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貞淑さというものが欠けております!
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シュメルヒは長い間、「怒る」という感情を持たない生き物だと周囲から思われていた。
少なくともこれまでの人生で、何かに怒ったことはおろか、不機嫌な素振りさえほとんど見せたことはなかった。それが今、誰が見ても分かりやすく、シュメルヒは怒っていたし不機嫌だった。
いささかわざとらしいほど「私は今怒っていますから、誰も話しかけないで」という空気をまとい、じっと虚空を睨んでいた。
(ハビがここにいたら、きっと私の盾になってくれたのに)
気が利く従者が傍にいないことが嘆かわしい。
ヨアンはさっきからそわそわと、シュメルヒに話しかけたそうにしているが、初めてのあからさまな不機嫌を前に何とか踏みとどまっていた。
精霊だけは、そんなシュメルヒの気持ちなど興味がないように、面白そうに舌なめずりしている。
『まあ良いじゃろ。小童、祝福をくれてやる。何が欲しい? 言うてみよ』
「ヨアン様。精霊様が何を望むのかと聞かれています」
シュメルヒが素っ気なく言うと、ヨアンは頷き精霊と目を合わせた。
ちらっとシュメルヒを見て何か言いたそうにしたが、シュメルヒが一向に顔を向けてくれないので、意を決したように口を開いた。
「精霊よ、どうか……『僕たち』を祝福してください。オスロの第一皇子ヨアン・アルディオ・オルデンとその妻シュメルヒが永久に夫婦として……終生に渡り番えるよう、祝福をお与えください」
シュメルヒは耳を疑った。しかし、ヨアンのよく通る声は精霊のみならず、見届ける貴族達の耳にも当然届いていた。
そしてヨアンの願いは、あらゆる横やりも、一切の誤解の入る余地もないほどに明確だった。
シュメルヒの剣幕に身を竦めていた貴族達は、ヨアンの請願が終わるなりどよめき出す。
唖然とするシュメルヒの目の前で、精霊は面倒くさそうな生あくびをした後、ヨアンを手招いた。
ヨアンはやや警戒をしながら近づいていった。
精霊が腕を伸ばし、ヨアンの襟元を掴んで乱暴に引き寄せる。
「っ、ヨアン様!」
さっき噛まれた首の痛みを思い出し、シュメルヒは慌ててふたりの間に割り込もうとしたが遅かった。羞恥心からヨアンと距離を取っていたことが仇となった。
精霊はあやしい笑みを浮かべると、ヨアンの頬にひたりと水掻きの付いた手を当て、ゆっくりと顔を傾けた。そのまま唇をヨアンのそれに近付けるのを見て、シュメルヒの中で何かが爆ぜた。
「『離れろッ』!」
イレニア語で叫ぶと、ヨアンを背後から羽交い絞めにして、勢い余って後ろへ倒れ込んだ。
ヨアンを抱きしめ息を荒げて見上げた先で、精霊は見せつけるように赤い舌で唇を舐めた。
「……っ!」
シュメルヒは怒りで我を忘れそうになった。わなわなと震え、ヨアンを抱き込む腕に力を籠める。
「く、苦しい。妃、首が締まってる」
ヨアンが藻掻くが、シュメルヒは羽交い絞めにしたまま精霊を睨んだ。
「『ふざけた真似をッ……!』」
『怒りっぽいのぅ、祝福をくれてやったのじゃ、何が不満じゃ』
キヒヒ、と牙を見せて嗤う。
『もう一つの約束も忘れるでないぞ、稀血の子。セノキミを探して我に返せ。さもなくば、戻した時を主から奪い、再び望まぬ輪廻の業へ戻してやろう。我は水に棲むもの。……常に見張っておるからの』
精霊は言い終わると、身を捩って背後の水面に頭から潜り込んだ。
ざぶんと水飛沫が上がり、尾ひれが水面で大きく翻ると、完全にその姿は水に消えた。
呪縛から解かれた司祭が飛びつくように噴水台に飛びつき覗き込む。やがて脱力したように、呆然と緩く波打つ水面を見下ろした。
「妃、あの……そろそろ離して、いや、僕は別にこのままでも構わないんだけど」
「黙ってください、ヨアン様。私……私、今、とても怒っています」
地を這う低い声で告げると、ヨアンはゴクッと唾を飲んだ。
「わ、わかった」
シュメルヒは手袋をした手でヨアンの唇をごしごし擦った。
「痛い!」
「じっとしてください!」
「い、イタっ……誤解してる、何もされてない! 妃の思うようなことはなかったよ!」
「どうして抵抗しなかったのですか! 振り払えばよかったではありませんか! あんなっ……よりによって、あ、あんな……!」
(私と同じ顔をした者とッ……!)
「ヨアン様には貞淑さというものが欠けております!」
いつかヨアンに言われた言葉をそのまま突き返しながら、シュメルヒはヨアンの唇が擦れて真っ赤になるまで拭うのを止めなかった。
少なくともこれまでの人生で、何かに怒ったことはおろか、不機嫌な素振りさえほとんど見せたことはなかった。それが今、誰が見ても分かりやすく、シュメルヒは怒っていたし不機嫌だった。
いささかわざとらしいほど「私は今怒っていますから、誰も話しかけないで」という空気をまとい、じっと虚空を睨んでいた。
(ハビがここにいたら、きっと私の盾になってくれたのに)
気が利く従者が傍にいないことが嘆かわしい。
ヨアンはさっきからそわそわと、シュメルヒに話しかけたそうにしているが、初めてのあからさまな不機嫌を前に何とか踏みとどまっていた。
精霊だけは、そんなシュメルヒの気持ちなど興味がないように、面白そうに舌なめずりしている。
『まあ良いじゃろ。小童、祝福をくれてやる。何が欲しい? 言うてみよ』
「ヨアン様。精霊様が何を望むのかと聞かれています」
シュメルヒが素っ気なく言うと、ヨアンは頷き精霊と目を合わせた。
ちらっとシュメルヒを見て何か言いたそうにしたが、シュメルヒが一向に顔を向けてくれないので、意を決したように口を開いた。
「精霊よ、どうか……『僕たち』を祝福してください。オスロの第一皇子ヨアン・アルディオ・オルデンとその妻シュメルヒが永久に夫婦として……終生に渡り番えるよう、祝福をお与えください」
シュメルヒは耳を疑った。しかし、ヨアンのよく通る声は精霊のみならず、見届ける貴族達の耳にも当然届いていた。
そしてヨアンの願いは、あらゆる横やりも、一切の誤解の入る余地もないほどに明確だった。
シュメルヒの剣幕に身を竦めていた貴族達は、ヨアンの請願が終わるなりどよめき出す。
唖然とするシュメルヒの目の前で、精霊は面倒くさそうな生あくびをした後、ヨアンを手招いた。
ヨアンはやや警戒をしながら近づいていった。
精霊が腕を伸ばし、ヨアンの襟元を掴んで乱暴に引き寄せる。
「っ、ヨアン様!」
さっき噛まれた首の痛みを思い出し、シュメルヒは慌ててふたりの間に割り込もうとしたが遅かった。羞恥心からヨアンと距離を取っていたことが仇となった。
精霊はあやしい笑みを浮かべると、ヨアンの頬にひたりと水掻きの付いた手を当て、ゆっくりと顔を傾けた。そのまま唇をヨアンのそれに近付けるのを見て、シュメルヒの中で何かが爆ぜた。
「『離れろッ』!」
イレニア語で叫ぶと、ヨアンを背後から羽交い絞めにして、勢い余って後ろへ倒れ込んだ。
ヨアンを抱きしめ息を荒げて見上げた先で、精霊は見せつけるように赤い舌で唇を舐めた。
「……っ!」
シュメルヒは怒りで我を忘れそうになった。わなわなと震え、ヨアンを抱き込む腕に力を籠める。
「く、苦しい。妃、首が締まってる」
ヨアンが藻掻くが、シュメルヒは羽交い絞めにしたまま精霊を睨んだ。
「『ふざけた真似をッ……!』」
『怒りっぽいのぅ、祝福をくれてやったのじゃ、何が不満じゃ』
キヒヒ、と牙を見せて嗤う。
『もう一つの約束も忘れるでないぞ、稀血の子。セノキミを探して我に返せ。さもなくば、戻した時を主から奪い、再び望まぬ輪廻の業へ戻してやろう。我は水に棲むもの。……常に見張っておるからの』
精霊は言い終わると、身を捩って背後の水面に頭から潜り込んだ。
ざぶんと水飛沫が上がり、尾ひれが水面で大きく翻ると、完全にその姿は水に消えた。
呪縛から解かれた司祭が飛びつくように噴水台に飛びつき覗き込む。やがて脱力したように、呆然と緩く波打つ水面を見下ろした。
「妃、あの……そろそろ離して、いや、僕は別にこのままでも構わないんだけど」
「黙ってください、ヨアン様。私……私、今、とても怒っています」
地を這う低い声で告げると、ヨアンはゴクッと唾を飲んだ。
「わ、わかった」
シュメルヒは手袋をした手でヨアンの唇をごしごし擦った。
「痛い!」
「じっとしてください!」
「い、イタっ……誤解してる、何もされてない! 妃の思うようなことはなかったよ!」
「どうして抵抗しなかったのですか! 振り払えばよかったではありませんか! あんなっ……よりによって、あ、あんな……!」
(私と同じ顔をした者とッ……!)
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いつかヨアンに言われた言葉をそのまま突き返しながら、シュメルヒはヨアンの唇が擦れて真っ赤になるまで拭うのを止めなかった。
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