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しおりを挟む正面玄関の扉の他に、調理場の奥に裏庭へと通じる扉があることを、探索中に発見していた私は一先ず裏庭に降りる事にした。
裏庭とは城の敷地内なので危なくないだろうとの判断からである。
手入れのされていない草木が生い茂っている庭だが、花壇のようなものの残骸と、かつては薔薇園だったのだろう、縦横無尽に鋭い棘を持った薔薇がはえているアーチのある庭園をみつけた。
小さな噴水だけは綺麗な水が流れている。空を見上げると、昼間だというのにやはり薄暗い。陽光なのか月の灯りなのかよく分からない丸い光が、空には浮かんでいる。よく見えないのは、灰色の雲が空を覆っているからだ。雨が降り出しそう、というわけではない。
どんよりした曇り空がどこまでも広がっている。
私はさくさくと草を踏んで、森へと歩く。草の合間には煉瓦が隠れている。遠い昔は美しい場所だったのかもしれない。
かつてラファエル様と過ごしたことのある王城の庭園は、よく整備された明るい日差しの差し込む心地良い場所だった。
過去を振り返らない主義の私だが、これだけ静かな場所に一人きりだと、つい思い出してしまう。
一度目の私は、十六歳の私はこんなところに来るなんて考えもしていなかった。
ラファエル様はもうシンシアさんと会ったのだろうか、郷愁にも似た感情が湧き上がる。
王立学園に入学した当初、シンシアさんを意識する事などなかったように思う。
私を直接断罪したハミルトン・アンバーというのは、長く王国の宰相を務めるアンバー家の長男にあたり、ラファエル様と同じ歳で、私の二歳年上だ。
アンバー家は国の政治を表から裏から支える存在で、王立学園入学以前はずっと家の中で政について学ぶという特徴的な決まりのある家柄なことは有名である。
だからハミルトンという名前だけは知っていたけれど、彼とは学園で会った時が初対面だった。
夜空のような暗い髪を長く伸ばして首の後ろで一つに結んでいるのが特徴的な、金色の目を持った暗い印象の青年だった。私はあまり関わったことがない。私が特別嫌われていたというよりも、ハミルトンはあまり人と関わるのが好きではない人物のようだった。
ラファエル様の側近としては私を無視することはできなかったのだろう、顔を合わせれば挨拶をする程度の間柄だった。
シンシアさんは、私には劣るけれどそれなりに愛らしい見目を持った方で、ふわりとした肩口までの栗色の髪と透き通るような青い目の持ち主だ。入学したときは数多くいる生徒の一人だったので、私は気にも留めなかった。ちょっと珍しい出自を持っていたけれど、だからといって特別気にするものでもない。
ラファエル様の隣に彼女の存在があるようになったのは、いつからだっただろう。
夏の長期休みを終えた辺りには確かもうすでに、ラファエル様の隣は彼女の居場所だったような気がする。
シンシアさんという方はいつも何かしらに困っていて、まぁ確かに、一般庶民から王立学園に来るような羽目になったら困ることも多いのだろうけれど、それを助ける男子生徒の方が多くいた。
その筆頭はラファエル様だったのだけど、例えばハミルトンだったり、次期騎士団長候補のキールだったり、薬草学の教授であるカリス先生だったり、もっと沢山いたような気がするけれど忘れてしまった。
快く思わない方たちが居たのだろう。
私の罪だと朗々と語りあげていたハミルトンの話では、私はシンシアさんを心無い男性の方たちに誘拐させようとしたり、他国に無理やり売り飛ばそうとしたり、薬学の授業の最中、課題である薬草を摘んでいる森の中で崖から落とそうとしたり、私物を焼却炉に投げ捨てたりと、それはもうやりたい放題だったらしい。
清く正しく美しいリディス・アマリア・フォンテーヌは、ずいぶん酷い事をしたものだ。
聞いている最中にあまりの酷さに呆れ果てたが、その時の私は拘束されて、話が出来ないように布を噛まされていたので黙っているしかなかった。
断罪はあっという間だった。ハミルトンの後ろで怯えるシンシアさんに視線を送ると、彼女はいつものように泣いていた。今までの罪状が私の仕業だと思っているのだとしたら、それは私の事が怖いだろう。
公爵令嬢というのは、随分と残酷な人間だと思われたのかもしれない。
ひとしきりの罪状が述べられると、すぐさま馬車に乗せられた。
「リディス。俺は昔から君が大嫌いだった。娼館で、己の罪を後悔しながら生きると良い」
ハミルトンはそんなことを言っていたように思う。
馬車の事故が起こったのは、それからすぐ後の事だった。
深い溜息を、ひとつついた。
過去の事、終わった事だ。思い出しても仕方がない。
今の私は生まれ変った、料理長リディス。ジルベルト様の良き伴侶であり、城における衣食住を活性化し、生活を整える者だ。千里の道も一歩からという言葉がある。過去を振り返っている時間はない。まずは自分にできる事を、していくべきだろう。
森の中は鬱蒼と木々が生い茂っていて薄暗い。
右や左、来た道を示す目印もない。あまり深くまで分け入ると、迷子になってしまいそうだ。
来た道が分かりやすいように、ナイフを取り出して足場を綺麗に整えながら、私は奥へと進んでいく。
食べられる草や、きのこ、木の実などは、公爵家の森とそう変わらないように思えた。
森イチゴというのも見つけた。草むらの中に小さなイチゴが沢山なっている。多分これはキイチゴなのだろう。
見知っている草花があって、安心した。よく分からないものはとりあえず摘んで、あとで食べられるのかを調べれば良いと思い、目に入ったものを手当たり次第に鞄の中に入れていく。
誰も食べ物を採取しないのだろう、天気は良くないけれど、野草や木の実はきちんと育っていて、鞄に沢山とることができた。採取というのは楽しいもので、気づけば開けた場所に辿り着いていた。
そこは透き通った水が静かに広がっている、湖だった。
とはいっても左程大きくはない。反対側まで見渡せる程度の大きさで、池というには大きく湖というには少し小さい印象だ。
アスタロトが言っていた、湖というのはこれのことだろうか。
私は足を止めて、倒木の上に座って一休みした。
かつてクロネアさんたち水精が住んでいたという場所だ。今は湖面が揺れる事もなく、生き物の気配もない。
釣り糸でも垂らせば、何か釣れるだろうかと考える。魚ならば、獣よりは手に入れるのが難しくない。
ナイフを鞘にしまって、ぼんやり湖面を見つめていた。時には休憩も必要だろう。
「……どこに行く気だ、馬鹿女。逃げるつもりか?」
低く唸るような声がしたと思ったら、私の隣に唐突に大きな人影があらわれる。
それは怒っていますと言わんばかりの表情を浮かべたジルベルト様だった。本当に、感情の起伏がとても分かりやすくて良い。それに、わざわざ追いかけてきたのだと思うと、可愛らしい。
「ごきげんよう、ジルベルト様。陽の光の下で見るジルベルト様も、とても素敵ですわね」
「機嫌を取らなくても良い、お前のそれは心にもない言葉だってことはよく知ってるからな」
「あら、本心でしてよ?」
「今更取り繕わなくても良い」
ジルベルト様は拗ねている。
私が初対面で王の心得について説教したことをまだ根に持っているらしい。
「ジルベルト様も外に出る事があるのですね」
「どういう意味だ?」
「ひきこもりの童貞皇子だという二つ名が……」
「取り繕うなとは言ったが、わざわざ喧嘩を売ってくるんじゃねぇよ馬鹿女」
私の小粋な冗談で、ジルベルト様の緊張が解れたようで何よりだ。
ジルベルト様は呆れたように嘆息した。ちょっとした冗談で怒らなくなったのは、成長した証だろう。褒めてさしあげようと微笑むと、視線をそらされる。
私の天使の微笑みが眩しすぎて直視できない気持ちはわかるが、ちゃんとみておいた方が良い。一分一秒でも私を見逃すことは、人生における大きな損害なのだから。
「起きたかと思って見に行ったら部屋には居ねぇし、またクソ蛇はお前を構ってやがるし、森にずかずか入っていくし、本当になんなんだ、お前は」
「ジルベルト様、助けていただいてありがとうございました」
「……なんだ突然」
「私、とても体調が良いのです。毒で苦しむだなんて情けない姿をみせてしまったのに、私を見捨てず救ってくださったこと、感謝いたしますわ」
まだきちんとお礼を言っていなかったので、これですっきりした。感謝の言葉を伝えるのは、とても大切だ。人として、最低限の礼儀のひとつだからだ。
「……逃げ出すほど、嫌だったのかと思ったじゃねぇか」
「なにが、ですの?」
「なんでもねぇよ。リディス、……クロネアのことは、悪かったな」
「いえ、私は地下室と正面広間を少し掃除しただけですので、特に問題はありませんわ」
「そうか、お前がそう思ってるなら、良い。あとは、あの蛇のことだが……」
「アスタロト様には良くしていただいておりますわ。それにあの方は、私がジルベルト様のものだということ、よく理解してくださっていましてよ」
ジルベルト様は、俄かに目を見開いた。
動揺しているようだ。彼は私の旦那様なのだから、こうして仲良くできるのはやはり嬉しい。
もう少し、からかってみたい気がした。
「ジルベルト様、昨日のあれは治療でしたし、せっかく触れていただいたのによく覚えていませんの。……きちんと、はじめてを、私にくださいまし」
硬い大腿に手を置いて、その顔を覗き込んでみる。
ジルベルト様は恥ずかしがって逃げるかと思ったのだが、無言で見つめられてしまい、言った私が少し照れてしまった。
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