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しおりを挟む『創世記・或いは聖典』と書かれた分厚い本のページを捲る。
表紙だけは新しいようで、紙の質感が違う。中の頁は、捲るとぼろぼろに崩れそうに古めかしい。
私の知る文字に似ているが、ところどころ見たことのない文字も紛れている。多分古い言葉なのだろう。
「世界は平たく丸い……の上に作られている……?」
そんな一節から、文章は始まっている。
「……は、せかいのはじめ、に、……を、……した?」
見知らぬ単語を飛ばして読むと、まるで意味がわからない。
私は小さく溜息をつく。最後までこんな調子かと思うと、頭が痛くなりそうだ。
時間をかけて数十頁読み進め、私は天窓を仰ぐ。日没が近づいている。青白い月が見える。
「世界は平たく丸く巨大な、スープ皿の上に造られている」
結局理解出来なかったので、一番はじめの頁に戻った。古代語の辞書などはあるだろうかと考えていると、抑揚の無い雪山から切り出した冷たい氷を連想させる声が真後ろから聞こえた。
人の気配など一切しなかったのだが、振り向くとそこには、フードで顔を半分隠した小柄な青年が立っていた。
小柄といっても、私よりは背が高いのだろうけれど、体の線が細く身に纏っているローブが大きくて布が余っているせいで余計小さく見える。
顔を隠している灰色のローブは袖も裾も長く手先まで覆われている。ローブの隙間から見える瞳は美しい空色だ。さらりとした白い髪の所々に、宝石の飾りのようなものがついている。
多分彼が、精霊たちの王シュゼルなのだろう。会えないのかと思っていたのだが、やはり私の姿を一度みてしまえば、つい言葉を交わしたくなってしまうのは自然の摂理である。私という存在の前に、引き篭もるなどは不可能だ。
「……シュゼル様、ですわね。私、リディスと申します」
「ジルベルトの花嫁」
「ええ、そのようです」
見知らぬ方に改めて言われると、なんとなくくすぐったい。
シュゼルは音もなく私の前にくると、先程カミシールがいた場所に座った。
「強い力の、残滓がある。誰かと話していた?」
「……一人きりでしたわ」
ジルベルト様にも話してないことを、先に言う訳にはいかない。
あきらかに嘘だと分かるだろうけれど、私は首を振った。
シュゼルは特に表情を変えることなく、小さく頷く。
「そう。別に良い。……何故古代史を?」
「私の国では、……人の国では、過去の大戦やあなたたちの事、女神エルヴィーザ様の事は、大多数の人々の中では物語に成り果てておりますわ。こういった書物も、残っておりませんの。だから、知りたいと思いましたのよ」
「それは、消えたエルヴィーザを、ルシスの亡霊が追い続けているから」
「それもありますわね。その理由をジルベルト様に尋ねるのは、残酷ですもの。それに、歴史を知ることは大切ですけれど、私が知りたいのはあくまで歴史であって、感情が伴わない書物が一番適していると考えますわ」
シュゼルの眉や口元はフードで覆われているので、表情が読めないが、静かな眼差しからは特に不快感は感じられない。
一緒にいるのに、一人きりで座っているような気分になる程、静かでどこか希薄な方だ。
「ジルベルトは……、王の記憶を継いでいる。ルシスの妄執、ユールの嘆き。それから……、アリアの絶望」
「アリア様は……」
「アリアは消える前に、ジルベルトに魔力を託した。アリアの魔力には願がこもっている。女神の器に対する怒り、エルヴィーザを二度と復活できないように殺してやりたいという激しい憎しみ」
「まるで、呪いのようですわね」
「そう。呪い」
「安心してくださいまし、私の母なる大地のような愛情の前では、呪いも無力でしてよ」
ジルベルト様の苦しみは、私と出会うことでもう終わった。
シュゼルは首を傾げる。髪に散らばる赤や青の小さな宝石が、きらきら光った。
「文字が、読めない?」
「ところどころはわかるのですが、古い文字のように思いますわ」
「そう。この本は、一番初めの、古いことが書いてある」
シュゼルの言葉と共に、頁がぱらぱらと捲れる。
「あるひとりの神が、世界を作った話。スープ皿を海で満たし、大地を浮かべた。七つの大地に、七人の女神。それは神の娘たち。エヴァンディア王国に降り立ったのは、長女エルヴィーザ」
先程言葉を交わしていたカミシールのことを思い出す。
思いのほか、カミ様はエルヴィーザ様と親密どころか親子の間柄であったらしい。いつもと違う彼の様子も頷ける。私たちでいう親子とは少し違うかもしれないけれど、心情的には似たようなものだろう。
私は断ってしまったけれど、自分の娘のことだ、話したいことがあったのかもしれない。
「七人の女神に、七人の人の王。やがて、それぞれの土地に街ができた。繋がった大地の中心に、人ではない種族の王。ハインゾルデ様は、人に似た人ではないものを、人と交わり作り上げた」
「私の国、エヴァンディア王国を興したのは、エルヴィーザ様と、初代エンデバラード王ということですのね」
「最初の人の王の名はエンデバラードと言った。私は、よく知らない」
「シュゼル様たちは、ハインゾルデ様が作った最初の方々ですの?」
「私と、アスタロト、リアとアリア、クライブは、最も古い者。ハインゾルデ様はある時、ルシスに全てを託し、消えてしまった。ルシスは女神エルヴィーザを欲しがった」
シュゼルの見てきたことなのだろうが、端的でまるで他人事のような口ぶりだ。
本を読み上げているだけ、のようにも聞こえる。
「エルヴィーザ様はエンデバラード王家にいたのでは?」
「エルヴィーザは、神殿に居た。王の隣にあったのは、遥か昔の話。エルヴィーザはルシスを嫌い、命を絶った。女神は神の娘、本当の意味での消滅はできない。魂は彷徨い、やがて女神の器が産まれた」
捲られた本は、少女の上に高盃が描かれた頁を開いた。
「それは、女神エルヴィーザ様の魂を宿した、人間のことだとお聞きしましたわ」
「多くはエルヴィーザだと自覚のないまま、終わる者。今まで、女神として覚醒した者はいない」
「ルシス様は、エルヴィーザ様の器の存在に気づいたのですね」
「そう。女神の器は、産まれたことが分かると、エンデバラード王家が保護をする。ルシスは、大戦に乗じて奪おうとしたけど、敗れた」
「王家が……、ルシス様がきっかけで、大戦がおこりましたの?」
王家が保護をする、女神の器。
なんだか、胸がざわめく。嫌な感じがする。
内心の動揺を隠しながら、私はシュゼルに尋ねた。確かアスタロトは、最初は一部の魔族と人との争いから始まったと言っていた。
「違う。大戦は、血塗れクライブと傀儡師アスタロトのせい。ルシスは、関わっていなかった。この話は、また明日。ジルベルトが、探してる」
「ありがとうございました、シュゼル様。また明日も、お話してくださいますの?」
「気が向いたら、また」
シュゼルは、立ち上がると図書館の奥へとゆっくり歩いていく。
私は机に並べていた本を、本棚へと戻した。読みたいものは沢山あったが、また明日にしようと思う。
ジルベルト様が私を探してくれているのに、共にある時間を読書に費やすというのは失礼だろう。
私はシュゼルの後ろ姿に向って優雅に礼をすると、図書室を出た。
エンデバラード王家が、女神の器を保護していた。
その言葉が頭の中から離れない。奇妙な不安感が胸の奥に溜まっている。私は女神の器という方を知らなかったし、王家が保護をしていたことも知らなかった。
或いは、前回の生で私がラファエル様と正式に婚姻を結んでいたら、知らされていたのかもしれない。
もしくは、次期フォンテーヌ公爵であるソレイユお兄様は、知っていたのかもしれない。
それはきっと、私には伝える事が出来ないぐらいに、重要な秘密なのだろう。
「……女神の器が王家にいると知られたら、魔族が攻めてくる、と思っているのかもしれませんわね」
小さく呟いた。
ルシスがそれを欲している事を王家がずっと危惧しているとしたら、再び激しい大戦の引き金になってしまうと考えているとしたら彼女の存在は、魔族に対する交渉の切り札に成りえる。
代々王家を守ってきた宰相のアンバー家、私を糾弾したハミルトン・アンバーは、きっと知っていたのだろう。彼らが中々表舞台に顔を出さないのは、秘密を守る者たちだから、かもしれない。
想像の域を出ないが、そう間違った推測ではない気がする。
「……もしかしたら」
胸の奥が締め付けられるような、嫌な感覚に私は立ち止まる。
廊下の壁に手をついて、ふらつきそうになった体を支えた。もう忘れなくてはいけないのに、ラファエル様に手を引かれ、夜会で嬉しそうに微笑んでいるシンシアさんの姿が、閉じた瞼の裏側に浮かぶ。
別に、大丈夫だった。
辛かったわけでも、苦しかったわけでもない。困ったものだな、と思っていただけだ。
けれど、本来ならラファエル様の隣に並ぶことなどあり得ない、ただの男爵令嬢のシンシアさんがああして特別な扱いを受けていたのは、ラファエル様としかまともに言葉を交わさなかったハミルトンが、シンシアさんを守っていたのは、それは、シンシアさんが。
女神の器、だから?
「リディス!」
強い声に、名前を呼ばれて私は顔をあげる。
壁を支えに立っていた私を、ジルベルト様が助け起こして、抱えあげてくださる。
その温かさや力強さに安心して、胸の痛みが消えていくのを感じる。
「どうした、大丈夫かリディス、体の調子が悪いのか?」
「特に、不調ではありませんわ。……少し、考え事をしていて」
「シュゼルと何かあったのか?」
「いいえ、シュゼル様とは少し話をしただけです。読めない文字を教えてくださいましたの、優しくて良い方でしたわ」
ジルベルト様は何か言いたげに、私を見る。
私はやはりどうしても、話す気にならなくて、視線を逸らした。
シンシアさんが女神の器かもしれないだなんて、ただの憶測だ。私は、今回はシンシアさんに会っていないし、本来ならシンシアさんの存在も、学園に行かずにラファエル様の婚約者を辞退した時点で、知らないままの筈だった。
それを知っているのは、私が二度目だから。二度目だからできる憶測は、本当ならできない筈のもので、してはいけない狡いものだ。
「……シュゼルから、聞いたのか。ルシスのエルヴィーザへの執着は、異常だった。だがそれは俺とは、関係ない。俺はユールのようにはならねぇし、お前が気に病むことは、何もない」
「ジルベルト様が私を深く愛してくださっているのは、よくわかっていますわ。私は愛らしく清らかで、ジルベルト様の二百年にも及ぶ禁欲生活を終わらせた、女神にもまさる完璧な美少女ですもの」
ジルベルト様は安堵したように笑うと、嬉しそうに私の頬や額に口付ける。
まるで、大きな動物にじゃれつかれているようだ。
「あぁ、俺は心底、お前に惚れ込んでるよ、リディス。お前はそうやって自信に満ちている方が、良い」
私はジルベルト様の首元に頬を寄せる。
誰かにこうして甘えたことは、今までなかったような気がする。胸の奥が、暖かくなるのを感じた。
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