滝川家の人びと

卯花月影

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1 織田家仕官

1-5 咲菜

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 滝川主従が信長に召し抱えられてから、幾月かが過ぎた。
 城下の外れ、風の抜ける一角に、粗末な長屋をあてがわれている。茅葺の屋根は低く、板の継ぎ目には小さな隙間があり、夜更けには風がすうと通り抜ける。それでも、床はよく磨かれ、几帳面に整えられていた。
 この小さな家に暮らすのは、一益のほか、義太夫と新介、菊之助、それに歩き巫女のお鈴の四人。
 質素な暮らしでありながら、どこか温かな気配がある。囲炉裏の火が絶えることはなく、夜は茶の香とともに小さな笑い声が絶えなかった。

 ある朝のことだった。
 裏庭で水を汲んでいた義太夫の背後から、妙に軽い声が飛んだ。
「おうおう、あんたが『火の滝川』とかいうお人かね」
 振り向くと、頬に笑い皺を刻んだ男が立っていた。頭を下げるでもなく、勝手に桶の縁へ腰をかける。
「尾張の木下と申すもんじゃ。まあ、長屋の隣りもん同士、よろしくおたの申しますわ」
「木下……?」
「へぇ。殿のお目にかかるほどの者やありゃせんが、いずれ世が開けりゃ、わしもひとつ『でっけえこと』してみとうてな」
 飄々とした調子。だが、その瞳の奥にだけ、光が走った。義太夫は苦笑いを浮かべ、桶の水をこぼした。
「……おぬし、油断ならぬ奴じゃのう」
 その言葉に、木下と名乗った男は目尻を細めて笑った。
「油断ならんやつほど、長生きするもんですわ」
 そう言い残し、ひらひらと手を振って去っていった。
 軒先からその背を見送っていた一益が、ぼそりと呟いた。
「……あやつ、只者ではないな」
「まさか、あの猿顔が?」
「猿であろうが狐であろうが、群れを率いるのは、いつも笑っておる者じゃ」
 一益の目には、わずかに笑みが宿った。
 それが、後年まで続く奇縁の始まりだった。

 お鈴は毎朝、香草を焚いて戸口を清めた。煙は鉄と梅の匂いを含み、どこか懐かしくも胸に刺さる。誰に教わったとも言わず、名を問うても微笑むばかりだった。
 義太夫はときおり、その煙の中に立ち止まり、ふと胸騒ぎを覚えることがあった。だが、深くは考えなかった。
 長屋には、まだ『静けさ』が残っていたのだ。
 その静けさを破るように――ある朝、軒先にもう一人の女が現れた。
 その朝、軒先に立っていたのは、まだあどけなさの残る娘だった。
 薄紅の襟元をきちんと正し、両の手に包みを抱えたまま、風に揺れるように立っている。
 お鈴が焚く香草の細く立ちのぼる煙が娘の頬をかすめ、わずかに涙のような光を帯びた。
「義太夫様を、お訪ね申したく……」
 その声は細いが、芯があった。
 お鈴が目を細めて見やる。
「旅の方かえ?」
「はい。武蔵の国より参りました。名は咲菜と申します」
「……咲菜?」
 その名を聞いた瞬間、奥から桶を抱えた義太夫が顔を出した。
「おお、おぬしか!」
 思わず桶を落とし、びしゃりと水しぶきが上がった。
 驚いたお鈴が振り向くより早く、義太夫は咲菜の肩を掴んだ。
「甲賀で別れてから消息を絶っておったではないか! まさか、尾張まで流れて来るとはのう!」
 咲菜は小さく笑った。
「義太夫様の仰せに従ううち、気づけばここに……」
 その言葉に、義太夫は「ふむ」と腕を組んで頷いた。
(これは渡りに船。いや、女船が向こうから漕いできたようなものじゃ)
 お鈴は香炉を手に、二人のやりとりを黙って見つめていた。
 咲菜の立ち居振る舞いには、ただの旅女にはない練れた静けさがあった。
 眼差しには一瞬、何かを見透かすような強さが宿り、それがすぐに柔らかい笑みに溶けた。
(……この娘、ただの渡り者ではあるまい)
 お鈴は香をくゆらせながら、わずかに唇を結んだ。
 義太夫にはそれが見えず、咲菜を連れて軽い足取りで長屋の中へと消えていった。
 その日、長屋の囲炉裏では、久々に湯気が立っていた。
 お鈴が炊いた麦飯の香りに、咲菜が煮立つ鍋を見守る。義太夫はというと、柱にもたれて鼻歌まじりに胡坐をかいていた。
「おぬし、手際がよいのう。見ておると、何もかも音が立たぬ。まるで影法師じゃ」
「はい。甲賀で、音を立てるなと教わりました」
 咲菜の返しは静かだったが、その目は冗談を受け止めていない。
「ほう……音を立てぬ女か。ならば殿の世話には、ちょうどよかろう」
 義太夫はふと立ち上がり、天井を見上げながら呟いた。
(すみれ様を失ってからというもの、殿はまるで魂を落とされたようじゃ……)
 咲菜は黙って鍋の蓋を開けた。湯気が立ちのぼり、ほのかな出汁の香が広がる。
 その香りの向こうで、義太夫の脳裏に一つの策がひらめいた。
(……この娘なら、あの凍てついた座敷に火を入れられるかもしれぬ)
「よし、決まりじゃ!」
 突然、義太夫が手を打ち鳴らした。
 驚いたお鈴が匙を落とす。
「な、何がです?」
「この娘を殿に会わせる!」
「はあ……?」
「いや、殿は今たいそう冷うござる。女っ気がないと家の中まで凍りつく。わしなど、朝に手を洗うたら、桶の水が凍っとったわ!」
「それは夜中に外へ置いたからでしょ」
「うむ、そうかもしれん」
 妙に得意げな顔で頷く義太夫に、咲菜は思わず吹き出しそうになった。

 夕暮れ。
 日が落ちると、長屋は一気に冷え込む。
 義太夫は咲菜を伴い、一益の部屋の戸口に立った。
「殿。お取り次ぎ、よろしゅうございますか」
 一益は文を読んでいたが、短く「入れ」とだけ言った。
 咲菜が静かに膝を折り、手をついて頭を下げる。
「咲菜と申します。お仕えいたしまする」
 一益はその声にわずかに顔を上げたが、視線はすぐ紙に戻った。
 沈黙が、長屋の木目に染み込むように流れた。
 やがて義太夫が気まずそうに笑い、
「殿、こやつ、気立ても働きもよく、飯の炊き方も……いや、わしが食って確かめたゆえ間違いござらん!」
「義太夫。下がれ」
 ぴしゃり。
 その声に、義太夫の背筋がぴんと伸びた。
「はは……下がりまするとも。ええ、わしなど風のようなもので……」
 などと呟きながら、まるで追い出された犬のようにしょんぼりと戸を閉めた。
 残された咲菜は、わずかに背筋を伸ばした。眼差しが一瞬、灯に照らされて光った。
(このお方……)
 言葉にはならなかった。
 ただ、胸の奥で何かが確かに鳴った。

 それからの日々、咲菜は黙々と世話を続けた。
 火をおこし、衣を繕い、夜には茶を点てる。
 一益は何も言わない。だが、咲菜の動きだけは、いつも視界の端で捉えていた。
 それが、心を動かすものだと気づかぬままに。

 日が経つにつれ、長屋にはわずかな変化が生まれた。
 義太夫の無駄話に笑いをこぼす声が戻り、囲炉裏の火も夜更けまで絶えなくなった。
 いつの間にか、咲菜の立つ場所が家の中心になっていた。
 お鈴が香を焚くときも、菊之助が酒をねだるときも、彼女は柔らかに笑って受け止める。
 不思議と誰も咲菜を軽んじようとはしなかった。
 義太夫は相変わらず賑やかだった。
「お鈴よ、飯はまだか! この腹が鳴る音で、殿の筆まで揺れてしまうわ!」
「……義太夫様。殿の筆は、あなたの腹音では揺れません」
「そうか。では、今度は腹でなく心を鳴らしてみよう。おお、ぐぅ……ほれ、鳴った!」
 お鈴が眉をひそめる横で、咲菜はそっと笑った。
 その笑みが、一益の耳に届いたわけではない。けれど、長屋の空気がふとやわらいだ。
 ある夜、一益はふと筆を止めた。
 書きつけの墨がかすれ、灯が揺らぐ。
 咲菜が湯を運んできた音が、静けさの中で小さく響く。
「お下がりを」
「……うむ」
 短い応答。
 だが、咲菜はその声のわずかな温度を聞き分けた。
 怒りでも拒みでもない、ただ深い疲れの底から漏れたような声音。
 一益の心が、まだ遠い誰かの影に縛られていることを、女の直感で悟った。
 灯が消えたあとも、咲菜は部屋の外にしばらく座していた。
 軒の隙間から風が入り、髪を揺らす。
 目を閉じれば、あの日、甲賀で見上げた星空が蘇る。
(……殿の心は、遠いところにおわす)
 唇はかすかに震えたが、瞳は揺れなかった。
 その沈黙が、言葉よりも深く「わかっております」と告げていた。

 翌朝、義太夫がまだ寝ぼけ眼で囲炉裏に火を入れると、咲菜はすでに起きていた。
 桶を抱え、水を汲みに行く背中は、ひと晩で少し痩せたように見える。
「咲菜、寝ておらなんだのか?」
「ええ、少しだけ……」
「まったく、働き者にもほどがある。わしなど働かぬ者の中の働かぬ者じゃぞ」
「心得ております」
「……なんじゃと?」
 ぼやく義太夫の声に、長屋の朝がまた始まった。
 一益はその喧騒を奥の間で聞いていた。
 胸の奥に、ほんのわずかな熱が戻っていることに、まだ気づいてはいなかった。

 日々は、静かに流れていった。
 咲菜は文句ひとつ言わず、長屋の掃除から炊き出しまで、黙々とこなした。
 お鈴が焚く香のかたわらで、草木染めの衣を縫い直し、
 義太夫の着崩れた裃を繕ってやることもあった。
「義太夫様は、お裁縫も苦手でございますか?」
「ば、馬鹿を申すな。甲賀の男は針を持たぬ! 戦場では鉄砲と槍一本あれば足りるのじゃ!」
「では、縫い目がほどけても、鉄砲で繕うおつもりで?」
「ぐぬぬ……おぬし、意外と毒があるのう」
 咲菜は、目を伏せたまま小さく笑った。
 その一瞬の笑みが、義太夫の胸を妙にくすぐった。
(……殿に、少しでも笑っていただければ)
 彼女のそんな小さな願いが、長屋に灯のように広がっていく。

 だが、一益だけは変わらなかった。
 夜になると、囲炉裏の火が落ちても筆を離さず、
 咲菜が膳を下げても、顔を上げることはない。
 咲菜の手が湯飲みに触れたとき、その指がすこし震えたのを、義太夫だけが見ていた。
 その夜、義太夫はひとり酒をあおりながら、ぼやいた。
「まったく、あの殿ときたら……どんな女を前にしても、顔色ひとつ変えぬ。まるで石地蔵じゃ」
「殿は、心をどこかに置いてこられたのでしょう」
 お鈴の声が、囲炉裏の向こうから静かに響く。その目が、一瞬だけ鋭く光った。
「……お鈴、どこでそれを?」
「ただの女の勘でございます」
 そう言って微笑んだお鈴の笑みが、どこか底知れず、義太夫は背筋をぞくりとさせた。

 翌朝、義太夫はついに腹を決めた。
 木の葉を払い、着流しの裾を正して一益の前に出る。
「殿。申し上げたいことがございまする」
「……申せ」
「そろそろ、お子をお持ちになるべきかと」
 一益は筆を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「義太夫……またか」
「また、でございます。何度でも申しまする。殿に跡継ぎがなければ、滝川の家は風前の灯。殿の才を継ぐ者なくして、いずれこの名も消えましょう」
「下がれ」
 声は低く、静かだった。怒気というより、深い拒絶の色を帯びていた。
 それでも、義太夫は頭を下げたまま動かない。
「殿の理はわかりまする。されど、理と心とが別にあるのも、人の世でございましょう。我らは、殿の心を案じておるのです」
 義太夫の言葉に、一益の眉がぴくりと動いた。
 視線が鋭くなり、部屋の空気が一瞬、張りつめる。
 言葉を誤れば、即座に斬られてもおかしくない――そんな緊迫が走った。
 しかし、一益は刀の柄に手をかけることもなく、ただ静かに息を吐いた。
 怒りの熱が、吐息とともに消えていく。
「……案ずるほどのものではない」
 それだけ言い捨てると、筆を取り、再び書へと目を落とした。
 義太夫は深く頭を垂れた。
 一益の怒りの奥に、誰にも見せぬ痛みがある――そう感じた。
 声をかけることもできず、ただその背を見つめながら、胸の奥で静かに祈った。
(……いつか、殿の心にも、再び春が来ますように)
 外では、夜風がまだ冷たい。
 行灯の火がかすかに揺れ、壁の影がゆらゆらと伸びていった。

 ――滝川一益という男の孤独は、その夜、誰よりも近くにいた家臣でさえ、まだ知らなかった。
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