト様が、こう、なんていうか、ぐちゃっとして、ぐにゅっとしていたとしても、きっと愛することができましてよ」
「お嬢さん、若君はある意味ぐちゃっとしているし、ぐにゅっとしているよ」
「どこがだよ、全体的に硬いだろ俺は、触ってみろ、ほら!」
「あぁ、嫌だ。僕に男を触る趣味なんてないよ、若君。長らく他者のぬくもりに飢えているからといって、僕に触ってもらおうなんて思わないでほしいなぁ。最近の魔族の言葉で言えば、やだ、きもーい、というものだよ」
「消滅しろ、消えろ」
アスタロトは「怖いなぁ」と言いながら、くすくす笑った。
「あら、大変仲がよろしくていらっしゃるのですね。私も、ジルベルト様とそういった間柄になりたいものですわ。私、精一杯がんばりますので、末永く傍においてくださいませね、旦那様」
「……何度も言うがな、小娘。俺はお前を受け入れるつもりはねぇよ。さっさとクライブのところに帰れ、帰り道だけ開いてやる」
全く素直じゃない魔族様だ。
確かに二百年も色々と拗らせているのだから、すぐさま私に対する淡い思慕を認める事などできないのだろう。むきになって私を公爵家に帰したところで、私が恋しくなって眠れない日々を過ごすにきまっているというのに。
もう少し時間が必要なのかもしれないが、クライブが歓迎されないのを承知で世界を繋げてくれたのだから、その気持ちを無下にすることはできない。ここで引いてしまうのは、クライブの真心を無駄にしてしまうということだ。
私は少しだけどうしようかと思案する。
昔からある恋愛指南書に、押して駄目なら引いてみろ、という言葉がある。
しかし、引くと言っても私はこの世界には居場所がないわけで、誰かを頼るにしてもジルベルト様が言うように魔族の方が暴力や残虐さに特化した方が多いのだとしたら、この場所から出て他の方に頼ると言うのはあまり賢い選択とは言えないだろう。
「私は……、私は、ジルベルト様のおっしゃるとおり、人間の世界には帰ることのできない身なのです」
困った時の泣き落とし。
私の賢い頭は最大級の私の儚さと可憐さを演出する方法を思いついた。
「ほら、やっぱりな」
ジルベルト様は、にやにやと笑いながら頷いている。
私の儚く哀れさを誘う悲し気な表情を見てにやつくとは、もしかしたら嗜虐趣味でもあるのかもしれない。確かにそんな見た目をしている。
だから純粋無垢な乙女が良いとか駄々をこねていたのだろうか、アスタロトの言葉を借りれば、『やだ、きもーい』というやつだろう。意味はよく分からないが、たぶんこの表現はきっと相応しい筈だ。
「なんて可哀想なお嬢さんだ……、若君、傍においてあげたら? 人間の世界に帰れず、魔界を彷徨う様なことになっては、こんな愛くるしく無力なお嬢さんはすぐに残酷な目にあってしまう」
「そんな義理はねぇよ」
「ジルベルト様、私はただあなたの傍に置いていただければそれで良いのです。きっとあなたの役に立ちますわ」
「さっきからずっと思ってたんだが、お前は随分自分に自信があるみてぇだな。たかだか十六年しか生きていないんだろ、しかも公爵家の世間知らずのご令嬢ときた。どうせ何にもできねぇくせに、口だけはよく回って生意気だから嫌われたんだろうよ」
「私……」
ジルベルト様が得意気に言うので、私は言い淀んだ。
私を思い込みだけで糾弾する彼がとても嬉々としていたので、微笑ましかったからだ。
せっかく楽しそうにしているのだから、そっとしておいてあげるべきだろう。被虐趣味の方は、こういった状況がきっと嬉しいのだろう。
「ちょっと言い過ぎじゃないの、マルマル虫の君」
「アスタロト、今お前、なんとか虫とか言わなかったか?」
「気のせいだろう、若君。二百歳にもなって、十六歳のお嬢さんをいじめて喜ぶとか、僕はちょっとどうかと思うよ」
「いじめてねぇよ、どこがだよ、こいつの方がさっきから俺に何倍も失礼な事言ってるだろ!」
「お嬢さんは的確だよ、若君。それに君みたいな狂暴そうな男のものになっても良いって言ってくれてるんだよ、こんなに可愛くて清らかだというのに、なんて覚悟なんだ。僕は感嘆したよ」
アスタロトが褒めてくれている。
しかしジルベルト様が言っていたように、彼の言葉は信用しない方が良いのかもしれない。誉め言葉もその笑顔もどことなく空虚さがある。
とはいえ、アスタロトの心情も理解できる。ジルベルト様が魔族の女性を毛嫌いしていて、魔族がゆったりとした滅びの道を歩んでいるとしたら、人である私に望みをかけたいのだろう。ジルベルト様と私が婚姻を結んだ結果として人と魔族が和解すれば、アスタロトの危惧している破滅も解決できるのだから。
「どうせ口から出まかせだろ。他に行き場がねぇから俺に縋ってきてるだけだ」
ある意味であたっている。
とはいえ、野蛮で礼儀がなく皇子としての心構えも足りないジルベルト様を、出会って間もないというのに心から愛することができるとしたら、その方がちょっとおかしいのではないかとも思う。
「……私、嘘をつきましたわ。……私、ジルベルト様がぐちゃっとしていてぬめっとしていたとしても、愛することができますわ。けれど、出会って間もない私たちにはまだ心の距離がありますでしょう、お傍に侍る時間をくだされば、とても嬉しく思います」
「急にしおらしくなったな。……まぁ良い。……そんなに言うなら傍に置いてやる」
私は勝利を掴んだ。
「ただし、掃除婦としてな。お前がそんなに有能なら、掃除婦としてもさぞ仕事ができるんだろうなぁ」
そして私は公爵令嬢リディスから、掃除婦リディスになったのである。
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