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第五十七巻
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蓬莱は山なのか、島なのか?
蓬莱とは、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれたものである。
また、四霊の一角となる小さな大陸に等しい巨大な亀・霊亀が背負っていた山ともされている。
または台湾を指すとされる。台湾は、「蓬莱仙島」と中国語で呼ばれる自称がある。
『山海経』における記述である。
(注釈)
山海経は、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている
編者は禹およびその治水を助けた伯益であると序などに仮託されているが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる
内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている
そのため、古代中国の自然観や中国神話の重要な基礎資料となっている
もともとは、絵地図に解説文の組み合わせで構成され、『山海図経』と呼ばれていたが、古い時代に既に絵地図も失われた。そのため、現在残されている画像は『山海経』本文にある文章から逆算された後世の想像によるものであり、伝来する系統によって全く違う画像となっているものも存在している。
また、本文も当初そのままのものは伝来してはおらず、後世に編集・再構成が施されているため、各所各所で復元のされていない箇所、再構成によって方位など文意の不明確な箇所も存在している(脱簡・錯簡が起こってしまっている)。五蔵山経(南山経から中山経の5巻)では本文中にその巻に登場した山の数、距離を合計して何里あるかを示す文章が登場しているが、おおよそ本文に示されている山の数・距離と計算が合っていない。これは復元されずに消滅してしまった文章が存在しているためであると考えられている
構成している総編数・総巻数には時代によって異同があり、劉歆が漢室にたてまつった際には伝わっていた32編を校訂して18編としたとされている。『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本は、西晋の郭璞(かくはく)の伝を付しており、5部18巻となっている。
河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている五蔵山経は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり[注 1]、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。地理学者・小川琢治は、洛陽を中心としている点・後の儒学者たちが排除した伝説や鬼神の多く登場する点・西王母が鬼神のような描写である点から、五蔵山経の部分の成立は東周の時代ではないかと推定をしている
日本には9世紀末には伝来し、江戸時代に入ると、1670年(寛文10年)に刊本として刊行され
それ以後、何度か和刻本が刊行され、戯作の素材としても用いられた
中国最古の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている
「市」とは蜃気楼のことで、九州や中部地方の日本海側ではしばしば目撃されるが、山東省煙台市の蓬莱区(旧蓬莱県)も蜃気楼の名所として古来より有名である
渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」で記されている。
蓬莱は「方丈•瀛洲とともに東方の海に浮かぶ三つの山(もしくは島)であり、その中では「方丈」が中央に位置し、まとめて「三神山」という。三神山はまた「三壷」ともいい、それぞれ「蓬壷」「方壷」「瀛壷」ともいう。
瀛洲は「東瀛」ともいう。蓬莱がのちに日本を指す名前となったように「瀛洲」や「東瀛」も日本を指すことがある[3]。北魏の太和11年(487年)「瀛州」は行政区分として制定される。
三神山の他にも「岱輿」」と「員嶠」があり、かつては「五神山」だったのだがこの二つは流れて消えてしまって三神山になったのだという伝説もある。
ー日本における蓬萊ー
日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた
『竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される
求婚者の一人の車持皇子に難題として「蓬莱の玉の枝」を採取して持参することが課せられ、この玉の枝を巡る話が物語の一章をなす。また、富士山と結び付けられて言及されることがあり、謡曲の一つ『富士山』には「然れば本号は不死山なりしを。郡の名に寄せて。富士の山とは申すなり。是蓬莱の。仙境たり」とあり、林羅山は「士峰元是小蓬莱」と詩に詠んだ
ほか、熊野、熱田などの霊山や仙境を蓬莱と呼ぶ
ー蓬莱島ー
日本は平和文化的に見ると洵に優れた国であると常に思っているが、それに就いて気の付いた事を少し書いてみよう。私は美術品が好きで若い頃から機会ある毎に、そういう方面に事情の許す限り心を寄せて来た。今日と雖も見たり、娯しんだり、研究したりしているが、驚くべきことは、世界中の美術品の殆どの種類は、日本に集まっているといってもいい。その中で特に言いたい事は、支那の美術品が多く蒐集《しゅうしゅう》されていている事である。
処で、お隣である中国はどうであろうか?
春秋戦国時代は、中国史において紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることもある。
紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする解釈があるが、秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についても斉や晋などの国により領域が拡大された。
周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。
政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家(注釈1)と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。
なお、春秋戦国時代の名称は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。
(注釈1)
諸子百家とは中国の春秋戦国時代に現れた学者•学派の総称。諸子は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。百家は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す言葉である。
さて、蓬莱島の話である。
人間の寿齢のことである。神武天皇以前は兎も角として、以後でさえ普通一般の人間は百歳以上の寿齢を保っていたことは文献等を見ればわかる。とすれば病などなかったに違いない。何故なら今のような食品添加物や、防腐剤などが食品に使われてなかったし、有害な排ガスや廃液を工場の外に撒き散らしていなかったからだ。
かの有名な秦の始皇帝が臣徐福に命じ、「東海に蓬莱島あり」、「その島の人間は非常に長寿であるらしい。だからして定めし良い薬があるに
違いない。臣徐福よ。お前がその国を探して来い。わしの処にその薬を持ち帰ってこ」
遥々日本に渡来されたということである。臣徐福は日本へ上陸し、日本の何処を探してもそのようにな薬がなかったのだ。彼は失望したが本国に帰ることが出来なかった。日本にそのまま滞留して日本の地に骨を埋めた。今も和歌山に彼の墓がある。このことは確実であろう。以上簡単にご説明したが、当時の日本人は悉く無病で、百歳以上の寿齢を保つことが出来、世界中の美術品が豊富にあり、山水の自然美に富めるとしたら、これが東海の蓬莱島と言わずしてなんであろう。と言って喜ぶのはまだ、早過ぎる。何となればその上に犯罪者がいなくなり、食料の自給自足が出来、戦争の心配が無くなってこそ、初めて真の蓬莱島であると、言えるであろう。
私は断言する。今まで申し上げたことはそれ程難しい事ではない。
どういうことであるかと、言えば日月神示の教えを実行すればいいからだ。簡単なことだ。
蓬莱とは、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれたものである。
また、四霊の一角となる小さな大陸に等しい巨大な亀・霊亀が背負っていた山ともされている。
または台湾を指すとされる。台湾は、「蓬莱仙島」と中国語で呼ばれる自称がある。
『山海経』における記述である。
(注釈)
山海経は、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている
編者は禹およびその治水を助けた伯益であると序などに仮託されているが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる
内容のほとんどは各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている
そのため、古代中国の自然観や中国神話の重要な基礎資料となっている
もともとは、絵地図に解説文の組み合わせで構成され、『山海図経』と呼ばれていたが、古い時代に既に絵地図も失われた。そのため、現在残されている画像は『山海経』本文にある文章から逆算された後世の想像によるものであり、伝来する系統によって全く違う画像となっているものも存在している。
また、本文も当初そのままのものは伝来してはおらず、後世に編集・再構成が施されているため、各所各所で復元のされていない箇所、再構成によって方位など文意の不明確な箇所も存在している(脱簡・錯簡が起こってしまっている)。五蔵山経(南山経から中山経の5巻)では本文中にその巻に登場した山の数、距離を合計して何里あるかを示す文章が登場しているが、おおよそ本文に示されている山の数・距離と計算が合っていない。これは復元されずに消滅してしまった文章が存在しているためであると考えられている
構成している総編数・総巻数には時代によって異同があり、劉歆が漢室にたてまつった際には伝わっていた32編を校訂して18編としたとされている。『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本は、西晋の郭璞(かくはく)の伝を付しており、5部18巻となっている。
河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている五蔵山経は、時代を追って成立した本書の中でも最古の成立であり[注 1]、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。地理学者・小川琢治は、洛陽を中心としている点・後の儒学者たちが排除した伝説や鬼神の多く登場する点・西王母が鬼神のような描写である点から、五蔵山経の部分の成立は東周の時代ではないかと推定をしている
日本には9世紀末には伝来し、江戸時代に入ると、1670年(寛文10年)に刊本として刊行され
それ以後、何度か和刻本が刊行され、戯作の素材としても用いられた
中国最古の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている
「市」とは蜃気楼のことで、九州や中部地方の日本海側ではしばしば目撃されるが、山東省煙台市の蓬莱区(旧蓬莱県)も蜃気楼の名所として古来より有名である
渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」で記されている。
蓬莱は「方丈•瀛洲とともに東方の海に浮かぶ三つの山(もしくは島)であり、その中では「方丈」が中央に位置し、まとめて「三神山」という。三神山はまた「三壷」ともいい、それぞれ「蓬壷」「方壷」「瀛壷」ともいう。
瀛洲は「東瀛」ともいう。蓬莱がのちに日本を指す名前となったように「瀛洲」や「東瀛」も日本を指すことがある[3]。北魏の太和11年(487年)「瀛州」は行政区分として制定される。
三神山の他にも「岱輿」」と「員嶠」があり、かつては「五神山」だったのだがこの二つは流れて消えてしまって三神山になったのだという伝説もある。
ー日本における蓬萊ー
日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記』逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた
『竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される
求婚者の一人の車持皇子に難題として「蓬莱の玉の枝」を採取して持参することが課せられ、この玉の枝を巡る話が物語の一章をなす。また、富士山と結び付けられて言及されることがあり、謡曲の一つ『富士山』には「然れば本号は不死山なりしを。郡の名に寄せて。富士の山とは申すなり。是蓬莱の。仙境たり」とあり、林羅山は「士峰元是小蓬莱」と詩に詠んだ
ほか、熊野、熱田などの霊山や仙境を蓬莱と呼ぶ
ー蓬莱島ー
日本は平和文化的に見ると洵に優れた国であると常に思っているが、それに就いて気の付いた事を少し書いてみよう。私は美術品が好きで若い頃から機会ある毎に、そういう方面に事情の許す限り心を寄せて来た。今日と雖も見たり、娯しんだり、研究したりしているが、驚くべきことは、世界中の美術品の殆どの種類は、日本に集まっているといってもいい。その中で特に言いたい事は、支那の美術品が多く蒐集《しゅうしゅう》されていている事である。
処で、お隣である中国はどうであろうか?
春秋戦国時代は、中国史において紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることもある。
紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする解釈があるが、秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についても斉や晋などの国により領域が拡大された。
周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。
政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家(注釈1)と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。
なお、春秋戦国時代の名称は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。
(注釈1)
諸子百家とは中国の春秋戦国時代に現れた学者•学派の総称。諸子は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。百家は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す言葉である。
さて、蓬莱島の話である。
人間の寿齢のことである。神武天皇以前は兎も角として、以後でさえ普通一般の人間は百歳以上の寿齢を保っていたことは文献等を見ればわかる。とすれば病などなかったに違いない。何故なら今のような食品添加物や、防腐剤などが食品に使われてなかったし、有害な排ガスや廃液を工場の外に撒き散らしていなかったからだ。
かの有名な秦の始皇帝が臣徐福に命じ、「東海に蓬莱島あり」、「その島の人間は非常に長寿であるらしい。だからして定めし良い薬があるに
違いない。臣徐福よ。お前がその国を探して来い。わしの処にその薬を持ち帰ってこ」
遥々日本に渡来されたということである。臣徐福は日本へ上陸し、日本の何処を探してもそのようにな薬がなかったのだ。彼は失望したが本国に帰ることが出来なかった。日本にそのまま滞留して日本の地に骨を埋めた。今も和歌山に彼の墓がある。このことは確実であろう。以上簡単にご説明したが、当時の日本人は悉く無病で、百歳以上の寿齢を保つことが出来、世界中の美術品が豊富にあり、山水の自然美に富めるとしたら、これが東海の蓬莱島と言わずしてなんであろう。と言って喜ぶのはまだ、早過ぎる。何となればその上に犯罪者がいなくなり、食料の自給自足が出来、戦争の心配が無くなってこそ、初めて真の蓬莱島であると、言えるであろう。
私は断言する。今まで申し上げたことはそれ程難しい事ではない。
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