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1 織田家仕官
1-5 咲菜
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滝川主従が信長に召し抱えられてから、幾月かが過ぎた。
城下の外れ、風の抜ける一角に、粗末な長屋をあてがわれている。茅葺の屋根は低く、板の継ぎ目には小さな隙間があり、夜更けには風がすうと通り抜ける。それでも、床はよく磨かれ、几帳面に整えられていた。
この小さな家に暮らすのは、一益のほか、義太夫と新介、菊之助、それに歩き巫女のお鈴の四人。
質素な暮らしでありながら、どこか温かな気配がある。囲炉裏の火が絶えることはなく、夜は茶の香とともに小さな笑い声が絶えなかった。
ある朝のことだった。
裏庭で水を汲んでいた義太夫の背後から、妙に軽い声が飛んだ。
「おうおう、あんたが『火の滝川』とかいうお人かね」
振り向くと、頬に笑い皺を刻んだ男が立っていた。頭を下げるでもなく、勝手に桶の縁へ腰をかける。
「尾張の木下と申すもんじゃ。まあ、長屋の隣りもん同士、よろしくおたの申しますわ」
「木下……?」
「へぇ。殿のお目にかかるほどの者やありゃせんが、いずれ世が開けりゃ、わしもひとつ『でっけえこと』してみとうてな」
飄々とした調子。だが、その瞳の奥にだけ、光が走った。義太夫は苦笑いを浮かべ、桶の水をこぼした。
「……おぬし、油断ならぬ奴じゃのう」
その言葉に、木下と名乗った男は目尻を細めて笑った。
「油断ならんやつほど、長生きするもんですわ」
そう言い残し、ひらひらと手を振って去っていった。
軒先からその背を見送っていた一益が、ぼそりと呟いた。
「……あやつ、只者ではないな」
「まさか、あの猿顔が?」
「猿であろうが狐であろうが、群れを率いるのは、いつも笑っておる者じゃ」
一益の目には、わずかに笑みが宿った。
それが、後年まで続く奇縁の始まりだった。
お鈴は毎朝、香草を焚いて戸口を清めた。煙は鉄と梅の匂いを含み、どこか懐かしくも胸に刺さる。誰に教わったとも言わず、名を問うても微笑むばかりだった。
義太夫はときおり、その煙の中に立ち止まり、ふと胸騒ぎを覚えることがあった。だが、深くは考えなかった。
長屋には、まだ『静けさ』が残っていたのだ。
その静けさを破るように――ある朝、軒先にもう一人の女が現れた。
その朝、軒先に立っていたのは、まだあどけなさの残る娘だった。
薄紅の襟元をきちんと正し、両の手に包みを抱えたまま、風に揺れるように立っている。
お鈴が焚く香草の細く立ちのぼる煙が娘の頬をかすめ、わずかに涙のような光を帯びた。
「義太夫様を、お訪ね申したく……」
その声は細いが、芯があった。
お鈴が目を細めて見やる。
「旅の方かえ?」
「はい。武蔵の国より参りました。名は咲菜と申します」
「……咲菜?」
その名を聞いた瞬間、奥から桶を抱えた義太夫が顔を出した。
「おお、おぬしか!」
思わず桶を落とし、びしゃりと水しぶきが上がった。
驚いたお鈴が振り向くより早く、義太夫は咲菜の肩を掴んだ。
「甲賀で別れてから消息を絶っておったではないか! まさか、尾張まで流れて来るとはのう!」
咲菜は小さく笑った。
「義太夫様の仰せに従ううち、気づけばここに……」
その言葉に、義太夫は「ふむ」と腕を組んで頷いた。
(これは渡りに船。いや、女船が向こうから漕いできたようなものじゃ)
お鈴は香炉を手に、二人のやりとりを黙って見つめていた。
咲菜の立ち居振る舞いには、ただの旅女にはない練れた静けさがあった。
眼差しには一瞬、何かを見透かすような強さが宿り、それがすぐに柔らかい笑みに溶けた。
(……この娘、ただの渡り者ではあるまい)
お鈴は香をくゆらせながら、わずかに唇を結んだ。
義太夫にはそれが見えず、咲菜を連れて軽い足取りで長屋の中へと消えていった。
その日、長屋の囲炉裏では、久々に湯気が立っていた。
お鈴が炊いた麦飯の香りに、咲菜が煮立つ鍋を見守る。義太夫はというと、柱にもたれて鼻歌まじりに胡坐をかいていた。
「おぬし、手際がよいのう。見ておると、何もかも音が立たぬ。まるで影法師じゃ」
「はい。甲賀で、音を立てるなと教わりました」
咲菜の返しは静かだったが、その目は冗談を受け止めていない。
「ほう……音を立てぬ女か。ならば殿の世話には、ちょうどよかろう」
義太夫はふと立ち上がり、天井を見上げながら呟いた。
(すみれ様を失ってからというもの、殿はまるで魂を落とされたようじゃ……)
咲菜は黙って鍋の蓋を開けた。湯気が立ちのぼり、ほのかな出汁の香が広がる。
その香りの向こうで、義太夫の脳裏に一つの策がひらめいた。
(……この娘なら、あの凍てついた座敷に火を入れられるかもしれぬ)
「よし、決まりじゃ!」
突然、義太夫が手を打ち鳴らした。
驚いたお鈴が匙を落とす。
「な、何がです?」
「この娘を殿に会わせる!」
「はあ……?」
「いや、殿は今たいそう冷うござる。女っ気がないと家の中まで凍りつく。わしなど、朝に手を洗うたら、桶の水が凍っとったわ!」
「それは夜中に外へ置いたからでしょ」
「うむ、そうかもしれん」
妙に得意げな顔で頷く義太夫に、咲菜は思わず吹き出しそうになった。
夕暮れ。
日が落ちると、長屋は一気に冷え込む。
義太夫は咲菜を伴い、一益の部屋の戸口に立った。
「殿。お取り次ぎ、よろしゅうございますか」
一益は文を読んでいたが、短く「入れ」とだけ言った。
咲菜が静かに膝を折り、手をついて頭を下げる。
「咲菜と申します。お仕えいたしまする」
一益はその声にわずかに顔を上げたが、視線はすぐ紙に戻った。
沈黙が、長屋の木目に染み込むように流れた。
やがて義太夫が気まずそうに笑い、
「殿、こやつ、気立ても働きもよく、飯の炊き方も……いや、わしが食って確かめたゆえ間違いござらん!」
「義太夫。下がれ」
ぴしゃり。
その声に、義太夫の背筋がぴんと伸びた。
「はは……下がりまするとも。ええ、わしなど風のようなもので……」
などと呟きながら、まるで追い出された犬のようにしょんぼりと戸を閉めた。
残された咲菜は、わずかに背筋を伸ばした。眼差しが一瞬、灯に照らされて光った。
(このお方……)
言葉にはならなかった。
ただ、胸の奥で何かが確かに鳴った。
それからの日々、咲菜は黙々と世話を続けた。
火をおこし、衣を繕い、夜には茶を点てる。
一益は何も言わない。だが、咲菜の動きだけは、いつも視界の端で捉えていた。
それが、心を動かすものだと気づかぬままに。
日が経つにつれ、長屋にはわずかな変化が生まれた。
義太夫の無駄話に笑いをこぼす声が戻り、囲炉裏の火も夜更けまで絶えなくなった。
いつの間にか、咲菜の立つ場所が家の中心になっていた。
お鈴が香を焚くときも、菊之助が酒をねだるときも、彼女は柔らかに笑って受け止める。
不思議と誰も咲菜を軽んじようとはしなかった。
義太夫は相変わらず賑やかだった。
「お鈴よ、飯はまだか! この腹が鳴る音で、殿の筆まで揺れてしまうわ!」
「……義太夫様。殿の筆は、あなたの腹音では揺れません」
「そうか。では、今度は腹でなく心を鳴らしてみよう。おお、ぐぅ……ほれ、鳴った!」
お鈴が眉をひそめる横で、咲菜はそっと笑った。
その笑みが、一益の耳に届いたわけではない。けれど、長屋の空気がふとやわらいだ。
ある夜、一益はふと筆を止めた。
書きつけの墨がかすれ、灯が揺らぐ。
咲菜が湯を運んできた音が、静けさの中で小さく響く。
「お下がりを」
「……うむ」
短い応答。
だが、咲菜はその声のわずかな温度を聞き分けた。
怒りでも拒みでもない、ただ深い疲れの底から漏れたような声音。
一益の心が、まだ遠い誰かの影に縛られていることを、女の直感で悟った。
灯が消えたあとも、咲菜は部屋の外にしばらく座していた。
軒の隙間から風が入り、髪を揺らす。
目を閉じれば、あの日、甲賀で見上げた星空が蘇る。
(……殿の心は、遠いところにおわす)
唇はかすかに震えたが、瞳は揺れなかった。
その沈黙が、言葉よりも深く「わかっております」と告げていた。
翌朝、義太夫がまだ寝ぼけ眼で囲炉裏に火を入れると、咲菜はすでに起きていた。
桶を抱え、水を汲みに行く背中は、ひと晩で少し痩せたように見える。
「咲菜、寝ておらなんだのか?」
「ええ、少しだけ……」
「まったく、働き者にもほどがある。わしなど働かぬ者の中の働かぬ者じゃぞ」
「心得ております」
「……なんじゃと?」
ぼやく義太夫の声に、長屋の朝がまた始まった。
一益はその喧騒を奥の間で聞いていた。
胸の奥に、ほんのわずかな熱が戻っていることに、まだ気づいてはいなかった。
日々は、静かに流れていった。
咲菜は文句ひとつ言わず、長屋の掃除から炊き出しまで、黙々とこなした。
お鈴が焚く香のかたわらで、草木染めの衣を縫い直し、
義太夫の着崩れた裃を繕ってやることもあった。
「義太夫様は、お裁縫も苦手でございますか?」
「ば、馬鹿を申すな。甲賀の男は針を持たぬ! 戦場では鉄砲と槍一本あれば足りるのじゃ!」
「では、縫い目がほどけても、鉄砲で繕うおつもりで?」
「ぐぬぬ……おぬし、意外と毒があるのう」
咲菜は、目を伏せたまま小さく笑った。
その一瞬の笑みが、義太夫の胸を妙にくすぐった。
(……殿に、少しでも笑っていただければ)
彼女のそんな小さな願いが、長屋に灯のように広がっていく。
だが、一益だけは変わらなかった。
夜になると、囲炉裏の火が落ちても筆を離さず、
咲菜が膳を下げても、顔を上げることはない。
咲菜の手が湯飲みに触れたとき、その指がすこし震えたのを、義太夫だけが見ていた。
その夜、義太夫はひとり酒をあおりながら、ぼやいた。
「まったく、あの殿ときたら……どんな女を前にしても、顔色ひとつ変えぬ。まるで石地蔵じゃ」
「殿は、心をどこかに置いてこられたのでしょう」
お鈴の声が、囲炉裏の向こうから静かに響く。その目が、一瞬だけ鋭く光った。
「……お鈴、どこでそれを?」
「ただの女の勘でございます」
そう言って微笑んだお鈴の笑みが、どこか底知れず、義太夫は背筋をぞくりとさせた。
翌朝、義太夫はついに腹を決めた。
木の葉を払い、着流しの裾を正して一益の前に出る。
「殿。申し上げたいことがございまする」
「……申せ」
「そろそろ、お子をお持ちになるべきかと」
一益は筆を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「義太夫……またか」
「また、でございます。何度でも申しまする。殿に跡継ぎがなければ、滝川の家は風前の灯。殿の才を継ぐ者なくして、いずれこの名も消えましょう」
「下がれ」
声は低く、静かだった。怒気というより、深い拒絶の色を帯びていた。
それでも、義太夫は頭を下げたまま動かない。
「殿の理はわかりまする。されど、理と心とが別にあるのも、人の世でございましょう。我らは、殿の心を案じておるのです」
義太夫の言葉に、一益の眉がぴくりと動いた。
視線が鋭くなり、部屋の空気が一瞬、張りつめる。
言葉を誤れば、即座に斬られてもおかしくない――そんな緊迫が走った。
しかし、一益は刀の柄に手をかけることもなく、ただ静かに息を吐いた。
怒りの熱が、吐息とともに消えていく。
「……案ずるほどのものではない」
それだけ言い捨てると、筆を取り、再び書へと目を落とした。
義太夫は深く頭を垂れた。
一益の怒りの奥に、誰にも見せぬ痛みがある――そう感じた。
声をかけることもできず、ただその背を見つめながら、胸の奥で静かに祈った。
(……いつか、殿の心にも、再び春が来ますように)
外では、夜風がまだ冷たい。
行灯の火がかすかに揺れ、壁の影がゆらゆらと伸びていった。
――滝川一益という男の孤独は、その夜、誰よりも近くにいた家臣でさえ、まだ知らなかった。
城下の外れ、風の抜ける一角に、粗末な長屋をあてがわれている。茅葺の屋根は低く、板の継ぎ目には小さな隙間があり、夜更けには風がすうと通り抜ける。それでも、床はよく磨かれ、几帳面に整えられていた。
この小さな家に暮らすのは、一益のほか、義太夫と新介、菊之助、それに歩き巫女のお鈴の四人。
質素な暮らしでありながら、どこか温かな気配がある。囲炉裏の火が絶えることはなく、夜は茶の香とともに小さな笑い声が絶えなかった。
ある朝のことだった。
裏庭で水を汲んでいた義太夫の背後から、妙に軽い声が飛んだ。
「おうおう、あんたが『火の滝川』とかいうお人かね」
振り向くと、頬に笑い皺を刻んだ男が立っていた。頭を下げるでもなく、勝手に桶の縁へ腰をかける。
「尾張の木下と申すもんじゃ。まあ、長屋の隣りもん同士、よろしくおたの申しますわ」
「木下……?」
「へぇ。殿のお目にかかるほどの者やありゃせんが、いずれ世が開けりゃ、わしもひとつ『でっけえこと』してみとうてな」
飄々とした調子。だが、その瞳の奥にだけ、光が走った。義太夫は苦笑いを浮かべ、桶の水をこぼした。
「……おぬし、油断ならぬ奴じゃのう」
その言葉に、木下と名乗った男は目尻を細めて笑った。
「油断ならんやつほど、長生きするもんですわ」
そう言い残し、ひらひらと手を振って去っていった。
軒先からその背を見送っていた一益が、ぼそりと呟いた。
「……あやつ、只者ではないな」
「まさか、あの猿顔が?」
「猿であろうが狐であろうが、群れを率いるのは、いつも笑っておる者じゃ」
一益の目には、わずかに笑みが宿った。
それが、後年まで続く奇縁の始まりだった。
お鈴は毎朝、香草を焚いて戸口を清めた。煙は鉄と梅の匂いを含み、どこか懐かしくも胸に刺さる。誰に教わったとも言わず、名を問うても微笑むばかりだった。
義太夫はときおり、その煙の中に立ち止まり、ふと胸騒ぎを覚えることがあった。だが、深くは考えなかった。
長屋には、まだ『静けさ』が残っていたのだ。
その静けさを破るように――ある朝、軒先にもう一人の女が現れた。
その朝、軒先に立っていたのは、まだあどけなさの残る娘だった。
薄紅の襟元をきちんと正し、両の手に包みを抱えたまま、風に揺れるように立っている。
お鈴が焚く香草の細く立ちのぼる煙が娘の頬をかすめ、わずかに涙のような光を帯びた。
「義太夫様を、お訪ね申したく……」
その声は細いが、芯があった。
お鈴が目を細めて見やる。
「旅の方かえ?」
「はい。武蔵の国より参りました。名は咲菜と申します」
「……咲菜?」
その名を聞いた瞬間、奥から桶を抱えた義太夫が顔を出した。
「おお、おぬしか!」
思わず桶を落とし、びしゃりと水しぶきが上がった。
驚いたお鈴が振り向くより早く、義太夫は咲菜の肩を掴んだ。
「甲賀で別れてから消息を絶っておったではないか! まさか、尾張まで流れて来るとはのう!」
咲菜は小さく笑った。
「義太夫様の仰せに従ううち、気づけばここに……」
その言葉に、義太夫は「ふむ」と腕を組んで頷いた。
(これは渡りに船。いや、女船が向こうから漕いできたようなものじゃ)
お鈴は香炉を手に、二人のやりとりを黙って見つめていた。
咲菜の立ち居振る舞いには、ただの旅女にはない練れた静けさがあった。
眼差しには一瞬、何かを見透かすような強さが宿り、それがすぐに柔らかい笑みに溶けた。
(……この娘、ただの渡り者ではあるまい)
お鈴は香をくゆらせながら、わずかに唇を結んだ。
義太夫にはそれが見えず、咲菜を連れて軽い足取りで長屋の中へと消えていった。
その日、長屋の囲炉裏では、久々に湯気が立っていた。
お鈴が炊いた麦飯の香りに、咲菜が煮立つ鍋を見守る。義太夫はというと、柱にもたれて鼻歌まじりに胡坐をかいていた。
「おぬし、手際がよいのう。見ておると、何もかも音が立たぬ。まるで影法師じゃ」
「はい。甲賀で、音を立てるなと教わりました」
咲菜の返しは静かだったが、その目は冗談を受け止めていない。
「ほう……音を立てぬ女か。ならば殿の世話には、ちょうどよかろう」
義太夫はふと立ち上がり、天井を見上げながら呟いた。
(すみれ様を失ってからというもの、殿はまるで魂を落とされたようじゃ……)
咲菜は黙って鍋の蓋を開けた。湯気が立ちのぼり、ほのかな出汁の香が広がる。
その香りの向こうで、義太夫の脳裏に一つの策がひらめいた。
(……この娘なら、あの凍てついた座敷に火を入れられるかもしれぬ)
「よし、決まりじゃ!」
突然、義太夫が手を打ち鳴らした。
驚いたお鈴が匙を落とす。
「な、何がです?」
「この娘を殿に会わせる!」
「はあ……?」
「いや、殿は今たいそう冷うござる。女っ気がないと家の中まで凍りつく。わしなど、朝に手を洗うたら、桶の水が凍っとったわ!」
「それは夜中に外へ置いたからでしょ」
「うむ、そうかもしれん」
妙に得意げな顔で頷く義太夫に、咲菜は思わず吹き出しそうになった。
夕暮れ。
日が落ちると、長屋は一気に冷え込む。
義太夫は咲菜を伴い、一益の部屋の戸口に立った。
「殿。お取り次ぎ、よろしゅうございますか」
一益は文を読んでいたが、短く「入れ」とだけ言った。
咲菜が静かに膝を折り、手をついて頭を下げる。
「咲菜と申します。お仕えいたしまする」
一益はその声にわずかに顔を上げたが、視線はすぐ紙に戻った。
沈黙が、長屋の木目に染み込むように流れた。
やがて義太夫が気まずそうに笑い、
「殿、こやつ、気立ても働きもよく、飯の炊き方も……いや、わしが食って確かめたゆえ間違いござらん!」
「義太夫。下がれ」
ぴしゃり。
その声に、義太夫の背筋がぴんと伸びた。
「はは……下がりまするとも。ええ、わしなど風のようなもので……」
などと呟きながら、まるで追い出された犬のようにしょんぼりと戸を閉めた。
残された咲菜は、わずかに背筋を伸ばした。眼差しが一瞬、灯に照らされて光った。
(このお方……)
言葉にはならなかった。
ただ、胸の奥で何かが確かに鳴った。
それからの日々、咲菜は黙々と世話を続けた。
火をおこし、衣を繕い、夜には茶を点てる。
一益は何も言わない。だが、咲菜の動きだけは、いつも視界の端で捉えていた。
それが、心を動かすものだと気づかぬままに。
日が経つにつれ、長屋にはわずかな変化が生まれた。
義太夫の無駄話に笑いをこぼす声が戻り、囲炉裏の火も夜更けまで絶えなくなった。
いつの間にか、咲菜の立つ場所が家の中心になっていた。
お鈴が香を焚くときも、菊之助が酒をねだるときも、彼女は柔らかに笑って受け止める。
不思議と誰も咲菜を軽んじようとはしなかった。
義太夫は相変わらず賑やかだった。
「お鈴よ、飯はまだか! この腹が鳴る音で、殿の筆まで揺れてしまうわ!」
「……義太夫様。殿の筆は、あなたの腹音では揺れません」
「そうか。では、今度は腹でなく心を鳴らしてみよう。おお、ぐぅ……ほれ、鳴った!」
お鈴が眉をひそめる横で、咲菜はそっと笑った。
その笑みが、一益の耳に届いたわけではない。けれど、長屋の空気がふとやわらいだ。
ある夜、一益はふと筆を止めた。
書きつけの墨がかすれ、灯が揺らぐ。
咲菜が湯を運んできた音が、静けさの中で小さく響く。
「お下がりを」
「……うむ」
短い応答。
だが、咲菜はその声のわずかな温度を聞き分けた。
怒りでも拒みでもない、ただ深い疲れの底から漏れたような声音。
一益の心が、まだ遠い誰かの影に縛られていることを、女の直感で悟った。
灯が消えたあとも、咲菜は部屋の外にしばらく座していた。
軒の隙間から風が入り、髪を揺らす。
目を閉じれば、あの日、甲賀で見上げた星空が蘇る。
(……殿の心は、遠いところにおわす)
唇はかすかに震えたが、瞳は揺れなかった。
その沈黙が、言葉よりも深く「わかっております」と告げていた。
翌朝、義太夫がまだ寝ぼけ眼で囲炉裏に火を入れると、咲菜はすでに起きていた。
桶を抱え、水を汲みに行く背中は、ひと晩で少し痩せたように見える。
「咲菜、寝ておらなんだのか?」
「ええ、少しだけ……」
「まったく、働き者にもほどがある。わしなど働かぬ者の中の働かぬ者じゃぞ」
「心得ております」
「……なんじゃと?」
ぼやく義太夫の声に、長屋の朝がまた始まった。
一益はその喧騒を奥の間で聞いていた。
胸の奥に、ほんのわずかな熱が戻っていることに、まだ気づいてはいなかった。
日々は、静かに流れていった。
咲菜は文句ひとつ言わず、長屋の掃除から炊き出しまで、黙々とこなした。
お鈴が焚く香のかたわらで、草木染めの衣を縫い直し、
義太夫の着崩れた裃を繕ってやることもあった。
「義太夫様は、お裁縫も苦手でございますか?」
「ば、馬鹿を申すな。甲賀の男は針を持たぬ! 戦場では鉄砲と槍一本あれば足りるのじゃ!」
「では、縫い目がほどけても、鉄砲で繕うおつもりで?」
「ぐぬぬ……おぬし、意外と毒があるのう」
咲菜は、目を伏せたまま小さく笑った。
その一瞬の笑みが、義太夫の胸を妙にくすぐった。
(……殿に、少しでも笑っていただければ)
彼女のそんな小さな願いが、長屋に灯のように広がっていく。
だが、一益だけは変わらなかった。
夜になると、囲炉裏の火が落ちても筆を離さず、
咲菜が膳を下げても、顔を上げることはない。
咲菜の手が湯飲みに触れたとき、その指がすこし震えたのを、義太夫だけが見ていた。
その夜、義太夫はひとり酒をあおりながら、ぼやいた。
「まったく、あの殿ときたら……どんな女を前にしても、顔色ひとつ変えぬ。まるで石地蔵じゃ」
「殿は、心をどこかに置いてこられたのでしょう」
お鈴の声が、囲炉裏の向こうから静かに響く。その目が、一瞬だけ鋭く光った。
「……お鈴、どこでそれを?」
「ただの女の勘でございます」
そう言って微笑んだお鈴の笑みが、どこか底知れず、義太夫は背筋をぞくりとさせた。
翌朝、義太夫はついに腹を決めた。
木の葉を払い、着流しの裾を正して一益の前に出る。
「殿。申し上げたいことがございまする」
「……申せ」
「そろそろ、お子をお持ちになるべきかと」
一益は筆を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「義太夫……またか」
「また、でございます。何度でも申しまする。殿に跡継ぎがなければ、滝川の家は風前の灯。殿の才を継ぐ者なくして、いずれこの名も消えましょう」
「下がれ」
声は低く、静かだった。怒気というより、深い拒絶の色を帯びていた。
それでも、義太夫は頭を下げたまま動かない。
「殿の理はわかりまする。されど、理と心とが別にあるのも、人の世でございましょう。我らは、殿の心を案じておるのです」
義太夫の言葉に、一益の眉がぴくりと動いた。
視線が鋭くなり、部屋の空気が一瞬、張りつめる。
言葉を誤れば、即座に斬られてもおかしくない――そんな緊迫が走った。
しかし、一益は刀の柄に手をかけることもなく、ただ静かに息を吐いた。
怒りの熱が、吐息とともに消えていく。
「……案ずるほどのものではない」
それだけ言い捨てると、筆を取り、再び書へと目を落とした。
義太夫は深く頭を垂れた。
一益の怒りの奥に、誰にも見せぬ痛みがある――そう感じた。
声をかけることもできず、ただその背を見つめながら、胸の奥で静かに祈った。
(……いつか、殿の心にも、再び春が来ますように)
外では、夜風がまだ冷たい。
行灯の火がかすかに揺れ、壁の影がゆらゆらと伸びていった。
――滝川一益という男の孤独は、その夜、誰よりも近くにいた家臣でさえ、まだ知らなかった。
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小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
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