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てっきり、嫌われているとばかり
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シュメルヒが目を開けると、明るい日の差し込む自室の寝台の上だった。日の入りの具合からして、とっくに昼を過ぎているようだ。シュメルヒは上体を起こして、ぼんやりと目を泳がせる。
「おはよう」
ヨアンが枕元の椅子に座り、こちらを見ていた。
「ヨアン様…‥」
「ぼうっとしてるけど、起きるの待った方がいい?」
「いえ、申し訳ありません、このような恰好で……ヨアン様はいつからそこに」
「昼前から。妃がずっと寝てて退屈だったから、手紙読んでた」
「はぁ、お手紙を……」
「最後のはまだ書き途中だったんだろ? 書き物机に置いてあったから、勝手に読んでる」
そう言われて、やっと「手紙」とは自分の書いたものを指すのだと気付いた。最後の手紙は渡しそびれて、ヨアンの言う通り机の上に置きっぱなしだったのだ。
「いけません、ヨアン様。人のものを勝手に読んでは」
「僕宛だから、勝手に読もうがどうしようがいいんだよ」
そういう問題だろうか。シュメルヒなぼんやりしながら、「いや、やっぱり駄目だろう」と思い直した。
「ヨアン様宛ですが、まだ渡していないのですから私の物です」
「……頑固だな。いいよ、もう読み終わってるから。最後まで書いたら渡して」
シュメルヒは釈然としなかったが、ヨアンらしいなと思った。ともあれ、久々にヨアンの声を聞いた気がして、胸の奥が暖かい。ヨアンとは暗い地下でしか会っていなかあったから、明るい場所でお顔を見れるのがうれし……。
「ヨアン様」
「ん?」
「……ヨアン様!」
「うるさい。あと急に起き上るな。また貧血で倒れるから」
「お怪我はありませんか⁉」
ヨアンはひく、と頬を引き攣らせて無理矢理笑顔を作った。
「僕の話を聞けよ」
ご無事だ。怪我も見当たらない……助かったのだ。
シュメルヒは気が抜けたあまりぐすっと洟を鳴らした。ヨアンはハンカチをシュメルヒの顔に押し付け、涙を拭う。言葉とは裏腹に、酷く優しい手つきだった。そう、言葉とは裏腹に。
どうやらヨアンは、これまでもいくらか取り繕っていた仮面を外し、思う様存分に本来の性格をさらけ出すことにしたらしい。シュメルヒに向かう言葉に、一切の遠慮が無くなっている。その契機となったのが、あの地下での、くち……「蛮行」であることは、さすがのシュメルヒにも察しがついた。
シュメルヒはヨアンの「蛮行」を思い出して青くなったり赤くなったりしたが、ヨアンはシュメルヒが何を思い出しているのか全部承知のうえで、知らん顔をしていた。
「ヨアン様、その……儀式は終わったのですか。あの生物はどうなったのです」
「儀式は、なんというか……成功したのか失敗したのか、今審理中だ」
「審理……」
それはどういうことなのか。まさか、あの怪物が関係している? だが、怪物が現れる前に、ヨアンは祈りを重ねて、祭壇には証拠となる玉石が生成されていたはず。シュメルヒもこの目で見ていたから、確かだ。
「何から話したらいいんだろう」
ヨアンが首を捻る。
シュメルヒは記憶の中でヨアンの唇が、舌が、自分のそれに触れて、舐めて、濡れた音を立てるのを思い出してしまい、ぶるりと震えた。
(あれは夢か?……夢なら……だけど手に傷がある……夢でないとしたら、私は、なんてこと……ああ)
仮妃は、夜伽を禁じられていない。むしろその逆で、初夜の儀を交わしたのだから、正妃が嫁ぐまでは、王が他の相手に目移りしないよう、関心を引いておくことが求められる。そのための「中継ぎ」なのだ。
シュメルヒが<毒持ち>の体質だったため、夜伽をしない……できないのであって、本来はシュメルヒの方からヨアンを篭絡する努力をしなくてはならない。
(しかし、ヨアン様は私をお嫌いなはずで、毒も怖いと仰っていたから……ならどうしてあんなこと……?)
「……から、……聞いてる?」
(ヨアン様はあの時、何かに怒っているようだった……私を罰するために、わざとあんな真似を? あり得る。ヨアン様ならそれくらいのこと、私を虐めるためにしそうだ……いや待て、あまりに捨て身過ぎる。もし毒に当たりでもしたら……毒。そういえば、どうしてあの時、ヨアン様は平気だったのだろう……)
ヨアンが言うように、唾液は血液ほど毒が濃くないから? 本当にそうだろうか。確かめたことなどないから、そうなのかもしれないが……だとしてもヨアンの行動は危険すぎた。それほどまでに、あの時怒っていらしたということか。
シュメルヒが一番避けてきたことを無理やりして脅そうとするくらいに。
「なあって……妃!」
「え……? あ、はい、ヨアン様」
「またぼんやりしてた。具合が悪いのか? なら、少し休むといい。僕は後でまた来るから」
「いいえ、ヨアン様。大丈夫です。少し、その、思い出そうとしていただけなのです、すみません」
「思い出す……ああ、あれか」
シュメルヒはビクッと震えたが、ヨアンは何食わぬ顔で言った。
「君の血を貰って短剣であの怪物を突き刺したのは憶えてる。そこから先が曖昧なんだ。でもふたりとも生きてるってことは、君の血に助けられたのは間違いない」
「私の血に」
「助けられたのは二度目だ。大聖堂の時も、妃の血が襲撃者を撃退してくれたから助かった……あの時はろくに礼を言わないままだったけど……ごめん、ありがとう」
シュメルヒは驚いて、ただただ首を横に振るばかりだった。
(お礼を言われた……この身体に流れる毒のことで、ヨアン様にお礼を……)
「それで、今から話すのはお籠りの間に何が起きたかだけど……」
トクトクと心臓を高鳴らせるシュメルヒに気付かず、ヨアンの話は<祈りの儀式>のはじまりに戻った。
お籠りをはじめたその晩に、わけの分からない異形の怪物に襲われたこと。はじめ、それはとても小さく、小魚くらいの大きさしかなかった。祭壇に掛けられていた短刀で突きさすと、跡形もなくなり、後には例の祈りで精製されるという青い玉石が転がっていた。それからというもの、何度も何度も異形のものは祭壇のある離れ小島を襲ってきたが、回を重ねるごとに、その身体はどんどん大きく、凶暴になっていった。
「だから、お身体に切り傷や打撲があったのですね」
「信じるのか? こんな荒唐無稽な話を? 儀式が失敗した言い訳だって、皆が言ったのに」
シュメルヒは眉を顰めた。誰だ、その「皆」というのは。許し難い。全員にこんこんとヨアンの真実を訴えて回りたい。
「信じます。私だってヨアン様と同じく、あの異形を見ていますし。たとえ見ていなくてもヨアン様が仰るのでしたら信じます。どんな馬鹿げた話であろうとも」
「……妃はあの時も僕が仮病じゃないって、一人だけ信じてくれたな」
あれは……二度目の人生だから『知っていた』に過ぎないのだが。だが今は、ヨアンを信じる。それは紛れもない本心だった。
「毎日怪我をしながらおひとりであれらの生き物を迎え撃っていたなんて……お辛かったでしょう」
「うん……ナギから聞いて薬を届けてくれただろ? ありがとう」
「ナギに真実を言ってくださればよかったのです。そうしたら」
「そうしたら? 助けに来た? 儀式を中断なんてできない。前例がないんだ。それに、神官たちは多分この事を知ってる。今までもオスロの歴史でお籠り中に死んだ王族なんていなかったし、続けるしかなかったんだ」
と、ヨアンは少しだけ表情を明るくした。
「妃がくれた手紙を寝る前に何度も読んだ。大したことは書かれてないし、最初の頃なんて文字は綺麗なのに文章が滅茶苦茶なのが可笑しくて……あんな場所で、いつ不気味な生き物が襲ってくるか分からない状況でも、妃のおかげで笑えたんだ」
「……そんなに拙かったでしょうか。形式上の手紙しか書いたことがないのです」
「僕が初めての文通相手ってこと?」
「はい……申し訳ないのですが、そうなります」
ヨアンは「なんで謝るんだよ」と呆れた。
「こっちは返事も出せないのに毎回毎回、飽きもせずに変な文章で書いてくるんだから。赤いインクがあったら添削してあげたのに残念だな。紙が真っ赤に埋まるくらい直してやったのに」
……意地悪だ。しかし口から出る言葉と裏腹にヨアンの目は優しく、寝台の上のシュメルヒを見つめて微笑んでいた。
「僕のいない間に他人と関わることにしたんだな。あんなに他人を避けて、触るな近づくな、って感じだったのに」
「そんなこと……」
あったかもしれない。今だって細心の注意を払わなければいけないという思いはあるが、ヨアンの言う通り、以前ほど他人と接することに対して、びくびく怯えてはいない気がする。エレオノーラに言われて、今まで他人を遠ざけてきたのが、「他人の安全を守るため」という免罪符をかさに着た、ある種の「甘え」だと気付いてしまったためでもあった。
いや、気付かせてくれたのはエレオノーラだけではない。ハビエルも、シュメルヒが受け流してきただけで、ずっとそれらしいことは伝えてくれていたのだ。何よりヨアンが、シュメルヒの引いた線を踏みつけ、厭いながらも布越しに歩み寄ってくれた。
「ヨアン様のおかげです」
「僕はいなかっただろ。ずっと地下に篭ってたんだから」
「違うのです、そうではなくて……」
上手く伝えられない。シュメルヒが口籠っていると、ヨアンが「いいよ」と頷いた。
「妃が黙る時は、困ってるか、何か考えてる途中の時だろ。今は考えてるってことくらい分かる。待ってるから」
驚いてヨアンを見つめ返すと、深い森の緑と視線がぶつかる。
どうしてか、脳裏をよぎったのはジュールの紫の瞳だった。元婚約者は、今のヨアンと同じくらいの歳の時、シュメルヒが言葉を途切れさせると『メルの考えはこうだよね。僕にはちゃんと分ってるよ』と、会話を引き取ってくれた。
だからシュメルヒは、ただ頷いてそれ以上の言葉を探すのを止めた。内心で違うと思っても、ジュールに向かって「それは違う」と指摘するのが怖かったのだ。嫌われてしまうと、無意識に恐れていた。今にして思えば、シュメルヒはジュールと本音で向き合ったことが果たしてあっただろうか。彼に甘えて、意思疎通を放棄してはいなかったか。
ヨアン様は……ヨアン様は。
(意地悪なのに、こうしてお優しいから……困る)
「ヨアン様が私に接してくださったから、少しづつ慣れたのです。ヨアン様の手紙に色々なことを書きたいのに、いざ筆をとると何も思い浮かばなくて情けなくて。だから、毎日部屋の外に出て探したのです」
「手紙に書くことを?」
「はい。その日あったことを書くためには、その日何かをしないといけないですから」
真面目に返すと、ヨアンがぷっと吹き出した。
「そんな動機だったなんて思わなかった。たかが手紙のためにこれまでの生き方を変えるなんて、…‥妃はやっぱり変わってるな」
言われてみれば、確かに。ヨアンはしばらく肩を揺らして笑っていたが、やがて「変わってるけど面白いから嫌いじゃない」と告げた。
その言葉に、シュメルヒは目を瞠った。
「てっきり、私をお嫌いなのだとばかり……」
「は? なんでだよ」
「だって……」
ヨアンが言ったのだ。「妃のこと、好きじゃない」と。あれは庭園でのことだった。大聖堂で負った怪我が完治したシュメルヒの元へ、ヨアンがやってきて『仲直り』のしるしにと、摘んだ花をくれたのだ。ハビエルは萎れた花を見て憤慨していたが、シュメルヒは花をもらうのなんて初めてのことで、ただただ嬉しかった。
「言ったっけ……ごめん、覚えてない」
大事な思い出のひとつなのに、あっさり「ごめん」で済まされるなんて。シュメルヒは自分でも意外なことに、ヨアンに対して「酷い」と不満を抱いた。
「い、言いました。四阿で初めてお茶をご一緒した時です、私に花をくださったではありませんか」
「ご一緒って言っても妃は何も飲んでないし食べてなかったじゃ、……あ」
「覚えてらっしゃるではありませんかっ」
ヨアンはばつが悪そうに視線を逸らした。
「忘れてると思ったのに」
「忘れません。ヨアン様に薔の花を頂いて、嬉しくて……押し花の栞にして今でも大事にとっております」
ヨアンはますます暗い顔で、ついには頭を抱えてしまった。
「……忘れていいよ。次は別のもっと綺麗な花を束にして摘んできてあげるから、なかった事にしてくれ」
「嫌です。覚えていたいです」
「そういうところは頑固だな!」
思い出は多い方がいい。いずれ会えなくなるなら、できるだけたくさん集めて、記憶の宝箱に大事に仕舞っておきたい。いつでも取り出して眺められるように。
ヨアンはため息を吐いた。
「妃が嫌味で言ってるわけじゃないのは分かるけど……もういい、わかったよ。好きにして」
ヨアンは、「僕が悪いんだし……いや、でも、いつか挽回を」とぶつぶつ呟いていた。シュメルヒにはなぜヨアンが「忘れろ」というのか分からないが、譲れないものは譲れない。ヨアンにまつわる思い出は、シュメルヒだけの宝物なのだ。
あのさ、とヨアンが小さな声で言った。
「今更だけど。妃のこと、そこまで嫌いってわけじゃない。僕は……いい夫じゃないかもしれないけど、性格は少しでもましになるようこれから矯正するから、その……」
「ヨアン様?」
「……『長い目』で、君に男として好いてもらえるようにな、」
——ヨアンの言葉は、扉を叩く音によって遮られた。
「おはよう」
ヨアンが枕元の椅子に座り、こちらを見ていた。
「ヨアン様…‥」
「ぼうっとしてるけど、起きるの待った方がいい?」
「いえ、申し訳ありません、このような恰好で……ヨアン様はいつからそこに」
「昼前から。妃がずっと寝てて退屈だったから、手紙読んでた」
「はぁ、お手紙を……」
「最後のはまだ書き途中だったんだろ? 書き物机に置いてあったから、勝手に読んでる」
そう言われて、やっと「手紙」とは自分の書いたものを指すのだと気付いた。最後の手紙は渡しそびれて、ヨアンの言う通り机の上に置きっぱなしだったのだ。
「いけません、ヨアン様。人のものを勝手に読んでは」
「僕宛だから、勝手に読もうがどうしようがいいんだよ」
そういう問題だろうか。シュメルヒなぼんやりしながら、「いや、やっぱり駄目だろう」と思い直した。
「ヨアン様宛ですが、まだ渡していないのですから私の物です」
「……頑固だな。いいよ、もう読み終わってるから。最後まで書いたら渡して」
シュメルヒは釈然としなかったが、ヨアンらしいなと思った。ともあれ、久々にヨアンの声を聞いた気がして、胸の奥が暖かい。ヨアンとは暗い地下でしか会っていなかあったから、明るい場所でお顔を見れるのがうれし……。
「ヨアン様」
「ん?」
「……ヨアン様!」
「うるさい。あと急に起き上るな。また貧血で倒れるから」
「お怪我はありませんか⁉」
ヨアンはひく、と頬を引き攣らせて無理矢理笑顔を作った。
「僕の話を聞けよ」
ご無事だ。怪我も見当たらない……助かったのだ。
シュメルヒは気が抜けたあまりぐすっと洟を鳴らした。ヨアンはハンカチをシュメルヒの顔に押し付け、涙を拭う。言葉とは裏腹に、酷く優しい手つきだった。そう、言葉とは裏腹に。
どうやらヨアンは、これまでもいくらか取り繕っていた仮面を外し、思う様存分に本来の性格をさらけ出すことにしたらしい。シュメルヒに向かう言葉に、一切の遠慮が無くなっている。その契機となったのが、あの地下での、くち……「蛮行」であることは、さすがのシュメルヒにも察しがついた。
シュメルヒはヨアンの「蛮行」を思い出して青くなったり赤くなったりしたが、ヨアンはシュメルヒが何を思い出しているのか全部承知のうえで、知らん顔をしていた。
「ヨアン様、その……儀式は終わったのですか。あの生物はどうなったのです」
「儀式は、なんというか……成功したのか失敗したのか、今審理中だ」
「審理……」
それはどういうことなのか。まさか、あの怪物が関係している? だが、怪物が現れる前に、ヨアンは祈りを重ねて、祭壇には証拠となる玉石が生成されていたはず。シュメルヒもこの目で見ていたから、確かだ。
「何から話したらいいんだろう」
ヨアンが首を捻る。
シュメルヒは記憶の中でヨアンの唇が、舌が、自分のそれに触れて、舐めて、濡れた音を立てるのを思い出してしまい、ぶるりと震えた。
(あれは夢か?……夢なら……だけど手に傷がある……夢でないとしたら、私は、なんてこと……ああ)
仮妃は、夜伽を禁じられていない。むしろその逆で、初夜の儀を交わしたのだから、正妃が嫁ぐまでは、王が他の相手に目移りしないよう、関心を引いておくことが求められる。そのための「中継ぎ」なのだ。
シュメルヒが<毒持ち>の体質だったため、夜伽をしない……できないのであって、本来はシュメルヒの方からヨアンを篭絡する努力をしなくてはならない。
(しかし、ヨアン様は私をお嫌いなはずで、毒も怖いと仰っていたから……ならどうしてあんなこと……?)
「……から、……聞いてる?」
(ヨアン様はあの時、何かに怒っているようだった……私を罰するために、わざとあんな真似を? あり得る。ヨアン様ならそれくらいのこと、私を虐めるためにしそうだ……いや待て、あまりに捨て身過ぎる。もし毒に当たりでもしたら……毒。そういえば、どうしてあの時、ヨアン様は平気だったのだろう……)
ヨアンが言うように、唾液は血液ほど毒が濃くないから? 本当にそうだろうか。確かめたことなどないから、そうなのかもしれないが……だとしてもヨアンの行動は危険すぎた。それほどまでに、あの時怒っていらしたということか。
シュメルヒが一番避けてきたことを無理やりして脅そうとするくらいに。
「なあって……妃!」
「え……? あ、はい、ヨアン様」
「またぼんやりしてた。具合が悪いのか? なら、少し休むといい。僕は後でまた来るから」
「いいえ、ヨアン様。大丈夫です。少し、その、思い出そうとしていただけなのです、すみません」
「思い出す……ああ、あれか」
シュメルヒはビクッと震えたが、ヨアンは何食わぬ顔で言った。
「君の血を貰って短剣であの怪物を突き刺したのは憶えてる。そこから先が曖昧なんだ。でもふたりとも生きてるってことは、君の血に助けられたのは間違いない」
「私の血に」
「助けられたのは二度目だ。大聖堂の時も、妃の血が襲撃者を撃退してくれたから助かった……あの時はろくに礼を言わないままだったけど……ごめん、ありがとう」
シュメルヒは驚いて、ただただ首を横に振るばかりだった。
(お礼を言われた……この身体に流れる毒のことで、ヨアン様にお礼を……)
「それで、今から話すのはお籠りの間に何が起きたかだけど……」
トクトクと心臓を高鳴らせるシュメルヒに気付かず、ヨアンの話は<祈りの儀式>のはじまりに戻った。
お籠りをはじめたその晩に、わけの分からない異形の怪物に襲われたこと。はじめ、それはとても小さく、小魚くらいの大きさしかなかった。祭壇に掛けられていた短刀で突きさすと、跡形もなくなり、後には例の祈りで精製されるという青い玉石が転がっていた。それからというもの、何度も何度も異形のものは祭壇のある離れ小島を襲ってきたが、回を重ねるごとに、その身体はどんどん大きく、凶暴になっていった。
「だから、お身体に切り傷や打撲があったのですね」
「信じるのか? こんな荒唐無稽な話を? 儀式が失敗した言い訳だって、皆が言ったのに」
シュメルヒは眉を顰めた。誰だ、その「皆」というのは。許し難い。全員にこんこんとヨアンの真実を訴えて回りたい。
「信じます。私だってヨアン様と同じく、あの異形を見ていますし。たとえ見ていなくてもヨアン様が仰るのでしたら信じます。どんな馬鹿げた話であろうとも」
「……妃はあの時も僕が仮病じゃないって、一人だけ信じてくれたな」
あれは……二度目の人生だから『知っていた』に過ぎないのだが。だが今は、ヨアンを信じる。それは紛れもない本心だった。
「毎日怪我をしながらおひとりであれらの生き物を迎え撃っていたなんて……お辛かったでしょう」
「うん……ナギから聞いて薬を届けてくれただろ? ありがとう」
「ナギに真実を言ってくださればよかったのです。そうしたら」
「そうしたら? 助けに来た? 儀式を中断なんてできない。前例がないんだ。それに、神官たちは多分この事を知ってる。今までもオスロの歴史でお籠り中に死んだ王族なんていなかったし、続けるしかなかったんだ」
と、ヨアンは少しだけ表情を明るくした。
「妃がくれた手紙を寝る前に何度も読んだ。大したことは書かれてないし、最初の頃なんて文字は綺麗なのに文章が滅茶苦茶なのが可笑しくて……あんな場所で、いつ不気味な生き物が襲ってくるか分からない状況でも、妃のおかげで笑えたんだ」
「……そんなに拙かったでしょうか。形式上の手紙しか書いたことがないのです」
「僕が初めての文通相手ってこと?」
「はい……申し訳ないのですが、そうなります」
ヨアンは「なんで謝るんだよ」と呆れた。
「こっちは返事も出せないのに毎回毎回、飽きもせずに変な文章で書いてくるんだから。赤いインクがあったら添削してあげたのに残念だな。紙が真っ赤に埋まるくらい直してやったのに」
……意地悪だ。しかし口から出る言葉と裏腹にヨアンの目は優しく、寝台の上のシュメルヒを見つめて微笑んでいた。
「僕のいない間に他人と関わることにしたんだな。あんなに他人を避けて、触るな近づくな、って感じだったのに」
「そんなこと……」
あったかもしれない。今だって細心の注意を払わなければいけないという思いはあるが、ヨアンの言う通り、以前ほど他人と接することに対して、びくびく怯えてはいない気がする。エレオノーラに言われて、今まで他人を遠ざけてきたのが、「他人の安全を守るため」という免罪符をかさに着た、ある種の「甘え」だと気付いてしまったためでもあった。
いや、気付かせてくれたのはエレオノーラだけではない。ハビエルも、シュメルヒが受け流してきただけで、ずっとそれらしいことは伝えてくれていたのだ。何よりヨアンが、シュメルヒの引いた線を踏みつけ、厭いながらも布越しに歩み寄ってくれた。
「ヨアン様のおかげです」
「僕はいなかっただろ。ずっと地下に篭ってたんだから」
「違うのです、そうではなくて……」
上手く伝えられない。シュメルヒが口籠っていると、ヨアンが「いいよ」と頷いた。
「妃が黙る時は、困ってるか、何か考えてる途中の時だろ。今は考えてるってことくらい分かる。待ってるから」
驚いてヨアンを見つめ返すと、深い森の緑と視線がぶつかる。
どうしてか、脳裏をよぎったのはジュールの紫の瞳だった。元婚約者は、今のヨアンと同じくらいの歳の時、シュメルヒが言葉を途切れさせると『メルの考えはこうだよね。僕にはちゃんと分ってるよ』と、会話を引き取ってくれた。
だからシュメルヒは、ただ頷いてそれ以上の言葉を探すのを止めた。内心で違うと思っても、ジュールに向かって「それは違う」と指摘するのが怖かったのだ。嫌われてしまうと、無意識に恐れていた。今にして思えば、シュメルヒはジュールと本音で向き合ったことが果たしてあっただろうか。彼に甘えて、意思疎通を放棄してはいなかったか。
ヨアン様は……ヨアン様は。
(意地悪なのに、こうしてお優しいから……困る)
「ヨアン様が私に接してくださったから、少しづつ慣れたのです。ヨアン様の手紙に色々なことを書きたいのに、いざ筆をとると何も思い浮かばなくて情けなくて。だから、毎日部屋の外に出て探したのです」
「手紙に書くことを?」
「はい。その日あったことを書くためには、その日何かをしないといけないですから」
真面目に返すと、ヨアンがぷっと吹き出した。
「そんな動機だったなんて思わなかった。たかが手紙のためにこれまでの生き方を変えるなんて、…‥妃はやっぱり変わってるな」
言われてみれば、確かに。ヨアンはしばらく肩を揺らして笑っていたが、やがて「変わってるけど面白いから嫌いじゃない」と告げた。
その言葉に、シュメルヒは目を瞠った。
「てっきり、私をお嫌いなのだとばかり……」
「は? なんでだよ」
「だって……」
ヨアンが言ったのだ。「妃のこと、好きじゃない」と。あれは庭園でのことだった。大聖堂で負った怪我が完治したシュメルヒの元へ、ヨアンがやってきて『仲直り』のしるしにと、摘んだ花をくれたのだ。ハビエルは萎れた花を見て憤慨していたが、シュメルヒは花をもらうのなんて初めてのことで、ただただ嬉しかった。
「言ったっけ……ごめん、覚えてない」
大事な思い出のひとつなのに、あっさり「ごめん」で済まされるなんて。シュメルヒは自分でも意外なことに、ヨアンに対して「酷い」と不満を抱いた。
「い、言いました。四阿で初めてお茶をご一緒した時です、私に花をくださったではありませんか」
「ご一緒って言っても妃は何も飲んでないし食べてなかったじゃ、……あ」
「覚えてらっしゃるではありませんかっ」
ヨアンはばつが悪そうに視線を逸らした。
「忘れてると思ったのに」
「忘れません。ヨアン様に薔の花を頂いて、嬉しくて……押し花の栞にして今でも大事にとっております」
ヨアンはますます暗い顔で、ついには頭を抱えてしまった。
「……忘れていいよ。次は別のもっと綺麗な花を束にして摘んできてあげるから、なかった事にしてくれ」
「嫌です。覚えていたいです」
「そういうところは頑固だな!」
思い出は多い方がいい。いずれ会えなくなるなら、できるだけたくさん集めて、記憶の宝箱に大事に仕舞っておきたい。いつでも取り出して眺められるように。
ヨアンはため息を吐いた。
「妃が嫌味で言ってるわけじゃないのは分かるけど……もういい、わかったよ。好きにして」
ヨアンは、「僕が悪いんだし……いや、でも、いつか挽回を」とぶつぶつ呟いていた。シュメルヒにはなぜヨアンが「忘れろ」というのか分からないが、譲れないものは譲れない。ヨアンにまつわる思い出は、シュメルヒだけの宝物なのだ。
あのさ、とヨアンが小さな声で言った。
「今更だけど。妃のこと、そこまで嫌いってわけじゃない。僕は……いい夫じゃないかもしれないけど、性格は少しでもましになるようこれから矯正するから、その……」
「ヨアン様?」
「……『長い目』で、君に男として好いてもらえるようにな、」
——ヨアンの言葉は、扉を叩く音によって遮られた。
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これは、本人がただ美味しい野菜を作ってのんびり暮らしたいだけなのに、周囲からは「世界を救う大賢者」と崇められてしまう、無自覚・最強の農業ファンタジー!
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
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お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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✻本作品(オリジナル)の結末をif(運命の番)ルートに入れ替えて、他サイトでの投稿を始めました。タイトルは「一度目の結婚で愛も希望も失くした僕が、移住先で運命と出逢い、二度目の結婚で愛されるまで」に変えてます。
オリジナルの本編結末は完全なハッピーエンドとはいえないかもしれませんが、「一度目の〜…」は琳が幸せな結婚をするハッピーエンド一択です。
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