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第百三十九巻 七五三詣
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【七五三詣】
抑々、七五三とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社・寺などで「七五三詣」を行い、報告、感謝、祈願を行う奉告祭である。
この七五三の由来であるが、日取りは、天和元年(1681年)旧暦11月15日に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男徳川徳松の髪置祝いが行われたことを前例にするとも伝えられ、暦学の上でも吉日に当たる江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部において現在のような華やかな風習となったものである。やがてこの儀式は京都、大阪でも行われるようになり、段々と全国規模になり全国に広まっていったものである。
七五三の日付であるが、旧暦の15日はかつては二十七宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったのである。
江戸時代に始まった神事であり、旧暦の数え年で行うのが正式となる。
神事としては、感謝をささげ祝うことが重要であるとの考え方から、現代では、数え年でなく満年齢で行う場合も多くなっている。
明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっているのが実情だ。
北海道などの寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行う場合が多いのだ。
この七五三の各年齢の意味であるが、現在は「七五三」という名称から其々の年齢で行う同じ行事のように捉えられる傾向にあるが、実際には別々の異なった行事である。
皆さんもこのことを間違えないように。
3つの子供の行事を「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。その為現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なっているのである。
発祥とされる関東地方では以下のように考えられている。
数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置き」とし、主に女児が行う(古くは男児も行った為現在も行う場合がある)。
江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があった為それを終了する儀。
数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴着(袴儀)」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。平安時代に公家階級で行われていた行事にならったもので、古くは男女ともに行ったが、武家では男子のみに行ったため、次第に男児の行事となったのである。
数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解き」(または「紐解き」)とし、女児が行う。女子が付け紐の着物を卒業し、大人と同じ幅の広い帯を結び始める儀。
最近では性別問わず三回すべて行う例も散見される。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響があるのだ。
上方発祥の習俗としては十三詣りがあり、これも徐々に全国に広がりつつある。
変わった所では福岡県で4~5歳で「ひもとき」、7歳で「へこかき」(少年)/「ゆもじかき」(少女)(いずれも褌や湯文字といった成人仕様の下着を初めて身につける)を行う地区がある。
3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かることを感謝し、また、3歳、5歳、7歳は子供の厄の一種でもあるという考えが出雲地方に見られる。
静岡県では、他の地域よりも早い時期(3歳)に男児が七五三を祝う習慣が比較的一般的であり、静岡市内の写真スタジオなどでは「3歳男児の被布着用」を想定した衣装を多く取り揃えているのである。
かつて東京を含む首都圏では、男児は主に5歳で祝う傾向が強かったが、近年では「被布は3歳でしか着られない」という認識から、3歳男児でも被布を着せて写真を残す家庭が増加しているのが現状だ。
この傾向は、子供の成長の段階と体型に適した被布の着用可否にも起因しているといえるものだ。
3歳女児は友禅染めの縮緬地で無垢仕立て(表裏共生地)にした四つ身、下着(内側に重ねる中着)は調和する無地や友禅、匹田模様の縮緬など。長襦袢は赤の紋羽二重。しごきは八尺もの、帯揚げは赤の絞り、帯締めは丸ぐけとし、扇子と筥迫を身につける。被布をつける場合も多い。
5歳男児は熨斗目模様(長着の腰のあたりと袖の下部に横段になるよう模様を配した柄行き)の羽二重の長着に、無地や縞、または熨斗目の袴、熨斗目の羽織。羽織紐は白の丸打ちとし、白扇を持つのが習わしである。
1909年(明治42年)頃からは海軍軍服を模した洋服も流行し、第二次世界大戦末まで続いていた。
7歳女児は本裁ちの小振袖。成長しても着られるようにする場合は五つ紋とする。しごきや帯揚げ、帯締めなどは3歳女児に同じ。
七五三では、親が自らの子に長寿の願いを込めた千歳飴を与えて食べて祝う。
千歳は健康や長寿を願った呼び名で、元々は麦芽から作られた細長い飴を紅白に着色していたのである。
千歳飴は、鶴亀や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。
この千歳飴の由来であるが千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り七兵衛が売り出し流行した千年飴から始まったとされている。
また千歳飴の製法には地方ごとに形状や色が異なっているのだ。
関東の千歳飴は水飴と砂糖を材料とし、鍋の中で140℃程度の熱に達するまで煮詰めたのち鍋から取り出して平たく展ばして冷却する。硬化しはじめて柔らかい塊状にまとまった飴に均等に空気を混ぜるために飴の塊を棒に引っ掛け、引き伸ばしながら何層にも折り返す製白機と呼ばれる機械に掛ける。この工程により透明の飴の中に無数の空気の細い隙間が生じ乱反射して白く見えるようになり、千歳飴独特の舌触りの食感が生まれる。触ると火傷するほど熱を帯びた飴の塊を製白機から外し、手または機械で細長く伸ばし、平たい台の上で転がして均等な太さに成形し、適当な長さで切り口が欠けないように包丁を用いて叩くようにして切断する。伝統や格式を重んじる菓子屋では以上の手順を経て作った千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べているのだ。
ミルク味のほかレモン味や抹茶味の商品も販売されている。
このほか不二家ではミルキーを棒状にしたものを千歳飴として毎年この時期に発売しているのだ。
また七五三で風船や綿菓子を与えることもある。
日本神道では「人は神の子、神の宮」と言う。
この七五三を迎えて神社に七五三詣をした子供達はいつまでも純粋な子供であって欲しいものである。
日月神示の教えにある「前一筋」で生きて貰いたい。
「今に言う 善き心 善き言葉 善き行いを励むこそ善き」
「神知りて 人の幸せ 願うのみ
神のつたへし 愛善の道」
歌人 蔵屋日唱
抑々、七五三とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社・寺などで「七五三詣」を行い、報告、感謝、祈願を行う奉告祭である。
この七五三の由来であるが、日取りは、天和元年(1681年)旧暦11月15日に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男徳川徳松の髪置祝いが行われたことを前例にするとも伝えられ、暦学の上でも吉日に当たる江戸時代中頃から商業の発達による影響もあり、都市部において現在のような華やかな風習となったものである。やがてこの儀式は京都、大阪でも行われるようになり、段々と全国規模になり全国に広まっていったものである。
七五三の日付であるが、旧暦の15日はかつては二十七宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。また、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったのである。
江戸時代に始まった神事であり、旧暦の数え年で行うのが正式となる。
神事としては、感謝をささげ祝うことが重要であるとの考え方から、現代では、数え年でなく満年齢で行う場合も多くなっている。
明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。現在では11月15日にこだわらずに、11月中のいずれかの土・日・祝日に行なうことも多くなっているのが実情だ。
北海道などの寒冷地では11月15日前後の時期は寒くなっていることから、1か月早めて10月15日に行う場合が多いのだ。
この七五三の各年齢の意味であるが、現在は「七五三」という名称から其々の年齢で行う同じ行事のように捉えられる傾向にあるが、実際には別々の異なった行事である。
皆さんもこのことを間違えないように。
3つの子供の行事を「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。その為現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なっているのである。
発祥とされる関東地方では以下のように考えられている。
数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置き」とし、主に女児が行う(古くは男児も行った為現在も行う場合がある)。
江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があった為それを終了する儀。
数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴着(袴儀)」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。平安時代に公家階級で行われていた行事にならったもので、古くは男女ともに行ったが、武家では男子のみに行ったため、次第に男児の行事となったのである。
数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解き」(または「紐解き」)とし、女児が行う。女子が付け紐の着物を卒業し、大人と同じ幅の広い帯を結び始める儀。
最近では性別問わず三回すべて行う例も散見される。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響があるのだ。
上方発祥の習俗としては十三詣りがあり、これも徐々に全国に広がりつつある。
変わった所では福岡県で4~5歳で「ひもとき」、7歳で「へこかき」(少年)/「ゆもじかき」(少女)(いずれも褌や湯文字といった成人仕様の下着を初めて身につける)を行う地区がある。
3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かることを感謝し、また、3歳、5歳、7歳は子供の厄の一種でもあるという考えが出雲地方に見られる。
静岡県では、他の地域よりも早い時期(3歳)に男児が七五三を祝う習慣が比較的一般的であり、静岡市内の写真スタジオなどでは「3歳男児の被布着用」を想定した衣装を多く取り揃えているのである。
かつて東京を含む首都圏では、男児は主に5歳で祝う傾向が強かったが、近年では「被布は3歳でしか着られない」という認識から、3歳男児でも被布を着せて写真を残す家庭が増加しているのが現状だ。
この傾向は、子供の成長の段階と体型に適した被布の着用可否にも起因しているといえるものだ。
3歳女児は友禅染めの縮緬地で無垢仕立て(表裏共生地)にした四つ身、下着(内側に重ねる中着)は調和する無地や友禅、匹田模様の縮緬など。長襦袢は赤の紋羽二重。しごきは八尺もの、帯揚げは赤の絞り、帯締めは丸ぐけとし、扇子と筥迫を身につける。被布をつける場合も多い。
5歳男児は熨斗目模様(長着の腰のあたりと袖の下部に横段になるよう模様を配した柄行き)の羽二重の長着に、無地や縞、または熨斗目の袴、熨斗目の羽織。羽織紐は白の丸打ちとし、白扇を持つのが習わしである。
1909年(明治42年)頃からは海軍軍服を模した洋服も流行し、第二次世界大戦末まで続いていた。
7歳女児は本裁ちの小振袖。成長しても着られるようにする場合は五つ紋とする。しごきや帯揚げ、帯締めなどは3歳女児に同じ。
七五三では、親が自らの子に長寿の願いを込めた千歳飴を与えて食べて祝う。
千歳は健康や長寿を願った呼び名で、元々は麦芽から作られた細長い飴を紅白に着色していたのである。
千歳飴は、鶴亀や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられている。
この千歳飴の由来であるが千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り七兵衛が売り出し流行した千年飴から始まったとされている。
また千歳飴の製法には地方ごとに形状や色が異なっているのだ。
関東の千歳飴は水飴と砂糖を材料とし、鍋の中で140℃程度の熱に達するまで煮詰めたのち鍋から取り出して平たく展ばして冷却する。硬化しはじめて柔らかい塊状にまとまった飴に均等に空気を混ぜるために飴の塊を棒に引っ掛け、引き伸ばしながら何層にも折り返す製白機と呼ばれる機械に掛ける。この工程により透明の飴の中に無数の空気の細い隙間が生じ乱反射して白く見えるようになり、千歳飴独特の舌触りの食感が生まれる。触ると火傷するほど熱を帯びた飴の塊を製白機から外し、手または機械で細長く伸ばし、平たい台の上で転がして均等な太さに成形し、適当な長さで切り口が欠けないように包丁を用いて叩くようにして切断する。伝統や格式を重んじる菓子屋では以上の手順を経て作った千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べているのだ。
ミルク味のほかレモン味や抹茶味の商品も販売されている。
このほか不二家ではミルキーを棒状にしたものを千歳飴として毎年この時期に発売しているのだ。
また七五三で風船や綿菓子を与えることもある。
日本神道では「人は神の子、神の宮」と言う。
この七五三を迎えて神社に七五三詣をした子供達はいつまでも純粋な子供であって欲しいものである。
日月神示の教えにある「前一筋」で生きて貰いたい。
「今に言う 善き心 善き言葉 善き行いを励むこそ善き」
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