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ご無事でよかった…
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シュメルヒは足早に地下へ伸びる階段を駆け下りていった。今は目を瞑っていても足を踏み外すことはない。無我夢中で走り落り、次の段を踏もうとした時、愕然と足元を見下ろした。
水が、階段の途中までせり上がっていた。
「あり得ないっ、……ヨアン様⁉」
水位が上がっている。しかも猛烈な速さで今も上昇してきている。耳を澄ますまでもなく、遠くから近くから、轟音が聞こえた。迸る水が水面にぶつかる音だ。
ヨアンの返事はない。この高さまで水が上がっているということは、ヨアンのいた離れ小島は沈んでいる……。ゾッと悪寒がした。シュメルヒは一瞬の迷いの後、上着を脱ぎ捨て、薄衣一枚になると、水の中に飛び込んだ。
昨晩の夢は池で見た白昼夢と同じくらいに生々しく、水の中で呼吸した時の言葉にできない感覚まで残っていた。だから、見過ごせなかった。じりじりと時間が過ぎる中、ついにハビエルが起床を促しに来るのを待たずに、部屋を抜け出す。裸足のまま、まだ朝靄の立ち込める中庭を突っ切り、大聖堂の裏手にある小屋へ。
そして慣れた足取りで地下に下りたシュメルヒが目にした光景は、書物の中で目にした単語……「洪水」を思い起こさせた。
泳ぎは得意ではない。というか、乗馬訓練と同じ理由で嗜んで来なかったから、正真正銘、生まれて初めて沐浴以外で水に浸かっている。がむしゃらに水を掻いているが、進んでいるのか後退しているのが、同じ場所でただ藻掻いているだけなのかあやしい。浮いたり沈んだりしながら、ヨアンを探して壁伝いに水を掻きわけていると、突然上から腕を掴まれ、引っ張られた。
「……っ⁉ なにしてるんだ!」
「ヨ、アン様っ、げほっ、っ、ごぶじ」
「無事じゃないのはそっちだろ! 上がれるかっ⁉ 引っ張るから、そっちの手も伸ばせ!」
何とかもう一方の手も伸ばし、ヨアンがぐいっと掴み、引っ張る。思いのほか強い力だった。肩が痛くなるほどだ。シュメルヒの身体が、水の浮力を借りて何とか上に押し上げられる。
突き出た岩の先端だった。上部に取り付けられた松明がかろうじて辺りを照らしているが、それももうすぐ水に吞まれそうだった。
岩の先端は狭く、ふたり分の身体が乗らない。ヨアンはシュメルヒを引き上げると、自分は水に落ち、腕を投げ出すようにして岩に掴まった。二人ともびしょ濡れだった。
「っ、ヨアン様」
「なんでここにいるんだよ。どこから入ってきた?」
「……ナギに道を聞いて、それで、あの……嫌な予感がして、様子を見に」
ヨアンはわけが分からないという顔をしていた。シュメルヒも、苦しい言い訳だと思う。だが今はそれどころではない。
「これは一体、どういうことでしょう。この水はどこから来ているのですか? なぜ突然こんな事に? 壁が崩落したのですか?」
「……分からないよ。いきなり物凄い音がして、壁の一部が崩れた、んだと思う。水位が上がって、あっという間にこうなった。……誰かに言って来たのか?」
シュメルヒはさっと青ざめた。そうだった。いつものように人目を避けてここへ来た。誰かを連れてくるべきだった。
「申し訳ございません、誰にもっ、……すみません、私のせいで」
「落ち着け。大丈夫だから、深呼吸して。……儀式の決まりを知ってて来たんだろ。だったら、人を呼べなくても当然だ。妃のせいじゃない」
「ヨアン様……」
「来た道が分かるか? 僕が入って来た道は駄目だ、どうしてか扉が開かなくなってる。神官が使う道は別にあるから、そっちから外へ出ようとしたけど、道が分からない」
シュメルヒは手首を縛る麻縄を掲げた。
「途中から結び付けておいたので、紐を辿れば何とか地下階段まで行けるかと」
「……凄いな!……こうなるって知ってたみたいだ」
ヨアンの言葉にふたりは顔を見合わせ、シュメルヒは慌てて目を逸らした。
「水音がしたのでもしやと思ったのです。こんな事になっているなんて知らなくて」
「うん、でもおかげで二人とも助かりそうだ」
ヨアンがシュメルヒの二の腕に触れ、大丈夫だと励ますように揺すった。
「溺れる前に行こう。泳げそうか?」
「はい。紐はヨアン様が持っていてください」
もしものことがあれば、ヨアンが紐を辿って外に出れるように。だが紐を解こうとした時、ヨアンが止めた。
「妃が来なければ道が分からなくてどのみち溺れ死んでた。だから逆は駄目だ。妃が紐を持ってて」
シュメルヒが反論しようとしたのを遮って、ヨアンが場違いな明るい声を出した。
「あ、そうだ。手紙、読んだよ」
「ヨアン様、今それどころでは」
「最初のは酷い出来だったけど、最近のは結構マシになってた」
「……」
「僕がいない間に色々あったんだなって思ったよ。僕以外に話し相手がいなくて引き籠ってると思ったのに、吃驚だ」
「……ヨアン様」
ヨアンはにやりと、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。これは何か辛辣なことを言われるぞ、と状況も忘れて身構えたシュメルヒは聞こえてきた言葉に耳を疑った。
「妃はすごいよ。僕はあんな風に、自分から何かを変えられない。……君は、すごいな」
シュメルヒは呆気に取られ、紐を押し付けようとした手から力が抜けてしまった。ヨアンは気を引き締めるようにシュメルヒの膝頭を叩いた。
「行こう。松明の明かりがあるうちに、急ごう」
幸いにも、と言っても良いのか。地下階段へと続く回廊はすぐに見つかり、支柱を頼りに息を継ぎながら、時に頭を水に潜らせながら泳ぎ進んだ。とても長い時間に思えたが、実際はそうでもなかったかもしれない。
離れ離れにならないよう、ヨアンとお互いの無事を確認し合いながら進む。ようやく前方に階段の段差が見えた時は、安堵のあまり涙が零れそうだった。
(良かった、これでヨアン様を無事に帰せる……!)
「ヨアン様、もうすぐ出口に着きます!」
ヨアンの顔にもホッとした表情が浮かんだ。その時、シュメルヒの目はヨアンの背後に何かを捉えた。安堵を浮かべていた顔から笑みがすうっと消えていく。ヨアンも自分の背後に向けられた視線に気付いた。
ハッとして水の中で振り返った瞬間、ヨアンの身体が勢いよく水中に引きずり込まれた。
「ヨアン様っ!」
◆
ごぼごぼと口から酸素が溢れでていく。気管に水が入り、目の前が朦朧とする。意識が遠のいた時、「ヨアン様っ!」という叫び声を聞いた気がした。
無我夢中で腰のベルトに差した短剣を掴み、胴体に絡みついた「それ」目掛けて振り下ろす。何度も、何度も。赤黒い液体が噴き出し、水が染まっていった。
息が続かない。限界だ。拘束が緩まったが、身体が水の中を沈んでいく。薄っすら開けた目を上に向けると、暗くて見えないはずの水中で、何かが白っぽく輝いた。それが長い髪だと気付いた時、力を無くして沈んでいく途中だったヨアンの腕が、強く捕まれた。
「っぷは、ヨアン様、ヨアン様っ、しっかり」
シュメルヒは腕の中のヨアンを抱き寄せ、頭を支えながら呼びかけた。目が開かない。濡れた頬を叩いた。
「起きてください、ヨアン様! 聞こえてるんですかっ、……『起きろっ』!」
咄嗟にイレニア語で怒鳴りながら、ひときわ強くヨアンの頬を叩く。パシッと音が響き、ヨアンが唸った、と思ったら、ゲホゲホと咽ながら水を吐いた。
「ああ、良かった、ヨアン様っ」
背中を支えながら、ヨアンの頭を肩に凭れさせる。シュメルヒの背中で水を吐き出しながら、ヨアンはぐったりした。
「……いま、すごい、強くぶたれた気が」
「気のせいです。お気が付かれて良かったです。とにかく、階段に上がりましょう。まだ水が上がってきていませんから、これでもう大丈夫ですよ」
ヨアンを抱えたまま何とか階段に乗り上げると、下を見下ろした。水面に赤黒い液体が広がっている。
「……さっきの、見た?」
「……はい。一瞬のことでしたが、黒い、魚か蛇のような鱗が……あれは、外から水と一緒に流れ込んだのでしょうか」
「違う。たぶん、さいしょからずっとここにいたんだと思う」
ヨアンは仰向けになって、胸を大きく上下させていた。ぐったりしたまま、シュメルヒの袖を引っ張った。
「ありがとう……助かった」
「いいえ。お礼には及びません。ご無事でよかった……」
言葉にして、改めて実感がこみ上げてきた。ヨアンが水中に引きずり込まれた時は、もう終わりだと思った。助けるためだとか、そんなことは抜きにして、シュメルヒの頭にあったのは「後を追いたい」という破滅的な衝動だった。
衝動に従った結果ヨアンを水中から引き上げることができたが、それはヨアン自身の「運命」だ。シュメルヒに礼を言ってもらう資格はない。
濡れて張り付いたヨアンの前髪を指でよけた時、ある事実に気付いて慄然とした。
「申し訳ございませんっ、今まで素手でヨアン様に触れておりましたッ」
手袋が片方なかった。そのことにたった今気づいたのだ。
慌てて引っ込めようとした手を、ヨアンが掴んで自身の胸の上に置いた。
「ヨアン様、お放しくださいっ」
「いいよ、もう……今更だし。それになんともないだろ? 普通の手だよ……ん」
ヨアンが何かに気付いたように、震える中指の爪の横を触った。少し考える素振りで「いや、でも」と呟き、シュメルヒの顔と手を見比べる。ヨアンが躊躇いがちに何かを言いかけた時、階段の先、水の底へつながる際から飛沫をあげて黒い塊が這い出てきた。
今度こそ、姿がはっきりと露わになった。
大きい。そして長い。黒い鱗と、頭、胴体、同の横から突き出た四本の脚。巨大な蜥蜴とも、鰐ともつかない……ゆっくり開いた口は大人の頭がすっぽりと入ってしまいそうだ。赤々とした口内に、鋭い牙が並んでいた。わき腹から流れた体液が赤黒く、階段を上るごとに段差を汚していく。
呆然とするシュメルヒの腕を掴んで立たせ、ヨアンは「走れ!」と叫んだ。
水が、階段の途中までせり上がっていた。
「あり得ないっ、……ヨアン様⁉」
水位が上がっている。しかも猛烈な速さで今も上昇してきている。耳を澄ますまでもなく、遠くから近くから、轟音が聞こえた。迸る水が水面にぶつかる音だ。
ヨアンの返事はない。この高さまで水が上がっているということは、ヨアンのいた離れ小島は沈んでいる……。ゾッと悪寒がした。シュメルヒは一瞬の迷いの後、上着を脱ぎ捨て、薄衣一枚になると、水の中に飛び込んだ。
昨晩の夢は池で見た白昼夢と同じくらいに生々しく、水の中で呼吸した時の言葉にできない感覚まで残っていた。だから、見過ごせなかった。じりじりと時間が過ぎる中、ついにハビエルが起床を促しに来るのを待たずに、部屋を抜け出す。裸足のまま、まだ朝靄の立ち込める中庭を突っ切り、大聖堂の裏手にある小屋へ。
そして慣れた足取りで地下に下りたシュメルヒが目にした光景は、書物の中で目にした単語……「洪水」を思い起こさせた。
泳ぎは得意ではない。というか、乗馬訓練と同じ理由で嗜んで来なかったから、正真正銘、生まれて初めて沐浴以外で水に浸かっている。がむしゃらに水を掻いているが、進んでいるのか後退しているのが、同じ場所でただ藻掻いているだけなのかあやしい。浮いたり沈んだりしながら、ヨアンを探して壁伝いに水を掻きわけていると、突然上から腕を掴まれ、引っ張られた。
「……っ⁉ なにしてるんだ!」
「ヨ、アン様っ、げほっ、っ、ごぶじ」
「無事じゃないのはそっちだろ! 上がれるかっ⁉ 引っ張るから、そっちの手も伸ばせ!」
何とかもう一方の手も伸ばし、ヨアンがぐいっと掴み、引っ張る。思いのほか強い力だった。肩が痛くなるほどだ。シュメルヒの身体が、水の浮力を借りて何とか上に押し上げられる。
突き出た岩の先端だった。上部に取り付けられた松明がかろうじて辺りを照らしているが、それももうすぐ水に吞まれそうだった。
岩の先端は狭く、ふたり分の身体が乗らない。ヨアンはシュメルヒを引き上げると、自分は水に落ち、腕を投げ出すようにして岩に掴まった。二人ともびしょ濡れだった。
「っ、ヨアン様」
「なんでここにいるんだよ。どこから入ってきた?」
「……ナギに道を聞いて、それで、あの……嫌な予感がして、様子を見に」
ヨアンはわけが分からないという顔をしていた。シュメルヒも、苦しい言い訳だと思う。だが今はそれどころではない。
「これは一体、どういうことでしょう。この水はどこから来ているのですか? なぜ突然こんな事に? 壁が崩落したのですか?」
「……分からないよ。いきなり物凄い音がして、壁の一部が崩れた、んだと思う。水位が上がって、あっという間にこうなった。……誰かに言って来たのか?」
シュメルヒはさっと青ざめた。そうだった。いつものように人目を避けてここへ来た。誰かを連れてくるべきだった。
「申し訳ございません、誰にもっ、……すみません、私のせいで」
「落ち着け。大丈夫だから、深呼吸して。……儀式の決まりを知ってて来たんだろ。だったら、人を呼べなくても当然だ。妃のせいじゃない」
「ヨアン様……」
「来た道が分かるか? 僕が入って来た道は駄目だ、どうしてか扉が開かなくなってる。神官が使う道は別にあるから、そっちから外へ出ようとしたけど、道が分からない」
シュメルヒは手首を縛る麻縄を掲げた。
「途中から結び付けておいたので、紐を辿れば何とか地下階段まで行けるかと」
「……凄いな!……こうなるって知ってたみたいだ」
ヨアンの言葉にふたりは顔を見合わせ、シュメルヒは慌てて目を逸らした。
「水音がしたのでもしやと思ったのです。こんな事になっているなんて知らなくて」
「うん、でもおかげで二人とも助かりそうだ」
ヨアンがシュメルヒの二の腕に触れ、大丈夫だと励ますように揺すった。
「溺れる前に行こう。泳げそうか?」
「はい。紐はヨアン様が持っていてください」
もしものことがあれば、ヨアンが紐を辿って外に出れるように。だが紐を解こうとした時、ヨアンが止めた。
「妃が来なければ道が分からなくてどのみち溺れ死んでた。だから逆は駄目だ。妃が紐を持ってて」
シュメルヒが反論しようとしたのを遮って、ヨアンが場違いな明るい声を出した。
「あ、そうだ。手紙、読んだよ」
「ヨアン様、今それどころでは」
「最初のは酷い出来だったけど、最近のは結構マシになってた」
「……」
「僕がいない間に色々あったんだなって思ったよ。僕以外に話し相手がいなくて引き籠ってると思ったのに、吃驚だ」
「……ヨアン様」
ヨアンはにやりと、いつもの意地悪な笑みを浮かべた。これは何か辛辣なことを言われるぞ、と状況も忘れて身構えたシュメルヒは聞こえてきた言葉に耳を疑った。
「妃はすごいよ。僕はあんな風に、自分から何かを変えられない。……君は、すごいな」
シュメルヒは呆気に取られ、紐を押し付けようとした手から力が抜けてしまった。ヨアンは気を引き締めるようにシュメルヒの膝頭を叩いた。
「行こう。松明の明かりがあるうちに、急ごう」
幸いにも、と言っても良いのか。地下階段へと続く回廊はすぐに見つかり、支柱を頼りに息を継ぎながら、時に頭を水に潜らせながら泳ぎ進んだ。とても長い時間に思えたが、実際はそうでもなかったかもしれない。
離れ離れにならないよう、ヨアンとお互いの無事を確認し合いながら進む。ようやく前方に階段の段差が見えた時は、安堵のあまり涙が零れそうだった。
(良かった、これでヨアン様を無事に帰せる……!)
「ヨアン様、もうすぐ出口に着きます!」
ヨアンの顔にもホッとした表情が浮かんだ。その時、シュメルヒの目はヨアンの背後に何かを捉えた。安堵を浮かべていた顔から笑みがすうっと消えていく。ヨアンも自分の背後に向けられた視線に気付いた。
ハッとして水の中で振り返った瞬間、ヨアンの身体が勢いよく水中に引きずり込まれた。
「ヨアン様っ!」
◆
ごぼごぼと口から酸素が溢れでていく。気管に水が入り、目の前が朦朧とする。意識が遠のいた時、「ヨアン様っ!」という叫び声を聞いた気がした。
無我夢中で腰のベルトに差した短剣を掴み、胴体に絡みついた「それ」目掛けて振り下ろす。何度も、何度も。赤黒い液体が噴き出し、水が染まっていった。
息が続かない。限界だ。拘束が緩まったが、身体が水の中を沈んでいく。薄っすら開けた目を上に向けると、暗くて見えないはずの水中で、何かが白っぽく輝いた。それが長い髪だと気付いた時、力を無くして沈んでいく途中だったヨアンの腕が、強く捕まれた。
「っぷは、ヨアン様、ヨアン様っ、しっかり」
シュメルヒは腕の中のヨアンを抱き寄せ、頭を支えながら呼びかけた。目が開かない。濡れた頬を叩いた。
「起きてください、ヨアン様! 聞こえてるんですかっ、……『起きろっ』!」
咄嗟にイレニア語で怒鳴りながら、ひときわ強くヨアンの頬を叩く。パシッと音が響き、ヨアンが唸った、と思ったら、ゲホゲホと咽ながら水を吐いた。
「ああ、良かった、ヨアン様っ」
背中を支えながら、ヨアンの頭を肩に凭れさせる。シュメルヒの背中で水を吐き出しながら、ヨアンはぐったりした。
「……いま、すごい、強くぶたれた気が」
「気のせいです。お気が付かれて良かったです。とにかく、階段に上がりましょう。まだ水が上がってきていませんから、これでもう大丈夫ですよ」
ヨアンを抱えたまま何とか階段に乗り上げると、下を見下ろした。水面に赤黒い液体が広がっている。
「……さっきの、見た?」
「……はい。一瞬のことでしたが、黒い、魚か蛇のような鱗が……あれは、外から水と一緒に流れ込んだのでしょうか」
「違う。たぶん、さいしょからずっとここにいたんだと思う」
ヨアンは仰向けになって、胸を大きく上下させていた。ぐったりしたまま、シュメルヒの袖を引っ張った。
「ありがとう……助かった」
「いいえ。お礼には及びません。ご無事でよかった……」
言葉にして、改めて実感がこみ上げてきた。ヨアンが水中に引きずり込まれた時は、もう終わりだと思った。助けるためだとか、そんなことは抜きにして、シュメルヒの頭にあったのは「後を追いたい」という破滅的な衝動だった。
衝動に従った結果ヨアンを水中から引き上げることができたが、それはヨアン自身の「運命」だ。シュメルヒに礼を言ってもらう資格はない。
濡れて張り付いたヨアンの前髪を指でよけた時、ある事実に気付いて慄然とした。
「申し訳ございませんっ、今まで素手でヨアン様に触れておりましたッ」
手袋が片方なかった。そのことにたった今気づいたのだ。
慌てて引っ込めようとした手を、ヨアンが掴んで自身の胸の上に置いた。
「ヨアン様、お放しくださいっ」
「いいよ、もう……今更だし。それになんともないだろ? 普通の手だよ……ん」
ヨアンが何かに気付いたように、震える中指の爪の横を触った。少し考える素振りで「いや、でも」と呟き、シュメルヒの顔と手を見比べる。ヨアンが躊躇いがちに何かを言いかけた時、階段の先、水の底へつながる際から飛沫をあげて黒い塊が這い出てきた。
今度こそ、姿がはっきりと露わになった。
大きい。そして長い。黒い鱗と、頭、胴体、同の横から突き出た四本の脚。巨大な蜥蜴とも、鰐ともつかない……ゆっくり開いた口は大人の頭がすっぽりと入ってしまいそうだ。赤々とした口内に、鋭い牙が並んでいた。わき腹から流れた体液が赤黒く、階段を上るごとに段差を汚していく。
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