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生涯の思い出
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エセル王妃の茶話会での出来事は、三日後の正午には貴族たちの間で話題の的となった。
シュメルヒはハビエルから聞いて知ったのが、それほど大事とも思ってはいなかった。所詮は、ただの茶話会の一幕である。人は噂好きだが、他に興味を引く話題があればそちらへ移ろう。しばらくすれば、みんな忘れてしまうだろう。
もっとも、良いこともあった。
リーデラという親しい知人ができたことだ。あれから、リーデラは夫に伴われて登城した折、シュメルヒを訪ねてくれる。もちろん、手作りの菓子を携えて。ふたりで菓子を食べ、リーデラと夫の馴れ初めや、夫婦生活を聞くのは新鮮で楽しい。リーデラと夫も貴族の多分に漏れず政略結婚だが、夫婦仲は良いようだ。リーデラは読書家で、シュメルヒが勉学のために読んでいた本だけでなく、流行の小説にも詳しかった。
何冊か、おすすめの小説を貸し出してくれたりもした。眠る前に少しづつ読みふけり、ヨアンの手紙に感想を書き綴った。歳の近い話し相手はジュール以来だったが、リーデラにはジュールとは異なる居心地の良さがあった。
彼女はシュメルヒの好奇心を歓迎し、「君は知らなくていい」「メルには難しいから、やめた方がいい」とは決して口にしなかった。彼女の口癖は「面白そうですわ。できるか分からないけれど、一緒にやってみませんこと?」だった。
おかげでシュメルヒは、はじめて料理というものをし、細心の注意を払って手こそ切らなかったが、代わりに鍋の底を焦がして怒ったハビエルに摘まみ出された。
城内の馬小屋に行き、馬の世話をする馬丁の仕事を側で見学したりもした。その時はリーデラに目の前で乗馬を見せてもらい、コツを教わった。
(ヨアン様が戻られたら、乗馬を見て頂こう)
「『リーデラ夫人は乗馬が達者で、いつか私もああして乗れるようになれたらと思います。それから夫人が勧めてくれた小説ですが、昨晩驚きの展開を迎えて、興奮して夜更かしを』……一行につき一回、リーデラの名前が出てくるんだけど」
ヨアンが不機嫌な声で言い、パサッと手紙を半分に折った。
(まだ全部読んでない……)
シュメルヒは偽神官の仮面の奥で口を尖らせ、折られた紙を抜き取ってもう一度ヨアンに押し付けた。
「なんだよ。最後まで読めって? お前、本当に偉そう……いいよ、読むから」
ヨアンは渋々続きに目を落としたが、しばらくしてため息とともに紙を閉じた。
「……最後の文章に三回リーデラが出てきた」と、鬱々と報告した。
(ヨアン様はリーデラ夫人がお嫌いなのか?……もう会わない方がいいのだろうか)
「違う。妃に話し相手ができたのは良いことだよ」
心を読んだようにヨアンが答える。
「ただ、僕の名前より多く出てくるのが、ちょっと……いや、なんでもない」
なんでもなくない顔だったが、ヨアンはそれ以上を語らず話題を移した。
「シュメルヒの黒色の装い、見たかったな。それに、母上と話してる姿が想像もつかない。あのふたり、ぜんぜん似てないのに何を話すんだろう」
心底不思議そうだった。シュメルヒは茶話会の委細は手紙に記さなかった。神官の振りをしている時は喋れないし、ヨアンが戻ったら話すつもりだ。
「……<水の祈り>はもうすぐ終わる。やっとだ。シュメルヒも手紙に書いてる。あと二晩だって」
月を一巡するまでが、儀式。それもうすぐ明けるのだ。やっと、神官ではなくシュメルヒとして、ヨアンとまた過ごすことができる。
「やっとまたお会いできるのが嬉しいって書いてある。僕に会えなくて寂しかったって……普通はこんな明け透けに書くもんじゃない。慎みがないと思われる」
シュメルヒは驚いて固まった。
(そうなのか? そんな……思ったまま書いただけなのに)
あわあわするシュメルヒに、ヨアンがぷっと噴き出した。
「だからなんでお前が慌ててるんだよ。……いいよ別に。シュメルヒはその方がいい」
ヨアンがそう言うなら、お言葉に甘えてもいいだろうか。会いたかったのは本当である。今だって「会って」はいるのだが。
「ずっと暗い場所にいるせいか、発作も起きなかった。身体の痛みもない」
ヨアンはこぶしを握ったり開いたりを繰り返した。
「ここは不気味な場所だけど、それだけは良かったかも……妃があの馬鹿げた治療を止めさせてくれたおかげかもしれないけど」
氷水を使った「治療」のことだ。ヨアンの体力を削るだけだと、進言してよかった。少しでもヨアンが楽になったのなら、よそから来て侍医に口出しする厄介人物だと思われてもなんてことない。
「儀式が終わったら、妃と過ごす時間を増やそうと思うんだ」
(本当ですか?)
ヨアンの気まぐれを真に受けると、また「約束はしてない」と意地悪を言われるかもしれないが……そうと分かってもこの瞬間は嬉しい。
「ナギが人を乗せるくらい大きくなるにはまだ時間があるから、手綱を引いて、城の外を散策するのもいいな。市場に行ったり。城の中しか知らないのは退屈だろ。オスロを見せてやったら、寂しい気持ちがましになるかもしれない」
(寂しい? 寂しいのはヨアン様と会えないからで、オスロを見せていただけるのは嬉しいですが……)
シュメルヒの疑問を、ヨアンはいつものように仮面越しにくみ取っていく。
「普通は輿入れする時ひとりも従者を付けないなんであり得ないのに、妃はたった一人で来ただろ。キリアスが、妃は郷愁の念を感じてるんじゃないかって。知り合いが誰もいなくて、心細い思いをしてるんじゃないか」
シュメルヒはヨアンの言葉を咀嚼し、しばらくして、ある事実に思い当たった。
(私はオスロに来てから、イレニアで過ごした十八年よりずっと多く他人と会話しているような気がする……)
ハビエル、アンヌ、イルミナ、エレオノーラ、キリアス、リーデラ……そして、ヨアン。一日の会話量もそれに比例して、いつの間にか随分と増えた。今ではもう、誰かと他愛ない会話をしながら時を過ごす、ということが自分の中で当たり前になっているのだ。祖国を忘れたことはないが、「イレニアが恋しい、寂しい」と感じる隙間なんてなかった。
自覚していなかったが、これはすごく、すごい事ではないだろうか。
(凄い発見をしてしまった……明日のお手紙にはこのことを記そう)
発見を伝えたい相手がいるということも、すごい事だ。少なくとも自分にとっては、青天の霹靂である。
(ああ、もどかしいっ、ヨアン様に伝えたいのに)
神官のままでは無理だ。早くシュメルヒとしてヨアンと話したい。
(ヨアン様。私は寂しくありません。少なくとも、ヨアン様が思うような理由では)
残念なことに、こればかりはヨアンもくみ取ってくれなかった。
「儀式が済んだら、ナギとも会えないな。名前も知らないし、仮面の下の素顔を知らないから、外で会ってもナギだと分からない」
あえて名前を聞こう、だとか、声を掛けろと言わないのがヨアンらしいと思った。ここで会うだけの関係だと割り切っているから、ある意味ここまで親密になれたのだ。外に出れば、下っ端の神官に構って序列を乱すようなことは避けた方がいい。ヨアンはそういう線引きを心得ているように見えた。
「手紙を運んでくれてありがとう。話し相手……は、僕が独り言を言ってただけだけど、聞き役になってくれて気が紛れた」
ヨアンはそう言って手を差し出した。シュメルヒは一瞬硬直した。
「ほら、握手くらいいいだろ。もう会えないんだから」
気楽な調子で言うが、シュメルヒは今、手袋をしていない。この状態で他人に触れることを、まだ自分に許していない。それも、シュメルヒだと気付いていないヨアンに触れるのは、騙しているのと同じ事ではないか……。
「なんだ、握手が嫌いなのか。違う? なら何が気になるんだ? ……もう、いいから手を貸して」
咄嗟に手を取ろうとするヨアンから逃げてしまい、ヨアンがぱちりと瞬きした。一方でシュメルヒも、仮面の下で冷や汗をかいている。
(これは……違うんです、ヨアン様。決して、ヨアン様と握手するのが嫌なわけではなくっ、なので、なので……そんな目で見ないでください)
猫が獲物を見つけて目を細めるような顔である。
「ナギ、お前……そういうのはちょっとどうかと思うぞ?」
ヨアンは突然シュメルヒの手首を袖の上から掴んで動きを封じると、強引に手を握った。シュメルヒの胸中は当然、心臓が飛び出しそうになっている。
(ああああぁあ)
「潔癖症か何か知らないけど、一応僕は次期国王だぞ。我慢しろ」
シュメルヒは酸欠を起こしそうになった。
(触ってしまった。ヨアン様に。……ああ)
汗をかいていないだろうか。ヨアンのシュメルヒより小さな、意外にも長く節のある指。血の通った、生きた肌の感触。
未知の感情がこみ上げてきて、喉から変な声が出てしまいそうだった。
ヨアンはシュメルヒの恐慌を知らず、悪戯を成功させた子供の顔でにやりと笑うと、あっさりと手を解放した。
「どうだ? 一生の思い出になっただろ」
冗談めかして言うが、シュメルヒは言葉通り受け取った。文字通り、「生涯の思い出」になると思った。
ヨアンの感触が残る手を握り込んで胸元に引き寄せると、こくりと頷いた。
「いや、冗談だよ」
ヨアンが呆れたようにそう言ったが、シュメルヒは首を横に振った。一生忘れずにいよう、と思った。
神官のナギとしてヨアンとの「お別れ」も済ませた。あとは儀式の終わりを迎えるだけだ。
(ナギとして知った事柄は、ヨアン様の前で口走らないよう気を付けなくては)
これはハビエルに口を酸っぱくして言われたことだった。特に誕生日の贈り物については。
「シュメルヒ様……あのですね、そういうのは気付いても知らない振りをするもんなんです。嬉しいのは分かりますが俺に報告しなくていいですから」と呆れられてしまった。つい嬉しくてハビエルに話してしまったのだが、分かち合うような内容ではなかったらしい。またひとつ学んだ。
◆
その夜、シュメルヒはとろとろと眠気を感じつつも、夢うつつの狭間を泳いでいた。そう、泳いでいた。青々とした水中を漂っている。頭上からは光が差し込み、水は暖かく、汚れなく美しかった。
心地よく腰から下の尾ひれを動かし自由に水を掻いていると、ふと、頭上からの光が途絶え、辺りは真っ暗になってしまった。真っ暗でも「見る」ことは出来たが、水温も冷え切り、さっきまでの居心地の良さはどこかへ行ってしまった。
切なくなって辺りを見回すと、何かが浮かんでいるのが見えた。
それは白っぽい服を着ていて、二本脚をだらんと投げ出したまま、水中を浮遊している。シュメルヒは興味をひかれて、そちらへ泳いだ。傍へ寄ると、それが人間だと分かった。黒髪の、まだ若い少年だ。薄目を開けて、瞼の下から濁った緑の眼球が見える。半開きの唇から、こぷっと気泡が漏れ出て行った。
悲しい気持ちになって、ゆっくり少年の頬に手を伸ばした。冷たい肌に触れる寸前、勢いよく手首を掴まれる。
少年の目が見開かれ、シュメルヒを凝視しながら「助けて」と叫んだ。
——ヨアン様っ!
自分の叫び声で目が覚めた。大きく息継ぎし、寝台の上で喘ぐ。シュメルヒは胸を掻きむしって上体を起こすと、荒い呼吸を繰り返した。
「夢、夢だ……今のは夢」
言い聞かせると、徐々に拍動が落ち着いてくる。苦しかった。今の夢はなんだったのか。あれは、ヨアンだったのか。
思い出そうとすると、細部が曖昧だ。ヨアンだったような、そうでないような……自信がなくなっていく。
(池で見た怪物の夢……だがさっきは、私自身が怪物だった……?)
人でないものになって、水中を自在に泳いでいたような、そうでないような……分からない。
「心配ない……儀式は明日の晩には終わる」
言い聞かせるように呟いてみるが、結局、その晩は一睡もできず、不安を抱えて朝を迎えた。
シュメルヒの交流関係が広がり始めたのを契機に、一日の大半を自室に閉じこもって過ごすことはなくなっていった。自分でも意外なことに、他人と話したり、共に時間を過ごしたりすることは、気疲れも募る一方で、やはり楽しく興味深かった。中には相変わらず<毒持ち>として敬遠されたり怖がられたりすることもあったが、それもシュメルヒアが抱いていた予想より、蓋を開けて見れば少なかった。悪意を向けられても、それ自体が刃となって身体に傷をつけるわけではない。受け取り手が自ら傷を付ける方が多いのだ、ということも学んだ。
好意も悪意も、シュメルヒは水鏡を通すように注意深く観察し、愛でていた。そうすることで波風のない水面だと思っていた王宮内の派閥が水面下で足を蹴りあっている事にも気付いていたが、ひとまずはどっちつかずのまま、敵味方の別なく人々を観察し続けていた。植物実験をする時と同じ目をして、シュメルヒは彼らからも多くを吸収していった。
そして、月が一巡した日の午后。
シュメルヒは王宮内から忽然と姿を消した。
シュメルヒはハビエルから聞いて知ったのが、それほど大事とも思ってはいなかった。所詮は、ただの茶話会の一幕である。人は噂好きだが、他に興味を引く話題があればそちらへ移ろう。しばらくすれば、みんな忘れてしまうだろう。
もっとも、良いこともあった。
リーデラという親しい知人ができたことだ。あれから、リーデラは夫に伴われて登城した折、シュメルヒを訪ねてくれる。もちろん、手作りの菓子を携えて。ふたりで菓子を食べ、リーデラと夫の馴れ初めや、夫婦生活を聞くのは新鮮で楽しい。リーデラと夫も貴族の多分に漏れず政略結婚だが、夫婦仲は良いようだ。リーデラは読書家で、シュメルヒが勉学のために読んでいた本だけでなく、流行の小説にも詳しかった。
何冊か、おすすめの小説を貸し出してくれたりもした。眠る前に少しづつ読みふけり、ヨアンの手紙に感想を書き綴った。歳の近い話し相手はジュール以来だったが、リーデラにはジュールとは異なる居心地の良さがあった。
彼女はシュメルヒの好奇心を歓迎し、「君は知らなくていい」「メルには難しいから、やめた方がいい」とは決して口にしなかった。彼女の口癖は「面白そうですわ。できるか分からないけれど、一緒にやってみませんこと?」だった。
おかげでシュメルヒは、はじめて料理というものをし、細心の注意を払って手こそ切らなかったが、代わりに鍋の底を焦がして怒ったハビエルに摘まみ出された。
城内の馬小屋に行き、馬の世話をする馬丁の仕事を側で見学したりもした。その時はリーデラに目の前で乗馬を見せてもらい、コツを教わった。
(ヨアン様が戻られたら、乗馬を見て頂こう)
「『リーデラ夫人は乗馬が達者で、いつか私もああして乗れるようになれたらと思います。それから夫人が勧めてくれた小説ですが、昨晩驚きの展開を迎えて、興奮して夜更かしを』……一行につき一回、リーデラの名前が出てくるんだけど」
ヨアンが不機嫌な声で言い、パサッと手紙を半分に折った。
(まだ全部読んでない……)
シュメルヒは偽神官の仮面の奥で口を尖らせ、折られた紙を抜き取ってもう一度ヨアンに押し付けた。
「なんだよ。最後まで読めって? お前、本当に偉そう……いいよ、読むから」
ヨアンは渋々続きに目を落としたが、しばらくしてため息とともに紙を閉じた。
「……最後の文章に三回リーデラが出てきた」と、鬱々と報告した。
(ヨアン様はリーデラ夫人がお嫌いなのか?……もう会わない方がいいのだろうか)
「違う。妃に話し相手ができたのは良いことだよ」
心を読んだようにヨアンが答える。
「ただ、僕の名前より多く出てくるのが、ちょっと……いや、なんでもない」
なんでもなくない顔だったが、ヨアンはそれ以上を語らず話題を移した。
「シュメルヒの黒色の装い、見たかったな。それに、母上と話してる姿が想像もつかない。あのふたり、ぜんぜん似てないのに何を話すんだろう」
心底不思議そうだった。シュメルヒは茶話会の委細は手紙に記さなかった。神官の振りをしている時は喋れないし、ヨアンが戻ったら話すつもりだ。
「……<水の祈り>はもうすぐ終わる。やっとだ。シュメルヒも手紙に書いてる。あと二晩だって」
月を一巡するまでが、儀式。それもうすぐ明けるのだ。やっと、神官ではなくシュメルヒとして、ヨアンとまた過ごすことができる。
「やっとまたお会いできるのが嬉しいって書いてある。僕に会えなくて寂しかったって……普通はこんな明け透けに書くもんじゃない。慎みがないと思われる」
シュメルヒは驚いて固まった。
(そうなのか? そんな……思ったまま書いただけなのに)
あわあわするシュメルヒに、ヨアンがぷっと噴き出した。
「だからなんでお前が慌ててるんだよ。……いいよ別に。シュメルヒはその方がいい」
ヨアンがそう言うなら、お言葉に甘えてもいいだろうか。会いたかったのは本当である。今だって「会って」はいるのだが。
「ずっと暗い場所にいるせいか、発作も起きなかった。身体の痛みもない」
ヨアンはこぶしを握ったり開いたりを繰り返した。
「ここは不気味な場所だけど、それだけは良かったかも……妃があの馬鹿げた治療を止めさせてくれたおかげかもしれないけど」
氷水を使った「治療」のことだ。ヨアンの体力を削るだけだと、進言してよかった。少しでもヨアンが楽になったのなら、よそから来て侍医に口出しする厄介人物だと思われてもなんてことない。
「儀式が終わったら、妃と過ごす時間を増やそうと思うんだ」
(本当ですか?)
ヨアンの気まぐれを真に受けると、また「約束はしてない」と意地悪を言われるかもしれないが……そうと分かってもこの瞬間は嬉しい。
「ナギが人を乗せるくらい大きくなるにはまだ時間があるから、手綱を引いて、城の外を散策するのもいいな。市場に行ったり。城の中しか知らないのは退屈だろ。オスロを見せてやったら、寂しい気持ちがましになるかもしれない」
(寂しい? 寂しいのはヨアン様と会えないからで、オスロを見せていただけるのは嬉しいですが……)
シュメルヒの疑問を、ヨアンはいつものように仮面越しにくみ取っていく。
「普通は輿入れする時ひとりも従者を付けないなんであり得ないのに、妃はたった一人で来ただろ。キリアスが、妃は郷愁の念を感じてるんじゃないかって。知り合いが誰もいなくて、心細い思いをしてるんじゃないか」
シュメルヒはヨアンの言葉を咀嚼し、しばらくして、ある事実に思い当たった。
(私はオスロに来てから、イレニアで過ごした十八年よりずっと多く他人と会話しているような気がする……)
ハビエル、アンヌ、イルミナ、エレオノーラ、キリアス、リーデラ……そして、ヨアン。一日の会話量もそれに比例して、いつの間にか随分と増えた。今ではもう、誰かと他愛ない会話をしながら時を過ごす、ということが自分の中で当たり前になっているのだ。祖国を忘れたことはないが、「イレニアが恋しい、寂しい」と感じる隙間なんてなかった。
自覚していなかったが、これはすごく、すごい事ではないだろうか。
(凄い発見をしてしまった……明日のお手紙にはこのことを記そう)
発見を伝えたい相手がいるということも、すごい事だ。少なくとも自分にとっては、青天の霹靂である。
(ああ、もどかしいっ、ヨアン様に伝えたいのに)
神官のままでは無理だ。早くシュメルヒとしてヨアンと話したい。
(ヨアン様。私は寂しくありません。少なくとも、ヨアン様が思うような理由では)
残念なことに、こればかりはヨアンもくみ取ってくれなかった。
「儀式が済んだら、ナギとも会えないな。名前も知らないし、仮面の下の素顔を知らないから、外で会ってもナギだと分からない」
あえて名前を聞こう、だとか、声を掛けろと言わないのがヨアンらしいと思った。ここで会うだけの関係だと割り切っているから、ある意味ここまで親密になれたのだ。外に出れば、下っ端の神官に構って序列を乱すようなことは避けた方がいい。ヨアンはそういう線引きを心得ているように見えた。
「手紙を運んでくれてありがとう。話し相手……は、僕が独り言を言ってただけだけど、聞き役になってくれて気が紛れた」
ヨアンはそう言って手を差し出した。シュメルヒは一瞬硬直した。
「ほら、握手くらいいいだろ。もう会えないんだから」
気楽な調子で言うが、シュメルヒは今、手袋をしていない。この状態で他人に触れることを、まだ自分に許していない。それも、シュメルヒだと気付いていないヨアンに触れるのは、騙しているのと同じ事ではないか……。
「なんだ、握手が嫌いなのか。違う? なら何が気になるんだ? ……もう、いいから手を貸して」
咄嗟に手を取ろうとするヨアンから逃げてしまい、ヨアンがぱちりと瞬きした。一方でシュメルヒも、仮面の下で冷や汗をかいている。
(これは……違うんです、ヨアン様。決して、ヨアン様と握手するのが嫌なわけではなくっ、なので、なので……そんな目で見ないでください)
猫が獲物を見つけて目を細めるような顔である。
「ナギ、お前……そういうのはちょっとどうかと思うぞ?」
ヨアンは突然シュメルヒの手首を袖の上から掴んで動きを封じると、強引に手を握った。シュメルヒの胸中は当然、心臓が飛び出しそうになっている。
(ああああぁあ)
「潔癖症か何か知らないけど、一応僕は次期国王だぞ。我慢しろ」
シュメルヒは酸欠を起こしそうになった。
(触ってしまった。ヨアン様に。……ああ)
汗をかいていないだろうか。ヨアンのシュメルヒより小さな、意外にも長く節のある指。血の通った、生きた肌の感触。
未知の感情がこみ上げてきて、喉から変な声が出てしまいそうだった。
ヨアンはシュメルヒの恐慌を知らず、悪戯を成功させた子供の顔でにやりと笑うと、あっさりと手を解放した。
「どうだ? 一生の思い出になっただろ」
冗談めかして言うが、シュメルヒは言葉通り受け取った。文字通り、「生涯の思い出」になると思った。
ヨアンの感触が残る手を握り込んで胸元に引き寄せると、こくりと頷いた。
「いや、冗談だよ」
ヨアンが呆れたようにそう言ったが、シュメルヒは首を横に振った。一生忘れずにいよう、と思った。
神官のナギとしてヨアンとの「お別れ」も済ませた。あとは儀式の終わりを迎えるだけだ。
(ナギとして知った事柄は、ヨアン様の前で口走らないよう気を付けなくては)
これはハビエルに口を酸っぱくして言われたことだった。特に誕生日の贈り物については。
「シュメルヒ様……あのですね、そういうのは気付いても知らない振りをするもんなんです。嬉しいのは分かりますが俺に報告しなくていいですから」と呆れられてしまった。つい嬉しくてハビエルに話してしまったのだが、分かち合うような内容ではなかったらしい。またひとつ学んだ。
◆
その夜、シュメルヒはとろとろと眠気を感じつつも、夢うつつの狭間を泳いでいた。そう、泳いでいた。青々とした水中を漂っている。頭上からは光が差し込み、水は暖かく、汚れなく美しかった。
心地よく腰から下の尾ひれを動かし自由に水を掻いていると、ふと、頭上からの光が途絶え、辺りは真っ暗になってしまった。真っ暗でも「見る」ことは出来たが、水温も冷え切り、さっきまでの居心地の良さはどこかへ行ってしまった。
切なくなって辺りを見回すと、何かが浮かんでいるのが見えた。
それは白っぽい服を着ていて、二本脚をだらんと投げ出したまま、水中を浮遊している。シュメルヒは興味をひかれて、そちらへ泳いだ。傍へ寄ると、それが人間だと分かった。黒髪の、まだ若い少年だ。薄目を開けて、瞼の下から濁った緑の眼球が見える。半開きの唇から、こぷっと気泡が漏れ出て行った。
悲しい気持ちになって、ゆっくり少年の頬に手を伸ばした。冷たい肌に触れる寸前、勢いよく手首を掴まれる。
少年の目が見開かれ、シュメルヒを凝視しながら「助けて」と叫んだ。
——ヨアン様っ!
自分の叫び声で目が覚めた。大きく息継ぎし、寝台の上で喘ぐ。シュメルヒは胸を掻きむしって上体を起こすと、荒い呼吸を繰り返した。
「夢、夢だ……今のは夢」
言い聞かせると、徐々に拍動が落ち着いてくる。苦しかった。今の夢はなんだったのか。あれは、ヨアンだったのか。
思い出そうとすると、細部が曖昧だ。ヨアンだったような、そうでないような……自信がなくなっていく。
(池で見た怪物の夢……だがさっきは、私自身が怪物だった……?)
人でないものになって、水中を自在に泳いでいたような、そうでないような……分からない。
「心配ない……儀式は明日の晩には終わる」
言い聞かせるように呟いてみるが、結局、その晩は一睡もできず、不安を抱えて朝を迎えた。
シュメルヒの交流関係が広がり始めたのを契機に、一日の大半を自室に閉じこもって過ごすことはなくなっていった。自分でも意外なことに、他人と話したり、共に時間を過ごしたりすることは、気疲れも募る一方で、やはり楽しく興味深かった。中には相変わらず<毒持ち>として敬遠されたり怖がられたりすることもあったが、それもシュメルヒアが抱いていた予想より、蓋を開けて見れば少なかった。悪意を向けられても、それ自体が刃となって身体に傷をつけるわけではない。受け取り手が自ら傷を付ける方が多いのだ、ということも学んだ。
好意も悪意も、シュメルヒは水鏡を通すように注意深く観察し、愛でていた。そうすることで波風のない水面だと思っていた王宮内の派閥が水面下で足を蹴りあっている事にも気付いていたが、ひとまずはどっちつかずのまま、敵味方の別なく人々を観察し続けていた。植物実験をする時と同じ目をして、シュメルヒは彼らからも多くを吸収していった。
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Kanade
BL
✯オメガバース
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お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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✻本作品(オリジナル)の結末をif(運命の番)ルートに入れ替えて、他サイトでの投稿を始めました。タイトルは「一度目の結婚で愛も希望も失くした僕が、移住先で運命と出逢い、二度目の結婚で愛されるまで」に変えてます。
オリジナルの本編結末は完全なハッピーエンドとはいえないかもしれませんが、「一度目の〜…」は琳が幸せな結婚をするハッピーエンド一択です。
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