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しおりを挟むメルクルに着せられた緋色のドレスは、腰に黒い大きなリボンがついていて、スカートにふんだんにレースを使っているかわりに上半身はすっきりした作りになっている。
両肩の先から黒いレースの袖が指先に向けて開いていて、歩くと至る所がひらひらと揺れて、観賞魚を連想させる。揺れる度に水色のきらきらとした粒子が微かに零れて消えていくのは、人蜘蛛族の魔力糸を織り込んでいる生地を使っているからだと教えてくれた。人蜘蛛族の方にはまだ会ったことはないが、多分人と蜘蛛とを合わせたような姿をしているのだろう。
一房だけ編まれた髪にも黒いリボンが巻きついていて、メルクル曰く「魔界の美姫と幼妻の愛らしさを掛け算して一億倍にした感じ」らしい。
ちょっとよくわからなかったが、全身に塗りたくられた月夜花の香りがする香油が心地よく、途中うとうとしてしまったので、終始話し続けていたメルクルの話は申し訳ないけれどあんまり頭に入ってこなかった。
「メルクルが勝手に話すので、これは癖なので、リディちゃんは返事をしなくて良いです」と言ってくれたのが有難かった。
私は身支度を手伝ってくれたメルクルに礼を言って、部屋を出た。メルクルは侍女としてついてくると言ってくれたのだが、遠慮しておいた。久々に登城したのだから彼女にも仕事があるだろうし、城内の散策ぐらいはひとりで大丈夫だ。
図書室は確か二階にあった筈。
ジルベルト様の部屋を抜けた回廊の先に、階下に降りられる階段は数カ所ある。
私は階段に向かい、歩いていく。
クロネアさんが頑張っているようで、薄汚れていた回廊は毎日かかさず掃除をしているように、綺麗になっている。リアの屋敷で見た木精の方々が、回廊の所々に色取り取りの花を飾っているのをみつけて、私は足を止めた。
「ごきげんよう、木精の方々。皆様は、もうこちらへと来られましたの?」
「姫様。姫様、こんにちは。……こんばんは?」
「もう少しで夕暮れですので、どちらでもよろしいかと思いますわ」
木精の方々は人数が多く、体を作り上げている葉の形や蔓の形、花の形の違いがあるものの、あまり見分けがつかない。彼ら、彼女たち、どちらなのかは分からないが、ともかく壁に彼らが蔓を組み合わせたような手で触れると、その場所には円形に組み合わさった飾り花が出来上がる。心なしか、四面体の灯りの数も増えているような気がした。
火精の方々や、水精クロネアさんは宙に浮いて移動しているが、木精の方々は高所の作業をするときに、数人で協力して積み重なるようになって行っているので、もしかしたら魔族の方々が全て空を飛べるという訳ではないのかもしれない。
「リア様に命じられて、王の元に戻ることになりました。荒れ放題だった裏庭も、表にある庭園も、明日にはとても綺麗に戻ると思います。姫様は何色の花が好きですか?」
「私は、植物ならなんでも好きですわ」
「アリア様は、薔薇がお好きでした。姫様も、お好きですか?」
「ええ、好きですわ。あなたたちの花を、私が摘んだり飾ったりさせて頂いてもよろしいのかしら」
「それは姫様のお仕事ではありませんけれど、姫様がそうしたいというのなら、とても嬉しいです」
私の腰か、太腿ぐらいの背丈の木精の方々と視線を合わせるために、私は膝を曲げる。
手を差し伸べて葉っぱで出来た頭をなでると、刈りたての牧草の束に手を突っ込んだようなふかふかした手触りだった。子供のように扱うのはあまりよくないのだろうが、私よりも小柄で声も幼いので、どうしても可愛らしく思ってしまう。
一人撫でると、それを見ていた木精の方々は次々に私の前に来て、頭を差し出し始める。
ふかふかして気持ちが良いので、飽きもせずに撫でていると、苦笑交じりの声が背後から聞こえた。
「リディスさんが優しいからといって、あまり甘えるのは感心しませんよ」
私の手を取って、立ち上がらせたのはリアだった。
上から下まで服が黒いのは変わらないが、詰襟で袖のない服を着ていて、やや身軽になった印象だ。そして、その体の後ろには、ふさふさとした毛足の長い尻尾があった。
きっとある筈だと思っていたものが見られたことがとても嬉しい。尖った耳と、尻尾があるなんて、なんて素晴らしい造形の種族の方だろうかと、感動すら覚える。
とても触りたいけれど、異性の方にみだりに触れるのははしたないことなので、ぐっと我慢をした。
「リア様、リア様、もっと花を飾りますか?」
「リディスさんは、姉さんとは違うので、城を植物園にする必要はありませんよ。ほどほどにしておきましょうか」
「分かりました、リア様。他の場所に行きます。姫様、また会いに来てくださいね」
リアに注意を受けて、木精の方々は残念そうに私の前から一歩下がった。
「はい。薔薇園や、庭園を散策できるのを、楽しみにしておりますわ」
ぞろぞろと歩いていく彼らを見送ってから、私はリアに向き直る。
彼は私の手を取ると、興味深そうに左手の甲に浮かんだ刻印を眺めた。
「リディスさん、随分なものをつけられてしまいましたね。何事にも関心がなかったジルベルトにとっては良い傾向だと思いますけど、痛くなかったですか?」
「痛みは、ありませんでしたわ」
「そうですか。それなら、良かった。……これで、リディスさんは我らが王の花嫁になりました。俺たちは、あなたに永遠の忠誠を約束します。なんなりと、命令してくださいね。夜が寂しい時も、呼んで良いですよ」
「それは、ありがとうございます。ジルベルト様がつれないときは、お話し相手などになってくださると嬉しいですわ。リア様は、これからはずっとお城にいらっしゃいますの?」
「俺やアスタロト、シュゼルの部屋は、ジルベルトのいる王の部屋を中心に左右、正面にあります。後方にあるのが玉座の間ですね。いつでも、尋ねて来て良いですよ。とはいえ、俺の役割は治安と守護なので、外に出ていることも多いんですけど」
リアは耳にかかる私の髪をすくって、そのまま首筋を撫でる。
「……リア様は、お城にいるのは苦しいのではありませんの?」
甘えたような手つきが救いを求めて居るように思われて、尋ねてみる。この場所で、彼は姉を失ったのだから、きっと辛いだろう。
過去は、変わらない。
私のように、誰しももう一度やりなおせるわけではないのだから。
「もう、大丈夫です。あまり俺に優しくしない方が良いですよ。悪い狼に食べられてしまいますからね」
リアは微笑むと、私から手を離した。
「ところで俺はアスタロトに呼ばれているんですけど、リディスさんはどこに行くんですか?」
「図書室ですわ。時間が出来たので、この世界の事をもう少し学ぼうと思いますの」
「分からないことがあったら、俺たちに聞いて良いですよ」
「自分で学ぶことも必要だと思いますわ。私は過去の女神や、大戦について、あまりにも無知なので」
過去の事を知る必要はないと思ったこともあったけれど、過去から今を知ることも大切だと考え直した。
女神やその器を恐れているわけではないが、そういった存在が、世界にとってどんな役割を担っているのか、女神とは何なのかを知りたいと思う。
もし万が一、私の前に現れる事があるとしたら、知識が力になることもある筈だ。
戦うにはまず相手を知るところから。兵法の基本である。何も知らずに争いに勝てると思ったら大間違いだ。ハミルトンに拘束されて娼館送りにされた以前の私には、それが足りなかった。
明らかに私に悪意を向けていたハミルトンや、私を見て怯えていたシンシアさんを深く知ろうとしなかった。我ながら怠惰だった。
「分かりました。図書室には、まだシュゼルが籠っているみたいですけど、どうせ隠れて出てこないと思うので、放っておいて良いですよ」
「無理に会おうとは思いませんけれど、顔を合わせる事ができたら、ご挨拶させていただきますわ」
私はリアと挨拶をして別れた。反対側に歩いていくのを暫く見送った。尻尾を外に出すことのできる構造になっている服と、歩くたびに揺れるふさふさの綺麗な毛足の尻尾を眺める。
かなり、とても、うずうずしてしまった。多分リアには、途中で尻尾を目で追っていた事に気づかれている気がする。動くものを目で追ってしまうのは、動物の習性なので仕方ない。
アリアにも会ってみたかったと思う。リアによく似た容姿の女性で耳と尻尾があるなんて、とても良い。女性であれば遠慮なく触ることが出来ただろうし、有能な美少女であるところの私が傍に居れば悲しい結末にはならなかった筈だ。産まれる時代がもう少し早ければと、残念でならない。
階段を降りて、二階の図書室の扉を開く。
扉は木製で薔薇のレリーフが彫られている。アリアは薔薇が好きだったと言っていたけれど、私の手の甲に浮かんだジルベルト様の魔力紋も薔薇の形をしているので、アリアが好きだったのは薔薇ではなくて王であったユールの事だったのかもしれないなと、ふと考える。
考えていることや感情が自然と相手に伝わるというのは幻想で、結局言葉にしないと分かり合えないことが沢山ある。アリアには、それが足りなかったのかもしれない。当時の事を見たわけではないから、勝手な想像に過ぎないのだけど。
扉の先の部屋は、天井までの本棚に本がぎっしりと並んでいて、ところどころに梯子がかけられている作りになっている。中央にはいくつかの机と椅子が置かれた広い空間だ。天井は高く、吹き抜けになっていて、天窓から空が見える。
奥にもずっと本棚が続いている。部屋の奥にシュゼルが隠れているらしいけれど、人の気配は感じられない。
世界の歴史や、神についての本は無いかと背表紙を眺めて歩き、何冊か目ぼしいものをみつけると、両手に抱えて机の上に並べた。
「リディス、上手くいっているようで安心した」
椅子に座って本を開こうして、私は手を止める。
私の正面の椅子に、久々に目にする半透明の少年が座っていた。
「ごきげんよう、カミシール様。随分ご無沙汰しておりましたわね」
「色々あってそう感じるだけだろう。前回話した時から、そう多くの時は経っていない」
「確かに、そうかもしれませんわ。今回はどういったご用件ですの、何か言われるようなことはしていないように記憶しておりますけれど」
「ジルベルトとは大丈夫そうだな。お前は、前回のようには、ならないだろうと……、思う」
「一つ前の出来事に後悔があるわけではありませんわ。もう一度生きるだなんて余計な事をするカミ様だと思ったこともありますけれど、やり直させてくださったこと、今は感謝しておりますわ。知らない世界を見ることが出来て、今はとても楽しいのです」
ジルベルト様が私という天が齎した奇跡に出会うことが出来て、王として生きる事を決意することができたのは、私のお陰であり、カミシールのお陰でもある。
素直に礼を言うと、カミシールは居心地が悪そうに視線を逸らした。
てっきり、そうだろうと言って偉ぶるのかと思ったけれど、珍しい事もあるものだ。
「リディス……、女神エルヴィーザについて、知りたくはないのか?」
「ええ、今から調べるつもりですの」
「世界を作ったのは、我だ。エルヴィーザのこと、ハインゾルデのことは、よく知っている。……我が、」
「カミ様、それはよくないことでしてよ」
私はカミシールの言葉を遮った。
古い紙の香りがする図書室は、会話をしなければとても静かだ。話をしている私たちが異物のように感じられる。
「カミ様というのは、全てを知っているのでしょう。愛しい私の手助けをしたいというお気持ちは、有り難いのですけど、あなたから話を聞くのは、狡いことと思いますわ」
「ずる……、くはないだろう。ただの昔話だ」
「一度やり直させていただいている私は、やり直せない方よりも……、恵まれているのです。だから、これ以上あなたの力を頼ることはしませんわ。カミ様、そう心配せずとも大丈夫です、私はリディス。ジルベルト様の花嫁にして、至高の美少女ですのよ」
カミシールは、しばらく黙って私を見ていた。
それからふと今までにない慈愛に満ちた笑みを浮かべて、「わかった」と言って姿を消した。
なんとなく、この先はもうしばらくは、彼の姿を見ることはないような気がした。
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