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エピローグ (前編)
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頭上を小鳥たちが囀り、春の日差しが温室の天窓を通して降り注いでいた。温められた空気が身体をポカポカと包み、手元の作業に集中していないと、つい眠気を感じてしまう。
シュメルヒが小さな欠伸をかみ殺した時、後ろから誰かの腕に抱きしめられた。
身体の前で腕を交差した主は、背後からシュメルヒの肩に身を屈めて顎を乗せた。そのまま耳にちゅっと軽く口づけ、手元を覗き込んで揶揄う。
「また新しい毒草を買い付けたのか。今度はどんな恐ろしい効能があるんだ? 全身が痺れるのか、それとも毛が抜けるのか。妃がどんな悪辣な暗殺計画を立ててるのか教えてくれないか」
「…‥教えたら、私はどうなるのでしょう」
「もちろん罰を受けてもらう」
耳たぶを甘噛みされた。
「俺の部屋で朝から晩まで、俺だけの相手をするんだ。もちろん夜から朝もだ」
シュメルヒはため息を吐き出すと、首を捻って、悪戯する相手の顎先にお返しに口づけた。
「…‥邪魔しないで。また執務を抜け出して……キリアスに嫌味を言われるのは私なんですよ? よくここが分かりましたね」
「厩に行ったらナギがいなかったから、ここだと思った。君のために建てた温室だから構わないが、敷地の端っこに建てたのは失敗だ。君と俺が離れるのは良くないからな」
冗談の中に本音がちらついている。シュメルヒは独占欲を隠さない相手の顔を見上げた。
彫りの深い精悍な顔立ち。シュメルヒの長い髪と対照的に短く襟足を整えられた黒髪。濃い緑の目は、深い森を連想させる。
「……ヨアン様。ここにあるのは毒草ばかりなのですから、気を付けてくださいね」
十八歳になったばかりのヨアンは意味深な笑みを浮かべなら、顔を傾けてシュメルヒの唇に己の唇を重ね合わせた。
「ここにある毒を全部足したって君には適わないんだろう? 怖がらせようったってそうはいかない」
「最低です……馬鹿」
憎まれ口を吐くと、ヨアンの手がシュメルヒの後頭部に回った。口づけを深くする前のヨアンの手癖に、シュメルヒは大人しく目を伏せされるままに自ら唇を開いてヨアンの舌を受け入れた。
この四年間でシュメルヒがヨアンから贈られたものの中で、特に大事にされているものは三つある。
ひとつは、この温室だ。
イレニアにいた頃、毒草の栽培研究をしていたシュメルヒのためにヨアンが造らせたもので、民家がひとつおさまるくらいの広さがある。そこに古今東西さまざまな毒草や薬草が集められ、シュメルヒは仮妃としての公務の合間を縫って、よくここで草木の世話をして過ごしては、シュメルヒが傍から離れたことを不満に思うヨアンによって連れ戻されている。
ふたつめは、愛馬のナギだ。仔馬の時にヨアンから誕生日の贈り物として贈られた子で、今やすっかり大きくなった。跨るのさえ無理だと思っていたオスロの馬も、仔馬の成長とともにシュメルヒも慣れ、今では補助なしで手綱を操れるようになった。
みっつめは、シュメルヒの細い首を飾る首輪だ。
薔薇文様とオスロ王家の紋章にもあるイラクサが彫金され、中央には深い緑の緑柱石が嵌っている。カラ山脈の鉱山で採れる特別な白金でできており、肌を傷つけることなく、だが強度がある。
どれもヨアンの仮妃への寵愛を表すものだとして、貴族達の間では、意中の相手にヨアンを真似た贈り物をするのが流行っているとか、いないとか。
キリアスやグラス卿をはじめとする貴族達とは可能な限り有効な関係を維持している。
まだ完全にキリアスへの警戒が晴れたわけではないが、以前のように、一点の曇りなく「裏切り者」だと断じるのは難しいと思い始めてもいた。
精霊とは、あれから何度か……というより、思いのほか頻繁に、向こうからシュメルヒ達にちょっかいをかけてくる。やれ話し相手になれだの、やれ外の話を聞かせろだの、鳥のようにうるさい。
ヨアンも適当にあしらえば良いものを、あれこれ果物をやったり話に付き合ったりするものだから、いつのまにか精霊の方でもヨアンに懐いているように見える。
面白くない。面白くないと思っているのをヨアンに知られているのが、一番面白くない。
精霊との約束は果たすつもりだった。
「血の水盤」で精霊を呼び出した時、精霊は『ヨアンと同じ匂いの人間に宝物を隠された』と言った。
それが本当なら、隠したという人物はヨアンに近い……王家と関係ある人間ということになる。
だからこそシュメルヒは、あの時ヨアンにも嘘を吐いた。
精霊の言葉を全て伝えなかったのは、誰の耳に入るか分からなかったからだ。
ヨアンに伝えたのは、儀式が終わった後だった。
「セノキミ」についても、意味が判明した。「背の君」……とつ国のふるい言葉で、「伴侶」を指すらしい。
神殿の隠す精霊との関係、それに王家との癒着の原因について、キリアスやグラス卿は解き明かすつもりのようだった。
漠然とした目的ではあるが、約束を口にした以上、シュメルヒも精霊の伴侶を探す心積もりだった。
そしてシュメルヒのヒートは、あの夜以来も定期的に発露し、シュメルヒを身体の内側から炙った。
ヒートの期間は短ければ数日、長ければ十日ほど続き、数か月おきに巡ってきた。
ヨアンはどんなに執務が忙しかろうと合間を縫って見舞い、夜は必ず自分の傍から離さなかった。
四年経った今でこそそんな生活にも少しは慣れたが、はじめの頃は、何度かシュメルヒの方が音を上げた。
「傍に来ないでと言ったのにっ……! ヨアン様が近くにいる方が辛いのが見てわかりませんか⁉」
癇癪気味に枕を投げつけたことも一度や二度ではない。
ヨアンは決して怒らず、シュメルヒを布団ごと抱きしめてあやしながら、少しでも気が静まるように辛抱強く寝かしつけた。ヨアンの体温、匂い、声、息遣い……それらすべてがシュメルヒの神経を興奮させ安らぎからは遠ざけだが、ヨアンが離れたら離れたで、今度はとてつもない不安に吞まれることになる。
ヨアンはそれを知っていて、どんなにシュメルヒが泣こうが喚こうが、そのくせ最後にはヨアンに縋りついて甘え倒そうが、すべて受け入れて好きにさせた。その間、ヨアンもシュメルヒの香気に当てられ続けていたが、最初の宣言通り、シュメルヒの同意なく身体を暴くことも、項を噛むこともなかった。
が、夜中にシュメルヒが目覚めると、枕に顔をつけながら充血しぎらついた目でシュメルヒを凝視するヨアンと目が合ってしまい、あまりのことに悲鳴を上げたことは何度もあった。
シュメルヒとヨアンの、あまりに本来のオメガとアルファの生態とかけ離れた生活はそうして四年間、主にヨアンの不屈の理性によって均衡を保ってきたのだった。
ヨアンでなければ、発情したオメガを前に、手を牙も出さずに自身も欲情を殺しながら寄り添うという行為は成し得たと思えない。まして四年も。シュメルヒはふと我に返ると、ヨアンに強いている狂気じみた苦行に恐れおののいてしまう。ヨアンに申し訳なくて、せめてもとヨアンのもたらす愛情表現に同じものを返さんと真似するうちに、いつの間にか宮中で他人からどう見られているのか知る由もなかった。
「外務大臣から報せが来て、君にも関係のあることだから伝えに来た」
ややしつこい、しかし二人にとって当たり前の口づけを終えお互いが離れると、ヨアンが封書を取り出した。中身は既に切られているが、開こうとした時、ヨアンがそっと手で遮った。
「ヨアン様?」
「俺はもう見た。妃にとってこれが良いことか悪いことか分からないが……君に隠し事はしないと決めてるから」
ヨアンにしては珍しい、歯切れの悪い言い方だ。一体どういう内容なのか。
シュメルヒは文面に目を走らせると、わずかに目を見開いた。
「イレニアから使節団が?」
「ああ、そのようだ。……使節の名前に見覚えは?」
シュメルヒは文末を見やって二度三度と見返した。何度見ても、使節の名前は<彼>のものだった。
「ジュール・ドラン……彼が使節としてオスロに来るのですか?」
さっきから疑問ばかり口にしている。
ヨアンはシュメルヒから封書を取り上げると、じっとシュメルヒを見つめた。
「君の婚約者だった男だな。名前を見てすぐに分かった。……正直、子供だった頃、顔も知らないこの男を何度も妬んだよ。俺の知らない君を知っていて、君を『メル』なんて親し気に呼ぶのを許された幸運な奴だ」
「そんなことも調べたのですか。わざわざ?」
ヨアンはふんとそっぽを向いた。
「だから俺はメルなんてこの先も絶対に呼ばない。だいたい、妃にはシュメルヒという美しい響きの名があるのに、なんだって犬猫みたいに呼ぶんだ。馬鹿げてる.妃もそう思うだろう?」
(本当はヨアン様も愛称で呼びたいのだな)
シュメルヒは思ったが口にはしなかった。
「もう四年経ったのですね」
シュメルヒの言葉に、ヨアンが無言を返す。
お互い、仮の婚姻期間が終わろうとしていることを頭の隅に抱え、あえてその話題は避けていた。特にここ一年、ヨアンはふとした拍子に押し黙ったかと思うと、シュメルヒを呼んで傍に抱き寄せたり膝枕をせがんだりと、触れ合うことで気を紛らわせている節があった。
(仮妃としての役割が終わろうとしている……使節訪問も、それと無関係ではないのだろう)
ヨアンがシュメルヒの顔を両手に包んだ。
「俺の気持ちは四年前と変わらない。それだけは、今ここで言っておく」
「ヨアン様」
「君からの答えはまだもらってないが、何があっても俺の君への想いは変わらない。俺の妃はシュメルヒ、君だけだ。この首輪を外せるのも、項を噛むのも、俺以外に許さないでくれ」
ヨアンは出会った頃より低くなった声音で告げると、有無を言わさずシュメルヒを強く抱きしめた。
苦しいほどの抱擁に背をのけぞらせながら、シュメルヒはそっとヨアンの背に手を回した。
「苦しいですよ」
「そうか。俺の苦しみだと思って味わっておくといい……まったく、この頑固者め。さっさと俺を受けれてくれ。いつ理性が狂って君を襲っても文句を言うなよ」
「ヨアン様はそんなことなさいません」
「……そんな度胸はないって言いたいのか?」
シュメルヒはふふ、と笑うと、ヨアンがしたように彼の耳に口付けた。
「貴方は私を傷付けることは絶対にしません。私のような人間を四年もずっとお傍に置きたがる奇特な方はヨアン様だけですから。何があろうと、ヨアン様を信じております」
~前篇(終)~
シュメルヒが小さな欠伸をかみ殺した時、後ろから誰かの腕に抱きしめられた。
身体の前で腕を交差した主は、背後からシュメルヒの肩に身を屈めて顎を乗せた。そのまま耳にちゅっと軽く口づけ、手元を覗き込んで揶揄う。
「また新しい毒草を買い付けたのか。今度はどんな恐ろしい効能があるんだ? 全身が痺れるのか、それとも毛が抜けるのか。妃がどんな悪辣な暗殺計画を立ててるのか教えてくれないか」
「…‥教えたら、私はどうなるのでしょう」
「もちろん罰を受けてもらう」
耳たぶを甘噛みされた。
「俺の部屋で朝から晩まで、俺だけの相手をするんだ。もちろん夜から朝もだ」
シュメルヒはため息を吐き出すと、首を捻って、悪戯する相手の顎先にお返しに口づけた。
「…‥邪魔しないで。また執務を抜け出して……キリアスに嫌味を言われるのは私なんですよ? よくここが分かりましたね」
「厩に行ったらナギがいなかったから、ここだと思った。君のために建てた温室だから構わないが、敷地の端っこに建てたのは失敗だ。君と俺が離れるのは良くないからな」
冗談の中に本音がちらついている。シュメルヒは独占欲を隠さない相手の顔を見上げた。
彫りの深い精悍な顔立ち。シュメルヒの長い髪と対照的に短く襟足を整えられた黒髪。濃い緑の目は、深い森を連想させる。
「……ヨアン様。ここにあるのは毒草ばかりなのですから、気を付けてくださいね」
十八歳になったばかりのヨアンは意味深な笑みを浮かべなら、顔を傾けてシュメルヒの唇に己の唇を重ね合わせた。
「ここにある毒を全部足したって君には適わないんだろう? 怖がらせようったってそうはいかない」
「最低です……馬鹿」
憎まれ口を吐くと、ヨアンの手がシュメルヒの後頭部に回った。口づけを深くする前のヨアンの手癖に、シュメルヒは大人しく目を伏せされるままに自ら唇を開いてヨアンの舌を受け入れた。
この四年間でシュメルヒがヨアンから贈られたものの中で、特に大事にされているものは三つある。
ひとつは、この温室だ。
イレニアにいた頃、毒草の栽培研究をしていたシュメルヒのためにヨアンが造らせたもので、民家がひとつおさまるくらいの広さがある。そこに古今東西さまざまな毒草や薬草が集められ、シュメルヒは仮妃としての公務の合間を縫って、よくここで草木の世話をして過ごしては、シュメルヒが傍から離れたことを不満に思うヨアンによって連れ戻されている。
ふたつめは、愛馬のナギだ。仔馬の時にヨアンから誕生日の贈り物として贈られた子で、今やすっかり大きくなった。跨るのさえ無理だと思っていたオスロの馬も、仔馬の成長とともにシュメルヒも慣れ、今では補助なしで手綱を操れるようになった。
みっつめは、シュメルヒの細い首を飾る首輪だ。
薔薇文様とオスロ王家の紋章にもあるイラクサが彫金され、中央には深い緑の緑柱石が嵌っている。カラ山脈の鉱山で採れる特別な白金でできており、肌を傷つけることなく、だが強度がある。
どれもヨアンの仮妃への寵愛を表すものだとして、貴族達の間では、意中の相手にヨアンを真似た贈り物をするのが流行っているとか、いないとか。
キリアスやグラス卿をはじめとする貴族達とは可能な限り有効な関係を維持している。
まだ完全にキリアスへの警戒が晴れたわけではないが、以前のように、一点の曇りなく「裏切り者」だと断じるのは難しいと思い始めてもいた。
精霊とは、あれから何度か……というより、思いのほか頻繁に、向こうからシュメルヒ達にちょっかいをかけてくる。やれ話し相手になれだの、やれ外の話を聞かせろだの、鳥のようにうるさい。
ヨアンも適当にあしらえば良いものを、あれこれ果物をやったり話に付き合ったりするものだから、いつのまにか精霊の方でもヨアンに懐いているように見える。
面白くない。面白くないと思っているのをヨアンに知られているのが、一番面白くない。
精霊との約束は果たすつもりだった。
「血の水盤」で精霊を呼び出した時、精霊は『ヨアンと同じ匂いの人間に宝物を隠された』と言った。
それが本当なら、隠したという人物はヨアンに近い……王家と関係ある人間ということになる。
だからこそシュメルヒは、あの時ヨアンにも嘘を吐いた。
精霊の言葉を全て伝えなかったのは、誰の耳に入るか分からなかったからだ。
ヨアンに伝えたのは、儀式が終わった後だった。
「セノキミ」についても、意味が判明した。「背の君」……とつ国のふるい言葉で、「伴侶」を指すらしい。
神殿の隠す精霊との関係、それに王家との癒着の原因について、キリアスやグラス卿は解き明かすつもりのようだった。
漠然とした目的ではあるが、約束を口にした以上、シュメルヒも精霊の伴侶を探す心積もりだった。
そしてシュメルヒのヒートは、あの夜以来も定期的に発露し、シュメルヒを身体の内側から炙った。
ヒートの期間は短ければ数日、長ければ十日ほど続き、数か月おきに巡ってきた。
ヨアンはどんなに執務が忙しかろうと合間を縫って見舞い、夜は必ず自分の傍から離さなかった。
四年経った今でこそそんな生活にも少しは慣れたが、はじめの頃は、何度かシュメルヒの方が音を上げた。
「傍に来ないでと言ったのにっ……! ヨアン様が近くにいる方が辛いのが見てわかりませんか⁉」
癇癪気味に枕を投げつけたことも一度や二度ではない。
ヨアンは決して怒らず、シュメルヒを布団ごと抱きしめてあやしながら、少しでも気が静まるように辛抱強く寝かしつけた。ヨアンの体温、匂い、声、息遣い……それらすべてがシュメルヒの神経を興奮させ安らぎからは遠ざけだが、ヨアンが離れたら離れたで、今度はとてつもない不安に吞まれることになる。
ヨアンはそれを知っていて、どんなにシュメルヒが泣こうが喚こうが、そのくせ最後にはヨアンに縋りついて甘え倒そうが、すべて受け入れて好きにさせた。その間、ヨアンもシュメルヒの香気に当てられ続けていたが、最初の宣言通り、シュメルヒの同意なく身体を暴くことも、項を噛むこともなかった。
が、夜中にシュメルヒが目覚めると、枕に顔をつけながら充血しぎらついた目でシュメルヒを凝視するヨアンと目が合ってしまい、あまりのことに悲鳴を上げたことは何度もあった。
シュメルヒとヨアンの、あまりに本来のオメガとアルファの生態とかけ離れた生活はそうして四年間、主にヨアンの不屈の理性によって均衡を保ってきたのだった。
ヨアンでなければ、発情したオメガを前に、手を牙も出さずに自身も欲情を殺しながら寄り添うという行為は成し得たと思えない。まして四年も。シュメルヒはふと我に返ると、ヨアンに強いている狂気じみた苦行に恐れおののいてしまう。ヨアンに申し訳なくて、せめてもとヨアンのもたらす愛情表現に同じものを返さんと真似するうちに、いつの間にか宮中で他人からどう見られているのか知る由もなかった。
「外務大臣から報せが来て、君にも関係のあることだから伝えに来た」
ややしつこい、しかし二人にとって当たり前の口づけを終えお互いが離れると、ヨアンが封書を取り出した。中身は既に切られているが、開こうとした時、ヨアンがそっと手で遮った。
「ヨアン様?」
「俺はもう見た。妃にとってこれが良いことか悪いことか分からないが……君に隠し事はしないと決めてるから」
ヨアンにしては珍しい、歯切れの悪い言い方だ。一体どういう内容なのか。
シュメルヒは文面に目を走らせると、わずかに目を見開いた。
「イレニアから使節団が?」
「ああ、そのようだ。……使節の名前に見覚えは?」
シュメルヒは文末を見やって二度三度と見返した。何度見ても、使節の名前は<彼>のものだった。
「ジュール・ドラン……彼が使節としてオスロに来るのですか?」
さっきから疑問ばかり口にしている。
ヨアンはシュメルヒから封書を取り上げると、じっとシュメルヒを見つめた。
「君の婚約者だった男だな。名前を見てすぐに分かった。……正直、子供だった頃、顔も知らないこの男を何度も妬んだよ。俺の知らない君を知っていて、君を『メル』なんて親し気に呼ぶのを許された幸運な奴だ」
「そんなことも調べたのですか。わざわざ?」
ヨアンはふんとそっぽを向いた。
「だから俺はメルなんてこの先も絶対に呼ばない。だいたい、妃にはシュメルヒという美しい響きの名があるのに、なんだって犬猫みたいに呼ぶんだ。馬鹿げてる.妃もそう思うだろう?」
(本当はヨアン様も愛称で呼びたいのだな)
シュメルヒは思ったが口にはしなかった。
「もう四年経ったのですね」
シュメルヒの言葉に、ヨアンが無言を返す。
お互い、仮の婚姻期間が終わろうとしていることを頭の隅に抱え、あえてその話題は避けていた。特にここ一年、ヨアンはふとした拍子に押し黙ったかと思うと、シュメルヒを呼んで傍に抱き寄せたり膝枕をせがんだりと、触れ合うことで気を紛らわせている節があった。
(仮妃としての役割が終わろうとしている……使節訪問も、それと無関係ではないのだろう)
ヨアンがシュメルヒの顔を両手に包んだ。
「俺の気持ちは四年前と変わらない。それだけは、今ここで言っておく」
「ヨアン様」
「君からの答えはまだもらってないが、何があっても俺の君への想いは変わらない。俺の妃はシュメルヒ、君だけだ。この首輪を外せるのも、項を噛むのも、俺以外に許さないでくれ」
ヨアンは出会った頃より低くなった声音で告げると、有無を言わさずシュメルヒを強く抱きしめた。
苦しいほどの抱擁に背をのけぞらせながら、シュメルヒはそっとヨアンの背に手を回した。
「苦しいですよ」
「そうか。俺の苦しみだと思って味わっておくといい……まったく、この頑固者め。さっさと俺を受けれてくれ。いつ理性が狂って君を襲っても文句を言うなよ」
「ヨアン様はそんなことなさいません」
「……そんな度胸はないって言いたいのか?」
シュメルヒはふふ、と笑うと、ヨアンがしたように彼の耳に口付けた。
「貴方は私を傷付けることは絶対にしません。私のような人間を四年もずっとお傍に置きたがる奇特な方はヨアン様だけですから。何があろうと、ヨアン様を信じております」
~前篇(終)~
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