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花嫁リディスと女神の器 1
しおりを挟むジルベルト様の寝室の隣は、元々何もない空き部屋だったらしい。
生活には不自由しないという言葉通り、その広い空き部屋は今、大きな姿見やらドレッサーやら、部屋の半分を陣取る量のドレスや装飾品などで埋め尽くされている。
それなので、リアの屋敷で着せられたドレスは、サイズが少し大きくて体を動かすには不自由だったから、はやく着替えたいという私の希望はすぐに叶った。
私を抱いてしばらく寛いでいたジルベルト様が、アスタロトと今後の相談をしにいくというので見送ってから隣室に入る。
新しい服に着替えようと思い、ドレスや部屋着が重厚感のある木製の洋服掛けにかけられて、整然と並んでいるのを眺めていると、見知らぬ誰かと服の隙間から目が合ったので、内心とても驚いた。
悲鳴こそあげなかったけれど、びくっと体は震えてしまった。
「どちら様、ですの?」
服を両手ででかき分けて、洋服がけの裏側にいる誰かに話しかける。
それは、黒いレースでできた服を着て、さらりとした金の髪を首元で切り揃えた妙齢の美しい女性だった。
虹色とでもいうのか、不思議な光彩を持つ瞳には白眼がなく、眉毛もない。眉毛のかわりに、額からは二本触覚のようなものが生えていて、その体の後ろ側には、大きな水色と黒の蝶の羽が、ぱたぱたとはためいている。
「あ、あの、あの、わたしは、メルクル、といいまして……」
服の狭間からおずおずと顔を出した彼女は、小さな声で言った。
「メルクルは、人蝶族です。人蝶族は、王妃様のお世話をしたり、城の皆様方のお世話をしたり、する、立派なお仕事を昔からしていたのですが、女と見れば攻撃してくるクロネアが怖くて、しばらく里に帰っていたんです」
「とても美しい蝶々の羽ですわね」
「はい! 人蝶族は、羽の大きさや美しさで、魔力量が決まるのです。メルクルは、大きいので、王妃様のお世話係をさせて貰えました。とても名誉なことです」
メルクルの羽が、嬉しそうに羽ばたく。
鱗粉のようなきらきらした粒子が、宙に舞ってそっと消えていく。
「ジルベルト様から、戻るようにいわれて、新しい王妃様のお世話の役割を頂きました。末永くよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますわね、メルクルさん。私、リディスと申します。ところで、何故そんなところに隠れているのです?」
「そ、それは……、あたらしい王妃様が困らないように、このお部屋の準備をしていたら、ジルベルト様とリディス様が戻ってきてしまって、それで、ご挨拶をするタイミングを見計らっていたのですけど」
メルクルは頬を染めると、洋服の後ろに恥ずかしそうに体を隠した。
「あんな、あんな、激しく熱い魔力をリディス様に注いでるのを間近で感じてしまうなんて、ジルベルト様はメルクルが隣の部屋にいるのに気づいていたでしょうに、わざわざ見せつけるなんて、びっくりして恥ずかしくて、出るに出られなくなってしまったのです」
私は左手に浮き出た紋様を眺めた。
先程のあれは、恥ずかしいことだったらしい。確かに体が溶けそうな程の気持ちよさは感じたけれど、手を繋いで口づけをしただけなので、よくわからなかった。
「あああぁ、リディス様、そんなものを刻印されておいたわしい。こんなに小さくて可愛らしい方に、ジルベルト様はへんた……、いえ、ちょっと独占欲が強いといいますか、二百年も童の貞だったから、きも……、不憫なところがあるといいますか」
「いえ、特に痛みはありませんし、ジルベルト様が私に刻んでくださったものなので、嬉しく思っておりますわ」
「リディスちゃ……、様! なんて、なんて健気で可愛らしい人族の方。このメルクルが、きらきらに磨き上げますからね、髪の先から足の先まで、全部任せてくださいね!」
メルクルは、やっと洋服の向こう側から姿を現した。
レースでできた黒の繊細なドレスは足元まであって、足先が隠れている。床の上を音もなく滑るように動く様は、蝶々が舞っているように洗練されていた。
「メルクルさん、畏まらずとも大丈夫ですわ。長くお世話になるのですから、親しくしてくださるとありがたく思います」
「良いんですか、リディス様! 実はメルクル、あんまり丁寧な言葉が得意じゃなくて」
「構いませんわ。アスタロト様が、魔族の若い方の言葉を以前おっしゃっていましたの。少し、興味がありますわ」
「……じゃ、じゃあ、リディ様って呼んで良いですか?」
「リディちゃん、でも構いませんわ」
メルクルは先程言葉に詰まっていたので、気安い方が楽に話すことが出来る方なのだろう。
私よりも少し年上程度に見えるが、実際はかなり年が上なのだから、私を幼い子供のように思ってしまうのも仕方ない。
私のお母様は私の事を「リディちゃん」と呼んでいたので、左程違和感もない。
メルクルは白目のない瞳を見開くと、ぱたぱたと羽をはばたかせた。
彼女の羽はかなり大きいので、どこかに引っかかったりしないのだろうかと思ってみていたら、どうやら透き通っているらしく、羽ばたくたびに質量などまるでないように洋服の中を通り抜けていた。
「良い、の?」
「ええ、私としても、肩の力を抜いて傍に居てくださった方が良いですし、気を張っているのは疲れますでしょう」
「リディちゃん、リディちゃん」
メルクルは何度か私の名を呼ぶと、ぺたぺたと頬を触った。細かく編まれたレースの手袋をしている指先はほっそりしていて、頬に触れるレースのざりざりとした感触が気持ち良い。
「このドレスは、アリア様のものよね。消えてしまって寂しいとはいえ、リディちゃんに自分のお姉さんのドレスを着せるとか、リア様は相変わらずきも……、いえ、ちょっと変わっていらっしゃるみたいですね。さっさと脱いじゃいましょ、メルクルが、リディちゃんに一番似合うドレスを毎日選びます。面倒くさがりのジルベルト様が、涙を流して絶賛するような愛らしくて色っぽくて可愛いものを、沢山そろえたから、安心してね」
「ありがとうございます。見慣れないドレスが増えていると思いましたの、メルクルさんが用意をしてくださいましたの?」
「そう、そうなの、そうなの。メルクルたち人蝶族は、手先が器用で、美しいものに目がないの。だから、暇つぶしに里を出て、街で仕立て屋さんなどをしていたりするの。リディちゃんの使っていたクローゼットを見たけど、使用人の服と、質素な服と、悪趣味なドレスしかなかったわ。悪趣味なドレスはアスタロト様が用意したものだと思うから、まだまともなものだけ残して、あとはお友達の仕立て屋さんに、送り返しました。リディちゃんは、お城の中で酷いあつかいをされていたの?」
「酷い、ということはありませんでしたわ」
「なら良いけど、何かあったらメルクルに言うのよ。やられたら、やり返してあげるわ。アリア様は、メルクルよりも格が高い方だったから、何にもできなかったけれど、リディちゃんはか弱い人族だもの、ちょっとおかしいお城の男たちから、メルクルが守らなくてはいけないわ」
「私、ジルベルト様以外には、クロネアさんと、精霊の方々と、アスタロト様と、リア様しか存じ上げませんけれど、皆さんよくしてくださっておりますわ」
「出てくる名前が全部良くしてくれる方々じゃないのよ、精霊たちは別にして。シュゼル様は偏屈なだけでまだまともだから良いけど……、ともかく、メルクルが傍に居るからには、リディちゃんには不自由させないです。その立ち振る舞いからして、人の国では良いお家の方だったのでしょう、まともな方々は皆いなくなったお城で、一人でよく頑張ったと思います」
小さな子供を抱きしめるように、メルクルに抱きしめられる。
豊かな胸がちょうど顔にあたるのでちょっと苦しいけれど、レースが肌にざりざりあたるのは、やはり気持ちが良い。お母様は元気だろうかとふと思ってしまったのは、圧のある胸の感触が似ているからだ。
お母様に、ジルベルト様を見せたらなんておっしゃるだろう。
お母様は体格の良い方が好きなので、きっと喜ぶはずだ。お母様がこっそり騎士団の訓練などを見に行っては、雄々しい筋肉に順位をつけていることを私は知っている。
一度物凄く深刻な表情で「リディちゃん。ソレイユも、クライブも、ラファエル様も物足りないのよ。もっと筋骨隆々の奴隷騎士などを、リディちゃんが買ってきてくれたりしないかと、お母様は常々期待しているのだけど」と言われたことがある。
私は特に理由もなく奴隷騎士を買うような趣味はない上、エヴァンディア王国には奴隷制度などなく、そもそも奴隷騎士などは存在していないので、期待にはこたえられなくて申し訳なかったのだが、きっとジルベルト様であればお母様の筋肉質な男性を息子に持ちたい、という欲求を叶えることが出来るだろう。
「話が長くなってしまったわ。話をするのが好きなのも、人蝶族の特徴で、お友達と集まると、お茶をしながら何時間でもお話をするのよ」
圧の強い胸から解放されて、私は一息ついた。
「私は、このお城の周りしかまだ知らないのですけれど、街があるのですか?」
「街にも行ったことがないなんて! 流石ジルベルト様、デートもしないまま寝室に案内して、魔力を注ぐなんて、へんし……、いえ。ジルベルト様は街には興味がないですから、メルクルと一緒に今度お買い物になどいきましょう。仕立て屋さんのお友達に、リディちゃんを紹介して、新しいドレスを作ったりしたら楽しいです、きっと!」
「はい、楽しみにしておりますね」
街があるのなら、見てみたい。
この城だけだと、どれ程の魔族の方がいるのかもまるでわからないし、どんな風に生活をしているのかも全く分からない。ジルベルト様にお願いして、近々メルクルと出かける許可を頂こうと思う。
「また話が長くなってしまったわ。そのぶかぶかのドレスを脱いで、新しいものにしちゃいましょ。髪は編んで、花を飾りましょう。綺麗な髪も傷んでいるから、手入れをして、艶々にしましょう」
私は化粧台の前のベロア生地の丸椅子へと座るように促される。
メルクルの羽がきらきら光ったかと思うと、彼女の周りに新しいドレスや、ブラシや、瓶に入った薬液などが、棚からひとりでに浮かび上がり漂った。
「まずは、全身をマッサージして、髪をとかしましょうね!」
公爵家のメイドたち数人が、一斉に私の体を手入れする日というのが週に一度ある。
素早く私のドレスを脱がすメルクルの手つきは彼女たちを思い出させて、まだこちらに来て数日しか経っていないのに少し懐かしくなってしまった。
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