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しおりを挟むジルベルト様の指先が、野蛮な雰囲気とは反してとても優雅に動いた。
途端に私の足元の床にぽっかりと黒い穴が開く。「若君、お嬢さんになんてことを!」とまるで感情のこもっていないどころか、愉快そうな響きさえあるアスタロトの言葉を耳にしながら、私は足元の真っ黒い穴の中へと落ちていった。
ジルベルト様がにやにやと意地悪く笑いながら手を振っているのが見える。きっと楽しいのだろう、どうやら私は二百年も誰とも通じ合わずに清い体を守り続けている、魔族の皇子の性癖も歪めてしまったようだ。
きちんと責任はとってさしあげなくてはいけない。ここはあまりの事態に恐れ戸惑い困惑する可憐な少女の姿をお見せするべきだろう。
新たな性癖を開花させてしまった責任はとらなくては。嗜虐的な愛にも応えてさしあげるのが、私の懐の深さである。
新しい場所に突然飛ばされることに慣れてしまった私にとって、穴に落とされるなどは左程驚くことではないのだが、せっかくなので「ぃや……っ」と小さく悲鳴などを洩らして、怖がる素振りをみせる。
美しく可憐な私の怯えた姿は、さぞジルベルト様の性癖に突き刺さったことだろう。案の定、ジルベルト様は最後まで私から視線をそらさなかった。二百年も意固地になっていた彼の積み上げた歳月を崩すのは勇気がいることだろうが、早く素直になって欲しいものである。
「一瞬で、というわけではないのね」
ジルベルト様の姿が見えなくなると、私は小さく呟いた。
今までは瞬きをする間に景色が変わっていたのだが、今度はきちんと落ちているという感覚がある。
スカートがふわりと広がり、足がむき出しになっている。石造りの壁や床がぐにゃりと歪んでいる奇妙な景色の中を、私はゆっくりと落ちた。
そして、巨大な獣の口の中から吐き出されるように、歪んでいない真四角の小部屋のなかに私は落とされた。
それは飾り気のない簡素なベッドだった。ぽふ、とベッドの上に落ちた私の衝撃を包んでくれたベッドは簡素な割には案外柔らかく、清潔そうに見える。
遅れて私の荷物が、私の隣に落ちてきた。
部屋にはベッドが一つと、クローゼットが一つ。窓はなく、壁に並ぶ四面体が淡い光を放ち部屋を薄暗く照らしていた。今まで公爵家の広い自室で寝起きしていた私にとっては、息苦しさを感じるほどに、狭い部屋である。
ジルベルト様はこういった狭い部屋に、麗しい少女を閉じ込めて喜ぶ特殊な趣味があるのだろう。人の趣味とはそれぞれなので、仕方ない。とりあえず、ベッドが清潔なので、良しとしよう。
私はとりあえずちょっと疲れたので、ベッドで一休みすることにした。
クライブがかけてくれたふわふわのショールを外し、ブーツを脱いで絹の靴下を脱ぐと、体が楽になる。あとは服も脱ぐことが出来たら最高なのだが、ちょっとした休息なのでそれはやめておいた。
案外柔らかい白いシーツが敷かれたベッドに横になって体を伸ばす。
「リディス、お前、散々呼んだのに気づかないふりをしたな」
目をつぶった途端に、割と大きな声が部屋に響いたので私は眉をひそめた。
いかに寛大な私でも、貴重な休息時間を邪魔されては腹が立つものである。動くときは動き、休むときは休む、これができなければ人の能力など落ちる一方だ。疲れた体で動き回り、得られる成果などたかが知れている。
たまに勘違いした我が家の新しい使用人などが、「お嬢様の為に寝ずに働きます」などと言って私に気に入られようと必死な姿を見せようとすることがある。それはそれで愛らしいものだとは思えど、根本的な間違いを犯しているので、私はきちんと指導している。
必要な時間必要なだけ働く事がより賢いのであって、必要以外の労働に勤しむのは能力が足りない証拠であることと、能力が足りないのならばそれに見合った仕事量を自分で決めるようにと。
聞こえないふりをしようと思ったが、声の主は「リディス、リディス!」と何度も熱烈に私を呼ぶので、仕方なく薄眼を開く。
狭い小部屋に、真っ白い服を着た半透明の少年が浮かんでいるのが見える。
見なかったことにしようと思った。
とうとう私への愛しさが溢れて止まらなくなってしまったのだろう、カミ様ともあろう方が乙女の寝室へと夜這いにくるとは。カミ様なのだから、適切な距離と節度をわきまえて欲しい。
「リディス、寝るなリディス、お前が呼び出すなというから、来てやったというのに」
「……そんなに私に触れたいのなら、足の先だけ、許可いたしますわ」
「ちょっと待て、指先よりも扱いが悪くないか。いや、別に触りたい訳じゃない。触りたい訳じゃないぞ」
そんなに必死に二回も言わなくても聞こえている。
必死なところから心の奥底に燻っている欲求が透けてみえるので、私は呆れた。自分に正直になれば楽になれるのに。
「それで……、カミ様はどういったご用事で、乙女の寝室にいらっしゃいましたの?」
寝転がったままというわけにはいかないので、仕方なく起き上がった。
ベッドの上で素足をさらけだした私の、無垢さと色香がまじりあった蠱惑的で希少な姿をみせてさしあげるのだから、カミ様の用事はそれに見合うぐらい重要なものでなくてはいけない。
期待を込めて私がみつめると、カミ様は少しだけ困ったように視線をそらした。
「……お前は口を開くと腹立たしいが、見た目だけは美しいな」
「カミ様、わざわざ私を褒めにいらっしゃったの? 私が美しいという賛辞は、今日の天気の話題ぐらいに日常的で当たり前のことでしてよ。せめて、褒めたたえたいのならばもっと流麗な言葉を綴ってくださいまし」
「本当に腹立たしいなお前。ここまでくるとある意味才能だな」
「私、直向きな愛情を傾けてくださる方には、愛ある対応を心がけておりますわ」
「じゃあ何故、我にはその愛ある対応とやらをしないんだ」
「特に必要性を感じないからですわね」
透明な少年は納得いかないとでもいうように、不愉快な表情を浮かべる。
「カミシール様は、創造神であらせられると言いましたわね。神様とは、全ての人々を見守り、愛する存在でしょう。私がどんな形であれ、愛してくださるのがあなたという方だと、理解しておりますわ」
「あぁ、あー……、そうだな……、我は、君のような高慢で自尊心の塊のような人間にも、慈悲を与える者だ」
「私の気高さや高貴さは、どれほど隠そうとしても溢れ出てしまいますものね、時にはそう思う方もいらっしゃるでしょう。特に自分の卑しさに気づいている方は、私の高貴さに気後れしてしまうというものですわ。カミ様、私の新雪のように滑らかで艶やかな足先に触れたいと思うその心は、けして卑しいものではありません。私が許可を与えているのですから、あなたが私を穢す罪は、私のものですわ」
「お前……、リディス、お前はちょっとは反省しないのか。そんな風だから、あろうことか魔族の城の、こんなに狭い部屋に、掃除婦として押し込まれてるんだ!」
カミ様が大きな声で言った。
体が半透明なのに、大きな声が出せるのは不思議なものだ。
「掃除婦の何が悪いのです? 確かにジルベルト様の言うとおり、私はこの場所では何も成し遂げておりません。ここは私が十六年間生きて学んだ公爵家とは違うのです。まずは掃除婦としての私の価値を示せというのなら、私は喜んでそれをいたしましょう。私の価値は、私の行動に後からついてくるものなのですから」
「そうだった、お前がやたらいさぎよいこと、失念していた」
「カミ様、あなたときたら、娼婦を嘲ったと思えば、今度は掃除婦の価値を貶めるつもりですの?」
「それは……、その、だな」
「掃除婦が居なければ、屋敷の清潔は保てませんわ。不潔な場所には病が湧き、暮らす者の心さえ狂わせてしまうもの。私たちの健やかな暮らしを支えているのは、自ら率先して手を汚してくださる掃除婦の方々ですのよ。その掃除婦という仕事を、何かの罰のようにおっしゃるのですね」
「……悪かった、リディス。でも、でもな、リディス、公爵令嬢のお前が率先して掃除婦になる必要などないだろう。ちょっと考えてみろ、魔族の皇子に身を捧げようとかいう判断も我としては、どうかと思うが、そこは最早目をつぶる。お前はまぁ、それなりに美しいんだ。あとは、シンシアのような立ち振る舞いを心がければ、ジルベルトも掃除婦にしてやろうなんて思わなかった筈だ」
ここでシンシアさんの名前を聞くとは思わなかったので、私は首を傾げた。
シンシアさんの振る舞いとはどういったものだろうか。
たとえば私の知るシンシアさんは、たいていおどおどしていて、私が話しかけると身を縮こませて涙目になった。私はその様子が見つけたと思ったら土の中にすぐ隠れてしまうアナホリヤスデに似ていたので、シンシアさんの事を「アナホリヤスデの方」と呼んでいた。シンシアさんは酷いと言って泣いていたが、似ていたのだ。アナホリヤスデは土を耕してくれる益虫なので、酷いと言われる意味もよく分からない。
「アナホリヤスデの様に生きるのは、私には困難に感じますわ」
「いや、シンシアだ。アナホリヤスデじゃない。お前それ、悪口だろ、分かって言ってるだろ」
「何の事ですの?」
「いや、なんでもない……、今度はアナホリヤスデを悪く言うのかとかなんとか怒られそうだから、やめておく」
カミ様はぶつぶつと何か呟いている。
小さな声で言うという事は、たいして重要な話ではないのだろう。
私はもう一度シンシアさんの事を思い出してみる。シンシアさんは私が「あなたのラファエル様のお心を手に入れて王妃になりたいという野心、私はとても素晴らしいと思いますわ」と言って褒めると、「私はそんなつもりはありません!」と必ず否定していた。
私と同じぐらいの年齢の令嬢の方々には、私と張り合おうという気骨のある者はいなかったので、最大級の賛辞を贈ったつもりだったのだが、シンシアさんが泣きそうになりながら否定するので、がっかりしたことを覚えている。
今にして思えば、あれも演技だったのだろうか。そんなつもりはないのに、ラファエル様が心を傾けてくれていて戸惑う少女を演出していたとすれば、中々大したものである。
「つまり、……ジルベルト様、……私、どうして良いのかわからなくて、怖いです……っ、などと言ってその腕に縋れば良いと、そういうことですのね」
「そうだ、リディス、やればできるじゃないか!」
私が口元に手を当てて怯えた素振りを見せると、カミ様は喜んだ。
まったく、愚かだ。
「カミ様、私とて時にそういった演出の必要性を感じる事はありますわ。けれど、本来の自分自身を全て偽り、おどおどと何もできない未熟な女のふりをして得られるものは、一体なんですの? そうして向けられる愛着は、私には、必要のないものですわ」
「だからってお前、わざわざジルベルトを煽って、加虐心に火をつける必要はないだろ。本来のあいつは、無力で哀れな人間の娘が自分の前に現れたら、庇護してやりたいと思うような優しさがある男だったんだ。それをお前が……」
「分かっております、私のような無垢を絵に描いたような少女に、その存在を貶めたい欲望を抱いてしまうのは全て私の罪なのでしょう。私がこの世に存在している罪なのですわ。私は、全て受け止めてさしあげます。カミ様の心配にはおよびませんわ」
「お前はっ、ほんっとうにそのうち痛い目をみるからな。我は、どこに行っても己を貫くお前を少し気に入っているが、次は助けないからな!」
カミシールは怒鳴るように言うと、その姿を消した。
私に愛の告白をしに来たのなら、もう少し雰囲気と言葉を選んで欲しいものだと思いながら、私は再びベッドに横になって目を閉じた。
もう声は響かない。今度はきちんと眠れそうだった。
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