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しおりを挟むジルベルト様の首に腕を回し、首元に頬を擦り付けて、その筋張った硬い感触や、時折触れるつんつんした髪の肌触りを暫く楽しんだ。
お兄様に抱き締められたことは何度かあるけれど、お兄様は細身でしなやか、私に似て美しく女性的ともいえるので、その感触はまるで違う。
ジルベルト様をはじめて見たときは粗野な方だと思ったけれど、今では野性味溢れるその姿は、森の主と言われている滅多に人前には姿を見せない、タテガミライジュウに似ていると思う。馬よりも大きく、長い金の毛皮を持った獣で、その毛皮は驚くほどの高値で取引されている。
そのため捕獲に行く冒険者も多いが、大多数は出会えないか、出会ったとしてもタテガミライジュウに狩られて命を落としてしまう。
私も本でしかみたことはない。冒険者だったノワールさんは、「あれを狩ろうとするなんて馬鹿だ。タテガミライジュウは、こちらが敵意を持たなければ穏やかに接してくれる。賢い獣だよ」と言っていた。
一度で良いから見てみたいと思う。
そんなことを考えながらジルベルト様を見上げると、慌てたように視線をそらされる。
「ジルベルト様?」
「……リディス、……食事の準備ができたと、呼びに来たんだった、忘れるところだった」
僅かに頬が染まり、声が上擦っている。
私はジルベルト様の染まった頬に手を添えた。
「今、私の愛らしさにときめいて、一歩間違えたらけだもののように襲いかかりそうになりましたわね?」
「なってねぇよ! そこまでしねぇよ、こんな所で」
「こんな場所じゃなければ、そうしていた、と。私としては今すぐにでも構いませんわ、私はあなたの花嫁なのでしょう?」
「あぁ、くそ、俺の覚悟やら下準備やらが馬鹿らしくなってくるな……、本当に今すぐ食ってやろうか」
抱き抱えられていた姿勢から、壁に押し付けられるように拘束される。
腰に腕がまわり、片手は壁についていて、ドレスの狭間に足が差し込まれている。私の両足は床から浮いていて不安定なので、ジルベルト様の背中に回した両手で服を掴んで縋り付く形になっている。
ジルベルト様にしては大胆な行動に嬉しくなってにこにこ見上げていると、深い溜息をつかれた。
「少しは、怖がるとかしねぇのか……」
「旦那様を怖がる必要がどこにありますの?」
「男は狼なんだよ、リディスちゃん。リアじゃないけど」
声のした方に視線を向けると、アスタロトが廊下の先からこちらに歩いてくるのが見える。
ジルベルト様はもう一度溜息をついて、壁に押し付けていた私を解放した。ちょっとだけ、残念なような気がした。
「若君、こんなところで女の子に乱暴するなんて、僕はそんな子に君を育てた覚えはないよ」
「お前に育てられた覚えはねぇよ!」
「リディスちゃんがあんまり可愛いからって、こんな人目につく場所でだなんて、どうかと思うよ僕は。さかりのついた獣じゃないんだから、リアじゃあるまいし」
アスタロトは思い出したようにぽん、と手を打った。
「そういえば君の母君はアリアだったね。よく考えたら人狼族の血筋も混じっているわけだから、リアのように発情期があってもおかしくないか。だからといって、やっぱり廊下でリディスちゃんを貪ろうとするのはちょっといただけないかなぁ」
「してねぇ……わけでも、ねぇのか。お前に言われる筋合いはねぇし、お前もリアも似たようなもんだろうが。それよりお前、リディスに毒を盛ったのを忘れた訳じゃねぇだろうな?」
「あれは不慮の事故だったんだよ、若君。僕だって間違えるときはある。ねぇ、リディスちゃん?」
私は凭れていた壁から離れて、アスタロトが良く見えるようにジルベルト様の横に立った。
腕で隠そうとしてくれるのはきっとジルベルト様の優しさだろう、特にアスタロトが怖いという訳ではないのだが、守ろうとしてくれているのはよく分かる。
癖の強い方を笑顔であしらうことが出来てこそ一人前の淑女といえるので、私一人でも大丈夫だ。けれど、ジルベルト様の行動は野良猫が敵を威嚇しているようで可愛らしい。折角なので私は腕の後ろに少し体を隠した。
「はい、特に気にしておりませんわ」
「気にしろ、リディス。出来るだけこの蛇には近づくなよ」
「あぁ、嫌だ、嫌だ。リディスちゃんに花嫁の印を刻んだからと言って、自分のもの扱いして。独占欲の強い男は嫌われるんだよ、若君。やっぱり、二百年も童貞でいるっていうのはよくないものだね。今まで我慢に我慢を重ねてきた欲望がリディスちゃんにだけ向いてるわけだから、リディスちゃんが他の男と話すだなんて、許せないんだろうねぇ。困ったなぁ、僕としてはリディスちゃんとも若君とも、仲良くやって行きたいんだけど」
「そうしてぇなら、少し黙れ」
「えー……、嫌だよ。無口な若君と、どろどろのクロネアと、不機嫌なシュゼルに囲まれて、僕まで黙り込んじゃったらこの城は終わりだったよ、終わり。僕のお陰で、少しは明るく楽しく過ごせていたんだと思うよ。若君には感謝して欲しいぐらいだね」
アスタロトのいう事も一理あるのだろう。
ジルベルト様は不機嫌そうに視線を逸らし、アスタロトは嬉しそうに微笑んだ。
今日のアスタロトはいつにもまして饒舌で、機嫌が良いように見える。彼の場合は、腹の底が見えないので、上機嫌も表面だけの事なのかもしれないけれど、疑ってかかるときりがないので深く考えない方が良いだろう。
そういえば、シュゼルが大戦のきっかけは、クライブとアスタロトのせいだと言っていたけれど。
クライブは今でこそ『フォンテーヌ家の愉快な執事』なのだけど、過去は『血塗れクライブ』などと物騒な呼び名がついていたらしいので、何かあるのは分かる。
アスタロトも『傀儡師』という二つ名は、けして良いものではないので、何かあったのだろう。
彼と話していて、心優しい穏やかな人物とはいえないことは分かっているので、今更驚く事でもない。
どちらにせよ過去の事だ。
「アスタロト様は、ジルベルト様を支えていらっしゃいましたのね」
「そうなんだよ、リディスちゃん。僕だけがまだ少しは、まともだったんだよ。でも、リディスちゃんが来てくれたおかげで、メルクルたち人蝶族のメイドたちも戻ってきてくれたし、精霊たちも戻ってきてくれたし、久々に元の活気があった時代の城に戻れそうだ」
「それは、良かったです。メルクルさん以外にも、人蝶族の方がいらっしゃいますのね」
「そうだよ。元々人蝶族の女性たちは、城勤めする者が多かったんだ。彼女たちはよく気が利くし、手先が器用だからね。それに、綺麗な羽を持っているのに魔力量に乏しくて無力な者が多いから、ここに居た方が安全だったということもあるね」
「そうですの。女性が増えるのは、嬉しいですわ。私とクロネアさんしかいないので、少し寂しいと思っておりましたのよ」
「クロネアが怖くて皆逃げてしまっていたからねぇ。あの子も、そろそろ湖に帰さないとね。過去は消えないだろう、クロネアの顔を見るのは嫌だという者も多いからね」
今のクロネアさんは、ミズイロウミウシ時代のクロネアさんとは違うけれど、危害を加えられた方の心の傷がそれで消えるわけではないだろう。
クロネアさんも、湖に戻った方が心穏やかに過ごせるような気がする。
きっとクロネアさんは私に会えなくて寂しいだろうから、時々はお食事などを差し入れしてあげよう。
「アスタロト、何しに来たんだ。立ち話をしに来たわけじゃねぇだろ?」
ジルベルト様に問われて、アスタロトは苦笑した。
「そうだった。食事の準備が出来たのに、若君とリディスちゃんが帰って来ないといって、火精達が困っていたから、見に来たんだった」
「あぁ、……それならそうと、さっさと言え」
「だって、こんな廊下でだなんて流石の僕も驚いてしまって。ねぇ、リディスちゃん。今日は君を正式に、若君の……、僕たちの主の花嫁として、お城に向える記念すべき日なんだ。リアと僕も、お祝したいから、同席しても良いかな?」
ジルベルト様がとてつもなく嫌そうな顔をする。
今にも否定の言葉を言いそうな気配を感じて、私はジルベルト様の服の裾を引っ張った。
此方に向く視線を見上げて、私はそっと囁いた。
「ジルベルト様、アスタロト様もリア様も、これからあなたを支えてくださる大切な方々ですわ。一人では、国を治める事はできませんもの。私を奪われることを不安に思っているからといって、無下に扱ってはいけませんわ」
「……実際その通りなんだが、お前の口からそれを言われると、なんか違う気がしてくるな」
「私、ジルベルト様を一番に想っておりますわ」
「……お前な、そういえば俺が折れると思ってるだろ」
「あら、違いますの?」
微笑んで小首を傾げて見せると、ジルベルト様は本日何度目かの溜息をついて、小さな声で「違わねぇな」と言った。
私はジルベルト様の腕に手を絡めると、アスタロトに視線を移す。
「是非、ご一緒いたしましょう。ジルベルト様もそうしたいと、おっしゃっていますわ」
「目の前でそれだけいちゃいちゃされると、妬けるよりも先に呆れてしまうよね。リディスちゃん、これからも若君をよろしくね」
「はい。病めるときも健やかなるときも、共に在るのが、契を交わした伴侶というものですわ」
「心強いね。じゃあ若君、リディスちゃん。立ち話もなんだから、行こうか。リアも呼んできてくれる?」
アスタロトが何もない空間に話しかけると、どこからともなく現れた火精の方が「はい」と返事をして廊下の奥へと消えていった。
私はまだ目と鼻の先にある図書室の扉が気になり、ジルベルト様に尋ねてみる事にした。
「シュゼル様は、呼びませんの?」
「シュゼルは来ねぇだろ。元々、そういう奴でもねぇしな」
「リディスちゃん、シュゼルと話したの? 凄いねぇ、流石リディスちゃんだね。いつもなんだか一生懸命だし、ついつい構いたくなるもんねぇ、リディスちゃんて。シュゼルが口をきいたのは、何年ぶりだろうね? 僕は話してないんだけどさ」
アスタロトが驚いたように言った。
シュゼルはどちらかというと寡黙な方なのだろう。
彼の話は勉強になったし、余計な感情が会話に混じらないところも好感が持てる。明日も会えるだろうかと図書室をみつめていたが、ジルベルト様に促されて私は図書室に背を向けた。
それから、ジルベルト様に手を引かれて廊下の先へと向かい歩き出した。
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