日露戦争の真実

蔵屋

文字の大きさ
12 / 33

第十二巻

しおりを挟む
 【第十二巻ノ1】


  《ポーツマス講和会議に向けての樺太攻略作戦》

 西暦一九〇五年(明治三八年)五月二七日、ロシア艦隊にとって厄災やくさいの日がついに来た。
 朝5時ごろ、ロシア艦隊の右前方に1隻の商船が姿を見せた。

 午前7時、ロシア艦隊は艦列を組んで航進していた。

 午前8時ごろ、旗艦「スワロフ」偵察支隊に艦隊の背面への移動を命令した。

 午前8時半ごろのロシア艦隊の艦列は右列梯隊に第一戦艦隊と第二戦艦隊があり、左列梯隊には第三艦隊と巡洋艦隊、左右梯隊の中間には「アナズイリ」「スウェトラーナ」
「アルマーズ」「仮装巡洋艦「ウラール」」が輸送船団の後ろに続く。
「モノロフ」はこの三艦の最右翼についた。
10時。日本連合艦隊は順次左舵に転回してようやく艦影が認められるほどの遠方に離れたまま並航する形をとった。

11時30分。旗艦「スワロフ」から「速力8ノットを維持せよ」
「各員交代で食事を取れ」との命令が伝えられた。乗組員たちは、いつ始まるかもしれない戦闘に緊張していた。しかも3万3千3百kmもの航海で体力は消耗し、食事ところではなかった。乗組員たちの中には、荒波に揺られている船の中で、船酔いをしている者いた。

 
 午後12時30分。
出羽重遠提督率いる日本艦隊の一隊は右方角からロシア艦隊の前方を通過して、正面陣形をつくり右方向寄りに航進を続けた。
1時15分。戦艦「シソイ・ウェリキー」から
「東方に六隻の船舶を認む」との信号あり。
1時30分。旗艦「スワロフ」から速力9ノット維持の命令。この時ロシア艦隊の前方を通過した出羽提督の快速巡洋艦隊は一斉に舷転回を敢行した。

 午後1時25分。延々たる長舵の陣形を撮る。日本の視力艦隊が、突如として、濃霧を割い艦首右舷之彼方に姿を現れ士た。
梯陣を作って、約16ノットの速力でロシア艦隊の航路の前方横断していた。

 ツシマの大海戦が開始された。


「ニコライ1世は」ついに砲門を開かなかった。
その代わりに、1つの信号旗を掲げた
最初、ロシア艦隊の乗組員たちはこの信号が「自沈する」という合図に違いないと思っていた。
しかし、よく見ると、それは万国信号が掲げられていた。
万国信号簿を開いた。見るまでもなくXGH  ‥‥その3つの信号旗の意味は「ワレ 投降ス 協議ヲナスヲ望ム」 

 これはロシア艦隊の士官や乗組員たちにとっては、残酷な運命を期待したが、これは全く考えたこともない事態であった

「イズムルード」に再び命令が下った。
「ニコライ1世」は日本艦隊の確認が遅れたようである。
「イズムルード」は既に多くの乗組員たちにとって、周知の事態を確認したに過ぎなかった。

 日本の艦隊部隊は装甲巡洋艦隊を背後に従えて、ロシア艦隊を激滅する形で徐々に近づいた。

 日本艦隊は9時ごろに約18キロの距離にあって単縦陣をとっていた。

 ロシア艦隊は敗残の艦隊である。日本艦隊の主力艦隊の他に北、西、南の各方面から、各種各艦隊の諸艦隊に包囲されていた。
水雷梯と駆逐艦を除く日本艦隊の全てが総力をあげての包囲作戦であった。

 日本艦隊は主力艦隊の動きに合わせて徐々に包囲網を圧縮し、後方1隊は既に艦首を左方に向けていた。

 これで、ロシア艦隊に、唯一の退路として残されていた東方面も遮断されてしまったことになる。
日本艦隊に有利になったのだ。

 ロシア艦隊に、戦闘用意のラッパが高らかに鳴り渡った。〝パッパラパー、パッパラパー〝
 しかし、日本艦隊とロシア艦隊の海戦がまもなく始まろうとしていた。
これから始まる最後の決戦の行方は、ロシア艦隊が勝利することが誰の目にも明らかであった。

 午前10時
日本艦隊の戦艦部隊はにわかに右舷4度の変針を行い、急速にロシア艦隊めがけて接近し始めた。

 日本艦隊の間隔がおよそ10キロになった時、ニコライ1世が戦闘旗を降ろした。

 旗艦の行動は、いかにも奇怪ではあったが、ロシア艦隊の諸艦はいずれも訝りつつもこれに倣った。

 ロシア艦隊の士官の中で、これを降伏と理解したものはほとんどいなかった。

 航海中に艦旗を下ろす事は、これまでにもしばしばあった。

 ただ、今、まさに決戦を交えるべき敵を目の前にして、このような行動を取るとはいかにも解せなかった。

 ニコライ1世は疲労の余り神経衰弱へ陥ったのかとほとんどの士官は考えた。

 ロシア艦隊の士官の念頭には、降伏と言う文字は一切なかった。

 日本艦隊はさらに接近し、およそ9キロになったところで一斉に砲撃を開始した。
凄まじい砲弾の嵐しであった。
ロシア海軍の乗組員たちは、日本海軍の砲撃によって、戦う意欲を喪失したのである。

 単縦陣から梯陣に陣型を変えて、日本艦隊はロシア艦隊と並んで、航行しながら、盛んに砲撃を加えてきた。 

 日本艦隊の砲弾の雨を浴びながら、ロシア艦隊は今や遅しと「ニコライ1世」の砲門から発射される第1発を待っていた,。

 旗艦が砲門を開けば、続いてロシア艦隊もも撃ちまくる準備はできていた。

 しかし、旗艦「ニコライ1世」から砲弾が発射される事はなかった。
ロシア艦隊の士官をはじめ乗組員たちは、今か今かと今かと歯ぎしりをしながら旗艦「ニコライ1世」の射撃開始を待ったのだ。

「嗚呼!哀れ、バルチック艦隊の最期!」

 旗艦「ニコライ1世」に降伏信号が掲げられた。
 ロシア艦隊の艦上に展開された情景は、まさに筆舌に尽くし難い、乗組員のある者は茫然とし、一言も発せず立ち尽くし、またある者は艦橋の床に倒れて、子供のように声を放って泣いていた。

 また、ある者は、「自沈すべし、キングストン弁を開くべし」さらに1艦のみでも戦闘を開始すると艦長に詰め寄った。

 艦長はこれらを制し、「投降したくはない。しかし降伏の命令で、しかももしロシア艦隊が戦闘を開始すれば、日本艦隊は旗艦に集中砲火をするであろう」と説得に努めた。
 旗艦に降伏信号が掲げられてから、日本艦隊は5分間ほどにわたって砲撃を続けていた。
 各艦隊橋の争乱は日本の砲弾が、降り注ぐ中で演じられた悲劇であった。
「イズムルードは旗艦に既に降伏信号を掲げていた。しかし、突然何かに気づいたかのように信号旗を引き下ろすと、同時に、日本艦隊の見えない東に向かって全速で突っ走っていった」

 ロシア艦隊の二隻の巡洋艦が日本艦隊を離れて、これを追跡したが「イズムルード」の船脚は速く、艦影はたちまち水平線に消えた。

 わずか、2、3分間の出来事であった。
「ニコライ1世」は自ら日章旗を掲げ、各艦、これに続いた。

 日本艦隊は、砲撃を中止して、少しずつロシア艦隊に近づいて来た。

 ロシア艦隊の士官の中で、未だ、心中、エネルギーを失わずにいた者があったとしたら、この間いかに自らを処すべきだったのだろうか?

 水兵を糾合して艦を占領し爆破して、沈めさせることも出来なかった訳ではない。
しかし、元来規律と服従で、律せられてきた士官の中にはこのような提案に賛成して反乱を立てる者があるとは思えない。 
また、そのような決意を誰にも告げないで実行する者もいなかった

 しかし、もしその時、何事も既に遅しとの諦めていなかったとしたら、あるいはこうした事態が起こっていたかもしれない。

 マストに掲げられた降伏旗と日章旗とはどうにもならない。屈辱が頭上に降りかかり、なすすべがないとの絶望と諦念をロシア艦隊の乗組員120名の士官に抱かせたのである。

 もしその時そこにいたのが、我々120名とは別の120名であったとしても おそらく彼らもまた他になすすべはなかったものと私は確信する。

 しかし、艦長については話は別である。
艦長中のただ1人でも提督の命令を無視して自沈するか、あるいは戦闘を開始する者があれば、他の艦長もまた、必ずそれに続いていたかもしれない。
 
 このように、ツシマにおける日本海大海戦は日本の勝利に終わったのである。

日本海海戦でロシア期待のバルチック艦隊は壊滅したが、ロシアは、戦争を諦めてはいなかった。

 ネボガトツ少将が日本海で降伏旗を掲げた翌々日の5月30日、ロシアは宮廷の軍事会議で戦争続行を決定した。

 同時に、極東軍総司令官のクロバトキン大将を降格し第一軍司令官のリネウィッチ中将を新しい総司令官に任命した。そしてロシア本国からさらに精鋭部隊30万人を満州に送り込んで反撃態勢を整えていた。 

 一方「ないない参謀本部」の日本は、兵力、弾薬、装備、肝心の戦費が既に底をついていた。もうこれ以上戦う余力は残っていなかった。

 日本は、日本海海戦後、直ちに、アメリカのルーズベルト米大統領に講和の斡旋を依頼したのだ。

 ルーズベルトもすぐに動いた。
ドイツ皇帝に親書を送ってロシア皇帝ニコライ2世を説得してもらった。

 6月3日。
 ルーズベルトから「ニコライ皇帝がルーズべルト大統領の提案を承諾した」
と言う電報が入り、いよいよ講和の斡旋が本格化し、日本側は一息ついたのであった。

 この日露戦争の終結により、日露の和平条件をより有利にするために、長岡参謀次長が画策する樺太攻略作戦は、軍政首脳によって延期を重ねていた。しかし、ポーツマス講和会議を日本にとって有利に進めるためには、どうしても樺太の攻略が必要であった。
 
 長岡は思案したあげく、元老たちが、頭の上がらない児玉総参謀長にもう一度ご登場願い局面を打開しようと考えた。

 そして、御前会議で樺太攻略作戦が延期された。6月12日、児玉大将で長岡の2人だけが特別暗号電報を打って、樺太攻略作戦実施のプッシュを願い出たのである。
翌14日児玉から返事があった。

「絶対的に休戦を拒絶し、ロシアの痛いところを責め立てて、談判がいっ時遅れれば、いっ時だけの要求が大きくなることをロシアに痛感させる。そのためには、樺太に兵を進めこれを占領しウスリーに向かっても前進を継続し満州軍でも準備でき次第、猶予なく地歩を進めて、大打撃を与えることが、講和談判を速やかに解決する道である。
児玉自署す」大喜びした長岡は早速この宣伝を石版刷りにして首相、外相、陸相をはじめ、手の届く限りの関係者に配布した。
山縣参謀総長には何も言わずにナマの電報を差し出した。
「100年に1人の戦力家」児玉源太郎大将の指示に、元老、政府首脳たちは態度を一変させた。

 6月15日、山縣参謀総長を中心に、桂首相寺内陸相、小村外相などが鳩首協議し樺太攻略作戦は瞬くまに決定された。
山縣は長岡に言った。

「北韓軍も前進させる。
樺太の染料もやることに決定した。
かねての計画通り、手落ちなく進めることにし給え」

 長岡参謀副官一同を次長室に招き、シャンパンを抜いて乾杯した。
決定事項をつけて、万歳を三唱したのである。

 こうして、樺太の攻略作戦は、6月17日に、天皇の裁下が下り、親設の独立第13師団に出動命令が下されたのであった。

 2個旅団編成の第13師団長原口兼済中将の樺太遠征軍は日本海海戦後新たに編成された連合艦隊の第3、第4艦隊からなる北遺艦隊に護送されて、7月7日早朝、
樺太南部のアニワ湾に侵入しメレヤ村の湾岸線から上陸を開始した。

 当時、樺太のロシア軍は歩兵、1個、大隊、民兵約2000、砲兵1から2個中隊程度で、防衛軍と呼べるものではなかった。

 民兵の多くは囚人や高齢者が多いし、寄せ集めの部隊で、散発的な抵抗はあったが、もはや日本軍の敵ではなかった。

 7月9日には樺太南部の要衝コルサコフを占領する。
24日には、師団主力が北部のアルコワ付近へ上陸、27日までに樺太の北部のアレキサンドルフとルイコフを占領した。

 ポーツマス講和会議が始まる前の7月31日にロシア軍が降伏して、樺太全土を制圧したのである。予定以上に早く作戦が完了したため、長岡参謀次長はカムチャッカの占領計画を起案した。

 カムチャッカも樺太と同様に、守備兵もほとんどいない。

 樺太派遣軍を回せば容易に片付けられたが、これは山縣参謀総長の反対で実現しなかった。

「講和会議の談判を有利に導く唯一、絶対の力は講和の大使の能弁でもなく、軍の勢力と威力を伸ばして、敵を説服させることだ」
とは、児玉源太郎の言葉であるが、もし樺太全土を占領していなければ、ポーツマス講和会議の交渉は、日本側に最も不利なものになっていただろう。  

 またカムチャッカも占領しておけば、さらに有利に展開ができた事は間違いない。
「100里の道も99里で半ばとす」
とのことわざ通り、連戦連勝に舞い上がっていたのか、日本軍は、最後の詰めを欠いたきらいがある。
いずれにしても、長岡の先見の明が光るケースであったのだ。

 【第十二巻ノ2】

     日露戦争後のポーツマス講和条約を有利に進める為の樺太攻略と、その後の北方四島の現状】

樺太からふとはロシア語でサハリンという。

 樺太はユーラシア大陸東方、オホーツク海の南西部にある島である。南北約948 km、東西約160 kmで南北に細長く、面積は約76,400 km2で、北海道(78,073 km2)よりやや小さい。樺太島からふととうともいい、日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。

 近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。彼らは平和に暮らしていた。特にアイヌ民族は縄文人の末裔である。また、アイヌ語で〝カムイ〝は「神」という意味である。

 さて、近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って樺太への領土拡張を求めて植民を進め、多くの日本人とロシア人が樺太へ移住するようになった。

 西暦1855年(安政2年)の日露和親条約では樺太には明確な国境が設けられず、日本とロシアとが混住する土地のままとされた。

 西暦1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって、以前から日本領であった北方領土に加えて千島列島得撫島から占守島を日本領とする代わりに、樺太の全土がロシア領と定められた。

 西暦1905年(明治38年)から西暦1945年(昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太の南半分(南樺太)を「樺太カラフト」として日本が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン」としてロシア及びソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。日本本土の食糧確保のために農業移民が指向され、とくに1928年から1940年は集団移民制度が実施された。その他、製紙・パルプ業、石炭業が主要産業となった。1940年には人口40万人となる。

 第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の市街戦が行われた地である(1945年8月の樺太の戦い)。

 戦後はソビエト連邦及びロシア連邦が樺太南部も実効支配している。人口約50万人で最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約20万人。日本名: 豊原)。現在、サハリンプロジェクトが進められている。

 樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160 km(最狭部は約26 km)であるのに対し、南北は約948 kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400 km2である(北海道本島の面積は77,981.87 km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

 樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前の氷期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

 樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置している鵞小門岬がおとみさきである。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。

 南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。

 樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は黒龍水道と呼ばれ、その幅は約7.3 kmである。

 東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。

 樺太の気候は亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季は湿度が高く、霧が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬は日本海側で雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。南西部は対馬海流(暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流(寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。オホーツク海側では乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。また、夏と冬の寒暖の差は大きい。海洋の影響が大きい南樺太と比べ、大陸の影響を受けやすい北樺太は特に気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することが出来る。

 植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類や爬虫類などの分布が異なっている。

 樺太は、石油や天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。

 地理的な意味合いでの日本列島の中では、本州、北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

《北樺太》
 ニヴフ民族のほか、東部(幌内川とロモウ川の流域)にはウィルタ民族も居住。  
  

《南樺太》
 樺太アイヌのほか、北東部(幌内川の流域、敷香郡や散江郡など)のウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌ(樺太アイヌは当初は樺太土人とされていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人となった)を除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)はオタスの杜に集住し戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留せざるを得ない事情を持った者を除き北海道以南に追放されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である。

【北方領土】
 北方領土とは、北海道の東北部の海に浮かぶ4つの島々からなる地域の総称です。
4つの島とは、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島のことで、島々が4つに分けられている地域なので、北方四島という言い方もします。



 地図で見ると北方領土は、北海道の端にある小さな島という印象を受けるかも知れませんが、北方領土の面積の総計は、5,003.1㎢で、千葉県や愛知県とほぼ同じ面積に相当していて、広大な面積を有する地域なのです。


 各島別の比較を紹介すると、択捉島は東京都の面積よりも広く、国後島も沖縄本島よりも大きな島です。

 また距離では、根室半島の東端である納沙布岬から、歯舞群島の貝殻島までの距離でわずか3.7kmしか離れていません。

 気温は、海洋気象の影響を受けて寒暖とも緩やかで、極寒期でも根室地方とほぼ同じくらいです。択捉島紗那測候所の観測記録(昭和5~7年(1930年~1932年))によれば、年平均気温は3度から5度で、月平均最低気温が-5度以下の月は12月から3月までの4ヶ月、月平均最高気温が10度以上の月は6月から10月までの5ヶ月となっています。

 降雪期は11月から翌年5月上旬までとなっています。

 またこれらの島々の海域は千島寒流と対馬暖流が交錯しているため水産物が極めて豊富で、古くから世界三大漁場のひとつに数えられています。

 主な水産物に、昆布、さけ、ます、たら、すけそう、たらば蟹、なまこなど。
そのほか、戦前には、林業(針葉樹林)、鉱業(硫黄、金、銀)畜産(馬)も行われていました。

 《国後島》
国後島は、千島列島の南西端に位置し、面積は1,489.3㎢で、南は太平洋、北はオホーツク海に面した島です。

 島の位置は、全長が122km、島の1番広いところで幅約29km、逆に1番狭いところは幅約7kmと細長い形をしています。

 オホーツク海側の海岸線は、急傾斜の断崖絶壁が多いことから、小田富、秩苅別など5つの小錨地(船をとめるところ)しかありませんでした。

 これに対して、太平洋側は、比較的傾斜の緩やかな平坦地が多く、海岸線は起伏に富んだ天然の良港で、豊かな漁場となっていました。
このため、多くの漁村は太平洋側に集中して、当時の人びとは豊かな生活を送っていました。 

 《択捉島》
 択捉島は面積が3,166.6㎢で、日本の中で最も大きい面積を持つ島です。
島の東南部は太平洋に面していて、西北部がオホーツク海に面している形で、島の長さは約203km、幅は約6~30kmの細長い形をしています。
択捉島は、1,000m級の休火山、活火山が数多くそびえていることが大きな特徴です。
また西海岸部では、比較的起伏の豊かな地形で、ほぼ中央に散布半島が突出し、そこから南に留別湾、宇多須都湾、内保湾、萌消湾などがあり、背後には、緩やかな傾斜地や平坦地が開けています。
反対に東海岸部には、ほぼ中央に単冠湾、北端に茂世路湾があります。


 《色丹島》
 色丹島は、昭和初期までは日本18景のひとつにも数えられたほどで、アイヌ語で「美しい島」と言う意味があります。
島の面積は248.9㎢で、根室半島や歯舞群島の地形に比べると起伏に富んでいますが、千島列島の島々にあるような火山はなく、島の東側にある斜古丹岳(413m)が最高峰です。
全島的にはゆるやかな波状の丘陵地帯となっています。
海岸部は、島の西北側には断崖部が連なり、斜古丹湾、又古丹湾、穴澗湾などの良港があります。
東南側の海岸部は変化に富んでいて、大島、小島、鴨島、ゴメ島などの名称で親しまれた小島も多く点在しています。

《箱舞群島》
 歯舞群島は、北海道の東端にある根室半島の沖合約50kmにわたって点在している、5つの島からなる群島です。
5つの島とは、根室半島に最も近い水晶島すいしょうとう、そこから東側に連なっている秋勇留島あきゆりとう勇留島ゆりとう志発島しぼつとう、そして、多楽島たらくとうのことです。
この群島は根室半島の延長上にあり、その昔土地の陥没によって離島になったと言われています。
 水晶島は面積12.1㎢の平坦な小島で、海抜11~18mしかありません。
秋勇留島は面積わずか2.1㎢で、5島中で1番小さな島です。
勇留島は面積9.9㎢で、ほとんど平坦な島です。
志発島は面積58.3㎢で、群島中最大の島です。
多楽島は面積10.9㎢の島です。


北方領土問題ほっぽうりょうどもんだい

 日本とソビエト連邦及びその継承国となったロシア連邦との間の領土問題・国境紛争が今なお続いている。

《歯舞群島》
 根室半島の納沙布岬の沖合3.7kmから北東に点在する島々が歯舞群島。その一つ貝殻島と納沙布岬の距離が3.7km。

 北海道の根室半島と千島列島の得撫島との間にある択捉島、国後島、色丹島、そして歯舞群島をあわせた四島が、日本では北方領土または北方四島と呼ばれる。また、四島が千島列島クリル諸島に含まれると考える立場からは南千島または南クリル諸島とも呼ばれる。

 西暦2025年時点、四島をロシア連邦が実効支配しており、ロシア政府は「四島はロシアの領土である」と主張している。
一方、日本国政府は「四島は日本の領土であり、日本に返還されるべき」と主張している。

 さて、樺太の攻略作戦は、6月17日に、天皇の裁下が下り、親設の独立第13師団に出動命令が下されたのであった。

 2個旅団編成の第13師団長原口兼済中将の樺太遠征軍は日本海海戦後新たに編成された連合艦隊の第3、第4艦隊からなる北遺艦隊に護送されて、7月7日早朝、
樺太南部のアニワ湾に侵入しメレヤ村の湾岸線から上陸を開始した。

 当時、樺太のロシア軍は歩兵、1個、大隊、民兵約2000、砲兵1から2個中隊程度で、防衛軍と呼べるものではなかった。

 民兵の多くは囚人や高齢者が多いし、寄せ集めの部隊で、散発的な抵抗はあったが、もはや日本軍の敵ではなかった。

 7月9日には樺太南部の要衝コルサコフを占領する。

 24日には、師団主力が北部のアルコワ付近へ上陸、27日までに樺太の北部のアレキサンドルフとルイコフを占領した。

 ポーツマス講和会議が始まる前の7月31日にロシア軍が降伏して、樺太全土を制圧したのである。予定以上に早く作戦が完了したため、長岡参謀次長はカムチャッカの占領計画を起案した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君

おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。 彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。 入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。 ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。 どうぞ、よろしくお願いいたします。 本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。 ※2023.9.21 編集しました。

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...