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ハロー
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「恵ちゃん、この間頼んだ件どうなった?」
菊池から聞かれて早瀬恵は電卓を止めて顔を上げた。
「えっと、この間ってどの間のことですか?」と聞き直した。だいたい何を言いたいのかはわかっているのだが、そこは敢えて。
「いやさあ、圭ちゃんとの契約の件さ。あれからどうなったかなあって」
「まだ契約書を作ってる最中ですよ。それより、社長がご両親に電話するんじゃなかったんですか」まだ電話してないのかよ、という非難の声を少々含ませながら恵が答えた。「社長が電話して許可が出たら、私が契約書を送るって言ったじゃないですか」
「そうだったっけ」と菊池がすっとぼける。「だってなあ……、もし俺が電話してよ? 電話に出た相手が英語しゃべったら、俺は反射的に電話を切っちゃうと思うんだよな。ガハハ」
——ほら、またガハハでごまかす……
「何怖がってんですかあ。社長だって中学、高校で最低6年間も英語なんて習ったでしょ? 挨拶するだけなんて、中学の英語ですよ」
「わかってるよ。わかってんだけどさあ。俺、苦手なんだよ、英語って。この件は恵ちゃんに全権委任するから何とかしてよ。なあ、頼むよ……」
ふうっとわざとらしく恵はため息をついた。確かに英語力については全く問題ないと思っている。ただ、この事務所に入るのに、確か「圭のマネージャー」として採用されたはずだった。
ところが、いざ事務所に来てみると、事務員がいなかったのだ。圭太から聞いた話では、ベテランの「社長の愛人」と噂された女性がいるはずだった。
「悪いんだが、ちょっと事務仕事も頼むわ。頼りにしてた人が寿退社しちゃってさ」と菊池から言われて噂など当てにならないことを改めて知った次第だ。そんなこんなで音楽事務所「K‘s」の社長秘書のような仕事もやらされていたのだ。まあ、ちゃんと給料の出る仕事だからいいか——
ちらっと時間を見てから引き出しからアドレス帳を出した。前任者から引き継いだアドレス帳に、つい最近追記された番号を指で押さえて確認した。
——高橋圭の父親の店
アドレス帳にはそう書いてある。もう一度時計を見て現在の時間を確認する。ニューヨークとの時差は確か——
日本食のレストランだと聞いている。携帯の番号も書かれているが、今なら店の方にいるはずだ。恵は受話器を取ってニューヨークの和食レストラン「ロック・イン・ジャパン」の番号に電話をかけた。
⌘
「圭司、日本の音楽事務所の人から電話よ。出られる?」
ステラがそう言うのが聞こえた。今日は思いのほか客が多く、厨房は大忙しの真っ最中だった。
「圭がかけてきてるんじゃないんだろ? 悪いがちょっと要件だけ聞いておいてくれないか」と、顔をのぞかせてステラに頼んだ。何の用事なのかは、あらかじめ圭と姉から詳しく聞いている。
ステラは笑顔で頷きながら片手を上げた。
⌘
菊池が杞憂したとおりのことが電話口で起こっていた。恵は英語でしゃべり続けながら、菊池が肩をすぼめ、下唇を突き出しながらこそこそとトイレへ逃げていくのを見送った。
——ごめんね。お店がすっごく忙しくて圭司が出られそうにないの。
電話の向こうでステラという女性がそう言った。圭の話では結婚はまだしていないが、父親の圭司のステディで母親のような人だということだった。
「いえ、こちらこそ忙しいことも考えずに電話をして」
ステラも忙しそうだったので、とりあえず圭は自分がマネージャーとなって責任を持って預かること、契約書ができたら送付するのでサインをして送り返してほしいことを依頼した。それで電話を切るつもりだったが、妙にステラと気が合ってしまい、他愛もない話で長電話となってしまったのだった。
電話を切ると、菊池が心配そうな顔で「なんか揉めたの?」と聞いてきた。
「えっ?」という顔をして恵が菊池を見る。
「いや、なんか挨拶だけにしては長電話だしさ。何か先方に気に入らないことでもあったのかなと思って」と、菊池がいう。
——そっか。英語は全くわかってないんだ。
「わかりました? 向こうのお母さんって人が電話に出たんですけど、親の許可を得る前に勝手に事務所に所属させるって何事よって、それはもう……」
恵が深刻な顔をしていう。
「その辺はちゃんと言ってもらえたかい? ご両親の許可があるまでは契約はしてないつもりだし、こちらとしては大事な娘さんだから、事務所として学校と音楽活動に全面的にバックアップを——」
菊池が本気で青い顔をして言うので、彼が言ってる途中から恵はおかしくて、堪えきれずに吹き出してしまい。
「嘘ですよ、社長。向こうはよろしくお願いしますって。圭の方からちゃんとした営業をしている事務所だって伝えてもらっててよかったですよ。父親とはお店が忙しくて話せなかったんですけど、母親代わりって言う人とちょっと国際通話なのに長話しちゃいましたね。電話代、よろしくです」
恵がそう言うと、菊池はへなへなとソファへへたり込んだのだった。
——あー、可笑しい!
菊池から聞かれて早瀬恵は電卓を止めて顔を上げた。
「えっと、この間ってどの間のことですか?」と聞き直した。だいたい何を言いたいのかはわかっているのだが、そこは敢えて。
「いやさあ、圭ちゃんとの契約の件さ。あれからどうなったかなあって」
「まだ契約書を作ってる最中ですよ。それより、社長がご両親に電話するんじゃなかったんですか」まだ電話してないのかよ、という非難の声を少々含ませながら恵が答えた。「社長が電話して許可が出たら、私が契約書を送るって言ったじゃないですか」
「そうだったっけ」と菊池がすっとぼける。「だってなあ……、もし俺が電話してよ? 電話に出た相手が英語しゃべったら、俺は反射的に電話を切っちゃうと思うんだよな。ガハハ」
——ほら、またガハハでごまかす……
「何怖がってんですかあ。社長だって中学、高校で最低6年間も英語なんて習ったでしょ? 挨拶するだけなんて、中学の英語ですよ」
「わかってるよ。わかってんだけどさあ。俺、苦手なんだよ、英語って。この件は恵ちゃんに全権委任するから何とかしてよ。なあ、頼むよ……」
ふうっとわざとらしく恵はため息をついた。確かに英語力については全く問題ないと思っている。ただ、この事務所に入るのに、確か「圭のマネージャー」として採用されたはずだった。
ところが、いざ事務所に来てみると、事務員がいなかったのだ。圭太から聞いた話では、ベテランの「社長の愛人」と噂された女性がいるはずだった。
「悪いんだが、ちょっと事務仕事も頼むわ。頼りにしてた人が寿退社しちゃってさ」と菊池から言われて噂など当てにならないことを改めて知った次第だ。そんなこんなで音楽事務所「K‘s」の社長秘書のような仕事もやらされていたのだ。まあ、ちゃんと給料の出る仕事だからいいか——
ちらっと時間を見てから引き出しからアドレス帳を出した。前任者から引き継いだアドレス帳に、つい最近追記された番号を指で押さえて確認した。
——高橋圭の父親の店
アドレス帳にはそう書いてある。もう一度時計を見て現在の時間を確認する。ニューヨークとの時差は確か——
日本食のレストランだと聞いている。携帯の番号も書かれているが、今なら店の方にいるはずだ。恵は受話器を取ってニューヨークの和食レストラン「ロック・イン・ジャパン」の番号に電話をかけた。
⌘
「圭司、日本の音楽事務所の人から電話よ。出られる?」
ステラがそう言うのが聞こえた。今日は思いのほか客が多く、厨房は大忙しの真っ最中だった。
「圭がかけてきてるんじゃないんだろ? 悪いがちょっと要件だけ聞いておいてくれないか」と、顔をのぞかせてステラに頼んだ。何の用事なのかは、あらかじめ圭と姉から詳しく聞いている。
ステラは笑顔で頷きながら片手を上げた。
⌘
菊池が杞憂したとおりのことが電話口で起こっていた。恵は英語でしゃべり続けながら、菊池が肩をすぼめ、下唇を突き出しながらこそこそとトイレへ逃げていくのを見送った。
——ごめんね。お店がすっごく忙しくて圭司が出られそうにないの。
電話の向こうでステラという女性がそう言った。圭の話では結婚はまだしていないが、父親の圭司のステディで母親のような人だということだった。
「いえ、こちらこそ忙しいことも考えずに電話をして」
ステラも忙しそうだったので、とりあえず圭は自分がマネージャーとなって責任を持って預かること、契約書ができたら送付するのでサインをして送り返してほしいことを依頼した。それで電話を切るつもりだったが、妙にステラと気が合ってしまい、他愛もない話で長電話となってしまったのだった。
電話を切ると、菊池が心配そうな顔で「なんか揉めたの?」と聞いてきた。
「えっ?」という顔をして恵が菊池を見る。
「いや、なんか挨拶だけにしては長電話だしさ。何か先方に気に入らないことでもあったのかなと思って」と、菊池がいう。
——そっか。英語は全くわかってないんだ。
「わかりました? 向こうのお母さんって人が電話に出たんですけど、親の許可を得る前に勝手に事務所に所属させるって何事よって、それはもう……」
恵が深刻な顔をしていう。
「その辺はちゃんと言ってもらえたかい? ご両親の許可があるまでは契約はしてないつもりだし、こちらとしては大事な娘さんだから、事務所として学校と音楽活動に全面的にバックアップを——」
菊池が本気で青い顔をして言うので、彼が言ってる途中から恵はおかしくて、堪えきれずに吹き出してしまい。
「嘘ですよ、社長。向こうはよろしくお願いしますって。圭の方からちゃんとした営業をしている事務所だって伝えてもらっててよかったですよ。父親とはお店が忙しくて話せなかったんですけど、母親代わりって言う人とちょっと国際通話なのに長話しちゃいましたね。電話代、よろしくです」
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——あー、可笑しい!
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