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シュメルヒの手紙
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重たい藤籠を手に下げ、長い階段を躓かないようゆっくりと降りてゆく。「最初の時」は延々と続く道のりに終わりがないように思えたりもしたが、何回か通ううち、時間の感覚が備わってきた。あとどれくらいで目的の場所に着くか分かる。それでも、前方にぼんやり灯りが灯っているのを見ると、ほっと息を吐いた。
ぱしゃん、と水音を立てて橋を渡ると、すぐにヨアンが白い垂れ布を上げて顔を出した。
「またお前か」
邪険な言い方をしても、顔には嬉しそうな色が浮かんでいる。シュメルヒは銀の仮面の下で目を細め、藤籠を手渡した。
「お前が来るようになってから、食事の量が多いな。果物やパン以外にも、肉とスープ……焼き菓子まである」
しげしげと中を見ていたヨアンが顔を上げる。柔らかい眼差しをしていた。
「またシュメルヒが差し入れてくれたんだな」
頷くと、ヨアンは「そっか」と言っていつものように大理石の床に座り、いそいそと籠の中に手を伸ばした。
「お前も座れよ。……あ」
食事を入れた藤籠に入っていた羊皮紙に気付いたヨアンが嬉し気に声を上げた。食欲を脇にやって、紐で括られた紙をくるくると開いている。手紙にじっと目を落としているヨアンを見ているのが妙に気恥ずかしくて、シュメルヒは立ったまま祭壇の傍に寄った。
平面の窪み嵌った淡い玉石は随分増えていた。一日のうちに三、四個と増えていることもある。祈りのための経典は相当な長さだと聞いたことがあるから、ヨアンは絶え間なくそれを続けているのだろう。ただ暗唱すればいいというものではなく、精神を集中し心がこもっていなくてはならないという。そうでないと、この特別な玉石は生成されないのだと。
(不思議だ。イレニアにこのような神秘はない。でも死に戻った人間がいるくらいなのだから、この世はまだ見ぬ神秘が存在しているのだろう)
無から生まれる玉石よりも、死に戻る人間の方が奇異だ。もっと言ってしまえば、毒にまみれた血が通う身体や、池に潜む鱗の怪物など、不可思議なことはいくらでもある。
そう思いながら離れ小島(シュメルヒは心の中でそう呼んでいる)の中を見渡すと、寝具というには頼りない敷布が隅に避けられ、枕元と思しき位置に紙の束が置かれていた。
(寝る前に読み返してくださっている……?)
シュメルヒは落ち着かない気分になり、ローブの袖の中で意味もなく手を握ったり開いたりした。
手紙の束は十通ほどある。今ヨアンが食事をそっちのけで読んでいるのが、十一通目の手紙だった。差出人はすべてシュメルヒである。
ハビエルに「我儘」を言って、ヨアンの食事係をもう一度だけさせて貰えるよう、エセル王妃を通して頼み込んだ。
王妃は少し考えた後、例の上の空、といった顔つきで「今度、あたくしの茶会に出席してくれる? それなら、ギヨムに言っておいてあげる」と交換条件を出した。
「茶会……」
「あたくしの親しい知り合いを招いて開くお茶会。お料理も出すけど、食べたくなければ口を付けなくてもいい。気楽でしょう? どう?」
イレニアにもそうした習慣はあった。茶会と聞けば気楽だが、要は人脈づくりや、水面下での情報収集のために要人物や配偶者が集う会で、政治的な要素も皆無ではない。シュメルヒでもそれくらいは分かるが、前世でも自分の殻に閉じこもっていたため、具体的に何を話すのかまでは分からない。正直、気が重い。
「……わかりました。その、あまり期待はしないでください。こういうことに不慣れで」
「知ってる。慣れておくのが貴方のためよ。上手く立ち回って。味方を作るの」
「味方……」
「誰が敵で味方なのか、見極める訓練をしなくてはね」
「王妃様は味方ですか」
エセル王妃は面白がるような顔をした。
「さあ。決めるのは貴方。誰かに耳障りの良いことを言われても鵜呑みにしないことね。それに、たとえ味方でなくても、こうして取引したらお互い望むものが手に入る。そういう関係性の作り方もある」
エセル王妃は扇の先でシュメルヒの胸元を突いた。
「ヨアンによろしく。偽物の神官さん」
つい昨日、めそめそと泣いていた姿と打って変わって豪胆だ。
(もしや、あれは同情を引くための演技……)
シュメルヒは罠にかかった羽虫の気分を味わったが、学びもあった。
望みのものを得るために、時には交渉が必要だ。そのためには、相手をよく知る必要がある。エセル王妃は、シュメルヒが何であればどこまで受容できるか、見極めて交換条件を持ち出してきていた。
茶会に招くのは、内外にシュメルヒと懇意だと知らしめるため。いずれはシュメルヒの後を引き継いだナーシャとの関係も見越しているのだろう。きっと、彼女はシュメルヒが思うよりずっと強かだ。
(ヨアン様の役に立ちたいなら、私も身に付けなくてはならない)
他人との間に線を引いて安心しているようでは、もう駄目なのだ。
そういうわけで、シュメルヒは偽神官として、一日のうち一度、こうしてヨアンの元に通っていた。もう一度だけという約束が、あと一回、もう一回の延びたのには理由がある。ヨアンの様子だ。
祈りに神経を使うせいか、あまり眠れていないようだ。こんな環境下では当たり前だ。通常の植物を暗所に放置すると、陽の光を浴びれず、水をやってもやがて枯れてしまう。人間とて同じだ。
ヨアンの目の下の隈。青白い頬を見ていられず、自分の分の食事から肉やスープを分けて持ってくるようにした。給仕はハビエルだけだから、周囲に知られる心配はない。
持ち込んだのはそれだけではなかった。手紙だ。
シュメルヒは藤籠に手紙を忍ばせ、ヨアンに渡した。そのまま、ぼろを出す前に退散しようとしたら、ヨアンに呼び止められ目の前で手紙を読まれる羽目になってしまった。これは実に恥ずかしかった。
「誰かから手紙をもらうのは初めてだ……」
(初めての相手が私とは……役不足で申し訳ない)
シュメルヒも、ジュール以外に手紙を書いたのは初めてだ。といっても、季節の変わり目の挨拶など形式に則ったもので、用向きもない手紙など書いたことがない。何を書けばいいか分からず、うんうん悩んで夜通し紙を無駄にした挙句、やっと数行書けた。
「あれ、終わり? 嘘だろ、三行だけって。しかも、『ヨアン様へ。よく眠れていますか。寒くありませんか。今朝は残さず食べました。明日も残さず食べます』って……」
ヨアンが他に何も書かれていないのかと、羊皮紙をパタパタひっくり返しながら、シュメルヒを睨んだ。
「お前、僕が怒ってるってシュメルヒに伝えたんじゃないだろうな」
シュメルヒは必死に首を横に振った。
「嘘吐け!……どう見ても僕に叱られるのが怖くて書いてるだろ。というか、っ、ふ、くっ、ふはッ、なんだよこの文章、子どもだってもっとましなのが書けるぞ」
ハハハ、とヨアンが堪え切れない様子で笑い出した。暗い空間に高らかな笑いが反響している。しばらくの間、腹を押さえて笑い続けていた。シュメルヒは藤籠からスープの入った器を取り出し、ヨアンに差し出した。
「なんだよ、いい加減笑ってないで食べろって?」
シュメルヒは頷いた。平静を装っているが、冷たい仮面の下で、顔は真っ赤であった。まさか読み上げられると思わなかったし、こんなに笑いの種にされるのも予想外だった。
「変な神官。お前、名前は?」
シュメルヒは口を押える仕草をした。
「ああ、喋れない決まりだっけ? でもお前、今してる事も規則違反だからな。まあ、僕も他言しないけど」
ヨアンはスープを平らげてから、パンを千切って口に運んだ。
「呼びづらいから、お前のことは、そうだな……ナギって呼ぶことにする。由来が知りたいか?」
シュメルヒは首を傾げた。知らなくても不都合はなさそうだ。
「お前、そういう時はあるって言っておけよ。世渡りの下手な奴だと思われるぞ」
年下のヨアンに処世を説教されてしまった。なんだかシュメルヒを前にしたヨアンと、目の前のヨアンは雰囲気が異なっていて、不思議な感じだ。ヨアンはヨアンであるのに。
「妃の誕生祝に馬を贈るんだ。メール地方で生まれた仔馬で、珍しい青い目をしてる。親馬も気性が大人しいから、妃でも乗れると思う。たぶん。練習すれば、おそらく」
シュメルヒが仮面の下で驚いているのも知らず、ヨアンはふと心配になったようにこちらを見た。
「名前はナギ。東洋の言葉で、風のない静かな湖面を指すんだって。似てるだろ? シュメルヒの目みたいだと思って名付けたんだ。……気に入ると思うか?」
シュメルヒは肯定も否定も出来なかった。胸が詰まって、悲しいだとか嬉しいだとか、はっきり表現できる感情の名前は何ひとつ浮かんでこなかった。ただ、どうしていいか分からなかった。
誕生日を祝われたのは初めてだった。誕生を祝われた時、どんな顔をして、何を言えばいいのだろう。
「そういう時は嘘でも気に入るって言うんだよ。はあ。お前は馬鹿正直みたいだから、きっと出世できないな」
また呆れられてしまった。文句を言う割に、ヨアンはどこか嬉しそうだ。
「なあ、明日もまた来る?」
考える前に頷いていた。ヨアンは「ふうん」と気のない風に返事をした。
「また、妃から手紙が来るかな」
これにも頷く。ヨアンは呆れた顔をした。
「なんでそこにも頷くんだよ……シュメルヒが決めることだろ」
そうして通算十二日目。ヨアンは十一通目の手紙を読み上げていた。伝書鳩役の「ナギ」にも聞かせてやろうという気配りなのか、ヨアンは毎度口に出して読む。正直、やめてほしい。
「『ヨアン様へ。お籠りが十二日を過ぎ、残すところあと半分ほどとなりました。あと少しでヨアン様とお会いできると思うと待ち遠しく感じます。ナギからヨアン様のご様子を伺いました。つつがなく祈りが満ちていること、喜ばしく存じます。今日は雨曇りでしたので、四阿でアンヌとハビエルと三人、お茶会の練習をいたしました。エセル王妃様のお茶会がもうすぐですので、少し緊張いたします。王妃様は『お茶くらいで緊張しているようでは晩餐会では卒倒するわよ』と励ましてくださいます。ハビエルは『なぜ雨の日にわざわざ外で』と渋りましたが、私は雨音が好きで、雨の匂いも好きなのです。最近、知りました。先日、ヨアン様に好きなものを教えるよう言われましたので、色々と考えておりました。好きなこと、好きな色、好きな食べ物……なにも浮かばず困りましたが、考え続けていると、ふとした時に答えが水滴のように降ってくることがございます。今朝は雨が好きだと気付いたので、嬉しくて外に出て参りました。ヨアン様に手紙を書くのも好きです。青蛙が跳ねて紅茶の中に飛び込んでしまいました。蛙は嫌いです』……唐突に終わるのは相変わらずだな」
ヨアンはため息を吐いて、何度も文面を目で行ったり来たりして、たまに微笑んだりしていた。
「母上の茶会に行くって、本当だっだのか。……励まされてるのか、これ」
シュメルヒは林檎の皮を剥いて皿に美しく並べると、ヨアンの前に置いた。切る間だけ付けていた手袋を外す。植物を使った実験をしていたため、刃物で切ったりするのは得意だ。皿の上には細かい切込みでウサギの形にした林檎が乗っている。
「器用だな。シュメルヒには絶対できなさそうだ。たぶん、自分の指を何本か切り落とすと思う」
「……」
シュメルヒは無言の抗議をしたが、兎の林檎を感心したように眺めるヨアンは気付かなかった。
「シュメルヒの言葉は口に出しても文字にしても、嘘がなくて子どもみたいだ。外見と全然違う」
(それは、外見が嘘にまみれて見える、と……?)
「あ、誤解だから。ナギが思ってるような意味で言ったんじゃない。シュメルヒは、つまり……すごく綺麗で、隙が無くて、大人びて見えるけど、中身は子どもみたいだってことだ」
(誉め言葉になっていません、ヨアン様……)
「……好きなもの、もっと増えたらいいな」
ヨアンが手紙の上の文字をなぞりながら言った。
「シュメルヒが好きなものも嫌いなものも、オスロで見つかるといい」
好きなもの、嫌いなものを知る度、何かの扉を少しづつ開いている心地がした。そこに大した意味がなくても、ヨアンがそう言ってくれるのが嬉しかった。
世界が色づいていくような感覚があった。次の手紙には、そのことを書いてみようと思う。
ヨアンがシャリ、と林檎をかじった。
「ま、文章の練習はもうちょっとした方がよさそうだけど」
シュメルヒはがっくりと肩を落として項垂れた。
「だからなんで、お前が落ち込むんだよ」
ぱしゃん、と水音を立てて橋を渡ると、すぐにヨアンが白い垂れ布を上げて顔を出した。
「またお前か」
邪険な言い方をしても、顔には嬉しそうな色が浮かんでいる。シュメルヒは銀の仮面の下で目を細め、藤籠を手渡した。
「お前が来るようになってから、食事の量が多いな。果物やパン以外にも、肉とスープ……焼き菓子まである」
しげしげと中を見ていたヨアンが顔を上げる。柔らかい眼差しをしていた。
「またシュメルヒが差し入れてくれたんだな」
頷くと、ヨアンは「そっか」と言っていつものように大理石の床に座り、いそいそと籠の中に手を伸ばした。
「お前も座れよ。……あ」
食事を入れた藤籠に入っていた羊皮紙に気付いたヨアンが嬉し気に声を上げた。食欲を脇にやって、紐で括られた紙をくるくると開いている。手紙にじっと目を落としているヨアンを見ているのが妙に気恥ずかしくて、シュメルヒは立ったまま祭壇の傍に寄った。
平面の窪み嵌った淡い玉石は随分増えていた。一日のうちに三、四個と増えていることもある。祈りのための経典は相当な長さだと聞いたことがあるから、ヨアンは絶え間なくそれを続けているのだろう。ただ暗唱すればいいというものではなく、精神を集中し心がこもっていなくてはならないという。そうでないと、この特別な玉石は生成されないのだと。
(不思議だ。イレニアにこのような神秘はない。でも死に戻った人間がいるくらいなのだから、この世はまだ見ぬ神秘が存在しているのだろう)
無から生まれる玉石よりも、死に戻る人間の方が奇異だ。もっと言ってしまえば、毒にまみれた血が通う身体や、池に潜む鱗の怪物など、不可思議なことはいくらでもある。
そう思いながら離れ小島(シュメルヒは心の中でそう呼んでいる)の中を見渡すと、寝具というには頼りない敷布が隅に避けられ、枕元と思しき位置に紙の束が置かれていた。
(寝る前に読み返してくださっている……?)
シュメルヒは落ち着かない気分になり、ローブの袖の中で意味もなく手を握ったり開いたりした。
手紙の束は十通ほどある。今ヨアンが食事をそっちのけで読んでいるのが、十一通目の手紙だった。差出人はすべてシュメルヒである。
ハビエルに「我儘」を言って、ヨアンの食事係をもう一度だけさせて貰えるよう、エセル王妃を通して頼み込んだ。
王妃は少し考えた後、例の上の空、といった顔つきで「今度、あたくしの茶会に出席してくれる? それなら、ギヨムに言っておいてあげる」と交換条件を出した。
「茶会……」
「あたくしの親しい知り合いを招いて開くお茶会。お料理も出すけど、食べたくなければ口を付けなくてもいい。気楽でしょう? どう?」
イレニアにもそうした習慣はあった。茶会と聞けば気楽だが、要は人脈づくりや、水面下での情報収集のために要人物や配偶者が集う会で、政治的な要素も皆無ではない。シュメルヒでもそれくらいは分かるが、前世でも自分の殻に閉じこもっていたため、具体的に何を話すのかまでは分からない。正直、気が重い。
「……わかりました。その、あまり期待はしないでください。こういうことに不慣れで」
「知ってる。慣れておくのが貴方のためよ。上手く立ち回って。味方を作るの」
「味方……」
「誰が敵で味方なのか、見極める訓練をしなくてはね」
「王妃様は味方ですか」
エセル王妃は面白がるような顔をした。
「さあ。決めるのは貴方。誰かに耳障りの良いことを言われても鵜呑みにしないことね。それに、たとえ味方でなくても、こうして取引したらお互い望むものが手に入る。そういう関係性の作り方もある」
エセル王妃は扇の先でシュメルヒの胸元を突いた。
「ヨアンによろしく。偽物の神官さん」
つい昨日、めそめそと泣いていた姿と打って変わって豪胆だ。
(もしや、あれは同情を引くための演技……)
シュメルヒは罠にかかった羽虫の気分を味わったが、学びもあった。
望みのものを得るために、時には交渉が必要だ。そのためには、相手をよく知る必要がある。エセル王妃は、シュメルヒが何であればどこまで受容できるか、見極めて交換条件を持ち出してきていた。
茶会に招くのは、内外にシュメルヒと懇意だと知らしめるため。いずれはシュメルヒの後を引き継いだナーシャとの関係も見越しているのだろう。きっと、彼女はシュメルヒが思うよりずっと強かだ。
(ヨアン様の役に立ちたいなら、私も身に付けなくてはならない)
他人との間に線を引いて安心しているようでは、もう駄目なのだ。
そういうわけで、シュメルヒは偽神官として、一日のうち一度、こうしてヨアンの元に通っていた。もう一度だけという約束が、あと一回、もう一回の延びたのには理由がある。ヨアンの様子だ。
祈りに神経を使うせいか、あまり眠れていないようだ。こんな環境下では当たり前だ。通常の植物を暗所に放置すると、陽の光を浴びれず、水をやってもやがて枯れてしまう。人間とて同じだ。
ヨアンの目の下の隈。青白い頬を見ていられず、自分の分の食事から肉やスープを分けて持ってくるようにした。給仕はハビエルだけだから、周囲に知られる心配はない。
持ち込んだのはそれだけではなかった。手紙だ。
シュメルヒは藤籠に手紙を忍ばせ、ヨアンに渡した。そのまま、ぼろを出す前に退散しようとしたら、ヨアンに呼び止められ目の前で手紙を読まれる羽目になってしまった。これは実に恥ずかしかった。
「誰かから手紙をもらうのは初めてだ……」
(初めての相手が私とは……役不足で申し訳ない)
シュメルヒも、ジュール以外に手紙を書いたのは初めてだ。といっても、季節の変わり目の挨拶など形式に則ったもので、用向きもない手紙など書いたことがない。何を書けばいいか分からず、うんうん悩んで夜通し紙を無駄にした挙句、やっと数行書けた。
「あれ、終わり? 嘘だろ、三行だけって。しかも、『ヨアン様へ。よく眠れていますか。寒くありませんか。今朝は残さず食べました。明日も残さず食べます』って……」
ヨアンが他に何も書かれていないのかと、羊皮紙をパタパタひっくり返しながら、シュメルヒを睨んだ。
「お前、僕が怒ってるってシュメルヒに伝えたんじゃないだろうな」
シュメルヒは必死に首を横に振った。
「嘘吐け!……どう見ても僕に叱られるのが怖くて書いてるだろ。というか、っ、ふ、くっ、ふはッ、なんだよこの文章、子どもだってもっとましなのが書けるぞ」
ハハハ、とヨアンが堪え切れない様子で笑い出した。暗い空間に高らかな笑いが反響している。しばらくの間、腹を押さえて笑い続けていた。シュメルヒは藤籠からスープの入った器を取り出し、ヨアンに差し出した。
「なんだよ、いい加減笑ってないで食べろって?」
シュメルヒは頷いた。平静を装っているが、冷たい仮面の下で、顔は真っ赤であった。まさか読み上げられると思わなかったし、こんなに笑いの種にされるのも予想外だった。
「変な神官。お前、名前は?」
シュメルヒは口を押える仕草をした。
「ああ、喋れない決まりだっけ? でもお前、今してる事も規則違反だからな。まあ、僕も他言しないけど」
ヨアンはスープを平らげてから、パンを千切って口に運んだ。
「呼びづらいから、お前のことは、そうだな……ナギって呼ぶことにする。由来が知りたいか?」
シュメルヒは首を傾げた。知らなくても不都合はなさそうだ。
「お前、そういう時はあるって言っておけよ。世渡りの下手な奴だと思われるぞ」
年下のヨアンに処世を説教されてしまった。なんだかシュメルヒを前にしたヨアンと、目の前のヨアンは雰囲気が異なっていて、不思議な感じだ。ヨアンはヨアンであるのに。
「妃の誕生祝に馬を贈るんだ。メール地方で生まれた仔馬で、珍しい青い目をしてる。親馬も気性が大人しいから、妃でも乗れると思う。たぶん。練習すれば、おそらく」
シュメルヒが仮面の下で驚いているのも知らず、ヨアンはふと心配になったようにこちらを見た。
「名前はナギ。東洋の言葉で、風のない静かな湖面を指すんだって。似てるだろ? シュメルヒの目みたいだと思って名付けたんだ。……気に入ると思うか?」
シュメルヒは肯定も否定も出来なかった。胸が詰まって、悲しいだとか嬉しいだとか、はっきり表現できる感情の名前は何ひとつ浮かんでこなかった。ただ、どうしていいか分からなかった。
誕生日を祝われたのは初めてだった。誕生を祝われた時、どんな顔をして、何を言えばいいのだろう。
「そういう時は嘘でも気に入るって言うんだよ。はあ。お前は馬鹿正直みたいだから、きっと出世できないな」
また呆れられてしまった。文句を言う割に、ヨアンはどこか嬉しそうだ。
「なあ、明日もまた来る?」
考える前に頷いていた。ヨアンは「ふうん」と気のない風に返事をした。
「また、妃から手紙が来るかな」
これにも頷く。ヨアンは呆れた顔をした。
「なんでそこにも頷くんだよ……シュメルヒが決めることだろ」
そうして通算十二日目。ヨアンは十一通目の手紙を読み上げていた。伝書鳩役の「ナギ」にも聞かせてやろうという気配りなのか、ヨアンは毎度口に出して読む。正直、やめてほしい。
「『ヨアン様へ。お籠りが十二日を過ぎ、残すところあと半分ほどとなりました。あと少しでヨアン様とお会いできると思うと待ち遠しく感じます。ナギからヨアン様のご様子を伺いました。つつがなく祈りが満ちていること、喜ばしく存じます。今日は雨曇りでしたので、四阿でアンヌとハビエルと三人、お茶会の練習をいたしました。エセル王妃様のお茶会がもうすぐですので、少し緊張いたします。王妃様は『お茶くらいで緊張しているようでは晩餐会では卒倒するわよ』と励ましてくださいます。ハビエルは『なぜ雨の日にわざわざ外で』と渋りましたが、私は雨音が好きで、雨の匂いも好きなのです。最近、知りました。先日、ヨアン様に好きなものを教えるよう言われましたので、色々と考えておりました。好きなこと、好きな色、好きな食べ物……なにも浮かばず困りましたが、考え続けていると、ふとした時に答えが水滴のように降ってくることがございます。今朝は雨が好きだと気付いたので、嬉しくて外に出て参りました。ヨアン様に手紙を書くのも好きです。青蛙が跳ねて紅茶の中に飛び込んでしまいました。蛙は嫌いです』……唐突に終わるのは相変わらずだな」
ヨアンはため息を吐いて、何度も文面を目で行ったり来たりして、たまに微笑んだりしていた。
「母上の茶会に行くって、本当だっだのか。……励まされてるのか、これ」
シュメルヒは林檎の皮を剥いて皿に美しく並べると、ヨアンの前に置いた。切る間だけ付けていた手袋を外す。植物を使った実験をしていたため、刃物で切ったりするのは得意だ。皿の上には細かい切込みでウサギの形にした林檎が乗っている。
「器用だな。シュメルヒには絶対できなさそうだ。たぶん、自分の指を何本か切り落とすと思う」
「……」
シュメルヒは無言の抗議をしたが、兎の林檎を感心したように眺めるヨアンは気付かなかった。
「シュメルヒの言葉は口に出しても文字にしても、嘘がなくて子どもみたいだ。外見と全然違う」
(それは、外見が嘘にまみれて見える、と……?)
「あ、誤解だから。ナギが思ってるような意味で言ったんじゃない。シュメルヒは、つまり……すごく綺麗で、隙が無くて、大人びて見えるけど、中身は子どもみたいだってことだ」
(誉め言葉になっていません、ヨアン様……)
「……好きなもの、もっと増えたらいいな」
ヨアンが手紙の上の文字をなぞりながら言った。
「シュメルヒが好きなものも嫌いなものも、オスロで見つかるといい」
好きなもの、嫌いなものを知る度、何かの扉を少しづつ開いている心地がした。そこに大した意味がなくても、ヨアンがそう言ってくれるのが嬉しかった。
世界が色づいていくような感覚があった。次の手紙には、そのことを書いてみようと思う。
ヨアンがシャリ、と林檎をかじった。
「ま、文章の練習はもうちょっとした方がよさそうだけど」
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