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第八十五巻 アヘン戦争 麻薬撲滅運動の幕開け!

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 この世の中から麻薬や違法薬物を一掃する為に今回のトランプ大統領の英断にエールを送ります。
 このベネズエラ大統領の拘束事件は、麻薬撲滅運動へと発展するでしょう。
そこで、今回はその麻薬を舞台にしたアヘン戦争を取り上げました。
 
 日月神示国常立尊の原文を読み解くとこの麻薬に纏わる誘惑について、悪という存在に打ち勝つ方法は善しかないということになります。
 神さまはこれについて、黙って示すという黙示を取られているのです。

 アへン戦争あへんせんそうは、清とイギリスの間で1840年から2年間に渡り行われた戦争です。
 イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵です。

 


 このアヘン戦争は1840年6月28日 から1842年8月29日まで続きました。
戦闘場所は清(現在の中華人民共和国)沿岸地域でした。
この戦争でイギリスは勝利し、清と南京条約締結しました。
当時のイギリスの戦力は19,000人でした。
その内訳はイギリス陸軍5000人、インド陸軍7000人、王立海軍7069人でした。
 被害者数は
69人戦死。
451人負傷。
18,000人から20,000人死傷。
 当時、イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていました。
 アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となったのです。
 戦争はイギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となりました。
なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれます。
 もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかったのです。
 一方ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であり、同社は現地に「管貨人委員会」(Select Committee of Supercargoes) という代表機関を設置していました。
 しかし北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の貿易交渉には応じようとしなかったのです。
 そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書を広東地方当局に提出出来るだけでした。
 このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては満足のいくものではありませんでした。
 広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていやした。
 イギリス東インド会社は1773年にベンガルアヘンの専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的なアヘン売り込みを開始していました。
 北京政府はアヘン貿易を禁止していましたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、アヘン貿易は拡大していくようになります。
 1823年にはアヘンがインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となり、収入の20%がアヘンになりました。
 広東貿易の枠外でのアヘン貿易の拡大は、広東貿易制度の崩壊につながることとなります。
 イギリス東インド会社の対中国貿易特許は1834年に失効し、独占体制は終了して、これまで同社の下請等の形で貿易活動を行っていた個人貿易商に委ねられることとなります。
 これに伴い、同年、イギリス政府は、東インド会社の管貨人委員会に代わって現地で自国商人の指導・監督を行う貿易監督官を派遣することとしたのです。
 初代監督官にはウィリアム・ジョン・ネイピアが任命され、ネイピアは清の両広総督との直接の接触を目指しましたが、性急な実現に固執したため紛争化し、武力衝突を招き、失敗します。

 当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していました。
 一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったため、イギリスの大幅な輸入超過でした。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとっていました。
 そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなります。
 中国の明代末期からアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年)にアヘン輸入禁止となります。
 以降19世紀に入ってからも何度となく禁止令が発せられましたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していきます。
 また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、治安が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長さるようになります。
 アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転し清国内の銀保有量が激減し、銀の高騰を招いたのです。
 清では、この事態に至って、官僚の許乃済から『許太常奏議』といわれる「弛禁論」が上奏されました。
 概要は「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い」というものでした。
 しかしこの主張に対しては多くの強い反論が提出され論破されました。
 その後、「アヘンを厳しく禁止し吸引した者は死刑に処すものとすることで、風紀を粛正しアヘンの需要も消滅させ銀の国外流出も絶つ」とする「厳禁論」が黄爵滋から上奏され、道光帝はアヘン厳禁策の採用を決めました。
 道光帝は黄爵滋の上奏文を基に各地の地方長官に具体策を検討させ、最も優れた提案を行った林則徐を起用することとしました。
 林則徐は1838年(道光18年)に欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命され、広東に赴任し、アヘン密輸の取り締まりに当たります。
 林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、現地の総督・巡撫や軍幹部らと協力してアヘン密輸に対する非常に厳しい取り締まりを行います。
 1839年(道光19年)には、広州の外国商人たちに、「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書を同年3月21日までに提出した上保有するアヘンも供出するよう要求し、「今後アヘンを持ち込んだ場合は死刑に処する」と通告しました。

 これをイギリス商人や貿易監督官チャールズ・エリオットが無視し期限を経過したため、林則徐は彼等の滞在するイギリス商館に官兵を差し向けて包囲し、保有するアヘンの供出を約させたのです。

 大量のアヘンの没収・収容には同年4月11日から5月18日までを要し、林則徐らはこれを6月3日から6月25日までかかって現地で処分しました。
 焼却処分では燃え残りが出るため、専用の処分池を建設し、アヘン塊を切断して水に浸した上で、塩と石灰を投入して化学反応によって無害化させ、海に放出しました。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えました。
 この林則徐の処置にエリオットは反発し、全てのイギリス商人に誓約書提出を禁じた上、全員を率いて広州からマカオに退去しました。
 抗議の意思表示であったが、清国側には何らダメージとはならなかったのです。
 林則徐は、外国商人の来航・交易自体を禁止することは非現実的で不可能であることを理解しており、目的は外国商人の追放ではなく、アヘン禁絶を誓約させ、合法的な商業活動に専念させることにありました。
アメリカ商人をはじめとするイギリス以外の商人の多くは、もともとアヘンとの関わりが少なく、清国当局に誓約書を提出して商業活動を続けました。

ー(川鼻海戦(1839年11月3日))ー

 エリオットは、1839年10月末に、2隻のフリゲート艦を率いて川鼻沖で誓約書提出済みの自国商船の広州入港を妨害し、さらに11月3日には清国兵船への攻撃を開始しました(川鼻海戦)。
 清国側は広東水師提督関天培が督戦し、ポルトガル製の艦砲を搭載した艦を含む29隻の兵船が出動したものの、ボレージ号に損傷を与えたのみで、大半の兵船が自力航行不能の損害を受けました。
 一方イギリス本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾いており、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において遠征軍派遣が決定します。「阿片の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストン(後に自由党首相)らを中心に「不義の戦争」とする批判がありましたが、清に対しての出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣しました。
 総司令官兼特命全権大使には、チャールズ・エリオットの従兄のジョージ・エリオットが任命され、チャールズは副使となります。
 1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着しました。
 イギリス艦隊は林則徐が大量の兵力を集めていた広州ではなく、より北方の防備が手薄な地域に向かい、舟山列島を攻略した後、長駆首都北京に近い天津沖へ入ります。
 
 天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、林則徐に開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷し、和平派のキシャンを後任に任じてイギリスに交渉を求めます。
 イギリス軍側もモンスーンの接近を警戒しており、また舟山列島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて9月に一時撤収します。
 この間イギリス側は、清国との交渉方針を巡って両エリオットの対立が激化し、特命全権大使のジョージ・エリオットは11月29日に病気と称して帰国したのです。
 1841年1月20日にはキシャンとチャールズ・エリオットの間で川鼻条約(広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。後の南京条約と比べると比較的清に好意的だった)が締結されました。
 ところがイギリス軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否しました。
 チャールズ・エリオットも、本国に無断で舟山列島を返還したため罷免となり、後任の特命全権大使にヘンリー・ポッティンジャーが任命され、1841年8月11日に着任しました。
 首脳陣が交代したイギリス軍は、本国の方針により軍事行動を再開します。
 イギリス艦隊は廈門、舟山列島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧していきます。
 三元里事件での現地民間人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らの奮戦もあり、完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈します。
 とくに「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、清軍のジャンク兵船を次々と沈めて、後続の艦隊の進入を成功に導きます。
 広州では広東水師提督関天培が戦死し、鎮海・寧波陥落時には浙江方面防衛責任者の両江総督兼欽差大臣裕謙(ユキャン)が自決しました。
 浙江戦線では清軍は増援を受けて反撃を試みたが、失敗します。
 イギリス艦隊はモンスーンに備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止しましたが、1842年春にインドのセポイ6,700人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開します。
 5月に対日貿易港の乍浦を、次いで揚子江口の呉淞要塞を陥落させて揚子江へ進入を開始し(ここでも汽走砲艦が活躍)、7月には鎮江を陥落させます。
 イギリス軍が鎮江を抑えたことにより京杭大運河は止められ、北京は補給路を断たれました。
 呉淞では江南提督の陳化成が戦死し、乍浦・鎮江では駐防八旗兵が玉砕します。
 また乍浦や鎮江ではイギリス軍による大規模な住民虐殺・婦女暴行・略奪が発生しています。
この破滅的状況を前に道光帝ら北京政府の戦意は完全に失われたのです。

ー(イギリス海軍の進撃ルート)ー
  ここでは、上記のアヘン戦争について、纏めました。
 アヘンは毒性の高い麻薬です。決して体内に取り入れてはダメです。
しかし、イギリスはそのことを知っていながら清に輸出したのです。自国の利益の為にです。このアヘンの輸出は人道上許されるべきものではありません。アヘンにより、中毒で亡くなられた方々にご冥福をお祈りします。
 さて、このアヘン戦争は、1840年から2年間、清とイギリスの間で行われた戦争です。イギリスが清への貿易赤字解消のため、インドで生産したアヘンを清に密輸し、清がアヘンの取り締まりを強化したことが開戦のきっかけとなりました。* 清は惨敗し、南京条約を締結させられ、中国の半植民地化が始まったのです。
ー(戦争に至る経緯)ー
当時イギリスと清には貿易不均衡がありました。その解消を図るためにアヘン貿易を始めたのです。
 当時のイギリスは清から茶や陶磁器、絹を大量に輸入していましたが、清へ輸出できるものが少なく、大幅な輸入超過でした。イギリスは銀の国外流出を抑制するため、植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸し、貿易の均衡を図ったのです。
アヘンの毒性を知りながら清にアヘンを輸出したのです。

ー(清のアヘン取り締まり)ー

 清ではアヘン中毒者が増加し、社会問題となります。
 1796年にはアヘン輸入が禁止され、1830年代末にはアヘンの代価として清の国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出しました。この事態に対し、清は林則徐を欽差大臣に任命し、1839年にイギリス商人のアヘン約2万箱を没収・焼却しました。

ー(イギリスの対応)ー

 アヘン没収事件は、イギリスにとって清との戦争を始める口実となりました。イギリス国内ではアヘン貿易を武力で押し付けることへの反対意見もありましたが、わずか9票差で派兵が可決され、1840年にイギリスは清への武力行使に踏み切りました。

ー(戦争の経過と結果)ー
 アヘン戦争は清の惨敗で終結しました。

 イギリス軍は広州、厦門などを攻略し、天津にまで北上しました。清は軍事力の差や軍事戦略の稚拙さなどにより惨敗したのです。
 ー(南京条約の締結)ー

 1842年8月29日、清はイギリスとの間で南京条約を締結し、アヘン戦争は終結しました。 南京条約の主な内容は以下の通りです。
①香港の割譲
②広州、福州、厦門、寧波、上海の五港開港
③巨額の賠償金
④領事裁判権の承認
⑤公行制度の廃止 

ー(日本への影響)ー

 アヘン戦争での清の惨敗は、日本の徳川幕府当局者や知識人に大きな衝撃を与えました。徳川幕府は異国船打払令をより穏便な薪水給与令に改め、異国船来航時には薪や食料、水を与えて引き取らせる方針に変更しました。

ー(その後の影響)ー

 南京条約締結後、アメリカやフランスも同様の不平等条約を清に押し付け、中国の半植民地化が促進されました。アヘン戦争は、中国の近代史の方向を決定づける事件となったのです。

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