カットサロン◇タムラ

内藤 亮

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 外に出ると、気持ちのいい東風こちが吹いていて、さっきまであった雲が跡形もなく消えていた。空は満天の星空だ。
「あ、夏の大三角形」
「どれ?」
「明るい星に囲まれた三角形があるでしょう」
 千怜は東の空を指さした。
「ええと、あれかな」
「そうそう。三角形をひっくり返した先っぽにあるのが北極星です」
「あの明るい星だね」
「三つの星はベガ、デネブ、アルタイル。で、あの二つ、ベガとアルタイルは七夕伝説の織姫と彦星のことです。あっちが天の川です」
 千怜は空を指をさしながら説明した。
「物知りだなあ」
「つい先日、知ったんです。茜里の夏休みの宿題が星の観察だったから」
「星のことまで詳しいのかと思ってびっくりした」
「知ったばかりのことって、誰かに話したくって」
 田村はしばらく星空を見上げていた。
「子供を育てるって、大変?」
「大変なのは一時ですよ」
 いままでずっと、全速力で走っていたから、大変ということも忘れていた。
「そっかぁ」
 田村は駅とは反対の方向へ歩き出した。
「この近くなんだ。母もお気に入りの店でね。一緒によく行くんだ」
「楽しみです」
 駅とサロンを行き来するだけだから、周辺の地理にはまったく疎い。ガス灯を模したLEDの街灯が人気のない歩道を浮かび上がらせていた。高い塀に囲まれた邸宅街はしんと静まり返っている。生活音が筒抜けのアパートの夜とは静けさのレベルが違った。
 邸宅を改装したというレストランは、周囲の邸宅と比べても一段と広大な敷地に建っていた。フロアライトが屋敷と周囲を仄かに照らし、建物のシルエットがうかびあがっている。看板や表札はもちろんかかっていない。
 一見さんお断りのような店なのかもしれない。うろ覚えのテーブルマナーで大丈夫だろうか。田村に優雅にエスコートされると、余計に緊張がつのってくる。
 黒光りするドアが静かに開いた。フロアマネージャーとおぼしき年配の女性が、ドアが閉まらないよう手を添えている。中に入ると、女性が静かにドアを閉めた。
 案内されたのは、ダンスホールのような広々としたホールだった。正面は床まである羽目殺しの大きな窓になっていて、手入れの行き届いた庭が一望できるようになっていた。照明は、各テーブルに置かれたランプで互いの顔が見えるくらいの明るさに落され、フロア全体が夜のディナーにふさわしい落ち着いた雰囲気になっている。テーブルは五つしかなく、客のいないテーブルは、すべてreservedの札が置かれていた。食事をしている客の静かなざわめきが心地いい。
 料理は和食とイタリアンを折衷にしたような創作料理で、最後のデザートまで気が利いていた。 フロアマネージャーの心配りのおかげで、存分に食事を楽しむことが出来た。こういうレストランを一流というのだろう。
「ごちそうさまでした。ふう、余は満足じゃ」
「楽しんでくれてよかった。しっかり食べる人って好きだよ」
「田村さんはあまり召し上がりませんでしたね」
「そんなこと、ないよ……」
「すみません。せっかくの食事の前にあんな話をしちゃって」
 田村はかぶりをふった。
「話してくれてありがとう。千怜さんは強いね。見習わなくちゃ」
 気丈に笑って見せる田村が痛々しい。
「あのう……、別に見習わなくていいです。母は強くないとやっていけないから、だんだんとこうなっちゃっただけで……」
「でも、やっぱり、さ。男の役割ってあるでしょう」
「主人の話、してもいいですか」
「うん、もちろん」
「資格試験の実技指導を頼まれたのがきっかけだったんです。ずっと弟分みたいに思っていたのに、まさか一緒になるなんて。ほんと、我ながらびっくりです」   
 胃袋から裕太のことが好きになったのだ、と告白すると、田村が小さく笑った。
「ええと、つまりですね、一緒に暮らすからって、そんなに構えなくていいんです」
 田村が手を取った。冷たくなった掌から微かな震えが伝わってくる。 
「僕とは? 一緒にやっていかれそう?」
「今までだって、サロンで一緒に上手くやってきたじゃないですか」
「仕事と同じなの?」
「苦手な所をお互いに補っていけばいいんだから。独りより気が楽ですよ。出来ないことは相手に丸投げしちゃえばいいんです」
「それで、いいんだ」
「ええ」
 田村は大きなため息をつくと、ありがとう、と掠れた声で言った。 
 その夜、初めて田村と身体を重ねた。

 朝食の後片付けをすませて、帰る支度をしていると玄関のチャイムがなった。
 玄関ドアの開く音と同時に、ただいま! と明るい声が響いた。美佐緒が帰ってきたのだ。誰か一緒らしい。ぼそぼそとした声が微かに聞こえてくる。
 荷物をひっつかみ、隠れる場所を探していると、田村は、ちょうどいいじゃない、と、無理やりソファに座らせ、美佐緒を迎えにいってしまった。
「千怜さん! お久しぶり」
  田村がどう説明したのかは分からないが、美佐緒は顔をほころばせていている。続いて田村に背中を押されるようにして小柄な男性が部屋に入って来た。
 小柄な男性は黙ったまま、お辞儀をした。
「お友達の信介さん。よろしくね」
 信介に代わって美佐緒が紹介をした。
「じゃあ。僕はこれで帰るよ」
「私も、お暇します」
 このまま信介と一緒に、何食わぬ顔をして帰ろうとしたら、美佐緒に引き留められた。
「二人ともゆっくりしていきなさいよ。信さんは写真の編集とフォルダ整理を正巳にやってもらわないとでしょ」
「そうですよ、ゆっくりしていってください」
 信介と互いにぎこちない挨拶をかわし、椅子に座った。美佐緒は台所へ行き、お茶の支度を始めた。田村はノートパソコンとプリンターを持ってきて、ダイニングテーブルでセッティングしている。
「信介さん、写真のデータ、こっちに送ってください。母さんも」
 はあい、と台所から声が響いた。
 美佐緒が茶を持ってきた。
「それで?」
 もう逃げも隠れもできない。
「吉野さんと正式に交際したいと思います」  
 田村が宣言すると、美佐緒が大きく万歳をした。
「お式はいつ頃になるのかしら」
「ちょっ、美佐緒さん!」
 信介がたしなめた。
「あら、いいじゃないの」
「写真、圧縮して二人のファイルに送ったよ。プリントアウトもするでしょう?」
「ええ、お願い。そうね、ええと、これとこれ、これもいいかしら。大きめにプリントして」
「うん、分かった。二枚ずつだね」 
 田村親子はそろってマイペースだ。友人(?)組の何とも言えない居心地の悪さなど、まったく気にしていない。千怜と信介がぎくしゃくと当たり障りのない話をしているうちに、写真のプリントができあがった。
「どうぞ」
「ありがとう」 
 信介は、プリントアウトされた写真を受け取ると、そそくさと帰ってしまった。
「私、割烹料理を出す小さな店をやっていて、信さんはそこの板前なの。この夏はね、軽井沢に行ってきたのよ。何年振りかしら。すっかり様変わりしていてびっくりしたわ」  
 二人はもちろん、夫婦ではない。一緒に旅行に行く友達、なのだ。千怜としては相槌をうつことしかできない。  
「アウトレットモール、行ってみた?」
「ええ、もちろん。信さんの服を買ったわ」
「ちゃんと信介さんの意見も聞いた?」
「まさか。聞くわけないじゃない」
 そういうと、美佐緒は手土産のパウンドケーキを頬張った。
「あら、美味しい。千怜さんも、食べてごらんなさい。信さんが選ぶ食べ物に間違いはないわ」
「本当だね」
 田村もさもうまそうにパウンドケーキにかぶりついた。
「信さんの奥様は大分まえに亡くなって、お子さんはみんな独立しているの。籍さえ入れなければ、ご自由にっていうわけよ」
 それからは伸介の料理の話になって、田村とのことは何も聞かれなかった。
「さて、私も仕事再開よ。お店の方にも遊びに来て。もちろん、茜里ちゃんと一緒にね」 
「はい。ありがとうございます」
「送るよ」
「ありがとう」 
 一緒に玄関を出ると、美佐緒が笑顔で見送った。
 アパートに戻ると、朝顔がすっかり枯れていた。種は取っておいたから、茜里には言いわけがたつだろう。田村のことを話すのはまだ早い。
 あの夜、田村はテクニックを駆使していた。自分が情事であんな声を出すとは知らなかった。様子をそっと窺うと、田村はいたって真面目な、難しい顔をしてコトを行っている。まるで数学の問題を解いているかのような顔だった。
 あの時、田村が動物的な欲情にかられていたら、余計なことを考えないですんだのかもしれない。
 田村の伸ばしたままになっていた髪が脳裏をよぎった。
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