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プロローグ(後編)
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初春。カラ山脈の雪解け水が流れ出す頃——それはちょうど、四年前シュメルヒ一行がオスロの地へ足を踏み入れた時期と同じだった。時期を重ねるようにして、その日、オスロの王宮はイレニアの使節を迎え入れた。
使節は延べ五名。それぞれが外交にまつわる役職に就く貴族達で皆壮年だったが、中でもひときわ目を引いたのが、一見してまだ年若く、すらりと優美ないで立ちをした若者だった。
彼は出迎え役を仰せつかったキリアスと対面した際、人好きのする笑みを浮かべて名乗った。
「ジュール・ドランと申します。若輩ですが、どうぞお見知りおきを」
キリアスは握手をしながら、この方が『そう』なのか、と内心で思った。失礼に当たらぬよう、それとなくジュールの外見に目を走らせる。
(この方がシュメルヒ妃殿下の元許嫁のジュール殿か……なるほど、正統派のアルファといった雰囲気だな)
彼の主人の耳に入ったら嫌味の一つでも返ってきそうだが、十人中十人が同じ感想に行き着くだろう。
ジュール青年の醸す雰囲気は、例えるならしなやかな角鹿だ。
緩やかに波打つ金色の髪に、<特種(アルファもしくはオメガを指す)>であることを示す「色付き」の瞳は紫。落ち着いた物腰は微笑むとより寛大に甘やかに見える。
貴族として培われた気品と、包容力に満ちた愛嬌とが合わさり、快活な少年の面影を残していた。
(なるほどこれは……ヨアン様が気にするわけだ)
態度に出さないようにしていても、ヨアンが今回のイレニア使節を心から歓迎していないことはキリアスに筒抜けだった。むしろシュメルヒの方が落ち着いている。
(かつての婚約者と四年ぶりに対面するというのに……これほど魅力的な若者だ。子供の頃から一緒に育ったなら、政略とはいえ心が傾いても不思議ではないが)
いや、そうとも限らないか。
現にエレオノーラという美しいオメガと従姉弟同士、近くで育ったヨアンも、まったく彼女に惹かれていなかった。彼女は三年ほど前に国内の貴族のもとに降嫁している。相手を選定したのはヨアン本人だ。そのことで叔母であるイルミナとひと悶着あったが、結局次期国王の決定に折れて娘を王宮から送り出すこととなった。
エレオノーラの結婚はやや急ぎ足だったが、「エレオノーラと再婚約させようとする派閥の動きを牽制するためにヨアンが急がせたのではないか」という噂もあった。それがあながち間違いではないことを、キリアスは知っている。ヨアンの願望を汲んでそうするよう提案したのはキリアスだからだ。
ヨアンがそれまで片鱗さえ見せていなかったアルファ性の徴候を見せ始めたのは、すべてシュメルヒを仮妃に迎え入れてからだ。
アルファの独占欲、庇護欲、支配欲……恋情。それらが絡み合って発露したヨアンの<威圧>は凄まじかった。
(あれ以来、ヨアン様は日に日に頑健になられた。精神的にも、肉体的にも……)
神経衰弱と言われた症状は見る影もなく、歳の割に華奢だった体つきも逞しくなった。何より、物事に対して鷹揚になった。
(まるでヨアン様自身が、シュメルヒ妃殿下のために変わろうとしてそうなったようだ)
ヨアンの幼少を知る身としては、今のヨアンは別人のようにさえ見える時がある。きっかけは、言うまでもなく――。
「しかし見事な庭園ですな。さすが温暖な気候のイレニア王宮だ。花の盛りとは聞いておりましたが、これほどとは」
使節のひとりがそう口にすると、やおらに手を伸ばして花壇の一角に植えられた紅い花に触れようとした。
「ああ、それは……」
キリアスが口を開くと同時に、使節は「いっ」と小さく声を上げ、熱した鉄瓶に触れたように手を引っ込めた。
「大丈夫ですか? こちらをどうぞ」
キリアスはハンカチを差し出した。受け取った男の指にはぷくりと血の玉が盛り上がっている。
「分かりにくいですが、鋭い棘がございます。とても美しいですが、どうぞお手を触れないようお気を付け下さい」
男は眉を顰めた。
「いやあ、これは失礼。……しかし、この一帯がすべて同じ花ですかな? なんとも、そう思うと危ないような」
キリアスは苦笑した。
庭園には様々な花が植えられているが、特に目を引くのが今いる区画だ。王宮の正面玄関に続く道沿いにあり、自然と目が向く。生垣状に蔦を這わせたり、無造作にただ地面から生えているものと、様々だがどれも同じ品種だ。
生命力が強く、放っておくとどんどん伸びてゆくと庭師がぼやいていたのを思い出す。
「ヨアン殿下の特別大事にされておられる花でして。殿下は庭師以外が花に触れるのを嫌います。ですからどうか、間違っても摘んだりなさらぬようご留意ください」
「はあ、ヨアン殿下の」
わざわざ棘のある花なんぞ摘むものか、と言いたげな反応だった。
さして興味のなさそうな男とは反対に、ジュールはじっと紅いバラを見下ろしたまま訊ねた。
「なんという名ですか?」
キリアスはちら、とジュールの整った横顔を見てから、なるべく抑揚のない声で答えた。
「『シュメルヒ』という名でございます」
使節一行は沈黙した。気まずそうにお互いに顔を見合わせ、場を取り繕うような誤魔化し笑いを浮かべる。妙な空気を打ち消すようにジュールが微笑んだ。
「なるほど。ヨアン殿下に置かれましては我がイレニアの者を大層厚遇しておいでなのですね。喜ばしいことです」
キリアスは一瞬引き攣りそうになった顔を引き締め、すぐに柔らかく微笑で返した。
頭の中にはジュールの発した「我がイレニアの者」という言葉がハチのようにぶんぶん唸っている。
(わざとか? いや、ただの失言かもしれん。妃殿下は仮妃の身分。イレニアの使節である彼がそう呼んでもおかしくはないが……)
ヨアンが聞いたら、静かに微笑みながらもその目は絶対に笑っていないに違いない。
「キリアス殿、先ほどから気になっていたのですが……あちらの建物はなんでしょう?」
微妙な気詰まりを感じながら一行を玄関へ導いていると、ジュールが後ろを振り返って少し離れた場所にぽつんと小さく見える茶色の点を指差した。一見すると建物であるのは分かるが、小屋なのか厩なのか判別しづらい。
「はい? ああ、あれは温室でございますね」
「温室……あのように離れた場所にわざわざ? 王妃様か、どなたかのものですか?」
何気ない問いだ。キリアスも何気なく返した。
「シュメルヒ妃殿下のためにヨアン殿下が建てたものですね。妃殿下以外に庭師とヨアン殿下のみが入ることを許可されておりますので、中はお見せできませんが」
「……そうですか」
話を聞いていたらしい別の使節がにこやかに口を挟んだ。
「噂に聞いておりましたが、大層なご寵愛にございますな」
明け透けな言い方に、ジュールが眉を顰めて使節を見やった。それだけで、使節の男が決まり悪そうに目を逸らした。キリアスは意外に思い、この年若い美青年を見た。どうやら、階級云々に関わらずこの中で発言力があるのは彼の方らしい。
「失礼しました、キリアス殿。興味半分で言ったわけではないのです」
「分かっておりますよ。イレニアから嫁がれたシュメルヒ様が不自由なくお暮らしでおいでか心配されるお気持ちは当然のことです」
言いながらも、思い出すのはシュメルヒがオスロにやって来たばかりの頃——襲撃者からヨアンを庇って怪我をした彼が、血を止めるために焼き鏝で肌を焼こうとしていたことだ。
あれは、もしもの時はそのようにせよという祖国の教えだったという。
なにかの冗談かと思ったが、あの時のシュメルヒは本気でそれが正しい処置だと信じていた。
いくら毒持ちといえ、自国の王族に焼き鏝を使わせる国でシュメルヒがどんな風に育ったのか、キリアスは悪く考えてしまうのだ。
「花の名前と、温室……まだほかにもありますか? ヨアン殿下がシュメルヒ妃殿下に下賜したものは」
ジュールは小さく笑みを乗せたまま、やや冗談めかして問うた。キリアスは自然に見えるよう自分も笑顔を真似て答えた。どうせ誤魔化しても、後から耳に入るだろう。であれば、ヨアンに合わせる前に、ある程度彼らのひととなりを把握しておきたかった。そのためには、反応を見るのが手っ取り早い。
「いくつがございますが……そうですね、オスロで生まれた馬は、妃殿下がずっと大事にされている物の一つですね」
「馬……? 乗馬をされるのですか? しかしオスロの馬と言うと、かなり大きいでしょう? 大人でも跨るのに苦労しそうだ」
キリアスはなぜか得意気な笑みを浮かべてしまう自分に気付いた。にやつきそうになる口許を慌てて引き締める。
(まったく。なんで俺が妃殿下のことで得意になるんだよ)
「妃殿下はヨアン殿下の薫陶を受けておられますから、今では危なげなくおひとりで乗りこなしておられますよ。手綱さばきも見事ですし、もちろん鞍に跨る時も身軽に飛び乗っていらっしゃいます」
仔馬の時からヨアンの贈った「ナギ」に乗っていたから、馬の成長とともに一緒にその大きな馬体にも慣れていったのだ。ナギに片足を折り曲げさせ、そこに足をかけて介助なしでひらりと跨る様はキリアスでさえ見事だと思う。
「ひとりで馬に……」
ジュールは半信半疑といった様子で、それは他の使節も同じだった。顔を見合わせ、首を捻っている。
(おいおい、よほどイレニアでは何もできないと思われてたんだな)
「イレニアに滞在する間、ぜひ遠乗りにご一緒されたらよろしいかと」
(ヨアン様が許せばの話だけどな)
なにせアルファの本能を押さえつけてまで、シュメルヒの純潔を守っているヨアンの憩いの時間なのだ。
シュメルヒと二人だけで過ごす時間をヨアンは愛してやまない。
例外はシュメルヒの侍従のハビエルとアンヌくらいのものだろう。
「そうしたいものですね。……実は妃殿下とは幼少の折、よく一緒に馬に乗ったものです。僕にとって大切な思い出で……もう一度あの頃のように過ごせたら嬉しいのですが」
ため息とともにジュールが吐き出す。
キリアスは沈黙を返した。
(今のは……どう受け取ればいいんだ?)
昔を懐かしんでいるだけか。それとも、純朴な振りをして牽制しているつもりなのか。
前者ならキリアスは気にする必要はない。だが後者なら、ヨアンの側近として気に留めておく必要がある。
(ヨアン様は……今のヨアン様は、妃殿下のこととなると)
アルファの本能だろうか。特種でないキリアスには分かりようもないが、もしそうなら、その本能さえ押さえつけてシュメルヒとなし崩し的に番おうとしないヨアンの忍耐をどう説明できるだろう。
そして、ヨアンとの共通点はないように見える目の前のジュールも、アルファなのだ。
(この純情で無害そうなお坊ちゃんに、アルファとしての欲なんてあるのか?)
なさそうに見える。むしろ清く正しく、微笑ましい交際をシュメルヒと送っていたに違いない。
キリアスはひとつ言い忘れたことを思い出した。
ジュールが問うた、ヨアンからシュメルヒへの贈り物はあと一つあったのだ。温室と、愛馬と、それからもう一つ……。
(まあいいか。どうせ、あとで見れば分かることだからな)
王宮に入れば、ヨアンとシュメルヒが使節一行を出迎える予定である。
(くれぐれも喧嘩を売るような真似はしないでくださいよ、ヨアン様)
心の中で主人に向けて念を押し、キリアスはジュールたちを大広間へと導いた。
使節は延べ五名。それぞれが外交にまつわる役職に就く貴族達で皆壮年だったが、中でもひときわ目を引いたのが、一見してまだ年若く、すらりと優美ないで立ちをした若者だった。
彼は出迎え役を仰せつかったキリアスと対面した際、人好きのする笑みを浮かべて名乗った。
「ジュール・ドランと申します。若輩ですが、どうぞお見知りおきを」
キリアスは握手をしながら、この方が『そう』なのか、と内心で思った。失礼に当たらぬよう、それとなくジュールの外見に目を走らせる。
(この方がシュメルヒ妃殿下の元許嫁のジュール殿か……なるほど、正統派のアルファといった雰囲気だな)
彼の主人の耳に入ったら嫌味の一つでも返ってきそうだが、十人中十人が同じ感想に行き着くだろう。
ジュール青年の醸す雰囲気は、例えるならしなやかな角鹿だ。
緩やかに波打つ金色の髪に、<特種(アルファもしくはオメガを指す)>であることを示す「色付き」の瞳は紫。落ち着いた物腰は微笑むとより寛大に甘やかに見える。
貴族として培われた気品と、包容力に満ちた愛嬌とが合わさり、快活な少年の面影を残していた。
(なるほどこれは……ヨアン様が気にするわけだ)
態度に出さないようにしていても、ヨアンが今回のイレニア使節を心から歓迎していないことはキリアスに筒抜けだった。むしろシュメルヒの方が落ち着いている。
(かつての婚約者と四年ぶりに対面するというのに……これほど魅力的な若者だ。子供の頃から一緒に育ったなら、政略とはいえ心が傾いても不思議ではないが)
いや、そうとも限らないか。
現にエレオノーラという美しいオメガと従姉弟同士、近くで育ったヨアンも、まったく彼女に惹かれていなかった。彼女は三年ほど前に国内の貴族のもとに降嫁している。相手を選定したのはヨアン本人だ。そのことで叔母であるイルミナとひと悶着あったが、結局次期国王の決定に折れて娘を王宮から送り出すこととなった。
エレオノーラの結婚はやや急ぎ足だったが、「エレオノーラと再婚約させようとする派閥の動きを牽制するためにヨアンが急がせたのではないか」という噂もあった。それがあながち間違いではないことを、キリアスは知っている。ヨアンの願望を汲んでそうするよう提案したのはキリアスだからだ。
ヨアンがそれまで片鱗さえ見せていなかったアルファ性の徴候を見せ始めたのは、すべてシュメルヒを仮妃に迎え入れてからだ。
アルファの独占欲、庇護欲、支配欲……恋情。それらが絡み合って発露したヨアンの<威圧>は凄まじかった。
(あれ以来、ヨアン様は日に日に頑健になられた。精神的にも、肉体的にも……)
神経衰弱と言われた症状は見る影もなく、歳の割に華奢だった体つきも逞しくなった。何より、物事に対して鷹揚になった。
(まるでヨアン様自身が、シュメルヒ妃殿下のために変わろうとしてそうなったようだ)
ヨアンの幼少を知る身としては、今のヨアンは別人のようにさえ見える時がある。きっかけは、言うまでもなく――。
「しかし見事な庭園ですな。さすが温暖な気候のイレニア王宮だ。花の盛りとは聞いておりましたが、これほどとは」
使節のひとりがそう口にすると、やおらに手を伸ばして花壇の一角に植えられた紅い花に触れようとした。
「ああ、それは……」
キリアスが口を開くと同時に、使節は「いっ」と小さく声を上げ、熱した鉄瓶に触れたように手を引っ込めた。
「大丈夫ですか? こちらをどうぞ」
キリアスはハンカチを差し出した。受け取った男の指にはぷくりと血の玉が盛り上がっている。
「分かりにくいですが、鋭い棘がございます。とても美しいですが、どうぞお手を触れないようお気を付け下さい」
男は眉を顰めた。
「いやあ、これは失礼。……しかし、この一帯がすべて同じ花ですかな? なんとも、そう思うと危ないような」
キリアスは苦笑した。
庭園には様々な花が植えられているが、特に目を引くのが今いる区画だ。王宮の正面玄関に続く道沿いにあり、自然と目が向く。生垣状に蔦を這わせたり、無造作にただ地面から生えているものと、様々だがどれも同じ品種だ。
生命力が強く、放っておくとどんどん伸びてゆくと庭師がぼやいていたのを思い出す。
「ヨアン殿下の特別大事にされておられる花でして。殿下は庭師以外が花に触れるのを嫌います。ですからどうか、間違っても摘んだりなさらぬようご留意ください」
「はあ、ヨアン殿下の」
わざわざ棘のある花なんぞ摘むものか、と言いたげな反応だった。
さして興味のなさそうな男とは反対に、ジュールはじっと紅いバラを見下ろしたまま訊ねた。
「なんという名ですか?」
キリアスはちら、とジュールの整った横顔を見てから、なるべく抑揚のない声で答えた。
「『シュメルヒ』という名でございます」
使節一行は沈黙した。気まずそうにお互いに顔を見合わせ、場を取り繕うような誤魔化し笑いを浮かべる。妙な空気を打ち消すようにジュールが微笑んだ。
「なるほど。ヨアン殿下に置かれましては我がイレニアの者を大層厚遇しておいでなのですね。喜ばしいことです」
キリアスは一瞬引き攣りそうになった顔を引き締め、すぐに柔らかく微笑で返した。
頭の中にはジュールの発した「我がイレニアの者」という言葉がハチのようにぶんぶん唸っている。
(わざとか? いや、ただの失言かもしれん。妃殿下は仮妃の身分。イレニアの使節である彼がそう呼んでもおかしくはないが……)
ヨアンが聞いたら、静かに微笑みながらもその目は絶対に笑っていないに違いない。
「キリアス殿、先ほどから気になっていたのですが……あちらの建物はなんでしょう?」
微妙な気詰まりを感じながら一行を玄関へ導いていると、ジュールが後ろを振り返って少し離れた場所にぽつんと小さく見える茶色の点を指差した。一見すると建物であるのは分かるが、小屋なのか厩なのか判別しづらい。
「はい? ああ、あれは温室でございますね」
「温室……あのように離れた場所にわざわざ? 王妃様か、どなたかのものですか?」
何気ない問いだ。キリアスも何気なく返した。
「シュメルヒ妃殿下のためにヨアン殿下が建てたものですね。妃殿下以外に庭師とヨアン殿下のみが入ることを許可されておりますので、中はお見せできませんが」
「……そうですか」
話を聞いていたらしい別の使節がにこやかに口を挟んだ。
「噂に聞いておりましたが、大層なご寵愛にございますな」
明け透けな言い方に、ジュールが眉を顰めて使節を見やった。それだけで、使節の男が決まり悪そうに目を逸らした。キリアスは意外に思い、この年若い美青年を見た。どうやら、階級云々に関わらずこの中で発言力があるのは彼の方らしい。
「失礼しました、キリアス殿。興味半分で言ったわけではないのです」
「分かっておりますよ。イレニアから嫁がれたシュメルヒ様が不自由なくお暮らしでおいでか心配されるお気持ちは当然のことです」
言いながらも、思い出すのはシュメルヒがオスロにやって来たばかりの頃——襲撃者からヨアンを庇って怪我をした彼が、血を止めるために焼き鏝で肌を焼こうとしていたことだ。
あれは、もしもの時はそのようにせよという祖国の教えだったという。
なにかの冗談かと思ったが、あの時のシュメルヒは本気でそれが正しい処置だと信じていた。
いくら毒持ちといえ、自国の王族に焼き鏝を使わせる国でシュメルヒがどんな風に育ったのか、キリアスは悪く考えてしまうのだ。
「花の名前と、温室……まだほかにもありますか? ヨアン殿下がシュメルヒ妃殿下に下賜したものは」
ジュールは小さく笑みを乗せたまま、やや冗談めかして問うた。キリアスは自然に見えるよう自分も笑顔を真似て答えた。どうせ誤魔化しても、後から耳に入るだろう。であれば、ヨアンに合わせる前に、ある程度彼らのひととなりを把握しておきたかった。そのためには、反応を見るのが手っ取り早い。
「いくつがございますが……そうですね、オスロで生まれた馬は、妃殿下がずっと大事にされている物の一つですね」
「馬……? 乗馬をされるのですか? しかしオスロの馬と言うと、かなり大きいでしょう? 大人でも跨るのに苦労しそうだ」
キリアスはなぜか得意気な笑みを浮かべてしまう自分に気付いた。にやつきそうになる口許を慌てて引き締める。
(まったく。なんで俺が妃殿下のことで得意になるんだよ)
「妃殿下はヨアン殿下の薫陶を受けておられますから、今では危なげなくおひとりで乗りこなしておられますよ。手綱さばきも見事ですし、もちろん鞍に跨る時も身軽に飛び乗っていらっしゃいます」
仔馬の時からヨアンの贈った「ナギ」に乗っていたから、馬の成長とともに一緒にその大きな馬体にも慣れていったのだ。ナギに片足を折り曲げさせ、そこに足をかけて介助なしでひらりと跨る様はキリアスでさえ見事だと思う。
「ひとりで馬に……」
ジュールは半信半疑といった様子で、それは他の使節も同じだった。顔を見合わせ、首を捻っている。
(おいおい、よほどイレニアでは何もできないと思われてたんだな)
「イレニアに滞在する間、ぜひ遠乗りにご一緒されたらよろしいかと」
(ヨアン様が許せばの話だけどな)
なにせアルファの本能を押さえつけてまで、シュメルヒの純潔を守っているヨアンの憩いの時間なのだ。
シュメルヒと二人だけで過ごす時間をヨアンは愛してやまない。
例外はシュメルヒの侍従のハビエルとアンヌくらいのものだろう。
「そうしたいものですね。……実は妃殿下とは幼少の折、よく一緒に馬に乗ったものです。僕にとって大切な思い出で……もう一度あの頃のように過ごせたら嬉しいのですが」
ため息とともにジュールが吐き出す。
キリアスは沈黙を返した。
(今のは……どう受け取ればいいんだ?)
昔を懐かしんでいるだけか。それとも、純朴な振りをして牽制しているつもりなのか。
前者ならキリアスは気にする必要はない。だが後者なら、ヨアンの側近として気に留めておく必要がある。
(ヨアン様は……今のヨアン様は、妃殿下のこととなると)
アルファの本能だろうか。特種でないキリアスには分かりようもないが、もしそうなら、その本能さえ押さえつけてシュメルヒとなし崩し的に番おうとしないヨアンの忍耐をどう説明できるだろう。
そして、ヨアンとの共通点はないように見える目の前のジュールも、アルファなのだ。
(この純情で無害そうなお坊ちゃんに、アルファとしての欲なんてあるのか?)
なさそうに見える。むしろ清く正しく、微笑ましい交際をシュメルヒと送っていたに違いない。
キリアスはひとつ言い忘れたことを思い出した。
ジュールが問うた、ヨアンからシュメルヒへの贈り物はあと一つあったのだ。温室と、愛馬と、それからもう一つ……。
(まあいいか。どうせ、あとで見れば分かることだからな)
王宮に入れば、ヨアンとシュメルヒが使節一行を出迎える予定である。
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