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妃には馬に乗ってもらう
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何故、こんな事態になったのだろうか。
「どうした?妃は乗馬が好きだって聞いたから特別に一番速い馬を用意させたんだ。早く乗りなよ」
「……ヨアン様、あの」
「なに」
シュメルヒはごくっと唾を飲んで、目の前に立ちふさがる黒い<彼>を見上げた。
濡れたような大きな目と視線が合った瞬間、ブルルっと鼻息が顔にかかり、思わずひゃっと後ろへ下がる。
「……なにしてるの」
ヨアンが呆れた顔をしている。
「すみません、あまりに大きくて吃驚してしまって」
「ああ……オスロの中でもメール地方で育ててる馬が一番大きくて足も速いんだ。妃も身長が高いし、これくらいが丁度いいだろう?」
「これに、私が……?」
改めてヨアンの言う速くて大きな馬を見上げる。美しい黒馬だ。へっぴり腰のシュメルヒなんかより、黒髪緑目のヨアンが跨った方がよっぽど映えると思う。
(というか、怖い)
オスロの普通馬はもっと小さいし、イレニアの馬はそれより少しだけ背が低く、代わりに雪原を進めるよう足が太い。
こんな大きな馬、まず鐙にどう足をかけたらいいか、そこから分からない。
「あの、踏み台などは……」
「いつもどうやって乗馬してるんだよ」
またも呆れ顔をされてしまい、いたたまれなかった。
結局、厩から踏み台を持ってきてもらい、なんとか鞍に乗るところまでは良かった。
問題はそこから先だった。
鞍の前を両手で掴んだまま固まっているシュメルヒに、同種の茶白に軽々と跨ったヨアンが、首を傾げる。
ヨアンの頭はシュメルヒの肩口くらい。小柄で痩せているのに、どうしてそんなに軽々とこんな大きな馬に跨れるのか不思議だった。
感心して思わず見惚れていると、
「じゃあ、行こうか」
「は、はい、ヨアン様」
ポクポクと、ヨアンの馬が背を向けて遠ざかる。シュメルヒはぼうっとそれを見送った。
「……」
「……」
ヨアンが振り向き、シュメルヒが元の位置から一歩も付いてこないと見るや、ため息を吐いて馬の踵を返して戻って来た。
無駄のない手綱さばきに、また見惚れてしまう。
「あのさ、ふざけてるの?」
「え?」
「僕と馬に乗るの、そんなに嫌だった? なら最初からそう言えばいいだろ。こんな馬鹿みたいな真似しないでさ。せっかくこっちが、気を遣って仲の良い振りをしてやってるのに」
シュメルヒは慌てた。何かヨアンの気に障ることをしてしまっただろうか?
自分はただ——。
「あの、いつ馬が動くのかと思って待っていたのですが、何か……いけなかったでしょうか」
「は? 妃が手綱を引かなきゃいつまでも動くわけ……ちょっと待って。もしかして、馬に乗った経験、ないの?」
「? ございます。今乗っています」
ヨアンは額に手を当てて黙った。
「……いつもは手綱をどうしてるんだよ」
「護衛や下男が、その時だけは近寄ってきて引いてくれるので……」
「……そういうの、世間では知らないけどオスロでは乗馬って言わないから、覚えておいた方がいい」
顔を上げたヨアンは大いに疲れたような表情でため息を吐いた。
馬の上で消え入りたくなった。どうしてこんなことになったのか、思い返せば、すべて自分が蒔いた種なのだが……。
◆
——あの時。
ヨアンのお籠り……<水の祈り>をやめるよう水を差したとき、シュメルヒは決定的にキリアスとイルミナに厄介者を見る目を向けられてしまった。
それまで、前世からずっとシュメルヒに好意的だったイルミナさえ、この時ばかりは違った。
何も知らないよそ者が、自分たちの擁立するヨアンの立場を邪魔するようなことを言い出したのだから当然だ。
しかも、ヨアンの不調が心の弱さや怠け癖からくる<気の病>ならまだしも、本当の病気だなんて、ヨアン派の二人からしたら公にはしたくない事実だろう。
いっそただの怠惰の方が、後でいくらでも矯正できるが、病気となるとそうもいかない。
反対派が足を引っ張る格好の口実を与えてしまう。
しかし、それでも——。
(ヨアン様が嘘吐きでないと……私だけでも信じていると、お伝えしたかった)
ヨアンにしてみれば、信じて欲しいのはむしろキリアスやイルミナ、それに両親だろう。シュメルヒに信じていると言われても嬉しくないのは分かっている。でも、シュメルヒが差し出せるものなんてそれくらいだ。
「得体の知れない薬を独断でヨアン殿下に服用させるわけにはいきません」
キリアスにきっぱりと申し渡され、咄嗟に切り返す言葉が見つからない。もともと、シュメルヒは弁が立つ方ではない。他人と話したのだって、ジュールやナーシャ、ガシム教授、それにハビエル……ごく限られた人たちだ。
キリアスと交渉なんて、もごもごと情けなく口ごもるしかできない自分が悲しかった。
(やっぱり私は、ヨアン様の役に立てない)
「ただ、……現行の治療については、私も思うところがあります」
シュメルヒはハッと顔を上げてキリアスを見た。
「キリアス、貴方っ、」
イルミナの言葉を遮るように、
「民間療法というより俗信に近いのも事実です。実際、ヨアン様が消耗するという妃殿下の意見も一理ありますしね。ですから、こうしましょう。イレニアの妙薬については、効果を検証し確実に安全だと分かるまで殿下に差し上げるのは保留に致しましょう。代わりに、もう一つの妃殿下の要望は汲みます。殿下の体力を削ぐようないかなる治療行為も一時、やめること。あくまで一時的にです。お籠りが終わってから様子を見ることにします。それでいかがですか? 夫人」
ヨアンがイルミナに視線を向けた。
「叔母上」
イルミナが小さく息を吐く。苦笑を浮かべて、
「ええ、分かりましたよ、ヨアン。あたくしだって、甥のあなたを苦しめたいわけではないもの。シュメルヒ様のお薬が効くなら、そちらに望みをかけたいわ」
ヨアンの顔が安堵にほころぶのを見て、シュメルヒも胸を撫でおろした。前世ではただ傍観していたヨアンの治療……いや、あれはもう水責めと言っていいのではないか。
今世では止めることができた。
(ただし、一時的にだ……キリアスが考えを変える前に、何か手は打たないと)
「……感謝します、キリアス」
頭を下げる。キリアスの顔に驚きが滲む。
(前世で私を殺した相手に礼を言うなんて……でも、キリアスが申し出てくれたおかげで、二つの願いの内一つは叶った)
「頭をお上げください、妃殿下。それに、お籠りは予定通りヨアン殿下に担っていただきます。何があろうとここで退いたら、政敵に後々の餌を与えることになりかねないので」
断固として曲げるつもりはない……そんな口調だった。
シュメルヒは渋々と頷くほかなかった。
部屋を辞すと、ハビエルを従えて、とぼとぼと自室に戻る。
「まったく、シュメルヒ様。まだ俺が妙案を考えていないのにあの場で馬鹿正直にアコ二ツムのことを喋るなんて、そりゃ警戒されるに決まってますよ。普通なら不審物を王宮に持ち込んだ咎でいくら妃と言えどお咎めは免れませんよ!」
「すみません……」
しょんぼりと肩を落とすシュメルヒに、ハビエルもそれ以上は文句を言わなかった。
「待って!」
背後から駆けてくる足音に振り返る。
「ヨアン様? どうされたのです、そんなに急いで」
部屋からここまで駆けてきたのか、ヨアンの息は乱れている。
「大丈夫ですか? 苦しくは」
「さっき、言ってたこと、本当?」
さっき?シュメルヒはハビエルと顔を見合わせた。
「薬のことなら、本当です。もし効果が検証できたらヨアン様のお力に」
「違うよ!」
大きな声で、ヨアンが遮った。
「そうじゃなくて……病気の事。僕の嘘じゃないって、怠けてるわけじゃないって、ほんとに、あの」
「信じております」
「っ、」
ヨアンが息を呑んだのがわかった。
「なんで……。妃には話したことなかっただろ。なんで仮病じゃないって分かるんだ。……僕に取り入ろうとして、言ってるんじゃないのか」
ハビエルが口を挟もうとしたのを手で制して、シュメルヒはその場に膝を着いた。
たじろぐヨアンを下から覗き込むようにして見つめる。緑の目と、氷色の目が交わった。
「……信じております。殿下がいつもお一人で耐えてきた事を知っています。それを知るのが私では、慰めにならないと思いますが……信じてください。もし殿下を裏切ったら、この先どんな罰で受け入れます」
「僕は、妃のこと好きじゃないって言ったのに、なんでそこまで……」
「私も、それで構わないと申し上げましたよ」
小さく微笑むと、ヨアンの目が大きく見開かれる。弾かれた様に目が逸らされた。
「たとえヨアン様に嫌われたとしても、私が嫌うことはありえません。私の役目が終わるまで、ヨアン様のそばに居させてくださいませ」
「だから、なんで」
ヨアンが一体何に引っかかっているのか分からず、見上げたまま首を傾げた。
「それが夫婦というものではないのでしょうか……?」
「……っ!」
仮の夫婦関係だが、それでもナーシャとヨアンが番うまでは、そういう契約なのだから。
ヨアンは突き飛ばすようにシュメルヒを押しのけ、来た道を引き返していった。
「ヨアン様、転びますから走っては」
「う、うるさいなっ、僕は別に、夫婦とか、そんなの知らないから! そっちが勝手に決めた事だろっ!」
顔を真っ赤にしながら怒鳴るヨアンに呆気に取られていると、隣からじっとりした視線を感じた。
「何ですかハビエル、その目は」
「……いいえ、別に。シュメルヒ様って、平然とそういうの口にするなあって思っただけです。俺の時もそうだったし、今だって」
「そういうの、とは」
「いえ、いいんです、分からないなら」
何故か面白くなさそうな表情を浮かべているハビエルに首を捻りながらも、今後のことを考えなくてはと思った。
忌々しい水責めの治療を止めさせたのは良いとして、根本的な症状の快癒にはあと一歩、やはり薬が必要だ。
それに<水の祈り>も、今のヨアンは、きっと前世と同じように失敗してしまうだろう。
どうしたらいいのか…‥。
が、翌日、朝食をとっていたシュメルヒの元へ、アンヌが使いにやって来た。
嬉しそうに、
「ヨアン様が乗馬をご一緒にいかがか、と」
昨日の今日だ。別れ際のヨアンの様子を思い返して混乱していたら、あっという間に約束の午後になった。
そしてアンヌに先導されてやって来たのが、王宮の敷地の開けた場所、小さな池と水車小屋を誂えた奥庭だった。
「ヨアン様……」
「……」
「あの、ヨアン様」
「……なに」
やっと返事をくれたことにホッとする。
「申し訳ありません。お嫌ではありませんか? 私は降りて歩いても構いませんから、どうぞヨアン様だけで馬に」
「それじゃあ仲良く二人で乗馬したことにならないだろ」
「怖くないのですか? その……私の血には毒が」
「は? 怖いよ。だから怪我しないように早く自分一人で乗れるようになってよ」
むすっとした声が返ってくる。背後から。
今、シュメルヒはあの大きな黒馬に騎乗している。ただし、背後から手綱を取るのはヨアンだ。
ヨアンの背丈がシュメルヒより低いため、前方を見るのに苦労してるのが気配で分かる。
申し訳なくて、そろそろと身を屈めると。
「きちんと背筋を伸ばして。バランスが崩れると落馬するから。ほら、しゃんとして!」
「は、はい」
なぜ、こんなことに……?
背中に、密着したヨアンの体温を仄かに感じる。前に回された腕が一生懸命に手綱を引いている。あまり触れないように、と思っても、ここまで誰かと服越しとはいえ触れ合ったことがないので緊張して声が上擦ってしまいそうだった。
「ご迷惑をおかけして……」
「本当だね。どうして乗馬が好きだって嘘吐いたんだよ」
「嘘ではないのです。本当に馬は好きです。動物は、どういうわけか私の毒に当たらないので安心して触れますし」
「乗馬の教師はいたんだろう? 貴族の嗜みなんだから。まさか、イレニアではオメガは乗馬をしちゃいけないとか?」
「いいえ、まさか。ただ、私は<毒持ち>ですから、怪我をしたら双方が大変なので、こうするようにと」
それが当たり前だったから、ヨアンが背後で呆れたように鼻を鳴らしたのを聞いて、何が不味かったのかと不安になった。
「それって、ただ単に自分たちが面倒事を避けたいから妃が一人で乗馬するのを禁止しただけじゃないか」
「それは、でも……それが正しいのです。私が血を流せば医師は容易に手当てできませんし、怪我の度に焼き鏝を使っていたら身体に跡が残ってしまいますから」
嫁ぎ先のアルファが運よく見つかっても、そんな身体のオメガは嫌われてしまうだろう、と教育係からもこんこんと言われてきた。
「焼き鏝……ああ、キリアスから聞いた」
ヨアンはそれ以上触れてこなかった。血なまぐさくて嫌だと思ったのかもしれない。
「ですからいいのです。これで」
「おかげで僕は迷惑だけど」
「それは本当に申し訳ないと思っています、ですから降りて歩きますと」
「馬に乗っていると」
突然、シュメルヒの言葉が遮られた。
「風が頬にあたって、髪がなびくのが気持いい。耳の横で風が唸って、馬の吐く息が自分の体の中で渦巻いて……馬の脚が自分の足になったみたいに、力強くて、自由だ」
「……ヨアン様は、馬にはよく?」
「こんな身体になる前は。今日は調子が良いけど、波があるからいつ起き上がれなくなるか分からない。そうなる前は、うん……好きだったよ」
「そうですか……」
治してやりたい、と思った。以前のように、馬とひとつになったように駆ける自由なヨアンに戻してあげたい。
「妃も上達したらそうなる。ここはイレニアじゃないんだから、やってみればいい。ちゃんと訓練していけば怪我の確率だって減る」
ヨアンの言いたいことがすぐには理解できなかった。
「でも、万が一があったら皆の迷惑に」
「オスロの妃が一人で馬にも乗れないなんて、そっちの方が恥ずかしい」
ぐうの音も出ない。
オスロは昔、狩猟民族が合一した成り立ちをもつ国だ。良馬を産出し、狩りは貴族の嗜みのひとつ。ヨアンの言い分は正しい。
「だから、今から妃には『馬に乗ってもらう』」
「……はい?」
今乗っている、「これ」は?
ヨアンの謎めいた言葉の意味が分かったのは、ヨアンが大きく手綱を払い、ハッという掛け声とともに馬の脇腹を蹴った時だった。
「ヨ、ヨアン様っ!」
「舌を噛むから口閉じて」
言うが早いか、黒馬はいななきとともに一度地面で踵を打ち、走り出していた。
必死で目を瞑りそうになるのを堪えた。頬に風が当たり、景色が吹き飛び、耳の横で空気が唸った。
馬の吐く息が荒い。ドッ、ドッ、という心音が、自分のものなのか、馬の者なのか分からなった。長い髪が後ろへなびいた。
「手綱を持ってごらん」
ヨアンがシュメルヒの腕をとって自分の手綱を持たせようとしてくる。
さっきまでの感覚が吹っ飛び、シュメルヒは慌てて悲鳴を上げた。
「無理、無理です無理、落ちます!」
「大丈夫、こんなの駆け足にもなってない。手を添えるだけでいいから、ほら」
さっきより密着したヨアンの声は、今までで聞いたどの声より優しかった。
恐る恐る手綱を握る。その上から、ヨアンが自分の掌を被せた。ぎゅっと力が籠った。
「右に引いて、ゆっくり……そう、後は自然に馬の頭が戻る……上手だ、それでいい」
「ヨアン様、これ、今、」
「うん、妃が自分で馬を操縦してる」
息を吸い込み、前を見る。ただの馬車道だ。一本道。あっという間に門前に着いてしまう。たったこれだけの距離。なのにとても長い道のりを走った気がする。
けれど馬が速度を落として立ち止まると、あっという間に思えてきた。
「もっと乗っていたかった?」
先に馬を降りたヨアンが、見透かしたようににやりとした。
「はい、本当はもう少しだけ、あっ、⁉」
最初の時と同じに踏み台を使って降りたシュメルヒは、地面に足を付けた途端ガクッと膝を震わせた。
「ヨアン様、足、足が……変です」
「子鹿みたいになってるじゃないか、ふっ、くく、は、あははは!」
「笑うなんて、……ヨアン様?」
突然、ヨアンの身体がぐらりと傾いで、シュメルヒに倒れ込んできた。
「ヨアン様!」
咄嗟にヨアンの身体を抱き留めると、胸に押しつけられたおでこは少し熱を持っている。
身体に触れてしまったことなど、頭から吹き飛んだ。
「ヨアン様、具合が……! すみません、私ばかり楽しくてつい、すぐに医者をっ、」
「……楽しかった?」
「え」
くぐもった声がもう一度「楽しかった?」と問う。
「無理して喋らないでください。……とても楽しかったです、でも」
ヨアンに無理をさせてまで、楽しさなんていらない。
「……昨日のこと」
ヨアンが小さな声で言った。
「信じてるって。あれ……ちょっとだけ嬉しかった」
「ヨアン様」
「勘違いするなよ、ちょっとだけだからな」
ヨアンがぐったりとシュメルヒの胸に寄り掛かった。そろそろと、ヨアンが倒れ込まないよう背中に手を回してみる。こんなことをして、ヨアンはまた怒るかもしれない。
「また……」
「え?」
ヨアンは目を瞑っていて、表情は良く見えない。
「教えてやってもいい。あんなの、ぜんぜん走った内に入らない。もっと練習しないと駄目だ」
目を見開く。聞き間違いかと思った。
「……嬉しいです、ヨアン様。約束ですよ」
「覚えていたらね」
憎まれ口を聞きながらも、ヨアンの口元が少しだけつり上がっていることに、シュメルヒは気付いた。
やがて馬丁が連れてきた医者が到着するまで、二人は馬の傍に寄り添っていた。
「どうした?妃は乗馬が好きだって聞いたから特別に一番速い馬を用意させたんだ。早く乗りなよ」
「……ヨアン様、あの」
「なに」
シュメルヒはごくっと唾を飲んで、目の前に立ちふさがる黒い<彼>を見上げた。
濡れたような大きな目と視線が合った瞬間、ブルルっと鼻息が顔にかかり、思わずひゃっと後ろへ下がる。
「……なにしてるの」
ヨアンが呆れた顔をしている。
「すみません、あまりに大きくて吃驚してしまって」
「ああ……オスロの中でもメール地方で育ててる馬が一番大きくて足も速いんだ。妃も身長が高いし、これくらいが丁度いいだろう?」
「これに、私が……?」
改めてヨアンの言う速くて大きな馬を見上げる。美しい黒馬だ。へっぴり腰のシュメルヒなんかより、黒髪緑目のヨアンが跨った方がよっぽど映えると思う。
(というか、怖い)
オスロの普通馬はもっと小さいし、イレニアの馬はそれより少しだけ背が低く、代わりに雪原を進めるよう足が太い。
こんな大きな馬、まず鐙にどう足をかけたらいいか、そこから分からない。
「あの、踏み台などは……」
「いつもどうやって乗馬してるんだよ」
またも呆れ顔をされてしまい、いたたまれなかった。
結局、厩から踏み台を持ってきてもらい、なんとか鞍に乗るところまでは良かった。
問題はそこから先だった。
鞍の前を両手で掴んだまま固まっているシュメルヒに、同種の茶白に軽々と跨ったヨアンが、首を傾げる。
ヨアンの頭はシュメルヒの肩口くらい。小柄で痩せているのに、どうしてそんなに軽々とこんな大きな馬に跨れるのか不思議だった。
感心して思わず見惚れていると、
「じゃあ、行こうか」
「は、はい、ヨアン様」
ポクポクと、ヨアンの馬が背を向けて遠ざかる。シュメルヒはぼうっとそれを見送った。
「……」
「……」
ヨアンが振り向き、シュメルヒが元の位置から一歩も付いてこないと見るや、ため息を吐いて馬の踵を返して戻って来た。
無駄のない手綱さばきに、また見惚れてしまう。
「あのさ、ふざけてるの?」
「え?」
「僕と馬に乗るの、そんなに嫌だった? なら最初からそう言えばいいだろ。こんな馬鹿みたいな真似しないでさ。せっかくこっちが、気を遣って仲の良い振りをしてやってるのに」
シュメルヒは慌てた。何かヨアンの気に障ることをしてしまっただろうか?
自分はただ——。
「あの、いつ馬が動くのかと思って待っていたのですが、何か……いけなかったでしょうか」
「は? 妃が手綱を引かなきゃいつまでも動くわけ……ちょっと待って。もしかして、馬に乗った経験、ないの?」
「? ございます。今乗っています」
ヨアンは額に手を当てて黙った。
「……いつもは手綱をどうしてるんだよ」
「護衛や下男が、その時だけは近寄ってきて引いてくれるので……」
「……そういうの、世間では知らないけどオスロでは乗馬って言わないから、覚えておいた方がいい」
顔を上げたヨアンは大いに疲れたような表情でため息を吐いた。
馬の上で消え入りたくなった。どうしてこんなことになったのか、思い返せば、すべて自分が蒔いた種なのだが……。
◆
——あの時。
ヨアンのお籠り……<水の祈り>をやめるよう水を差したとき、シュメルヒは決定的にキリアスとイルミナに厄介者を見る目を向けられてしまった。
それまで、前世からずっとシュメルヒに好意的だったイルミナさえ、この時ばかりは違った。
何も知らないよそ者が、自分たちの擁立するヨアンの立場を邪魔するようなことを言い出したのだから当然だ。
しかも、ヨアンの不調が心の弱さや怠け癖からくる<気の病>ならまだしも、本当の病気だなんて、ヨアン派の二人からしたら公にはしたくない事実だろう。
いっそただの怠惰の方が、後でいくらでも矯正できるが、病気となるとそうもいかない。
反対派が足を引っ張る格好の口実を与えてしまう。
しかし、それでも——。
(ヨアン様が嘘吐きでないと……私だけでも信じていると、お伝えしたかった)
ヨアンにしてみれば、信じて欲しいのはむしろキリアスやイルミナ、それに両親だろう。シュメルヒに信じていると言われても嬉しくないのは分かっている。でも、シュメルヒが差し出せるものなんてそれくらいだ。
「得体の知れない薬を独断でヨアン殿下に服用させるわけにはいきません」
キリアスにきっぱりと申し渡され、咄嗟に切り返す言葉が見つからない。もともと、シュメルヒは弁が立つ方ではない。他人と話したのだって、ジュールやナーシャ、ガシム教授、それにハビエル……ごく限られた人たちだ。
キリアスと交渉なんて、もごもごと情けなく口ごもるしかできない自分が悲しかった。
(やっぱり私は、ヨアン様の役に立てない)
「ただ、……現行の治療については、私も思うところがあります」
シュメルヒはハッと顔を上げてキリアスを見た。
「キリアス、貴方っ、」
イルミナの言葉を遮るように、
「民間療法というより俗信に近いのも事実です。実際、ヨアン様が消耗するという妃殿下の意見も一理ありますしね。ですから、こうしましょう。イレニアの妙薬については、効果を検証し確実に安全だと分かるまで殿下に差し上げるのは保留に致しましょう。代わりに、もう一つの妃殿下の要望は汲みます。殿下の体力を削ぐようないかなる治療行為も一時、やめること。あくまで一時的にです。お籠りが終わってから様子を見ることにします。それでいかがですか? 夫人」
ヨアンがイルミナに視線を向けた。
「叔母上」
イルミナが小さく息を吐く。苦笑を浮かべて、
「ええ、分かりましたよ、ヨアン。あたくしだって、甥のあなたを苦しめたいわけではないもの。シュメルヒ様のお薬が効くなら、そちらに望みをかけたいわ」
ヨアンの顔が安堵にほころぶのを見て、シュメルヒも胸を撫でおろした。前世ではただ傍観していたヨアンの治療……いや、あれはもう水責めと言っていいのではないか。
今世では止めることができた。
(ただし、一時的にだ……キリアスが考えを変える前に、何か手は打たないと)
「……感謝します、キリアス」
頭を下げる。キリアスの顔に驚きが滲む。
(前世で私を殺した相手に礼を言うなんて……でも、キリアスが申し出てくれたおかげで、二つの願いの内一つは叶った)
「頭をお上げください、妃殿下。それに、お籠りは予定通りヨアン殿下に担っていただきます。何があろうとここで退いたら、政敵に後々の餌を与えることになりかねないので」
断固として曲げるつもりはない……そんな口調だった。
シュメルヒは渋々と頷くほかなかった。
部屋を辞すと、ハビエルを従えて、とぼとぼと自室に戻る。
「まったく、シュメルヒ様。まだ俺が妙案を考えていないのにあの場で馬鹿正直にアコ二ツムのことを喋るなんて、そりゃ警戒されるに決まってますよ。普通なら不審物を王宮に持ち込んだ咎でいくら妃と言えどお咎めは免れませんよ!」
「すみません……」
しょんぼりと肩を落とすシュメルヒに、ハビエルもそれ以上は文句を言わなかった。
「待って!」
背後から駆けてくる足音に振り返る。
「ヨアン様? どうされたのです、そんなに急いで」
部屋からここまで駆けてきたのか、ヨアンの息は乱れている。
「大丈夫ですか? 苦しくは」
「さっき、言ってたこと、本当?」
さっき?シュメルヒはハビエルと顔を見合わせた。
「薬のことなら、本当です。もし効果が検証できたらヨアン様のお力に」
「違うよ!」
大きな声で、ヨアンが遮った。
「そうじゃなくて……病気の事。僕の嘘じゃないって、怠けてるわけじゃないって、ほんとに、あの」
「信じております」
「っ、」
ヨアンが息を呑んだのがわかった。
「なんで……。妃には話したことなかっただろ。なんで仮病じゃないって分かるんだ。……僕に取り入ろうとして、言ってるんじゃないのか」
ハビエルが口を挟もうとしたのを手で制して、シュメルヒはその場に膝を着いた。
たじろぐヨアンを下から覗き込むようにして見つめる。緑の目と、氷色の目が交わった。
「……信じております。殿下がいつもお一人で耐えてきた事を知っています。それを知るのが私では、慰めにならないと思いますが……信じてください。もし殿下を裏切ったら、この先どんな罰で受け入れます」
「僕は、妃のこと好きじゃないって言ったのに、なんでそこまで……」
「私も、それで構わないと申し上げましたよ」
小さく微笑むと、ヨアンの目が大きく見開かれる。弾かれた様に目が逸らされた。
「たとえヨアン様に嫌われたとしても、私が嫌うことはありえません。私の役目が終わるまで、ヨアン様のそばに居させてくださいませ」
「だから、なんで」
ヨアンが一体何に引っかかっているのか分からず、見上げたまま首を傾げた。
「それが夫婦というものではないのでしょうか……?」
「……っ!」
仮の夫婦関係だが、それでもナーシャとヨアンが番うまでは、そういう契約なのだから。
ヨアンは突き飛ばすようにシュメルヒを押しのけ、来た道を引き返していった。
「ヨアン様、転びますから走っては」
「う、うるさいなっ、僕は別に、夫婦とか、そんなの知らないから! そっちが勝手に決めた事だろっ!」
顔を真っ赤にしながら怒鳴るヨアンに呆気に取られていると、隣からじっとりした視線を感じた。
「何ですかハビエル、その目は」
「……いいえ、別に。シュメルヒ様って、平然とそういうの口にするなあって思っただけです。俺の時もそうだったし、今だって」
「そういうの、とは」
「いえ、いいんです、分からないなら」
何故か面白くなさそうな表情を浮かべているハビエルに首を捻りながらも、今後のことを考えなくてはと思った。
忌々しい水責めの治療を止めさせたのは良いとして、根本的な症状の快癒にはあと一歩、やはり薬が必要だ。
それに<水の祈り>も、今のヨアンは、きっと前世と同じように失敗してしまうだろう。
どうしたらいいのか…‥。
が、翌日、朝食をとっていたシュメルヒの元へ、アンヌが使いにやって来た。
嬉しそうに、
「ヨアン様が乗馬をご一緒にいかがか、と」
昨日の今日だ。別れ際のヨアンの様子を思い返して混乱していたら、あっという間に約束の午後になった。
そしてアンヌに先導されてやって来たのが、王宮の敷地の開けた場所、小さな池と水車小屋を誂えた奥庭だった。
「ヨアン様……」
「……」
「あの、ヨアン様」
「……なに」
やっと返事をくれたことにホッとする。
「申し訳ありません。お嫌ではありませんか? 私は降りて歩いても構いませんから、どうぞヨアン様だけで馬に」
「それじゃあ仲良く二人で乗馬したことにならないだろ」
「怖くないのですか? その……私の血には毒が」
「は? 怖いよ。だから怪我しないように早く自分一人で乗れるようになってよ」
むすっとした声が返ってくる。背後から。
今、シュメルヒはあの大きな黒馬に騎乗している。ただし、背後から手綱を取るのはヨアンだ。
ヨアンの背丈がシュメルヒより低いため、前方を見るのに苦労してるのが気配で分かる。
申し訳なくて、そろそろと身を屈めると。
「きちんと背筋を伸ばして。バランスが崩れると落馬するから。ほら、しゃんとして!」
「は、はい」
なぜ、こんなことに……?
背中に、密着したヨアンの体温を仄かに感じる。前に回された腕が一生懸命に手綱を引いている。あまり触れないように、と思っても、ここまで誰かと服越しとはいえ触れ合ったことがないので緊張して声が上擦ってしまいそうだった。
「ご迷惑をおかけして……」
「本当だね。どうして乗馬が好きだって嘘吐いたんだよ」
「嘘ではないのです。本当に馬は好きです。動物は、どういうわけか私の毒に当たらないので安心して触れますし」
「乗馬の教師はいたんだろう? 貴族の嗜みなんだから。まさか、イレニアではオメガは乗馬をしちゃいけないとか?」
「いいえ、まさか。ただ、私は<毒持ち>ですから、怪我をしたら双方が大変なので、こうするようにと」
それが当たり前だったから、ヨアンが背後で呆れたように鼻を鳴らしたのを聞いて、何が不味かったのかと不安になった。
「それって、ただ単に自分たちが面倒事を避けたいから妃が一人で乗馬するのを禁止しただけじゃないか」
「それは、でも……それが正しいのです。私が血を流せば医師は容易に手当てできませんし、怪我の度に焼き鏝を使っていたら身体に跡が残ってしまいますから」
嫁ぎ先のアルファが運よく見つかっても、そんな身体のオメガは嫌われてしまうだろう、と教育係からもこんこんと言われてきた。
「焼き鏝……ああ、キリアスから聞いた」
ヨアンはそれ以上触れてこなかった。血なまぐさくて嫌だと思ったのかもしれない。
「ですからいいのです。これで」
「おかげで僕は迷惑だけど」
「それは本当に申し訳ないと思っています、ですから降りて歩きますと」
「馬に乗っていると」
突然、シュメルヒの言葉が遮られた。
「風が頬にあたって、髪がなびくのが気持いい。耳の横で風が唸って、馬の吐く息が自分の体の中で渦巻いて……馬の脚が自分の足になったみたいに、力強くて、自由だ」
「……ヨアン様は、馬にはよく?」
「こんな身体になる前は。今日は調子が良いけど、波があるからいつ起き上がれなくなるか分からない。そうなる前は、うん……好きだったよ」
「そうですか……」
治してやりたい、と思った。以前のように、馬とひとつになったように駆ける自由なヨアンに戻してあげたい。
「妃も上達したらそうなる。ここはイレニアじゃないんだから、やってみればいい。ちゃんと訓練していけば怪我の確率だって減る」
ヨアンの言いたいことがすぐには理解できなかった。
「でも、万が一があったら皆の迷惑に」
「オスロの妃が一人で馬にも乗れないなんて、そっちの方が恥ずかしい」
ぐうの音も出ない。
オスロは昔、狩猟民族が合一した成り立ちをもつ国だ。良馬を産出し、狩りは貴族の嗜みのひとつ。ヨアンの言い分は正しい。
「だから、今から妃には『馬に乗ってもらう』」
「……はい?」
今乗っている、「これ」は?
ヨアンの謎めいた言葉の意味が分かったのは、ヨアンが大きく手綱を払い、ハッという掛け声とともに馬の脇腹を蹴った時だった。
「ヨ、ヨアン様っ!」
「舌を噛むから口閉じて」
言うが早いか、黒馬はいななきとともに一度地面で踵を打ち、走り出していた。
必死で目を瞑りそうになるのを堪えた。頬に風が当たり、景色が吹き飛び、耳の横で空気が唸った。
馬の吐く息が荒い。ドッ、ドッ、という心音が、自分のものなのか、馬の者なのか分からなった。長い髪が後ろへなびいた。
「手綱を持ってごらん」
ヨアンがシュメルヒの腕をとって自分の手綱を持たせようとしてくる。
さっきまでの感覚が吹っ飛び、シュメルヒは慌てて悲鳴を上げた。
「無理、無理です無理、落ちます!」
「大丈夫、こんなの駆け足にもなってない。手を添えるだけでいいから、ほら」
さっきより密着したヨアンの声は、今までで聞いたどの声より優しかった。
恐る恐る手綱を握る。その上から、ヨアンが自分の掌を被せた。ぎゅっと力が籠った。
「右に引いて、ゆっくり……そう、後は自然に馬の頭が戻る……上手だ、それでいい」
「ヨアン様、これ、今、」
「うん、妃が自分で馬を操縦してる」
息を吸い込み、前を見る。ただの馬車道だ。一本道。あっという間に門前に着いてしまう。たったこれだけの距離。なのにとても長い道のりを走った気がする。
けれど馬が速度を落として立ち止まると、あっという間に思えてきた。
「もっと乗っていたかった?」
先に馬を降りたヨアンが、見透かしたようににやりとした。
「はい、本当はもう少しだけ、あっ、⁉」
最初の時と同じに踏み台を使って降りたシュメルヒは、地面に足を付けた途端ガクッと膝を震わせた。
「ヨアン様、足、足が……変です」
「子鹿みたいになってるじゃないか、ふっ、くく、は、あははは!」
「笑うなんて、……ヨアン様?」
突然、ヨアンの身体がぐらりと傾いで、シュメルヒに倒れ込んできた。
「ヨアン様!」
咄嗟にヨアンの身体を抱き留めると、胸に押しつけられたおでこは少し熱を持っている。
身体に触れてしまったことなど、頭から吹き飛んだ。
「ヨアン様、具合が……! すみません、私ばかり楽しくてつい、すぐに医者をっ、」
「……楽しかった?」
「え」
くぐもった声がもう一度「楽しかった?」と問う。
「無理して喋らないでください。……とても楽しかったです、でも」
ヨアンに無理をさせてまで、楽しさなんていらない。
「……昨日のこと」
ヨアンが小さな声で言った。
「信じてるって。あれ……ちょっとだけ嬉しかった」
「ヨアン様」
「勘違いするなよ、ちょっとだけだからな」
ヨアンがぐったりとシュメルヒの胸に寄り掛かった。そろそろと、ヨアンが倒れ込まないよう背中に手を回してみる。こんなことをして、ヨアンはまた怒るかもしれない。
「また……」
「え?」
ヨアンは目を瞑っていて、表情は良く見えない。
「教えてやってもいい。あんなの、ぜんぜん走った内に入らない。もっと練習しないと駄目だ」
目を見開く。聞き間違いかと思った。
「……嬉しいです、ヨアン様。約束ですよ」
「覚えていたらね」
憎まれ口を聞きながらも、ヨアンの口元が少しだけつり上がっていることに、シュメルヒは気付いた。
やがて馬丁が連れてきた医者が到着するまで、二人は馬の傍に寄り添っていた。
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