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第四章 日月神示の語る天変地異とは?について、解説する!
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《日月神示の語る天変地異とは?》
この章では日月神示の中で書記されている天変地異について、私なりに仮説を立てた。具体的には、次のような災いが起こるとされています。
神示には大峠や三千世界の大洗濯の最中になったら、この壮大で美しい富士山も遂に動くのだと記されています。
世界中が唸り、陸が海となるところや、海が陸になるところもあるという。(上つ巻第三帖)、(地つ巻第十六帖)
大地震、火の雨降らしての大洗濯になるという。(紫金之巻第五帖)
火と水の災難がいかに恐ろしいかを大なり小なり知らされることになるという。(富士の巻第十九帖)
一時は天も地も一つにまぜまぜになるという。(富士の巻第十九帖)
天地がうなり、上下引っくり返るという。(上つ巻第二十七帖)
大風が起こり、大海原には竜巻が発生し、やがて火の雨と地震が、山は火を噴きどよめくという。(富士の巻第二十四帖)
富士山がいよいよ動くのだという。(上つ巻第二十一帖)
大地も転位、天も転位するという。(五葉之巻第十五帖)
《糸魚川静岡構造線》
《東南海地震予想図》
《富士山》
《江戸時代宝永噴火絵図》
私は上記の場所は 糸魚川静岡構造線ではないかと推測している。
私の仮説の根拠を以下に示す。
1918年に東北帝国大学(現在の東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克氏(1878年-1969年)によって提唱された。
俗にしばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」です。
糸魚川静岡構造線は新潟県糸魚川市の親不知付近から諏訪湖を通って、安倍川(静岡市駿河区)付近に至る大断層線で地質境界でもある。略称は糸静線といいます。
私が様々な図書やweb情報により、ある仮説を立てました。
以下の文章は他の書籍からの引用です。
ご了承願います。
専門図書に記載されていました。
「古文書などの歴史上に残る活動記録が少なく、「内陸地震のため海溝型プレート境界地震による津波のような特徴的な痕跡が残らない」、「痕跡の由来が地震なのか気象現象による物なのかの判別が困難」などの理由から活動歴は不明点が多い」と記載されていました。
多くの組合せの中から「北部と中部」、「北部と中北部」、「北部と中部」など可能性が高いと考えられる幾つかの組合せの連動地震が想定されている場所になります。
一方、1970年代から2000年代までに行われた歴史地震の調査結果からは、各々の断層の変位速度と活動歴には明瞭な違いがありました。断層群毎に異なった活動間隔と変位速度で活動をしているとされている」
という記述もありました。
なお、過去の地震活動で、これらの断層が連動して巨大地震を起こしたとする証拠は見つかっていないが、遠田(2009)は証拠が見つかっていないだけで、発生しなかった証拠ではないとしている。
歴史に記録されている最古の地震は、北部区間での西暦762年の小谷付近 M7.0 以上と考えられています。
地震調査研究推進本部が発表している2016年から30年以内の地震発生確率は、北部区間で M7.7 程度が0.008~16%、中北部区間でM7.6程度が13~30%、中南部区間で M7.4 程度が0.8~8%、南部区間で M7.6 程度がほぼ0~0.1%であり、南部以外の3区間はいずれも「高い」に位置づけられていました。
1847年の善光寺地震以降は20年から25年周期の活動がみられるますが日本海東縁の地震活動と密接な関連がありました。
この糸静線上で発生した主な地震について記載がありました。
歴史に残る活動としては、繰り返しマグニチュード5~7 程度の地震の発生が見られました。
(出典は気象庁松代地震観測所資料および理科年表による(前震、余震は除外。震源域の地名は現在のもの))
西暦762年 美濃・飛騨・信濃 でM7.0以上。
西暦841年 松本、東経138.0° 北緯36.2°付近 でM6.5。
西暦1714年4月28日 震源は白馬村付近、信濃小谷地震。東経137.85° 北緯36.7°、死者100人。善光寺でも被害有り 。地震の規模はM6 程度。
西暦1725年8月14日 高遠・諏訪 東経138.1° 北緯36.0°付近 でM6.0 ~6.5。
西暦1791年7月23日 松本市付近 東経138.0° 北緯36.2° でM6.7 程度。
主な被害は松本城で塀が壊れる。
西暦1855年3月18日 飛騨白河 東経136.9° 北緯36.25° でM6.7。
西暦1858年4月23日 信濃北西部、大町市と白馬村の境界付近 東経137.9° 北緯36.6° でM5.7。
飛越地震(4月9日)で生じた常願寺川河道閉塞部の決壊による洪水の原因。
西暦1890年1月7日 15時43分頃。生坂村から長野市大岡樋ノ口沢付近、東経138.0° 北緯36.5° でM6.2。
西暦1898年 山梨県身延町付近を震源 とし、地震の規模はM5.9。
西暦1918年11月11日 『大町地震』2時59分 にM6.1 / 16時04分 にM6.5の地震。
震源は大町市南鷹狩山付近、東経137.9° 北緯36.5° 1858年の地震と区別するため、大正大町地震とも呼ばれる。
西暦1986年12月30日 9時38分 に発生。旧美麻村、小川村、旧信州新町の境界付近で糸魚川静岡構造線に長野盆地西縁断層及び千曲川構造線のそれぞれの延長がぶつかる地域において発生した。地震の規模はM5.9。
西暦2011年6月30日 8時16分 に発生。
長野県中部地震 長野県松本市 東経137°33.4′ 北緯35°49.5′ 地震の規模はM5.4。
西暦2014年11月22日 22時8分に発生した長野県神城断層地震。
私の仮説を述べます。
日月神示の記述から推測し仮説を立てました。
地球の地軸が動き、天地ひっくり返る。
日本列島は糸魚川静岡構造線で、分断される。
糸静線を境として東日本(北海道を含む)が海底に沈む。
逆に糸静線を境として西日本(九州の鹿児島)迄が隆起し、3000m級の山々になる。
山々は気候も温暖で緑豊かな山脈が一面に広がっている。これが「日月神示」に記述のある「ミロクの世」である。
以上が私の仮説です。
これはあくまでも私の仮説であり、実際は大宇宙の大神様しか、分かりません。
この章では日月神示の中で書記されている天変地異について、私なりに仮説を立てた。具体的には、次のような災いが起こるとされています。
神示には大峠や三千世界の大洗濯の最中になったら、この壮大で美しい富士山も遂に動くのだと記されています。
世界中が唸り、陸が海となるところや、海が陸になるところもあるという。(上つ巻第三帖)、(地つ巻第十六帖)
大地震、火の雨降らしての大洗濯になるという。(紫金之巻第五帖)
火と水の災難がいかに恐ろしいかを大なり小なり知らされることになるという。(富士の巻第十九帖)
一時は天も地も一つにまぜまぜになるという。(富士の巻第十九帖)
天地がうなり、上下引っくり返るという。(上つ巻第二十七帖)
大風が起こり、大海原には竜巻が発生し、やがて火の雨と地震が、山は火を噴きどよめくという。(富士の巻第二十四帖)
富士山がいよいよ動くのだという。(上つ巻第二十一帖)
大地も転位、天も転位するという。(五葉之巻第十五帖)
《糸魚川静岡構造線》
《東南海地震予想図》
《富士山》
《江戸時代宝永噴火絵図》
私は上記の場所は 糸魚川静岡構造線ではないかと推測している。
私の仮説の根拠を以下に示す。
1918年に東北帝国大学(現在の東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克氏(1878年-1969年)によって提唱された。
俗にしばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」です。
糸魚川静岡構造線は新潟県糸魚川市の親不知付近から諏訪湖を通って、安倍川(静岡市駿河区)付近に至る大断層線で地質境界でもある。略称は糸静線といいます。
私が様々な図書やweb情報により、ある仮説を立てました。
以下の文章は他の書籍からの引用です。
ご了承願います。
専門図書に記載されていました。
「古文書などの歴史上に残る活動記録が少なく、「内陸地震のため海溝型プレート境界地震による津波のような特徴的な痕跡が残らない」、「痕跡の由来が地震なのか気象現象による物なのかの判別が困難」などの理由から活動歴は不明点が多い」と記載されていました。
多くの組合せの中から「北部と中部」、「北部と中北部」、「北部と中部」など可能性が高いと考えられる幾つかの組合せの連動地震が想定されている場所になります。
一方、1970年代から2000年代までに行われた歴史地震の調査結果からは、各々の断層の変位速度と活動歴には明瞭な違いがありました。断層群毎に異なった活動間隔と変位速度で活動をしているとされている」
という記述もありました。
なお、過去の地震活動で、これらの断層が連動して巨大地震を起こしたとする証拠は見つかっていないが、遠田(2009)は証拠が見つかっていないだけで、発生しなかった証拠ではないとしている。
歴史に記録されている最古の地震は、北部区間での西暦762年の小谷付近 M7.0 以上と考えられています。
地震調査研究推進本部が発表している2016年から30年以内の地震発生確率は、北部区間で M7.7 程度が0.008~16%、中北部区間でM7.6程度が13~30%、中南部区間で M7.4 程度が0.8~8%、南部区間で M7.6 程度がほぼ0~0.1%であり、南部以外の3区間はいずれも「高い」に位置づけられていました。
1847年の善光寺地震以降は20年から25年周期の活動がみられるますが日本海東縁の地震活動と密接な関連がありました。
この糸静線上で発生した主な地震について記載がありました。
歴史に残る活動としては、繰り返しマグニチュード5~7 程度の地震の発生が見られました。
(出典は気象庁松代地震観測所資料および理科年表による(前震、余震は除外。震源域の地名は現在のもの))
西暦762年 美濃・飛騨・信濃 でM7.0以上。
西暦841年 松本、東経138.0° 北緯36.2°付近 でM6.5。
西暦1714年4月28日 震源は白馬村付近、信濃小谷地震。東経137.85° 北緯36.7°、死者100人。善光寺でも被害有り 。地震の規模はM6 程度。
西暦1725年8月14日 高遠・諏訪 東経138.1° 北緯36.0°付近 でM6.0 ~6.5。
西暦1791年7月23日 松本市付近 東経138.0° 北緯36.2° でM6.7 程度。
主な被害は松本城で塀が壊れる。
西暦1855年3月18日 飛騨白河 東経136.9° 北緯36.25° でM6.7。
西暦1858年4月23日 信濃北西部、大町市と白馬村の境界付近 東経137.9° 北緯36.6° でM5.7。
飛越地震(4月9日)で生じた常願寺川河道閉塞部の決壊による洪水の原因。
西暦1890年1月7日 15時43分頃。生坂村から長野市大岡樋ノ口沢付近、東経138.0° 北緯36.5° でM6.2。
西暦1898年 山梨県身延町付近を震源 とし、地震の規模はM5.9。
西暦1918年11月11日 『大町地震』2時59分 にM6.1 / 16時04分 にM6.5の地震。
震源は大町市南鷹狩山付近、東経137.9° 北緯36.5° 1858年の地震と区別するため、大正大町地震とも呼ばれる。
西暦1986年12月30日 9時38分 に発生。旧美麻村、小川村、旧信州新町の境界付近で糸魚川静岡構造線に長野盆地西縁断層及び千曲川構造線のそれぞれの延長がぶつかる地域において発生した。地震の規模はM5.9。
西暦2011年6月30日 8時16分 に発生。
長野県中部地震 長野県松本市 東経137°33.4′ 北緯35°49.5′ 地震の規模はM5.4。
西暦2014年11月22日 22時8分に発生した長野県神城断層地震。
私の仮説を述べます。
日月神示の記述から推測し仮説を立てました。
地球の地軸が動き、天地ひっくり返る。
日本列島は糸魚川静岡構造線で、分断される。
糸静線を境として東日本(北海道を含む)が海底に沈む。
逆に糸静線を境として西日本(九州の鹿児島)迄が隆起し、3000m級の山々になる。
山々は気候も温暖で緑豊かな山脈が一面に広がっている。これが「日月神示」に記述のある「ミロクの世」である。
以上が私の仮説です。
これはあくまでも私の仮説であり、実際は大宇宙の大神様しか、分かりません。
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私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。
日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。
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