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第九巻
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武田信玄に関わった武将と言えば、真田昌幸を挙げなければなるまい。
真田 昌幸は、戦国時代の武将で大名であった。また、甲斐国主・武田信玄の家臣であった。
甲斐国主・武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下に於いて所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
なお、軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将としてよく知られるようになった。
子に真田信之、真田幸村らがいる。
天文16年(1547年)真田幸綱(真田幸隆)の三男として生まれる。生誕月日は不明 である。幼名は源五郎。
真田昌幸は三男であり、同母兄に真田信綱・真田昌輝がいた為真田氏の家督承継の可能性は低かった。
ー(武田信玄の時代)ー
天文22年(1553年)、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。
なお、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によれば、この時の奥近習衆は昌幸の他に金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎が挙げられている。
武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ。
真田昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている。なお、武藤氏は武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとったとされている。
永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、真田信之、真田信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある。
(第四次川中島の戦い)
初陣は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いに、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定は出来ない。
永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(1567年)11月に武田勝頼の嫡男・武田信勝が生まれた際には山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・土屋昌続と共に信玄の使者として高遠城の武田勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田氏の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤氏を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である。
(武田信玄の小田原攻め)
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた。
『軍鑑』によれば北条氏との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。
(武田信玄の駿河侵攻)
武田信玄は昌幸の父・幸綱にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかったのだ。
この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。
(武田信玄の西上作戦)
元亀3年(1572年)10月から武田信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている。『甲陽軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」の指揮を執って出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られているのだ。
なお、信玄の晩年には武田氏の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の龍雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できる。
(武田勝頼の時代)
元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。
天正2年(1574年)には父・幸綱が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続したのである。
これには武田家の重臣で川中島の海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた。
武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、武藤領と真田領を併せて相続した訳では無かったようで、所領に関しては一万五千貫とも言われている。
真田領のみの相続であったらしい。
家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し或いは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、本領と甲斐を往復する事を繰り返したようである。
真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる。
天正6年(1578年)3月、越後の上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立するが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていたのである。
この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱に沼田城を攻めさせた。
一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れたのである。
そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退した。天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清や藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落としたのだ。
同年、武田信勝元服祝儀の名目で喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許された。
この時点では、勝頼から与えられた私称である。
これは、北条方の上野担当である藤田(北条)氏邦が、安房守を受領名としていたことへの対抗である。
天正9年(1581年)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もあるのだ。
同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。
天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。
このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触を示す史料もあり、氏邦からは北条への降伏をするよう返信を受けている。
武田氏滅亡後、天正10年(1582年)4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出したのである。
(天正壬午の乱《てんしょうじんごのらん》)
織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が 自刃する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可、毛利秀頼、道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。
昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡や佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合参加者の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。
6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1,000貫文、6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。
6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けたのである。
昌幸は一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回したのである。
また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。
同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、7月9日には北条氏直に降った。
7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している。
一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡に於いて北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る。
10月19日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであったのだ。
昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる。
藤田氏邦は昌幸を牽制するため沼田城を攻めるが、成功しなかったのである。
これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。
昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。
これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴陣営への参加に他ならない。この時、厩橋城の北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。
真田 昌幸は、戦国時代の武将で大名であった。また、甲斐国主・武田信玄の家臣であった。
甲斐国主・武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出身で、真田幸綱の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下に於いて所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
なお、軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将としてよく知られるようになった。
子に真田信之、真田幸村らがいる。
天文16年(1547年)真田幸綱(真田幸隆)の三男として生まれる。生誕月日は不明 である。幼名は源五郎。
真田昌幸は三男であり、同母兄に真田信綱・真田昌輝がいた為真田氏の家督承継の可能性は低かった。
ー(武田信玄の時代)ー
天文22年(1553年)、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。
なお、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によれば、この時の奥近習衆は昌幸の他に金丸平八郎、曽根与一、三枝勘解由、三枝新十郎、曽根総次郎が挙げられている。
武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ。
真田昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている。なお、武藤氏は武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとったとされている。
永禄7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、真田信之、真田信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある。
(第四次川中島の戦い)
初陣は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いに、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定は出来ない。
永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(1567年)11月に武田勝頼の嫡男・武田信勝が生まれた際には山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・土屋昌続と共に信玄の使者として高遠城の武田勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田氏の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤氏を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である。
(武田信玄の小田原攻め)
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康・氏政・氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた。
『軍鑑』によれば北条氏との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。
(武田信玄の駿河侵攻)
武田信玄は昌幸の父・幸綱にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかったのだ。
この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。
(武田信玄の西上作戦)
元亀3年(1572年)10月から武田信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている。『甲陽軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」の指揮を執って出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られているのだ。
なお、信玄の晩年には武田氏の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の龍雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できる。
(武田勝頼の時代)
元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。
天正2年(1574年)には父・幸綱が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続したのである。
これには武田家の重臣で川中島の海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた。
武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、武藤領と真田領を併せて相続した訳では無かったようで、所領に関しては一万五千貫とも言われている。
真田領のみの相続であったらしい。
家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し或いは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、本領と甲斐を往復する事を繰り返したようである。
真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる。
天正6年(1578年)3月、越後の上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立するが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていたのである。
この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱に沼田城を攻めさせた。
一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れたのである。
そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退した。天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清や藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落としたのだ。
同年、武田信勝元服祝儀の名目で喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許された。
この時点では、勝頼から与えられた私称である。
これは、北条方の上野担当である藤田(北条)氏邦が、安房守を受領名としていたことへの対抗である。
天正9年(1581年)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もあるのだ。
同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。
天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。
このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触を示す史料もあり、氏邦からは北条への降伏をするよう返信を受けている。
武田氏滅亡後、天正10年(1582年)4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出したのである。
(天正壬午の乱《てんしょうじんごのらん》)
織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が 自刃する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可、毛利秀頼、道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。
昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡や佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合参加者の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。
6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1,000貫文、6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。
6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けたのである。
昌幸は一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回したのである。
また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。
同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、7月9日には北条氏直に降った。
7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している。
一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡に於いて北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る。
10月19日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであったのだ。
昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる。
藤田氏邦は昌幸を牽制するため沼田城を攻めるが、成功しなかったのである。
これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。
昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。
これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴陣営への参加に他ならない。この時、厩橋城の北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。
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深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
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