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しおりを挟む自然と左右に分かれていく人込みを抜け、一際目立つ大きなお店の前まで来るとメルクルは立ち止まった。
二階建ての建物の屋根は大きな蓮の花で出来ている。緑色の平らな葉っぱの中から、薄桃色の花がゆらゆらと風に揺れている。
掲げられた看板には『クイーン・アイリスの店』と書かれていた。きっと店主の名前なのだろう。
「着きました。着きましたよ、ジルベルト様、リディちゃん。こちらが私のお友達で、王妃様のドレスを古くから作られている腕利きのデザイナー、人蝶族のアイリスちゃんのお店です」
「皇室御用達ともなれば、有名な方ですのね」
「洋服やらドレスやらは、メルクル達に任せきりだから詳しくなくてな。俺は面識はねぇんだが、名前だけは聞いたことがある気がする」
私の国でも貴族が懇意にしている仕立て屋は、市井でも人気がある。
高名な仕立て屋ともなれば時には晩餐会に呼ばれるぐらいにその地位は高く、人気の高い者を抱え込むことが貴族の地位を上げる事にも繋がったりもする。
知らないと首を振るジルベルト様に、メルクルは微笑んだ。
「リディちゃんのドレスは、メルクル達人蝶族に任せてくだされば間違いないのです。リディちゃんは元々とっても可愛らしくて美しくてどんな服を着ても似合うので、その魅力を更に更に爆上げするのがメルクル達の役目なのですよ」
「ええ、信頼しておりますわ」
ばくあげ、というのはメルクル達若い魔族の女性たちの間で使われている、若者言葉なのだろう。
時々そういった単語が会話に紛れるので、なるだけ覚えておくようにしている。
せっかくなのでいつか日常会話で使ってみたいと思うのだが、中々難しい。
「リディちゃんは、メルクルがお城に戻るまで、使用人の服を着たり、アスタロト様の選んだ悪趣味な服を着たり、アリア様のお下がりのドレスを着せられたりしてそれはもう酷い目にあっていたので、主にジルベルト様のせいでそんな目にあっていたので、メルクルが来たからにはもう不自由はさせませんよ!」
「……それは、本当に悪かったと思ってる」
メルクルが珍しくジルベルト様を責めている。
項垂れて小さな声で謝罪をするジルベルト様の、私よりも頭一つ分かもう少し背が高く大きな体が、なんだか小さく見えた。
メルクルは美しい蝶の羽を大きく広げて怒っていたが、ジルベルト様の態度に納得したように深く頷いた後に、急にわたわたと慌てだした。
「なんてこと、つい口が滑ってしまいました。メルクルがいないお城でのリディちゃんの苦労を思うと、ついつい腹が立って、ついつい、です」
「いや、地下牢に入れたり、掃除をさせたり、それ以外にも……不快な思いをさせたのは事実だ。よく俺を許してくれるものだなと、感心する」
「あの、私、良い経験だと思っておりますわ。メルクルさんのお気持ちは嬉しいです。有難いものだと思いますけれど、酷い目にあったとは思っておりませんのよ。ジルベルト様の事は、許すとかそういうことではなくて……」
寧ろ私は自ら率先して掃除婦や料理長だった。
大変なことは少しはあったけれど、やりがいはあったし公爵令嬢としては得難い良い経験だったと思う。
私が気にしていない事で感情を乱すのはよくない。
「私は気にしておりませんけれど、……どうしても気に病んでしまうというなら、ジルベルト様が私を誰の目にも触れさせたくないと思うぐらいの、素敵なドレスを選んでくださいましね。何を着ても私は光り輝いてしまうのですけれど、その中でもジルベルト様が一番好きだと思うものが良いですわ」
「俺は常々お前を誰にも見せたくねぇと思ってるんだが。特に、嘘吐き蛇とか根暗狼とかな」
「……それは、知りませんでしたわ」
あまり話すなとは言われているが、見せたくないとまで思ってくれているとは知らなかった。
ジルベルト様の嫉妬心や独占欲を燃え上がらせてしまっている私は罪深い美少女だと、いつもなら深く納得するところなのだが、なんだか心臓の音がうるさい。
恋心とは、こうも感情を乱れさせるものだとは知らなかった。
これではかつて、シンシアさんと思い合ったラファエル様や、情念で壊れたクロネアさんと同じになってしまう。気を付けなければと思っても、どうしても愛されている幸福感で頭がいっぱいになりそうになる。
「リディス?」
「わ、わたくし……、あの、ともかく、お店に入りましょう!」
なんだか情けない誤魔化し方をしてしまった。
ジルベルト様は暫く無言で私の顔や頭を撫でまわした後、「そうだな」と短く言った。
メルクルが顔を覆って「まじ尊い……」と耳慣れない言葉を呟いている。今度どういった意味なのか、聞いてみようと思う。
お店の扉を開くと、深い紺色のベルベットの絨毯の上に、上質な家具が置かれた空間が広がっていた。
所狭しと煌びやかなドレスが並び、宝石の類や、装飾品なども並んでいる。
ドレスの美しさもさることながら、その中でも特に目立っているのが店の壁に飾られている大きな肖像画だった。
そこには、人蝶族の女性が描かれている。長い金色の髪はぐるぐると縦に巻かれていて、紫色の瞳に長いまつ毛、真っ赤な唇。蠱惑的に微笑んでいる顔だけを大きく描いた珍しい姿絵だ。
その下に、同じ造形を持った人蝶族の方がいた。意外だったのは身長で、メルクルと同じようなレースの多いドレスを着ているものの、すらりした体はジルベルト様と同じぐらいに背が高い。金色と緑色の羽はメルクルと同じぐらいに大きかった。
「クイーン・アイリスのお店へようこそ~!」
スカートを摘まんで優雅にお辞儀をするアイリスさんの声は、まぎれもなく男性のものだった。
「アイリスちゃん、ジルベルト様と花嫁のリディス様ですよ! もう少しきちんとご挨拶をしてくださいな」
「やーよ。だってメルクルもリディちゃんって呼んでるんでしょ、リディちゃんリディちゃん、一言目にはリディちゃん、二言目にもリディちゃん。最近うるさいったらないわよあんた。別にいいけど。別にいいけどさぁ、アタシもリディちゃんて呼ぶわよ」
「だ、駄目なの、駄目なのよ。リディちゃんって呼ぶのは、メルクルの特別なのよ」
「独り占めはよくないわよ、あんた。こんな小さくて若くて可愛い人族の女の子を独り占めとか良くないわよ。人族は貴重なんだからね」
物凄い勢いで話し始めるメルクルとアイリスさんに、圧倒されて口を挟むことが出来ない。
ジルベルト様を見上げると、訝し気な顔でアイリスさんを見ていた。見た目は人蝶族の美女で、話し方も女性なのだけれど、声だけが低い。低いというか、野太い。違和感が凄い。
「アイリスちゃんのばかぁ」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだからね! あんたそんなんで本当に王妃様の侍女なわけ。信じらんないわ。ねぇ、リディちゃん、メルクルったら今アタシを馬鹿って言ったのよ、馬鹿よ、馬鹿」
「私もジルベルト様にはよく馬鹿女と呼ばれておりますわ。愛情の裏返しですのよ」
「なにそれ、天使か」
ジルベルト様が眉間に皺を寄せて、天を仰いだ。
アイリスさんは私の傍まで寄ってくると、両手で私の肩をがしっと掴んだ。手も大きい。間近で見ると、背が高い分ドレスの生地の量も多く、迫力が凄い。
「アタシはこの天使にドレスを作るわけね。なんて可愛いの、リディちゃん。でかしたわ、メルクル。よく連れてきたわ。あんたと友達で良かったと思ったのは、今日が初めてよ」
「アイリスちゃんのばーか、ばーか。リディちゃんって呼んで良いのはメルクルだけなんだからね」
「また言った、また言ったわね! あんたが何と言おうと、アタシはリディちゃんて呼ぶわよ。負けないんだから!」
野太い上に大きい声が耳に響く。かつて過ごした学園で、私にも友人のような令嬢の方々はいたけれど、こんな風に言い合いをしたことはなかったなと思う。
話しかければ答えていたけれど、私から話しかける事はほとんどなかったような気がする。
話しかけられる内容も、シンシアさんと自分の婚約者が親しくしていて辛いといった相談が主だったので、心を慰めるために話を聞いて励まし、私が何とかしなければと思うばかりの日々だった。
「あ。……やだ、アタシったら。興奮しちゃったわ。ジルベルト様初めまして、仕立て屋のクイーン・アイリスですわ。おほほ」
「俺は、この二百年ぐらい何もしないで城に居た名ばかりの皇子だ。そうかしこまらなくても良い」
「やだー、謙虚。謙虚な上に男前じゃないのー、あんたにならリディちゃんをあげても良いわ」
「アイリスちゃん、リディちゃんとジルベルト様は愛し合っているのよ、アイリスちゃんの許可なんていらないのよ」
メルクルが憤慨しながら背伸びをして、アイリスさんの額にある触角をくいくい引っ張った。
「痛いじゃないの、痛いじゃないの」と騒ぐアイリスさんから、ジルベルト様が私を引き剥がして後ろへと隠す。私は目の前の光景が興味深かったので、ジルベルト様の背後から顔を覗かせて眺めた。
メルクルとアイリスさんはとても仲が良いのだろう、喧嘩を続けているのにあまり険悪な雰囲気は感じない。
「ジルベルト様、リディちゃん、ごめんなさい。アイリスちゃんってば……、あ、アイリスちゃんっていうのは本名じゃなくて、本当の名前はクインっていうんですけど、可愛いからってクイーン・アイリスって名乗ってるんです。クインって呼ぶと怒るので、面倒なんですよ」
「アタシはアイリスよ。クインって誰、知らないわぁ」
「ほらめんどくさい」
「田舎臭いのよねぇ、その名前。アイリスちゃんって呼んで頂戴」
「ええ、分かりましたわ、アイリスさん。私、リディスと申します。ドレスを作っていただくの、とても楽しみにしておりました。よろしくお願いしますわ」
ジルベルト様の背後から抜け出して礼をする。まだ挨拶もできていなかったので、きちんと自己紹介をすることが出来て良かった。
「丁寧、なんて丁寧なのぉ! 今どきこんなに品のある子なんていないわよ、アタシ感動しちゃったわ」
「リディちゃんはとても育ちが良いのよ。作法も所作も完璧に綺麗なんだから」
メルクルが自慢気に言った。
私の所作や話し方などは公爵令嬢としての基本であり、王妃教育の賜物でもある。自分でも完璧に美しいとは思っている物の、あらためて褒められることなどあまりなかったので、なんだか気恥ずかしい。
「あんたが教えた訳じゃないでしょー、偉そうにしてんじゃないわよ」
「アイリスちゃんは下品なんだから、リディちゃんあんまり見たら駄目なのよ」
「おかしいわね、産まれた時に性別と一緒に品性も落っことしてきちゃったみたいなのよねぇ」
アイリスさんが悩まし気に深い溜息をつく。
その様子が面白くて、私は口に手を当てると笑った。声を出して笑うなんてはしたないのに、我慢が出来なかった。
こちらに来てからというもの、公爵令嬢として作り上げてきた私が崩れてばかりだ。
両手を頬に当てて軽く息を吐く。今のは、いけなかったと反省する。
「リディちゃん、あまり肩に力を入れない方が良いわよ。今のあんた、可愛かったわよぅ」
「はい……、ありがとうございます」
「若いのに色々大変そうねぇ。まぁ良いわ、まずはドレスよ。クイーン・アイリスの為になる人生相談は後よ、後」
「ささっとサイズを測っちゃいましょ」といって、アイリスさんは私を店の奥の部屋へと行くように促した。
測定をするなら脱ぐ必要があるので、ここで、というわけにはいかないのだろう。
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