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第五章 王都からの招かれざる客
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一 平穏な日々と忍び寄る影
アルカディア公爵領の朝は、今日も天国のような静謐さに満ちていた。
窓を開ければ、清涼な湖を渡ってきた風が、部屋の隅々にまで清浄な空気の粒子を運んでくる。かつて東京の満員電車に揺られ、排気ガスと他人の苛立ちを吸い込んでいた日々が、今ではまるで遠い前世の悪夢のように感じられるほどだ。
私は管理人として、この王弟殿下の別荘を完璧に保つことに全霊を傾けていた。といっても、屋内は「福利厚生」のギルバートさんたちが文字通り神速で掃除してしまうため、私の主な仕事は、レオンハルト様の心身のサポートと、愛犬(?)ポチのお世話である。
「はい、レオンハルト様。今日のお茶は、庭で摘んだばかりのミントを少し効かせてみましたわ」
テラスの円卓に、私は温かいティーカップを置いた。
軽装の騎士服を纏ったレオンハルト様は、読みかけていた魔導書を閉じ、私を見てふっと目を細めた。その深紅の瞳には、かつて王宮の壁際で「背景」として立っていた時には決して見せなかった、穏やかで、けれど底の知れない執着の色が滲んでいる。
「……ありがとう、エリーゼ。君が淹れてくれるお茶は、どんな高価な霊薬よりも、俺の魂を癒やしてくれる」
彼は私の手を取り、指先に愛おしげに唇を寄せる。その動作が、最近ではすっかり当然のルーティンのようになっていた。私は「騎士様って、感謝の表現がとっても情熱的なのね」と、相変わらず能天気な解釈で顔を赤らめるだけだったが。
「グルル……」
足元では、私の膝の上という特等席を狙っていたポチが、不満げに喉を鳴らしている。
ポチは早くも、自分がレオンハルト様よりも「後回し」にされると、あからさまに不機嫌になるのだ。伝説の魔獣フェンリルとしての誇りはどこへやら、今の彼は完全に、飼い主の愛を独占したい「かまってちゃん」の仔犬そのものであった。
「あらポチ、やきもちかしら? 大丈夫よ、貴方の分のミルクも今持ってくるわね」
私が微笑みながらポチの頭を撫でると、ポチは勝ち誇ったように尾を振り、レオンハルト様をチラリと一瞥した。
その瞬間、二人の間に流れる空気は、私には見えない火花を散らして衝突する。
しかし、そんな平和な日常の裏側で、アルカディア公爵領を囲む神聖な結界の境界線が、不浄な気配によって揺らいでいた。
王都。
エリーゼ・フォン・ロッテが「騎士A」と共に失踪してから数日。
ロッテ伯爵家の屋敷では、怒りと焦燥によって理性を失った父、ロッテ伯爵が荒れ狂っていた。
「馬鹿な! あの地味で大人しいだけが取り柄のエリーゼが、鉄格子を壊して逃げ出すだと!? あれにそんな魔力があったなど、聞いておらんぞ!」
床には割れた酒瓶が散乱し、継母のベアトリクスは青ざめた顔で扇子を震わせていた。
彼らにとって、エリーゼは借金を完済するための貴重な「商品」だった。その商品が消えたということは、間もなく訪れるカトウェル侯爵への「納品」が不可能になったことを意味する。
そこへ、地響きのような重苦しい足音と共に、一人の男が現れた。
肉の重なりで首が埋もれ、欲深そうな小さな瞳をぎらつかせた男――「豚侯爵」ことカトウェル侯爵である。
「ロッテ伯爵、私の花嫁はどこだね? 明日には盛大な披露宴を準備させているのだがな。もし、私の面目を潰すようなことがあれば……貴様の家の借金など、一瞬で取り立ての刃に変わると思え」
「あ、ああ、侯爵閣下! 滅相もございません! すぐに、すぐに連れ戻させます! 私には心当たりがあるのです! あの娘、近衛の末端騎士と通じていたようです。……既に、領地の裏を熟知する賞金稼ぎと、腕利きの交渉人を差し向けました」
伯爵の言葉に、カトウェル侯爵は醜悪な笑みを浮かべた。
「いいだろう。……ただし、その騎士とやらは見せしめに切り刻め。エリーゼは、逃げ出した罰として、もっと暗い部屋に閉じ込めて教育し直してやる」
王都からアルカディアへと向かう、複数の不穏な気配。
彼らはまだ知らなかった。自分たちが向かっている先が、ただの「逃避行先の別荘」などではなく、王国の裏の支配者が築き上げた、絶対に手を出してはならない「最強の鳥籠」であることを。
一方、そんなこととは露ほども知らない私は、テラスを包む朝の光の中に溶け込みそうなほど、のんびりとした気分で空を見上げていた。
アルカディアの空は、吸い込まれそうなほど深い青色をしている。
前世の東京の空は、ビルと看板に切り取られ、常に薄い灰色の膜が張っているようだった。朝八時、殺気立った駅のホーム。押し寄せる人の波。誰かの肩がぶつかり、舌打ちが聞こえる。自分の意志とは無関係に、ただ目的地へと運ばれるだけの肉体。
あの頃の私は、今日のような穏やかな朝がこの世に存在するなんて、本気で信じていなかったかもしれない。
私は、レオンハルト様が美味しそうに喉を鳴らしてハーブティーを飲む姿を見つめた。
彼の銀髪は、太陽の光を浴びて白金のように煌めいている。端正な顔立ちは、かつての「背景」時代とは打って変わって、自信と、そして私に対する隠しきれない熱情に満ちていた。
「(騎士様、あんなに幸せそうな顔をして……。よっぽど王都での任務が辛かったのね。福利厚生がしっかりしたこの職場に来られて、本当によかった。私も、この人を支えるためなら、どんなお掃除も苦じゃないわ!)」
私は、自分の手首をさすった。
そこには、かつて実家でつけられていた細い痣の痕が、かすかに残っている。
伯爵令嬢として育てられたはずなのに、継母や妹たちからは使用人以下の扱いを受けてきた。古びたドレスを自分で直し、夜会では壁際に張り付いて息を潜める。
けれど、あの夜、この騎士様だけは私を見てくれた。私の差し出した安物のクッキーを、この世の宝物のように扱ってくれたのだ。
「レオンハルト様。最近、よく眠れていますか?」
私の問いに、レオンハルト様はティーカップを置き、まっすぐに私を見つめた。
「ああ。驚くほどにな。……君がこの屋敷にいてくれると思うだけで、俺の心からはあらゆる不安が消え去る。……エリーゼ、君は本当に、俺にとっての奇跡そのものだ」
また始まった。騎士様の、全力投球な感謝の言葉。
ただの管理人にそんな過分な言葉を……と思いつつも、そう言ってもらえると、管理人冥利に尽きるというものだ。
私は顔を真っ赤にしながらも、精一杯の笑顔で返した。
その時、ポチが「くぅん」と悲しげな声を出し、私の足に縋り付いてきた。
「まあポチ。寂しかったの? ごめんね、今すぐ貴方の朝ごはんも持ってくるわ」
私がキッチンへと戻ろうと立ち上がると、レオンハルト様が私の手首をそっと、けれど力強く掴んだ。
「エリーゼ。……もう少しだけ、ここにいてくれないか。……五分でいい」
騎士様の目は、まるで捨てられた仔犬のように潤んでいるように見えた。
あら? 騎士様までポチの真似かしら。やっぱり、お疲れなのね。ホワイト企業でも、精神的なデトックスは必要だもの。よーし、お姉さんが五分どころか十分でも十五分でも、そばにいてあげますわよ!
私は再び椅子に座り、レオンハルト様の手に自分の手を重ねた。
彼の掌は、剣を振るい続けたことでできた硬い凧があり、武骨で、そして驚くほど熱かった。
「もちろんです。今日は一日、特にお急ぎの管理業務もありませんし、ゆっくりお話ししましょう」
私の言葉に、レオンハルト様の深紅の瞳が、一瞬だけ怪しく、昏く光った。
「……一日中、か。……魅力的な提案だ。……ああ、エリーゼ。君を誰にも見せたくない。このまま、このアルカディアの結界の中に、一生閉じ込めてしまいたいほどだ」
一生閉じ込めていたい……。まあ、それだけこの別荘の居心地が良いってことなのね。さすが王弟殿下のセンスだわ。私も、この快適な空間を一生守り続けたいって、心から思うもの!
私は「そうですね! 私も、ここで一生お掃除していたいです!」と元気に答えた。
レオンハルト様は一瞬だけ呆然としたような顔をしたが、すぐに諦めたような、それでいて深い慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……君は、本当に……。いや、君らしいな。……その純粋さに、俺は何度救われるか分からない」
その頃、別荘の周囲にある神聖な森では、ギルバート率いる「清掃スタッフ」たちが、微かな異変を察知していた。
原生林の奥底、普段は小鳥のさえずりと風の音しか聞こえない場所に、金属が擦れる音と、重い軍靴の足音が混ざり始める。
「ギルバート様。境界付近に、不浄な魔力反応を確認しました。数は約二十。王都方面からの追手と思われます」
木々の影から音もなく現れた若手のメイドが、ギルバートに報告した。
ギルバートは、懐中時計で時間を確認し、優雅にそれを閉じた。
「……困ったものですね。今はエリーゼ様とレオンハルト様の、貴重な朝の団欒の時間だというのに。……ゴミの不法投棄は、アルカディアの条例で厳しく禁止されていますよ」
彼の瞳から、温和な老執事の光が消え、冷徹な殺戮者の輝きが宿る。
「……全スタッフへ。エリーゼ様の視界に、血の一滴、塵の一粒も入れぬよう。……徹底的な『お掃除』を開始してください」
「「「御意」」」
影の中から、複数の返答が重なり、そして霧の中に消えていった。
テラスでは、私が淹れた二杯目のハーブティーの湯気が、のんびりと揺れていた。
「あ、レオンハルト様。あそこに珍しい色の蝶々が飛んでいますわ! アルカディアには、本当に綺麗な生き物がたくさんいますのね」
「……ああ。だが、俺の目には、君以上の美しいものは映っていないがな」
もう、騎士様ったら。今日はお世辞が絶好調ね! 管理人のやる気を引き出すのが、本当にお上手なんだから!
私は、自分が救い出した「背景」の騎士様が、実は世界を影から操るラスボスであり、自分のために一国を揺るがす大粛清を開始したことなど、微塵も疑っていなかった。
ただ、この暖かな陽光と、大好きな「推し」の隣にいられる幸せを、噛み締めていただけだったのである。
二 玄関先の「大掃除」
別荘へと続く、深い霧に包まれたアルカディアの原生林。
そこは、王都の喧騒や汚れを一切拒絶するかのような、神秘的な静寂が支配する領域であった。空を突くほどに巨大な古木たちが幾重にも重なり合い、その枝葉の間からは、エリーゼが無意識に振り撒き続けた浄化魔法の残滓が、黄金色の粒子となってキラキラと降り注いでいる。
しかし、その清廉な空気は、不浄な魂を持つ者たちにとっては、これ以上ないほど過酷な毒へと変貌していた。
「……っ、おい。何だ、この森は。空気を吸い込むだけで肺が焼けるようだぞ」
原生林の入り口で足を止めたのは、総勢二十名ほどの男たち。
先頭に立つのは、王都の裏社会で「野犬」と恐れられる賞金稼ぎのリーダー、バルガスであった。彼は、ロッテ伯爵が私財を投じて雇い入れた荒事の専門家であり、その背後に控えるのはカトウェル侯爵が直々に飼い慣らしている「片付け役」と呼ばれる隠密部隊だ。
彼らは一様に、高価な魔導防具や、血の臭いが染み付いた黒い革鎧を纏っている。常人であればその姿を見ただけで震え上がるような威圧感を放っているはずだが、今の彼らは、アルカディアの聖なる結界に晒され、自分たちの体格が一回り小さくなったかのような錯覚に陥っていた。
「リーダー、やはりこの森は妙ですぜ。魔獣一匹いやしねえ。それに、この妙に明るい霧……まるで、自分たちの影が削り取られていくような感覚だ」
部下の一人が、震える手で剣の柄を握り直しながら囁いた。
バルガスは不快そうに舌打ちをすると、足元の草を乱暴に踏みつけた。
本来ならば、バルガスのような魔力の持ち主であっても、この森の浄化能力に当てられれば一時間と正気を保てない。けれど、彼を突き動かしているのは、エリーゼという「高価な商品」を連れ戻した際に約束されている莫大な報酬と、彼女と共に逃げた下級騎士へのどす黒い嫉妬であった。
「黙れ。たかが名もなき騎士と没落令嬢の隠れ家だ。この結界とやらも、王宮から盗み出した魔道具か何かによるハッタリだろう。いいか、目的は女だ。侯爵閣下からは『多少の怪我は構わない、五体満足であれば十分だ』との許可を得ている。邪魔な騎士は、俺がこの手で生きたまま刻んでやる。野郎ども、行くぞ!」
バルガスの号令と共に、男たちは殺気を孕んだ笑みを浮かべ、白亜の門へと迫った。
視界が開けた先には、湖畔に佇む壮麗な別荘がその姿を現していた。
朝の光を浴びて神々しく輝く白壁と、青い屋根。その優雅な佇まいに、バルガスたちの瞳には下卑た欲望が灯る。彼らにとって、この場所は奪うべき財宝であり、蹂躙すべき獲物の巣でしかなかった。
だが、彼らが白亜の門に手をかけようとした、まさにその瞬間。
霧の向こう側から、滑らかで、けれど背筋を氷で撫でるような冷徹な声が響いた。
「――そこまででございます。不浄な足音を立て、この聖域へ踏み込もうとする不届き者ども。本日、当館は『お掃除』の時間となっておりますゆえ、部外者の立ち入りは固くお断りしております」
男たちが一斉に視線を向けると、そこには、いつの間にか一分の隙もない動作で整列した、黒い執事服やメイド服を纏った一団が立っていた。
その中心には、銀髪を完璧な角度で整え、純白の手袋を填めた老執事長、ギルバートがいる。
彼はまるで、舞踏会の招待客を迎えるかのように優雅な会釈をしてみせた。しかし、その瞳には慈悲の欠片もなく、獲物の解体を待つ屠殺者のような静かな光が宿っている。
「な、なんだ、こいつらは……!? 管理人の爺か?」
バルガスが鼻で笑い、大剣を肩に担ぎ直した。
バルガスの目には、ギルバートたちがただの身綺麗な使用人にしか見えていなかった。多少の武芸は嗜んでいるかもしれないが、戦場を渡り歩いてきた自分たちの敵ではない。その慢心が、彼らの破滅を決定づけた。
「いえ、私たちはただの『福利厚生』。王弟殿下より賜った、主の安らぎを守るための手足に過ぎません。いわば、害虫駆除とお掃除専門のスタッフでございますよ」
ギルバートの声が、静寂の森に溶け込んでいく。
その言葉を合図に、スタッフたちの雰囲気が一変した。
若手のメイドが、スカートの裾から銀色に輝く暗殺用の短剣を抜き放ち、別の男性スタッフは、影の中から自身の身長ほどもある巨大な鎌を無造作に召喚する。
彼らこそ、王弟殿下直属の特殊殲滅部隊『黒の牙』。一国の軍隊を相手にしても、紅茶を淹れる時間があれば全滅させると言われる、殺戮のスペシャリストたちだ。彼らにとって、レオンハルト様の愛するエリーゼ様の平和を乱す者は、掃除すべき汚物と同義であった。
「ふん、たかが執事風情が! 威かしてんじゃねえよ! どけっ!」
バルガスの部下の一人が、功を焦って剣を振りかざし、突撃した。
だが、ギルバートは避けることさえしなかった。
シュッ、という、耳を澄まさなければ聞こえないほどの微かな風切り音。
次の瞬間、突進した男は、自分がなぜ地面に伏せ、手足の自由を奪われているのかさえ理解できずに、喉の奥で「ひっ」と短い絶叫を上げた。
ギルバートが手袋をした指先で、男の首筋にある急所を撫でるように突いただけの、神速の打突。
「……騒がしいですね。エリーゼ様の朝の休息を妨げるとは、言語道断。ギルバートより全スタッフへ通達。――エリーゼ様の目に入る場所に、このような『粗大ゴミ』を残しておくわけには参りません。これより徹底的な、洗浄を開始しなさい」
その命令が下された瞬間、門の前は一方的な「掃除」の場と化した。
スタッフたちの動きは、あまりにも速く、正確で、そして美しかった。
バルガスたちが必死に武器を振るうが、その刃はスタッフたちの残像を切り裂くばかりで、一度として肉に届くことはない。逆に、スタッフたちが動くたびに、刺客たちの防具が紙細工のように切り裂かれ、その関節が音もなく砕かれていく。
彼らにとって、これは戦闘ではなく、ただの不衛生な害虫の処理に過ぎない。
「化、化け物か……!? 貴様ら、ただの使用人が何でこんな真似ができる!」
バルガスは、周囲でゴミのように積み上げられていく部下たちの姿を見て、ようやく自分が「触れてはならない神域」に踏み込んだことを理解した。
背後にある別荘から漏れ出る清浄な魔力。そして目の前にいる、感情を欠いたプロの掃除屋たち。
絶望が、冷たい汗となってバルガスの背中を伝う。彼は最後の一撃を放とうと、ありったけの魔力を大剣に込めて叫んだ。
「ふざけるな! 俺は……俺は賞金首を何百人も葬ってきたんだ! こんなところで――」
だが、その叫びは、不意に現れた「白」によって遮られた。
森の影からゆっくりと、音もなく姿を現したのは、一匹の真っ白な仔犬。
エリーゼが「ポチ」と名付けた、あの毛玉である。
ポチは普段、エリーゼの前では、尻尾をちぎれんばかりに振って甘え、彼女の膝の上を独占することに命を懸ける愛くるしい生き物だ。
けれど、今、その金色の瞳には、万物を凍りつかせるような捕食者の輝きが宿っていた。
「わん」
ポチが小さく、けれど地響きのように重厚な威厳を込めて鳴いた。
その瞬間、逃げ出そうとしていたバルガスの足元が、物理的な圧力を持った魔力によって地面に縫い付けられた。
バルガスは目を見開き、ガタガタと歯の根を鳴らした。
目の前にいるのは、ただの犬ではない。
その背後に透けて見えるのは、天を突くほどの巨躯を持ち、大陸の半分を焦土に変えかけたと伝えられる終焉の魔獣フェンリルの幻影。
ポチの視線は明確に言っていた。
『我の主の平穏を乱す羽虫どもめ。このまま塵となるか、我の腹を満たすか選べ。もっとも、貴様らのような不浄な肉は、我が舌を汚すにも値せぬがな』
バルガスは武器を落とし、失禁しそうな恐怖の中で膝を突いた。
自分たちが連れ戻そうとしていたエリーゼ・フォン・ロッテという令嬢が、これほどまでに恐ろしい「怪物」たちを平然と従え、笑っているという事実。
王都の権力闘争など、このアルカディアの深淵に比べれば、子供の泥遊びに等しかったのだ。
「……さて。ポチ殿もお見えになりましたし、仕上げといきましょうか」
ギルバートは懐中時計を取り出し、カチリと音を立てて蓋を閉めた。
「エリーゼ様が新しいブラウニーを焼き上げるまで、あと五分。その間に、血の一滴、塵の一粒も残さず消去してください。……ああ、それから。バルガス殿。貴方の持っていたロッテ伯爵の依頼書は、後でレオンハルト様がじっくりと拝見されるそうです。楽しみにしていなさい」
スタッフたちの影が伸び、バルガスたちの視界は暗転した。
王都から送り込まれた最強のはずの刺客たちは、別荘の玄関に辿り着くことさえ許されず、文字通り「塵一つ残さないお掃除」の対象となって消えていく。
数分後。
別荘の正門前には、戦いがあった形跡など微塵も残っていなかった。
踏み荒らされた芝生は、スタッフの土木魔術によって一瞬で修復され、散らばった武器の破片は溶解処理された。
アルカディアの原生林を吹き抜ける風は、相変わらずエリーゼの浄化魔法による清々しい香りを運んでいる。
ギルバートは満足げに頷くと、衣服を整え、再び「有能な老執事」の顔に戻った。
その足元では、ポチが何事もなかったかのように欠伸をし、エリーゼの待つキッチンの方角を見つめて、尻尾を小さく振っていた。
主の平和を守るための、短く、そして徹底的な「大掃除」。
それが完了したことを、屋敷の中にいる「管理人」エリーゼだけが、今日も知らないままでいたのである。
三 管理人のあずかり知らぬ戦い
その頃、別荘の奥に位置する広大なキッチンでは、私、エリーゼ・フォン・ロッテが呑気に鼻歌を歌いながら、新作のスイーツ作りに没頭していた。
この屋敷のキッチンは、王弟殿下の私物というだけあって、最新の魔導具が完備されたまさに料理人の夢のような空間だ。磨き上げられた大理石のカウンターには、王都の最高級店でもお目にかかれないような、アルカディア特産の新鮮な乳製品や、粒の揃ったナッツ、そして深い香りを放つカカオの塊が並んでいる。
「(ふふっ、今日はレオンハルト様が好きなナッツをたっぷり使ったブラウニーにしましょう。あのお掃除スタッフさんたちの分も多めに作らなきゃ。重労働の後には糖分が必要だものね)」
私は前世の記憶を頼りに、最適な配合で生地を練り上げていく。ボウルの中でチョコレートとバターが溶け合い、甘く濃厚な香りが立ち上る。前世の社畜時代、唯一の楽しみだった深夜のコンビニスイーツも悪くなかったけれど、こうして自分の手で、愛する人のために手間暇かけてお菓子を作る時間は、何物にも代えがたい贅沢だった。
窓の外から、時折「ガシャン!」という硬質な音や、「ひっ」という短い、鳥の鳴き声にしては少し不自然な悲鳴のようなものが聞こえてくる気がした。キッチンの床が、ごく微かにだが震えているようにも感じる。
「あら? なんだか外が騒がしいわね。ギルバートさんたちが、お庭の大きな岩でも撤去しているのかしら? それとも、新しいモニュメントでも設置しているのかも」
私は手を止め、窓から外を覗いてみた。しかし、そこには朝の光に照らされて輝く芝生と、穏やかに枝を揺らすアルカディアの原生林が広がっているだけだった。
実はこの時、屋敷の周囲ではギルバートさんたち『黒の牙』が、エリーゼ様の視界に血の一滴、塵の一粒も入れないという過保護な鉄則に従い、光学迷彩と防音の魔法を二重三重に張り巡らせていた。彼らは凄惨な戦いを、まるでお遊戯会でもするかのように秘匿しながら完遂しようとしていたのである。
「(さすが王弟殿下の別荘。セキュリティーも清掃も、私が気づかないうちに完璧に行われているのね。まさに、前世で夢見た完全自動化されたホワイト企業だわ! 私、管理人としてもっと頑張らないと、お給料泥棒になっちゃう)」
私は自分の仕事の少なさに少しばかりの危機感を覚えつつも、オーブンから漂ってくる、香ばしく焼き上がったナッツの香りに満足げに頷いた。
やがて、屋敷の重厚な玄関扉が静かに開き、規則正しい軍靴の音が廊下に響いた。
現れたのは、パトロールを終えたばかりのレオンハルト様だ。彼の銀色の髪は乱れ一つなく、その白金のような輝きは室内の魔導灯の下でさらに神々しさを増している。騎士服には埃一つ付いておらず、その表情はいつものように峻烈で、彫刻のように整っていた。けれど、その手には先ほどまで帯びていた抜き身の長剣が握られており、彼の纏う空気は、どことなく抜き身の刃のような鋭い熱を帯びているように見えた。
「おかえりなさい、レオンハルト様! お仕事……いえ、パトロールはお疲れ様でした。怪我などはありませんか?」
私はエプロンで手を拭いながら、駆け寄って彼を迎えた。レオンハルト様は私を見た瞬間、その厳しい表情を一瞬で霧散させ、春の陽だまりのような柔らかな眼差しへと変えた。
「……ああ、エリーゼ。ただいま。怪我など、あり得ない。……少しばかり、森の風紀を乱す害獣が紛れ込んでいてな。ギルバートたちと共に、速やかに駆除してきたところだ」
レオンハルト様はそう言うと、持っていた剣を流れるような所作で鞘に収めた。その動作があまりにも美しく、私は思わず見惚れてしまう。
「害獣? まあ、大変。アルカディアの森にはそんなに恐ろしい生き物がいるのですか? ポチや私が襲われたりしたら困りますものね。ありがとうございます、レオンハルト様。貴方がいてくださると、本当に心強いですわ!」
私は、レオンハルト様の「お仕事」を心から労うため、勢いよく彼の胸に飛び込んだ。
前世の社畜時代、私は一人で全ての責任を背負い込み、誰にも助けを求められずに立ち尽くしていた。けれど今、目の前には、私を守るために剣を振るってくれると信じている無敵の騎士様がいる。その事実が、私の心にこれ以上ない安らぎを与えてくれた。
不意の抱擁に、レオンハルト様は僅かに息を呑み、そして私の背中にそっと、けれど逃さないという強い意志を込めて腕を回した。
「(……ああ、温かい。この温もりを守るためなら、俺は何度でも手を汚そう。王都の連中が、あの汚らわしいロッテ伯爵や豚侯爵が君を奪いに来るというのなら、その根源ごと焼き払うまでだ。エリーゼ、君は何も知らなくていい。この楽園で、ただ笑っていればいいんだ)」
彼の胸の奥で渦巻く、常軌を逸した独占欲。
エリーゼは、自分を抱きしめる腕の力が、昨夜よりも少し強く、切実であることに気づきつつも、「きっと外での作業がよっぽど大変だったのね。体力自慢の騎士様でも、精神的に疲れることはあるもの。たっぷり甘いものを食べさせて、デトックスさせてあげなきゃ」と、献身的な社畜脳をフル稼働させていた。
「レオンハルト様、ブラウニーがちょうど焼き上がりましたの。少し冷ましたら、最高に美味しいはずです。ポチも一緒に、テラスでいただきましょう?」
「……そうだな。エリーゼの作ったものなら、毒であっても喜んで食すが、君の慈愛に満ちた菓子なら、俺の身体は光で満たされるだろう」
「もう、騎士様ったら、いつも大袈裟なんです。でも、自信作ですから期待していてくださいね」
私たちがそんな甘やかなやり取りをしていると、キッチンの勝手口から、一足先に「掃除」を終えたポチが戻ってきた。
ポチの白い毛並みには、先ほどまでの激戦の痕跡など一切なく、むしろ以前よりも清らかに輝いているように見える。彼は「ふん」と鼻を鳴らしてレオンハルト様を一瞥すると、これ見よがしに私の足首にそのふわふわな頭を擦り寄せてきた。
「わん!」
ポチの金色の瞳には、明らかに「我の方が先に掃除を終えたぞ」という、勝者の余裕が滲んでいた。
「あ、ポチもおかえりなさい! お外で遊んできたのね。ほら、ポチの分の特製ミルクも用意してあるわよ」
「……ポチ、貴様もだ。エリーゼに甘えるのはそこまでにしておけ。……それから、森の不法投棄物の処理は完璧だろうな?」
レオンハルト様が低い声で問いかけると、ポチは面倒臭そうに尻尾を一振りした。その動きは、伝説の魔獣としての威厳を欠片も感じさせないほど、エリーゼに懐いた飼い犬そのものだったが、その背後には「主の平穏を乱す者は、全て塵にした」という冷酷な報告が隠されていた。
ティータイムの準備を整え、私たちはテラスへと移動した。
テーブルの上には、ナッツの香ばしさとチョコレートの甘さが絶妙に調和したブラウニーが並べられ、私が丁寧に淹れたハーブティーからは、ミントの清涼な香りが漂っている。
目の前に広がる湖は、何事もなかったかのように穏やかな水面を湛え、アルカディアの原生林を吹き抜ける風は、相変わらずエリーゼの浄化魔法による清々しい香りを運んでいる。
さっきまで、この場所から数百メートルの距離で、王都から送り込まれた最強の刺客たちが「粗大ゴミ」として処理されていたとは、到底思えないほど穏やかな風景。
私は、自分が救いたいと願った騎士様が、実は私を独占するために伝説の魔獣と共闘し、国家規模の隠蔽工作まで行っている支配者であることに気づかないまま、幸せな一口を噛み締めていた。
「美味しいわ……。レオンハルト様、いかがですか?」
「……最高だ。君と、この場所でこうしているだけで、俺は世界を手に入れたような気分になれる」
「ふふっ、本当に騎士様はロマンチストね。でも、私も同じ気持ちですわ。王都のあの喧騒を忘れて、こうして大切な人と穏やかな時間を過ごせるなんて」
私の笑顔を見て、レオンハルト様の瞳には、より一層深く、昏い執着の光が宿る。
彼は、自分が作り上げたこの「最強の鳥籠」が、エリーゼにとっての真の楽園であることを確信していた。そして、この幸せを脅かすあらゆる存在を、神であろうと魔王であろうと、容赦なく排除する決意を新たにするのであった。
アルカディアの原生林を渡る風が、甘いブラウニーの香りと、隠しきれない独占欲の熱を運び去っていく。
エリーゼだけが、この平穏が「力」によって守り抜かれたものであることに気づかないまま、幸せな笑みを浮かべていた。
彼女の新生活は、王都を巻き込む巨大な嵐の予感を孕みながらも、今はただ、穏やかで甘いティータイムの中に溶け込んでいた。
四 勘違いの深まりと不穏な決意
アルカディアの地に、緩やかな黄昏が訪れようとしていた。
西の空は、燃えるような朱色から深い紫へと溶け込み始め、湖面はその色彩を鏡のように映し出して、この世のものとは思えない幻想的な光景を作り出している。原生林の木々が落とす長い影が、芝生の上を静かに侵食し、昼間の陽気とは異なる、しっとりと落ち着いた夜の予感が大気に混ざり始めていた。
私は、テラスでの穏やかなティータイムを終えた後、片付けを済ませてから、執事長のギルバートさんを呼び止めた。
「エリーゼ様、お呼びでしょうか」
ギルバートさんは、相変わらず一分の隙もない立ち振る舞いで私の前に現れた。夕闇の中でも、彼の銀髪は月の光を先取りしたかのように澄んで輝き、その所作の一つ一つが、この屋敷の品格を象徴しているかのようだ。
「ええ、ギルバートさん。今日のパトロール……じゃなくて、外構の清掃、本当にお疲れ様でした。なんだか今日は一段と大変そうだったけれど、もう落ち着いたのかしら?」
私は、自分が窓から見た外の騒がしさを思い出しながら尋ねた。ギルバートさんは、表情を一切崩さず、恭しく一礼する。
「ご安心ください、エリーゼ様。本日の清掃作業は全て、予定通りに完了いたしました。少々、不法投棄されたゴミが目につきましたが、我々スタッフの手によって適切に処理し、二度とこの神聖な地に立ち入れないよう処分いたしました。……ええ、塵一つ残さずに」
「まあ、不法投棄だなんて。こんなに綺麗な場所を汚そうとする人がいるなんて信じられないわね。でも、ギルバートさんたちがいてくださるから、私は安心していられます。……本当に、いつもありがとうございます」
私は申し訳なそうに、キッチンで焼き上げたばかりのブラウニーを、丁寧に包んで彼に差し出した。
「これ、余り物なんですけれど……。皆さんで召し上がってください。ナッツをたくさん入れたから、疲労回復にもいいはずよ。重労働の後は、やっぱり甘いものが必要ですものね」
ギルバートさんは、その包みを両手で、まるで国宝でも受け取るかのような神妙な面持ちで受け取った。
彼の瞳が、一瞬だけ激しく揺れたのを私は見逃さなかった。
実は、このブラウニーには、私自身も無自覚な「聖女の魔力」がたっぷりと込められている。それを食した者は、あらゆる呪縛から解き放たれ、魂の深淵まで癒やされるという至高の霊薬に等しい代物なのだ。
「……恐悦至極に存じます。皆、この慈愛に満ちたお菓子をいただけば、涙を流して喜ぶことでしょう。……エリーゼ様、貴女様は、我々にとって真に尊きお方でございます」
「もう、ギルバートさんったら大袈裟なんだから。ただのチョコレート菓子ですよ」
私は照れくさくなって、笑ってその場を後にした。
ギルバートさんは、私が去った後も、その包みを愛おしそうに見つめながら、影の中に潜む部下たちへ向けて、音のない声で「分け前は平等だ。一欠片も無駄にするな」と、厳命を下していたことにも気づかずに。
一方、レオンハルト様は自室に戻り、執務机の前に座っていた。
テラスで見せていたあの甘やかで穏やかな表情は消え失せ、今の彼の瞳には、かつて「影の宰相」として恐れられた時の、凍てつくような冷酷な光が宿っている。
彼の目の前には、ギルバートから報告として渡された一通の書面が置かれていた。
それは、先ほど門前で「処理」された刺客たちが所持していた、ロッテ伯爵とカトウェル侯爵の署名入りの連名状である。
内容は極めて不快なものだった。
エリーゼを「返却」せねば、王都の法に則り、彼女と共にいる騎士Aを「令嬢誘拐の重罪」として厳罰に処す。そして、ロッテ伯爵家への借金を盾に、有無を言わさぬ圧力をかけてくるという、下劣極まりない脅迫状。
「……身の程を知らぬ、羽虫どもが」
レオンハルト様の低い声が、静まり返った部屋に地響きのように響いた。
彼の手が、その書面を無造作に握りつぶす。
彼が「王弟殿下」としての本性を現す時、それは常に、自らが守るべき聖域――エリーゼという名の光を侵そうとする者が現れた時であった。
「(あの日、泥だらけのドレスで俺の元へ駆け寄り、俺を養うと言ってくれた彼女を……。あの薄汚れた豚のような男の所有物にしようとしたのか。……そして今、再びその魔手を伸ばそうとしていると)」
レオンハルト様の背後から、昏い魔力が霧のように立ち上り、部屋の温度を急速に下げていく。
彼は、自分がエリーゼの前で見せている「不遇な騎士」という仮面が、今この瞬間にも剥がれ落ちそうになるのを、鉄の意志で抑え込んでいた。
彼は、机上の魔導通信端末を起動させ、王都に潜伏させている部下たちへ、短く、けれど決定的な指令を送った。
「通達する。……ロッテ伯爵家が抱えている債権を、あらゆるルートを使い、即刻全て買い取れ。一ペニーたりとも残すな。……それから、カトウェル侯爵だ。奴の私的な醜聞、不正、そしてこれまで犠牲になった令嬢たちの記録を全て表に出せ。――あの日、エリーゼを泣かせ、絶望させた罪を、単なる命で贖わせるな。富と名声を剥ぎ取り、地を這う屈辱の中で生かし続けろ。……二度と、彼女の名前を口にできぬようにしてやる」
その決定は、王国の経済と政界を一夜にしてひっくり返すほどの、劇薬であった。
一人の伯爵家が破滅し、一人の有力な侯爵が獄に繋がれる。
そんな歴史的な粛清が、今、この静かな別荘の一室で決定されたのだ。
けれど、そんな修羅のような決意を固めたレオンハルト様の背後から、不意に、能天気なほど明るい声が聞こえてきた。
「レオンハルト様ー! お風呂の準備ができましたよー! お疲れ様ですから、ゆっくり温まってくださいね!」
扉の向こうから聞こえてくる、エリーゼの元気な声。
その瞬間、室内に満ちていた殺気も、凍てつくような冷気も、春の雪解けのように一瞬で霧散した。
レオンハルト様は、瞬時に「背景の騎士A」としての、穏やかで、どこか頼りなげな微笑みを顔に張り付けた。
「ああ、今行くよ、エリーゼ。……わざわざ知らせに来てくれて、ありがとう」
彼は立ち上がり、扉を開けた。そこには、エプロン姿で頬を少し赤らめたエリーゼが、満面の笑みで立っていた。
「騎士様、今日はパトロールでお庭をたくさん歩いたでしょう? ギルバートさんから聞いたけれど、不法投棄のゴミまで片付けてくださったんですってね。本当にお疲れ様でした。……今日は、君の隣で少し長く話をしてもいいだろうか、なんて言いたくなっちゃうくらい、私も騎士様とお話ししたい気分なんです!」
エリーゼは、自分の「推し」がどれほど献身的に働いているかを想像し、胸を熱くしていた。
レオンハルト様は、そんな彼女を見つめ、どこか縋るような、切実な色を瞳に浮かべた。
「……ああ、もちろんだ。俺の方こそ、君の顔を見ないと一日が終わらない。……今日は、君の隣で少し甘えてもいいだろうか」
「もちろんですわ! 私も、騎士様とお話ししたいことが山ほどありますの。……(やっぱり騎士様、今日はお疲れなのね。きっと、お仕事のプレッシャーが凄いわ。よし、管理人として、極上のマッサージでもしてあげなきゃ!)」
彼女の献身的な勘違いは、より一層、レオンハルト様を底なしの溺愛へと突き動かしていく。
レオンハルト様は、彼女の柔らかな手をそっと取り、自分の頬に寄せた。その温もりに、彼の心に溜まっていた毒気が、綺麗に浄化されていくのを感じる。
「(……ああ、やはりこの温もりこそが俺の全てだ。王都の連中など、どうなってもいい。……だが、君を傷つける可能性が微塵でもあるのなら、俺は喜んで悪魔になろう)」
二人は並んで廊下を歩き出す。
窓の外、夜の静寂に沈む庭園の隅では、ポチが「主の隣で寝るのは我だ」と主張するように、レオンハルト様の部屋の前を先回りして陣取っている。
アルカディアの原生林を吹き抜ける風が、湖の静謐さを運び、屋敷を優しく包み込んでいた。
王都を巻き込む巨大な嵐の予兆は、今や現実のものとして動き出している。けれど、この白亜の別荘の中だけは、チョコレートの甘い香りと、隠しきれない独占欲の熱、そして能天気なほどの幸福感に満たされていた。
私は、自分が救い出したはずの騎士様が、実は世界を影から操るラスボスであり、自分のために一国を揺るがす大粛清を開始したことなど、微塵も疑っていない。
ただ、大好きな「推し」の疲れを癒やしてあげたいという、その一心で、彼を浴室へと送り出すのであった。
こうして、アルカディアでの「偽りの隠居生活」は、裏側で凄まじい波乱を巻き起こしながら、表面上は穏やかで、そしてどこまでも甘く加速していくのである。
アルカディア公爵領の朝は、今日も天国のような静謐さに満ちていた。
窓を開ければ、清涼な湖を渡ってきた風が、部屋の隅々にまで清浄な空気の粒子を運んでくる。かつて東京の満員電車に揺られ、排気ガスと他人の苛立ちを吸い込んでいた日々が、今ではまるで遠い前世の悪夢のように感じられるほどだ。
私は管理人として、この王弟殿下の別荘を完璧に保つことに全霊を傾けていた。といっても、屋内は「福利厚生」のギルバートさんたちが文字通り神速で掃除してしまうため、私の主な仕事は、レオンハルト様の心身のサポートと、愛犬(?)ポチのお世話である。
「はい、レオンハルト様。今日のお茶は、庭で摘んだばかりのミントを少し効かせてみましたわ」
テラスの円卓に、私は温かいティーカップを置いた。
軽装の騎士服を纏ったレオンハルト様は、読みかけていた魔導書を閉じ、私を見てふっと目を細めた。その深紅の瞳には、かつて王宮の壁際で「背景」として立っていた時には決して見せなかった、穏やかで、けれど底の知れない執着の色が滲んでいる。
「……ありがとう、エリーゼ。君が淹れてくれるお茶は、どんな高価な霊薬よりも、俺の魂を癒やしてくれる」
彼は私の手を取り、指先に愛おしげに唇を寄せる。その動作が、最近ではすっかり当然のルーティンのようになっていた。私は「騎士様って、感謝の表現がとっても情熱的なのね」と、相変わらず能天気な解釈で顔を赤らめるだけだったが。
「グルル……」
足元では、私の膝の上という特等席を狙っていたポチが、不満げに喉を鳴らしている。
ポチは早くも、自分がレオンハルト様よりも「後回し」にされると、あからさまに不機嫌になるのだ。伝説の魔獣フェンリルとしての誇りはどこへやら、今の彼は完全に、飼い主の愛を独占したい「かまってちゃん」の仔犬そのものであった。
「あらポチ、やきもちかしら? 大丈夫よ、貴方の分のミルクも今持ってくるわね」
私が微笑みながらポチの頭を撫でると、ポチは勝ち誇ったように尾を振り、レオンハルト様をチラリと一瞥した。
その瞬間、二人の間に流れる空気は、私には見えない火花を散らして衝突する。
しかし、そんな平和な日常の裏側で、アルカディア公爵領を囲む神聖な結界の境界線が、不浄な気配によって揺らいでいた。
王都。
エリーゼ・フォン・ロッテが「騎士A」と共に失踪してから数日。
ロッテ伯爵家の屋敷では、怒りと焦燥によって理性を失った父、ロッテ伯爵が荒れ狂っていた。
「馬鹿な! あの地味で大人しいだけが取り柄のエリーゼが、鉄格子を壊して逃げ出すだと!? あれにそんな魔力があったなど、聞いておらんぞ!」
床には割れた酒瓶が散乱し、継母のベアトリクスは青ざめた顔で扇子を震わせていた。
彼らにとって、エリーゼは借金を完済するための貴重な「商品」だった。その商品が消えたということは、間もなく訪れるカトウェル侯爵への「納品」が不可能になったことを意味する。
そこへ、地響きのような重苦しい足音と共に、一人の男が現れた。
肉の重なりで首が埋もれ、欲深そうな小さな瞳をぎらつかせた男――「豚侯爵」ことカトウェル侯爵である。
「ロッテ伯爵、私の花嫁はどこだね? 明日には盛大な披露宴を準備させているのだがな。もし、私の面目を潰すようなことがあれば……貴様の家の借金など、一瞬で取り立ての刃に変わると思え」
「あ、ああ、侯爵閣下! 滅相もございません! すぐに、すぐに連れ戻させます! 私には心当たりがあるのです! あの娘、近衛の末端騎士と通じていたようです。……既に、領地の裏を熟知する賞金稼ぎと、腕利きの交渉人を差し向けました」
伯爵の言葉に、カトウェル侯爵は醜悪な笑みを浮かべた。
「いいだろう。……ただし、その騎士とやらは見せしめに切り刻め。エリーゼは、逃げ出した罰として、もっと暗い部屋に閉じ込めて教育し直してやる」
王都からアルカディアへと向かう、複数の不穏な気配。
彼らはまだ知らなかった。自分たちが向かっている先が、ただの「逃避行先の別荘」などではなく、王国の裏の支配者が築き上げた、絶対に手を出してはならない「最強の鳥籠」であることを。
一方、そんなこととは露ほども知らない私は、テラスを包む朝の光の中に溶け込みそうなほど、のんびりとした気分で空を見上げていた。
アルカディアの空は、吸い込まれそうなほど深い青色をしている。
前世の東京の空は、ビルと看板に切り取られ、常に薄い灰色の膜が張っているようだった。朝八時、殺気立った駅のホーム。押し寄せる人の波。誰かの肩がぶつかり、舌打ちが聞こえる。自分の意志とは無関係に、ただ目的地へと運ばれるだけの肉体。
あの頃の私は、今日のような穏やかな朝がこの世に存在するなんて、本気で信じていなかったかもしれない。
私は、レオンハルト様が美味しそうに喉を鳴らしてハーブティーを飲む姿を見つめた。
彼の銀髪は、太陽の光を浴びて白金のように煌めいている。端正な顔立ちは、かつての「背景」時代とは打って変わって、自信と、そして私に対する隠しきれない熱情に満ちていた。
「(騎士様、あんなに幸せそうな顔をして……。よっぽど王都での任務が辛かったのね。福利厚生がしっかりしたこの職場に来られて、本当によかった。私も、この人を支えるためなら、どんなお掃除も苦じゃないわ!)」
私は、自分の手首をさすった。
そこには、かつて実家でつけられていた細い痣の痕が、かすかに残っている。
伯爵令嬢として育てられたはずなのに、継母や妹たちからは使用人以下の扱いを受けてきた。古びたドレスを自分で直し、夜会では壁際に張り付いて息を潜める。
けれど、あの夜、この騎士様だけは私を見てくれた。私の差し出した安物のクッキーを、この世の宝物のように扱ってくれたのだ。
「レオンハルト様。最近、よく眠れていますか?」
私の問いに、レオンハルト様はティーカップを置き、まっすぐに私を見つめた。
「ああ。驚くほどにな。……君がこの屋敷にいてくれると思うだけで、俺の心からはあらゆる不安が消え去る。……エリーゼ、君は本当に、俺にとっての奇跡そのものだ」
また始まった。騎士様の、全力投球な感謝の言葉。
ただの管理人にそんな過分な言葉を……と思いつつも、そう言ってもらえると、管理人冥利に尽きるというものだ。
私は顔を真っ赤にしながらも、精一杯の笑顔で返した。
その時、ポチが「くぅん」と悲しげな声を出し、私の足に縋り付いてきた。
「まあポチ。寂しかったの? ごめんね、今すぐ貴方の朝ごはんも持ってくるわ」
私がキッチンへと戻ろうと立ち上がると、レオンハルト様が私の手首をそっと、けれど力強く掴んだ。
「エリーゼ。……もう少しだけ、ここにいてくれないか。……五分でいい」
騎士様の目は、まるで捨てられた仔犬のように潤んでいるように見えた。
あら? 騎士様までポチの真似かしら。やっぱり、お疲れなのね。ホワイト企業でも、精神的なデトックスは必要だもの。よーし、お姉さんが五分どころか十分でも十五分でも、そばにいてあげますわよ!
私は再び椅子に座り、レオンハルト様の手に自分の手を重ねた。
彼の掌は、剣を振るい続けたことでできた硬い凧があり、武骨で、そして驚くほど熱かった。
「もちろんです。今日は一日、特にお急ぎの管理業務もありませんし、ゆっくりお話ししましょう」
私の言葉に、レオンハルト様の深紅の瞳が、一瞬だけ怪しく、昏く光った。
「……一日中、か。……魅力的な提案だ。……ああ、エリーゼ。君を誰にも見せたくない。このまま、このアルカディアの結界の中に、一生閉じ込めてしまいたいほどだ」
一生閉じ込めていたい……。まあ、それだけこの別荘の居心地が良いってことなのね。さすが王弟殿下のセンスだわ。私も、この快適な空間を一生守り続けたいって、心から思うもの!
私は「そうですね! 私も、ここで一生お掃除していたいです!」と元気に答えた。
レオンハルト様は一瞬だけ呆然としたような顔をしたが、すぐに諦めたような、それでいて深い慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……君は、本当に……。いや、君らしいな。……その純粋さに、俺は何度救われるか分からない」
その頃、別荘の周囲にある神聖な森では、ギルバート率いる「清掃スタッフ」たちが、微かな異変を察知していた。
原生林の奥底、普段は小鳥のさえずりと風の音しか聞こえない場所に、金属が擦れる音と、重い軍靴の足音が混ざり始める。
「ギルバート様。境界付近に、不浄な魔力反応を確認しました。数は約二十。王都方面からの追手と思われます」
木々の影から音もなく現れた若手のメイドが、ギルバートに報告した。
ギルバートは、懐中時計で時間を確認し、優雅にそれを閉じた。
「……困ったものですね。今はエリーゼ様とレオンハルト様の、貴重な朝の団欒の時間だというのに。……ゴミの不法投棄は、アルカディアの条例で厳しく禁止されていますよ」
彼の瞳から、温和な老執事の光が消え、冷徹な殺戮者の輝きが宿る。
「……全スタッフへ。エリーゼ様の視界に、血の一滴、塵の一粒も入れぬよう。……徹底的な『お掃除』を開始してください」
「「「御意」」」
影の中から、複数の返答が重なり、そして霧の中に消えていった。
テラスでは、私が淹れた二杯目のハーブティーの湯気が、のんびりと揺れていた。
「あ、レオンハルト様。あそこに珍しい色の蝶々が飛んでいますわ! アルカディアには、本当に綺麗な生き物がたくさんいますのね」
「……ああ。だが、俺の目には、君以上の美しいものは映っていないがな」
もう、騎士様ったら。今日はお世辞が絶好調ね! 管理人のやる気を引き出すのが、本当にお上手なんだから!
私は、自分が救い出した「背景」の騎士様が、実は世界を影から操るラスボスであり、自分のために一国を揺るがす大粛清を開始したことなど、微塵も疑っていなかった。
ただ、この暖かな陽光と、大好きな「推し」の隣にいられる幸せを、噛み締めていただけだったのである。
二 玄関先の「大掃除」
別荘へと続く、深い霧に包まれたアルカディアの原生林。
そこは、王都の喧騒や汚れを一切拒絶するかのような、神秘的な静寂が支配する領域であった。空を突くほどに巨大な古木たちが幾重にも重なり合い、その枝葉の間からは、エリーゼが無意識に振り撒き続けた浄化魔法の残滓が、黄金色の粒子となってキラキラと降り注いでいる。
しかし、その清廉な空気は、不浄な魂を持つ者たちにとっては、これ以上ないほど過酷な毒へと変貌していた。
「……っ、おい。何だ、この森は。空気を吸い込むだけで肺が焼けるようだぞ」
原生林の入り口で足を止めたのは、総勢二十名ほどの男たち。
先頭に立つのは、王都の裏社会で「野犬」と恐れられる賞金稼ぎのリーダー、バルガスであった。彼は、ロッテ伯爵が私財を投じて雇い入れた荒事の専門家であり、その背後に控えるのはカトウェル侯爵が直々に飼い慣らしている「片付け役」と呼ばれる隠密部隊だ。
彼らは一様に、高価な魔導防具や、血の臭いが染み付いた黒い革鎧を纏っている。常人であればその姿を見ただけで震え上がるような威圧感を放っているはずだが、今の彼らは、アルカディアの聖なる結界に晒され、自分たちの体格が一回り小さくなったかのような錯覚に陥っていた。
「リーダー、やはりこの森は妙ですぜ。魔獣一匹いやしねえ。それに、この妙に明るい霧……まるで、自分たちの影が削り取られていくような感覚だ」
部下の一人が、震える手で剣の柄を握り直しながら囁いた。
バルガスは不快そうに舌打ちをすると、足元の草を乱暴に踏みつけた。
本来ならば、バルガスのような魔力の持ち主であっても、この森の浄化能力に当てられれば一時間と正気を保てない。けれど、彼を突き動かしているのは、エリーゼという「高価な商品」を連れ戻した際に約束されている莫大な報酬と、彼女と共に逃げた下級騎士へのどす黒い嫉妬であった。
「黙れ。たかが名もなき騎士と没落令嬢の隠れ家だ。この結界とやらも、王宮から盗み出した魔道具か何かによるハッタリだろう。いいか、目的は女だ。侯爵閣下からは『多少の怪我は構わない、五体満足であれば十分だ』との許可を得ている。邪魔な騎士は、俺がこの手で生きたまま刻んでやる。野郎ども、行くぞ!」
バルガスの号令と共に、男たちは殺気を孕んだ笑みを浮かべ、白亜の門へと迫った。
視界が開けた先には、湖畔に佇む壮麗な別荘がその姿を現していた。
朝の光を浴びて神々しく輝く白壁と、青い屋根。その優雅な佇まいに、バルガスたちの瞳には下卑た欲望が灯る。彼らにとって、この場所は奪うべき財宝であり、蹂躙すべき獲物の巣でしかなかった。
だが、彼らが白亜の門に手をかけようとした、まさにその瞬間。
霧の向こう側から、滑らかで、けれど背筋を氷で撫でるような冷徹な声が響いた。
「――そこまででございます。不浄な足音を立て、この聖域へ踏み込もうとする不届き者ども。本日、当館は『お掃除』の時間となっておりますゆえ、部外者の立ち入りは固くお断りしております」
男たちが一斉に視線を向けると、そこには、いつの間にか一分の隙もない動作で整列した、黒い執事服やメイド服を纏った一団が立っていた。
その中心には、銀髪を完璧な角度で整え、純白の手袋を填めた老執事長、ギルバートがいる。
彼はまるで、舞踏会の招待客を迎えるかのように優雅な会釈をしてみせた。しかし、その瞳には慈悲の欠片もなく、獲物の解体を待つ屠殺者のような静かな光が宿っている。
「な、なんだ、こいつらは……!? 管理人の爺か?」
バルガスが鼻で笑い、大剣を肩に担ぎ直した。
バルガスの目には、ギルバートたちがただの身綺麗な使用人にしか見えていなかった。多少の武芸は嗜んでいるかもしれないが、戦場を渡り歩いてきた自分たちの敵ではない。その慢心が、彼らの破滅を決定づけた。
「いえ、私たちはただの『福利厚生』。王弟殿下より賜った、主の安らぎを守るための手足に過ぎません。いわば、害虫駆除とお掃除専門のスタッフでございますよ」
ギルバートの声が、静寂の森に溶け込んでいく。
その言葉を合図に、スタッフたちの雰囲気が一変した。
若手のメイドが、スカートの裾から銀色に輝く暗殺用の短剣を抜き放ち、別の男性スタッフは、影の中から自身の身長ほどもある巨大な鎌を無造作に召喚する。
彼らこそ、王弟殿下直属の特殊殲滅部隊『黒の牙』。一国の軍隊を相手にしても、紅茶を淹れる時間があれば全滅させると言われる、殺戮のスペシャリストたちだ。彼らにとって、レオンハルト様の愛するエリーゼ様の平和を乱す者は、掃除すべき汚物と同義であった。
「ふん、たかが執事風情が! 威かしてんじゃねえよ! どけっ!」
バルガスの部下の一人が、功を焦って剣を振りかざし、突撃した。
だが、ギルバートは避けることさえしなかった。
シュッ、という、耳を澄まさなければ聞こえないほどの微かな風切り音。
次の瞬間、突進した男は、自分がなぜ地面に伏せ、手足の自由を奪われているのかさえ理解できずに、喉の奥で「ひっ」と短い絶叫を上げた。
ギルバートが手袋をした指先で、男の首筋にある急所を撫でるように突いただけの、神速の打突。
「……騒がしいですね。エリーゼ様の朝の休息を妨げるとは、言語道断。ギルバートより全スタッフへ通達。――エリーゼ様の目に入る場所に、このような『粗大ゴミ』を残しておくわけには参りません。これより徹底的な、洗浄を開始しなさい」
その命令が下された瞬間、門の前は一方的な「掃除」の場と化した。
スタッフたちの動きは、あまりにも速く、正確で、そして美しかった。
バルガスたちが必死に武器を振るうが、その刃はスタッフたちの残像を切り裂くばかりで、一度として肉に届くことはない。逆に、スタッフたちが動くたびに、刺客たちの防具が紙細工のように切り裂かれ、その関節が音もなく砕かれていく。
彼らにとって、これは戦闘ではなく、ただの不衛生な害虫の処理に過ぎない。
「化、化け物か……!? 貴様ら、ただの使用人が何でこんな真似ができる!」
バルガスは、周囲でゴミのように積み上げられていく部下たちの姿を見て、ようやく自分が「触れてはならない神域」に踏み込んだことを理解した。
背後にある別荘から漏れ出る清浄な魔力。そして目の前にいる、感情を欠いたプロの掃除屋たち。
絶望が、冷たい汗となってバルガスの背中を伝う。彼は最後の一撃を放とうと、ありったけの魔力を大剣に込めて叫んだ。
「ふざけるな! 俺は……俺は賞金首を何百人も葬ってきたんだ! こんなところで――」
だが、その叫びは、不意に現れた「白」によって遮られた。
森の影からゆっくりと、音もなく姿を現したのは、一匹の真っ白な仔犬。
エリーゼが「ポチ」と名付けた、あの毛玉である。
ポチは普段、エリーゼの前では、尻尾をちぎれんばかりに振って甘え、彼女の膝の上を独占することに命を懸ける愛くるしい生き物だ。
けれど、今、その金色の瞳には、万物を凍りつかせるような捕食者の輝きが宿っていた。
「わん」
ポチが小さく、けれど地響きのように重厚な威厳を込めて鳴いた。
その瞬間、逃げ出そうとしていたバルガスの足元が、物理的な圧力を持った魔力によって地面に縫い付けられた。
バルガスは目を見開き、ガタガタと歯の根を鳴らした。
目の前にいるのは、ただの犬ではない。
その背後に透けて見えるのは、天を突くほどの巨躯を持ち、大陸の半分を焦土に変えかけたと伝えられる終焉の魔獣フェンリルの幻影。
ポチの視線は明確に言っていた。
『我の主の平穏を乱す羽虫どもめ。このまま塵となるか、我の腹を満たすか選べ。もっとも、貴様らのような不浄な肉は、我が舌を汚すにも値せぬがな』
バルガスは武器を落とし、失禁しそうな恐怖の中で膝を突いた。
自分たちが連れ戻そうとしていたエリーゼ・フォン・ロッテという令嬢が、これほどまでに恐ろしい「怪物」たちを平然と従え、笑っているという事実。
王都の権力闘争など、このアルカディアの深淵に比べれば、子供の泥遊びに等しかったのだ。
「……さて。ポチ殿もお見えになりましたし、仕上げといきましょうか」
ギルバートは懐中時計を取り出し、カチリと音を立てて蓋を閉めた。
「エリーゼ様が新しいブラウニーを焼き上げるまで、あと五分。その間に、血の一滴、塵の一粒も残さず消去してください。……ああ、それから。バルガス殿。貴方の持っていたロッテ伯爵の依頼書は、後でレオンハルト様がじっくりと拝見されるそうです。楽しみにしていなさい」
スタッフたちの影が伸び、バルガスたちの視界は暗転した。
王都から送り込まれた最強のはずの刺客たちは、別荘の玄関に辿り着くことさえ許されず、文字通り「塵一つ残さないお掃除」の対象となって消えていく。
数分後。
別荘の正門前には、戦いがあった形跡など微塵も残っていなかった。
踏み荒らされた芝生は、スタッフの土木魔術によって一瞬で修復され、散らばった武器の破片は溶解処理された。
アルカディアの原生林を吹き抜ける風は、相変わらずエリーゼの浄化魔法による清々しい香りを運んでいる。
ギルバートは満足げに頷くと、衣服を整え、再び「有能な老執事」の顔に戻った。
その足元では、ポチが何事もなかったかのように欠伸をし、エリーゼの待つキッチンの方角を見つめて、尻尾を小さく振っていた。
主の平和を守るための、短く、そして徹底的な「大掃除」。
それが完了したことを、屋敷の中にいる「管理人」エリーゼだけが、今日も知らないままでいたのである。
三 管理人のあずかり知らぬ戦い
その頃、別荘の奥に位置する広大なキッチンでは、私、エリーゼ・フォン・ロッテが呑気に鼻歌を歌いながら、新作のスイーツ作りに没頭していた。
この屋敷のキッチンは、王弟殿下の私物というだけあって、最新の魔導具が完備されたまさに料理人の夢のような空間だ。磨き上げられた大理石のカウンターには、王都の最高級店でもお目にかかれないような、アルカディア特産の新鮮な乳製品や、粒の揃ったナッツ、そして深い香りを放つカカオの塊が並んでいる。
「(ふふっ、今日はレオンハルト様が好きなナッツをたっぷり使ったブラウニーにしましょう。あのお掃除スタッフさんたちの分も多めに作らなきゃ。重労働の後には糖分が必要だものね)」
私は前世の記憶を頼りに、最適な配合で生地を練り上げていく。ボウルの中でチョコレートとバターが溶け合い、甘く濃厚な香りが立ち上る。前世の社畜時代、唯一の楽しみだった深夜のコンビニスイーツも悪くなかったけれど、こうして自分の手で、愛する人のために手間暇かけてお菓子を作る時間は、何物にも代えがたい贅沢だった。
窓の外から、時折「ガシャン!」という硬質な音や、「ひっ」という短い、鳥の鳴き声にしては少し不自然な悲鳴のようなものが聞こえてくる気がした。キッチンの床が、ごく微かにだが震えているようにも感じる。
「あら? なんだか外が騒がしいわね。ギルバートさんたちが、お庭の大きな岩でも撤去しているのかしら? それとも、新しいモニュメントでも設置しているのかも」
私は手を止め、窓から外を覗いてみた。しかし、そこには朝の光に照らされて輝く芝生と、穏やかに枝を揺らすアルカディアの原生林が広がっているだけだった。
実はこの時、屋敷の周囲ではギルバートさんたち『黒の牙』が、エリーゼ様の視界に血の一滴、塵の一粒も入れないという過保護な鉄則に従い、光学迷彩と防音の魔法を二重三重に張り巡らせていた。彼らは凄惨な戦いを、まるでお遊戯会でもするかのように秘匿しながら完遂しようとしていたのである。
「(さすが王弟殿下の別荘。セキュリティーも清掃も、私が気づかないうちに完璧に行われているのね。まさに、前世で夢見た完全自動化されたホワイト企業だわ! 私、管理人としてもっと頑張らないと、お給料泥棒になっちゃう)」
私は自分の仕事の少なさに少しばかりの危機感を覚えつつも、オーブンから漂ってくる、香ばしく焼き上がったナッツの香りに満足げに頷いた。
やがて、屋敷の重厚な玄関扉が静かに開き、規則正しい軍靴の音が廊下に響いた。
現れたのは、パトロールを終えたばかりのレオンハルト様だ。彼の銀色の髪は乱れ一つなく、その白金のような輝きは室内の魔導灯の下でさらに神々しさを増している。騎士服には埃一つ付いておらず、その表情はいつものように峻烈で、彫刻のように整っていた。けれど、その手には先ほどまで帯びていた抜き身の長剣が握られており、彼の纏う空気は、どことなく抜き身の刃のような鋭い熱を帯びているように見えた。
「おかえりなさい、レオンハルト様! お仕事……いえ、パトロールはお疲れ様でした。怪我などはありませんか?」
私はエプロンで手を拭いながら、駆け寄って彼を迎えた。レオンハルト様は私を見た瞬間、その厳しい表情を一瞬で霧散させ、春の陽だまりのような柔らかな眼差しへと変えた。
「……ああ、エリーゼ。ただいま。怪我など、あり得ない。……少しばかり、森の風紀を乱す害獣が紛れ込んでいてな。ギルバートたちと共に、速やかに駆除してきたところだ」
レオンハルト様はそう言うと、持っていた剣を流れるような所作で鞘に収めた。その動作があまりにも美しく、私は思わず見惚れてしまう。
「害獣? まあ、大変。アルカディアの森にはそんなに恐ろしい生き物がいるのですか? ポチや私が襲われたりしたら困りますものね。ありがとうございます、レオンハルト様。貴方がいてくださると、本当に心強いですわ!」
私は、レオンハルト様の「お仕事」を心から労うため、勢いよく彼の胸に飛び込んだ。
前世の社畜時代、私は一人で全ての責任を背負い込み、誰にも助けを求められずに立ち尽くしていた。けれど今、目の前には、私を守るために剣を振るってくれると信じている無敵の騎士様がいる。その事実が、私の心にこれ以上ない安らぎを与えてくれた。
不意の抱擁に、レオンハルト様は僅かに息を呑み、そして私の背中にそっと、けれど逃さないという強い意志を込めて腕を回した。
「(……ああ、温かい。この温もりを守るためなら、俺は何度でも手を汚そう。王都の連中が、あの汚らわしいロッテ伯爵や豚侯爵が君を奪いに来るというのなら、その根源ごと焼き払うまでだ。エリーゼ、君は何も知らなくていい。この楽園で、ただ笑っていればいいんだ)」
彼の胸の奥で渦巻く、常軌を逸した独占欲。
エリーゼは、自分を抱きしめる腕の力が、昨夜よりも少し強く、切実であることに気づきつつも、「きっと外での作業がよっぽど大変だったのね。体力自慢の騎士様でも、精神的に疲れることはあるもの。たっぷり甘いものを食べさせて、デトックスさせてあげなきゃ」と、献身的な社畜脳をフル稼働させていた。
「レオンハルト様、ブラウニーがちょうど焼き上がりましたの。少し冷ましたら、最高に美味しいはずです。ポチも一緒に、テラスでいただきましょう?」
「……そうだな。エリーゼの作ったものなら、毒であっても喜んで食すが、君の慈愛に満ちた菓子なら、俺の身体は光で満たされるだろう」
「もう、騎士様ったら、いつも大袈裟なんです。でも、自信作ですから期待していてくださいね」
私たちがそんな甘やかなやり取りをしていると、キッチンの勝手口から、一足先に「掃除」を終えたポチが戻ってきた。
ポチの白い毛並みには、先ほどまでの激戦の痕跡など一切なく、むしろ以前よりも清らかに輝いているように見える。彼は「ふん」と鼻を鳴らしてレオンハルト様を一瞥すると、これ見よがしに私の足首にそのふわふわな頭を擦り寄せてきた。
「わん!」
ポチの金色の瞳には、明らかに「我の方が先に掃除を終えたぞ」という、勝者の余裕が滲んでいた。
「あ、ポチもおかえりなさい! お外で遊んできたのね。ほら、ポチの分の特製ミルクも用意してあるわよ」
「……ポチ、貴様もだ。エリーゼに甘えるのはそこまでにしておけ。……それから、森の不法投棄物の処理は完璧だろうな?」
レオンハルト様が低い声で問いかけると、ポチは面倒臭そうに尻尾を一振りした。その動きは、伝説の魔獣としての威厳を欠片も感じさせないほど、エリーゼに懐いた飼い犬そのものだったが、その背後には「主の平穏を乱す者は、全て塵にした」という冷酷な報告が隠されていた。
ティータイムの準備を整え、私たちはテラスへと移動した。
テーブルの上には、ナッツの香ばしさとチョコレートの甘さが絶妙に調和したブラウニーが並べられ、私が丁寧に淹れたハーブティーからは、ミントの清涼な香りが漂っている。
目の前に広がる湖は、何事もなかったかのように穏やかな水面を湛え、アルカディアの原生林を吹き抜ける風は、相変わらずエリーゼの浄化魔法による清々しい香りを運んでいる。
さっきまで、この場所から数百メートルの距離で、王都から送り込まれた最強の刺客たちが「粗大ゴミ」として処理されていたとは、到底思えないほど穏やかな風景。
私は、自分が救いたいと願った騎士様が、実は私を独占するために伝説の魔獣と共闘し、国家規模の隠蔽工作まで行っている支配者であることに気づかないまま、幸せな一口を噛み締めていた。
「美味しいわ……。レオンハルト様、いかがですか?」
「……最高だ。君と、この場所でこうしているだけで、俺は世界を手に入れたような気分になれる」
「ふふっ、本当に騎士様はロマンチストね。でも、私も同じ気持ちですわ。王都のあの喧騒を忘れて、こうして大切な人と穏やかな時間を過ごせるなんて」
私の笑顔を見て、レオンハルト様の瞳には、より一層深く、昏い執着の光が宿る。
彼は、自分が作り上げたこの「最強の鳥籠」が、エリーゼにとっての真の楽園であることを確信していた。そして、この幸せを脅かすあらゆる存在を、神であろうと魔王であろうと、容赦なく排除する決意を新たにするのであった。
アルカディアの原生林を渡る風が、甘いブラウニーの香りと、隠しきれない独占欲の熱を運び去っていく。
エリーゼだけが、この平穏が「力」によって守り抜かれたものであることに気づかないまま、幸せな笑みを浮かべていた。
彼女の新生活は、王都を巻き込む巨大な嵐の予感を孕みながらも、今はただ、穏やかで甘いティータイムの中に溶け込んでいた。
四 勘違いの深まりと不穏な決意
アルカディアの地に、緩やかな黄昏が訪れようとしていた。
西の空は、燃えるような朱色から深い紫へと溶け込み始め、湖面はその色彩を鏡のように映し出して、この世のものとは思えない幻想的な光景を作り出している。原生林の木々が落とす長い影が、芝生の上を静かに侵食し、昼間の陽気とは異なる、しっとりと落ち着いた夜の予感が大気に混ざり始めていた。
私は、テラスでの穏やかなティータイムを終えた後、片付けを済ませてから、執事長のギルバートさんを呼び止めた。
「エリーゼ様、お呼びでしょうか」
ギルバートさんは、相変わらず一分の隙もない立ち振る舞いで私の前に現れた。夕闇の中でも、彼の銀髪は月の光を先取りしたかのように澄んで輝き、その所作の一つ一つが、この屋敷の品格を象徴しているかのようだ。
「ええ、ギルバートさん。今日のパトロール……じゃなくて、外構の清掃、本当にお疲れ様でした。なんだか今日は一段と大変そうだったけれど、もう落ち着いたのかしら?」
私は、自分が窓から見た外の騒がしさを思い出しながら尋ねた。ギルバートさんは、表情を一切崩さず、恭しく一礼する。
「ご安心ください、エリーゼ様。本日の清掃作業は全て、予定通りに完了いたしました。少々、不法投棄されたゴミが目につきましたが、我々スタッフの手によって適切に処理し、二度とこの神聖な地に立ち入れないよう処分いたしました。……ええ、塵一つ残さずに」
「まあ、不法投棄だなんて。こんなに綺麗な場所を汚そうとする人がいるなんて信じられないわね。でも、ギルバートさんたちがいてくださるから、私は安心していられます。……本当に、いつもありがとうございます」
私は申し訳なそうに、キッチンで焼き上げたばかりのブラウニーを、丁寧に包んで彼に差し出した。
「これ、余り物なんですけれど……。皆さんで召し上がってください。ナッツをたくさん入れたから、疲労回復にもいいはずよ。重労働の後は、やっぱり甘いものが必要ですものね」
ギルバートさんは、その包みを両手で、まるで国宝でも受け取るかのような神妙な面持ちで受け取った。
彼の瞳が、一瞬だけ激しく揺れたのを私は見逃さなかった。
実は、このブラウニーには、私自身も無自覚な「聖女の魔力」がたっぷりと込められている。それを食した者は、あらゆる呪縛から解き放たれ、魂の深淵まで癒やされるという至高の霊薬に等しい代物なのだ。
「……恐悦至極に存じます。皆、この慈愛に満ちたお菓子をいただけば、涙を流して喜ぶことでしょう。……エリーゼ様、貴女様は、我々にとって真に尊きお方でございます」
「もう、ギルバートさんったら大袈裟なんだから。ただのチョコレート菓子ですよ」
私は照れくさくなって、笑ってその場を後にした。
ギルバートさんは、私が去った後も、その包みを愛おしそうに見つめながら、影の中に潜む部下たちへ向けて、音のない声で「分け前は平等だ。一欠片も無駄にするな」と、厳命を下していたことにも気づかずに。
一方、レオンハルト様は自室に戻り、執務机の前に座っていた。
テラスで見せていたあの甘やかで穏やかな表情は消え失せ、今の彼の瞳には、かつて「影の宰相」として恐れられた時の、凍てつくような冷酷な光が宿っている。
彼の目の前には、ギルバートから報告として渡された一通の書面が置かれていた。
それは、先ほど門前で「処理」された刺客たちが所持していた、ロッテ伯爵とカトウェル侯爵の署名入りの連名状である。
内容は極めて不快なものだった。
エリーゼを「返却」せねば、王都の法に則り、彼女と共にいる騎士Aを「令嬢誘拐の重罪」として厳罰に処す。そして、ロッテ伯爵家への借金を盾に、有無を言わさぬ圧力をかけてくるという、下劣極まりない脅迫状。
「……身の程を知らぬ、羽虫どもが」
レオンハルト様の低い声が、静まり返った部屋に地響きのように響いた。
彼の手が、その書面を無造作に握りつぶす。
彼が「王弟殿下」としての本性を現す時、それは常に、自らが守るべき聖域――エリーゼという名の光を侵そうとする者が現れた時であった。
「(あの日、泥だらけのドレスで俺の元へ駆け寄り、俺を養うと言ってくれた彼女を……。あの薄汚れた豚のような男の所有物にしようとしたのか。……そして今、再びその魔手を伸ばそうとしていると)」
レオンハルト様の背後から、昏い魔力が霧のように立ち上り、部屋の温度を急速に下げていく。
彼は、自分がエリーゼの前で見せている「不遇な騎士」という仮面が、今この瞬間にも剥がれ落ちそうになるのを、鉄の意志で抑え込んでいた。
彼は、机上の魔導通信端末を起動させ、王都に潜伏させている部下たちへ、短く、けれど決定的な指令を送った。
「通達する。……ロッテ伯爵家が抱えている債権を、あらゆるルートを使い、即刻全て買い取れ。一ペニーたりとも残すな。……それから、カトウェル侯爵だ。奴の私的な醜聞、不正、そしてこれまで犠牲になった令嬢たちの記録を全て表に出せ。――あの日、エリーゼを泣かせ、絶望させた罪を、単なる命で贖わせるな。富と名声を剥ぎ取り、地を這う屈辱の中で生かし続けろ。……二度と、彼女の名前を口にできぬようにしてやる」
その決定は、王国の経済と政界を一夜にしてひっくり返すほどの、劇薬であった。
一人の伯爵家が破滅し、一人の有力な侯爵が獄に繋がれる。
そんな歴史的な粛清が、今、この静かな別荘の一室で決定されたのだ。
けれど、そんな修羅のような決意を固めたレオンハルト様の背後から、不意に、能天気なほど明るい声が聞こえてきた。
「レオンハルト様ー! お風呂の準備ができましたよー! お疲れ様ですから、ゆっくり温まってくださいね!」
扉の向こうから聞こえてくる、エリーゼの元気な声。
その瞬間、室内に満ちていた殺気も、凍てつくような冷気も、春の雪解けのように一瞬で霧散した。
レオンハルト様は、瞬時に「背景の騎士A」としての、穏やかで、どこか頼りなげな微笑みを顔に張り付けた。
「ああ、今行くよ、エリーゼ。……わざわざ知らせに来てくれて、ありがとう」
彼は立ち上がり、扉を開けた。そこには、エプロン姿で頬を少し赤らめたエリーゼが、満面の笑みで立っていた。
「騎士様、今日はパトロールでお庭をたくさん歩いたでしょう? ギルバートさんから聞いたけれど、不法投棄のゴミまで片付けてくださったんですってね。本当にお疲れ様でした。……今日は、君の隣で少し長く話をしてもいいだろうか、なんて言いたくなっちゃうくらい、私も騎士様とお話ししたい気分なんです!」
エリーゼは、自分の「推し」がどれほど献身的に働いているかを想像し、胸を熱くしていた。
レオンハルト様は、そんな彼女を見つめ、どこか縋るような、切実な色を瞳に浮かべた。
「……ああ、もちろんだ。俺の方こそ、君の顔を見ないと一日が終わらない。……今日は、君の隣で少し甘えてもいいだろうか」
「もちろんですわ! 私も、騎士様とお話ししたいことが山ほどありますの。……(やっぱり騎士様、今日はお疲れなのね。きっと、お仕事のプレッシャーが凄いわ。よし、管理人として、極上のマッサージでもしてあげなきゃ!)」
彼女の献身的な勘違いは、より一層、レオンハルト様を底なしの溺愛へと突き動かしていく。
レオンハルト様は、彼女の柔らかな手をそっと取り、自分の頬に寄せた。その温もりに、彼の心に溜まっていた毒気が、綺麗に浄化されていくのを感じる。
「(……ああ、やはりこの温もりこそが俺の全てだ。王都の連中など、どうなってもいい。……だが、君を傷つける可能性が微塵でもあるのなら、俺は喜んで悪魔になろう)」
二人は並んで廊下を歩き出す。
窓の外、夜の静寂に沈む庭園の隅では、ポチが「主の隣で寝るのは我だ」と主張するように、レオンハルト様の部屋の前を先回りして陣取っている。
アルカディアの原生林を吹き抜ける風が、湖の静謐さを運び、屋敷を優しく包み込んでいた。
王都を巻き込む巨大な嵐の予兆は、今や現実のものとして動き出している。けれど、この白亜の別荘の中だけは、チョコレートの甘い香りと、隠しきれない独占欲の熱、そして能天気なほどの幸福感に満たされていた。
私は、自分が救い出したはずの騎士様が、実は世界を影から操るラスボスであり、自分のために一国を揺るがす大粛清を開始したことなど、微塵も疑っていない。
ただ、大好きな「推し」の疲れを癒やしてあげたいという、その一心で、彼を浴室へと送り出すのであった。
こうして、アルカディアでの「偽りの隠居生活」は、裏側で凄まじい波乱を巻き起こしながら、表面上は穏やかで、そしてどこまでも甘く加速していくのである。
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