『推しの「貧乏騎士」を養うつもりでしたが、正体は「王弟殿下」だったようです。

とびぃ

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第六章 二人で街へ

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一 変装して街へ
 アルカディアの地での生活が始まってから、穏やかな数日が経過した。
 王都でのあの騒がしく、それでいてどこか非現実的だった日々が、今では遠い昔の出来事のように感じられる。
 窓の外に広がるのは、朝露に濡れてキラキラと輝く原生林の深い緑と、鏡のように静かな湖面。この別荘の空気は、吸い込むだけで細胞のひとつひとつが春の芽吹きのように息を吹き返すほどに清冽だ。
 私は管理人として、この王弟殿下の別荘を完璧に保つことに全霊を傾けていた。
 ……といっても、屋内は「福利厚生」という名の最強スタッフであるギルバートさんたちが、文字通り神速の仕事ぶりで磨き上げてしまうため、私が手を出せる余地はほとんどない。
 前世の社畜時代、深夜二時に帰宅して数時間の仮眠だけで戦場(オフィス)へ戻っていた私からすれば、この「何もしなくても家中の窓がピカピカ」という環境は、まさに奇跡のようなホワイト職場だった。
「……よし。お掃除やお洗濯は皆さんに任せきりだけれど、管理業務の要は、なんといっても家計と備蓄の把握よね」
 私は鏡の前で、蜂蜜色の髪を丁寧に整えた。母の形見である白いエプロンの紐をきゅっと締めると、管理人としてのスイッチが入る。
 現在の主な「管理業務」は、この別荘で共に暮らす私の最愛の推し、レオンハルト様の心身のサポートと、最近家族に加わった白い毛玉――もとい、ポチのお世話だ。
 リビングへ向かうと、既にテーブルの上には完璧な朝食が並んでいた。
 暖炉の前では、軽装の騎士服を纏ったレオンハルト様が、ゆったりとした仕草で魔導書をめくっている。その銀髪は朝の陽光を受けて白金のように煌めき、傍らに座るポチの真っ白な毛並みと見事なコントラストを描いていた。
「おはようございます、レオンハルト様。よく眠れましたか?」
 私の声に、レオンハルト様が顔を上げた。深紅の瞳が私を捉えた瞬間、その峻烈な美貌が、冬の太陽のような柔らかな熱を帯びる。かつて王宮の隅で「背景」として立っていた時の、あの消えてしまいそうに孤独な気配は、今の彼からは微塵も感じられない。
「ああ、おはよう、エリーゼ。君の顔を見ると、俺の朝はようやく動き出す気がする。……隣に来ないか? 君のために、ギルバートに頼んで特別な茶葉を用意させたんだ」
 レオンハルト様が、自分の隣の席を優しく叩く。その動作ひとつとっても、絵画のような気品が溢れ出していて、私は思わず心の中で「今日も私の推しが尊い……!」と手を合わせた。
「ありがとうございます。……あの、レオンハルト様。今日はお食事の後に、少しご相談があるんです」
「相談? 遠慮はいらない。俺にできることなら何でも言及してくれ。この屋敷を改築したいのか? それとも、王都から何か取り寄せたいものでもあるのか?」
 レオンハルト様の言葉が、相変わらず過保護で少しだけ重い。私が「お掃除がしたい」と言えば、翌日には家中が魔法のコーティングで覆われそうな勢いなのだ。
「いいえ、そんな贅沢は望んでいませんわ。……あの、実は今日、少しだけ街まで足を伸ばしてみませんか? 食料の備蓄はスタッフの皆さんが完璧に管理してくださっていますけれど、たまには新鮮な地元の市場をこの目で見て、物価を知っておくのも、管理人の務めだと思うんです!」
 私の提案に、レオンハルト様が僅かに眉を動かした。その視線が、私の足元で「わん!」と可愛く鳴いたポチへと移る。
「街、か。……確かに、君をこの森の中に閉じ込めておくばかりでは、気が滅入ってしまうかもしれないな。……俺と二人で出かけるのは、嫌か?」
「嫌なわけありません! むしろ、騎士様と一緒に歩けるなんて光栄ですわ」
 私は全力で肯定した。けれど、ふとある不安が脳裏をよぎる。
 レオンハルト様は、自称「名もなき騎士」だが、その実力も美貌も規格外だ。王都から逃避行中の身としては、あまり目立つのは良くないのではないだろうか。
「でも、レオンハルト様。……貴方は、その、とっても素敵ですから。……あ、いえ、近衛騎士団の方ですし、あまり顔を知られるのはマズいですよね? 変装、とか……必要でしょうか」
 私が申し訳なさそうに尋ねると、レオンハルト様はふっと口角を上げた。その余裕のある微笑みに、私の心臓がどきりと跳ねる。
「心配いらない、エリーゼ。そういう時のための用意は、既にここにある。……ギルバート」
 彼が名前を呼ぶと、音もなく執事長が現れた。その手にある銀のトレイには、一見して高級そうな装飾が施された、黒縁の伊達眼鏡が載せられている。
「これを、使うつもりだったのだ。……少し、待っていてくれ」
 レオンハルト様は慣れた手つきで眼鏡を装着し、髪を少しだけラフに崩した。
 その瞬間。私の視界にいた「最強の騎士」が、一変した。
「(……な、なんてこと!)」
 眼鏡のレンズ越しに見る深紅の瞳は、いつもより知性的で、どこか影のある大人の色気を醸し出している。隠しきれない王者のオーラが、眼鏡というフィルターを通すことで、かえって「お忍び中の若き貴公子」といった風情へと進化してしまっていた。
 破壊力が数倍に跳ね上がっている。変装というより、新しい属性の追加ではないだろうか。
「どうだ、エリーゼ。これなら、俺だとは気づかれまい。……やはり、不自然か?」
 鏡を見ずに私を見つめてくるレオンハルト様に、私は首を激しく横に振った。
「い、いえ! 完璧ですわ。……完璧すぎて、別の意味で女性たちの注目を一身に集めてしまいそうで心配なだけで。……でも、とっても似合っています」
 私の正直な感想に、レオンハルト様は満足そうに目を細めた。
「君がそう言ってくれるなら、自信を持って歩ける。……ギルバート、外出の準備を。ポチも連れて行く。エリーゼ、歩きやすい靴を用意させよう」
「はい! ありがとうございます」
 私は急いで身支度を整えるために自室へ戻った。
 これから向かうのは、アルカディア公爵領の中心街。
 前世の社畜時代に培った、一円単位の節約精神と主婦力(?)を試す時が来たのだ。騎士様の薄給を無駄にしないよう、今日は徹底的に安い店を回り、家計管理の基盤を作ってやる。
 そんな意気込みを胸に、私は母の形見のエプロンを外し、質素ながらも清潔な、淡いクリーム色のドレスに袖を通した。
 準備を終えて玄関ホールへ降りると、そこには既にレオンハルト様と、興奮した様子で尻尾を振るポチが待っていた。
「準備はいいか、エリーゼ。……君を、この別荘から連れ出すのは初めてだな」
 レオンハルト様が、革の手袋をした大きな手を私に差し出す。
「はい、楽しみですわ。騎士様、今日はよろしくお願いしますね」
 その手を取ると、温かな体温が私の掌から全身へと伝わってきた。
 別荘の重厚な扉が開かれ、私たちは外の世界へと踏み出した。
 原生林を抜ける風はどこまでも心地よく、道端に咲く花々は朝露を弾いて輝いている。湖面を渡る風が、私の髪を優しく揺らした。
「(……ああ。なんて幸せな朝なのかしら)」
 かつて、深夜のオフィスでキーボードを叩きながら、死んだような目で液晶を見つめていたあの頃。窓のない部屋で、ただ時間が過ぎるのを待っていたあの暗い夜。
 今の私を見たら、かつての私は何と言うだろう。
 「大丈夫、明けない夜はないわ。貴女は数年後、大好きな推しの騎士様と一緒に、世界で一番美しい朝の中を歩いているのよ」と、胸を張って教えてあげたい。
 隣を歩くレオンハルト様の規則正しい足音。
 足元で楽しそうに駆け回るポチの気配。
 アルカディアの原生林を抜ける道すがら、私は初めて見る「自由な景色」に目を輝かせていた。道端のハーブの香りを楽しみ、時折聞こえる小鳥のさえずりに耳を澄ませる。
 レオンハルト様は、そんな私を急かすことなく、一定の距離を保ちながら優しく見守ってくれている。
「エリーゼ。……あそこの高台からなら、街の全景が見える。少し寄っていこう」
 彼に促され、小高い丘の上へと登ると、そこには驚くほど活気あるアルカディアの街並みが広がっていた。オレンジ色の屋根が連なり、中央広場では市場が立っているのが遠目にもわかる。
「(……すごい。活気があるわ。あそこが、私たちの新しい生活の舞台なのね)」
 私は期待に胸を膨らませ、隣に立つ眼鏡姿の騎士様を、こっそりと盗み見た。
 朝日に照らされた彼の横顔は、やはりというかなんというか、変装の眼鏡すらもアクセサリーの一部にしてしまうほどの完成度だ。
「さあ、行こう。君が望む、新しい生活の始まりだ」
 レオンハルト様の言葉に、私は力強く頷いた。
 王都での過酷な日々も、理不尽な実家からの追求も、今はすべて霧の向こう側。
 私は、最強の「モブ騎士」様が用意してくれたこの神聖な地で、管理人として、そして彼のパートナーとして、新しい一歩を力強く踏み出すのであった。
 市場でジャガイモの底値を確認するという野望を秘めた私の瞳は、サファイアのような髪飾りを贈られることになるとは知らず、ひたすらキラキラと輝き続けていた。


二 領民の反応
 アルカディア公爵領の中心街へと足を踏み入れた瞬間、私はその圧倒的な活気と、それでいてどこか気品に満ちた秩序の美しさに、思わず足を止めて感嘆の息を漏らしてしまった。
 中央広場には巨大な白大理石の噴水が鎮座し、その精緻な彫刻の間を縫って吹き上がる水飛沫が、朝の光を浴びて虹色のアーチを描いている。広場を囲むようにして整然と並ぶレンガ造りの建物は、どれも歴史の重みを感じさせつつも、隅々まで手入れが行き届いており、道行く人々の足取りも軽やかだ。
「(……なんて素晴らしい統治なのかしら。ゴミ一つ落ちていないし、人々の表情に少しの不安も陰りも見えない。王弟殿下という方は、よほど優れた、そして慈悲深い領主様なのね)」
 私は、その見事な景観を管理人としての視点で分析しながら、心の中で深く感心していた。前世の東京の繁華街のような、どこか殺伐とした、常に誰かに急かされているような雰囲気はここにはない。人々は互いに挨拶を交わし、子供たちは笑い声を上げて駆け回り、老夫婦はベンチで穏やかに日向ぼっこを楽しんでいる。
「どうした、エリーゼ。足が止まっているようだが、どこか具合でも悪いのか?」
 不意に、隣を歩くレオンハルト様が、心配そうに私の顔を覗き込んできた。黒縁の伊達眼鏡をかけた彼は、王宮での「背景」としての影を完全に消し去り、知的な貴公子としてのオーラを周囲に振りまいている。
「いいえ、あまりの街の美しさに驚いてしまっただけです。騎士様、ここの領主様は本当に立派な方なのですね。街全体が、まるで一つの大きな家族のように温かいわ」
 私が無邪気に称賛を口にすると、レオンハルト様は眼鏡を指先で微かに押し上げ、複雑な笑みを浮かべた。
「……そうか。君がそう言ってくれるなら、この地の主も報われるだろうな。……だが、今日の本分は買い出しだったはずだ。あまり見惚れていると、市場の特売品がなくなってしまうぞ」
「あっ! そうでしたわ! 管理人としたことが、風景に気を取られて実益を忘れるなんて」
 私は慌てて、腕に下げた買い物籠を握り直した。
 目指すは、広場の一角で賑わいを見せている青空市場だ。色とりどりの布で覆われた屋台には、採れたての瑞々しい野菜や、芳醇な香りを放つ果実、そしてアルカディア湖で獲れたばかりの新鮮な魚介類が所狭しと並べられている。
 私は前世の社畜時代に叩き込まれた、一円単位の節約精神――いわば「底値ハンター」としての魂を燃え上がらせていた。騎士様の給料(だと私が信じている、おそらくは決して多くはないであろう手当)を無駄にしないためにも、今日は徹底的に良い品を安く手に入れてみせる。
 ところが、私たちが市場の中へと足を踏み入れた瞬間、奇妙な現象が起こり始めた。
「(……あら? なんだか、急に静かになったような……)」
 先ほどまで喧騒に包まれていた市場の空気が、私たちが通るたびに、まるで波が引くように静まり返っていくのだ。
 ふと視線を感じて横を向くと、屋台の店主も、買い物中の主婦も、さらには走り回っていた子供までもが、一様に驚愕の表情を浮かべてこちらを凝視していた。
 特に、店先で豪快に魚を捌いていた大柄な店主などは、レオンハルト様の姿を見た瞬間に包丁を取り落とし、そのまま石畳の上に膝を突いて平伏しようとしている。
「(えっ!? な、何が起きているの? もしかして、騎士様の変装が怪しすぎて、王都からの不審者だと思われているのかしら!?)」
 私が不安になって身を竦ませ、レオンハルト様の袖をぎゅっと掴んだ、その時だった。
 レオンハルト様は眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、周囲の領民たちに向けて、左手の指一本をそっと自分の唇に当てる――「静かにせよ」という、短くも絶対的な威厳を湛えた合図を送った。
 その瞬間。
 平伏しかけていた店主も、驚きのあまり声を上げようとしていた通行人も、一斉にハッとした顔をして、口を固く引き結んだ。
「(……えっ? 今、何が起きたの?)」
 次の瞬間、人々はまるで魔法が解けたかのように、極めて不自然なほど「普通」の営業を再開し始めた。
「へ、へい! いらっしゃい! 今日も……じゃなくて、今日はいいジャガイモが入ってるぜ、お嬢さん!」
 先ほどの魚屋の店主が、顔を真っ赤にしながら、なぜか八百屋の真似事をしてジャガイモを差し出してきた。
「……レオンハルト様。なんだか皆さん、凄く緊張していらっしゃいませんか? 私たち、何かマズいことでもしたでしょうか」
 私は小声で尋ねた。心臓がバクバクと鳴っている。もしこの街のルールを破ってしまったのなら、管理人失格だ。
 レオンハルト様は、一点の曇りもない真顔で、私の肩を優しく抱き寄せた。
「気にするな、エリーゼ。アルカディアの民は、他所から来た美男美女のカップルに対して、少しばかり観察眼が鋭いだけでな。君があまりにも美しいから、見惚れて言葉を失っただけだ」
「もう、騎士様ったらお上手なんだから! でも、そんな理由ならいいんですけれど……」
 私は彼の言葉を「騎士様特有の過保護な冗談」として受け流したが、実際には周囲の空気は、私には到底理解できないほどの熱を帯びていた。
 領民たちの瞳には、驚愕と、戸惑い、そしてそれらを遥かに上回る猛烈な「歓喜」と「感動」が充満していたのだ。
『おい、見ろよ……あのお方が。あの、氷の王弟殿下と恐れられるレオンハルト様が、あんなに蕩けたような、甘い顔をして女性と歩いているなんて!』
『しかも見ろ、あの方、ご自身で荷物を持とうとしていらっしゃるぞ。あの、万軍を指揮するその手で、市場の野菜袋を!』
『静かにしろ、邪魔をするなと合図されただろう! あれは間違いなく「お忍びデート」だ。俺たちの領主様がようやく見つけた、大切なお方なんだ……!』
 領民たちは、口には出さないものの、心の中で全力の「祝福」を叫んでいた。
 彼らにとって、レオンハルト様は絶対的な守護神であり、同時にそのあまりの孤独さを案じられる対象でもあった。その主君が、見たこともないほど柔らかな微笑みを浮かべ、幸せそうに一人の令嬢をエスコートしている。その姿は、領民たちにとって、どんな祭典よりも喜ばしい光景だった。
「あ、レオンハルト様! 見てください、あそこのジャガイモ、王都の高級店と比べたら三分の一以下ですわ! しかもこんなに粒が揃っていて、土の匂いも生き生きとしている……!」
 私は値札を見て、感動のあまり声を上げた。前世のスーパーの特売日でも、これほどの衝撃はなかった。
「レオンハルト様、今日はジャガイモをたっぷり使った煮っ転がしにしましょう! 騎士様、力仕事の後には根菜が必要ですから」
「……ああ。エリーゼが選ぶものなら、石ころであっても俺にはご馳走だ。好きなだけ買うといい」
「もう、石ころは食べられませんわ。……店主さん、これ、三ポンドください!」
 私が元気に注文すると、店主は震える手でジャガイモを袋に詰め始めた。
「へ、へい! 毎度……じゃなくて、ありがとうございます! お嬢さん、そちらの旦那様は幸せ者だ。こんなに熱心に台所を預かってくれる奥方をお持ちで……。お近づきの印に、このタマネギもサービスだ、持っていきな!」
「まあ! サービスなんて、ありがとうございます! アルカディアの方は、本当に親切なんですのね」
 私はホクホク顔で袋を受け取った。店主が、私の背後に立つレオンハルト様から「……余計なことは言うな、だが見事な采配だ」という、無言かつ冷徹な「褒賞」の視線を受けて、涙目になりながら直立不動になっていることには全く気づかなかった。
 ポチもまた、自分の存在を消すように大人しく私の足元に寄り添っていたが、その金色の瞳は市場の隅々にまで光を走らせ、不審な動きをする者がいないか、伝説の魔獣としての警戒を怠っていなかった。
 ……もっとも、私が「ポチ、お利口ね」と頭を撫でた瞬間に、全ての威厳を投げ捨てて「くぅん」と喉を鳴らして甘えていたが。
「(……ああ、なんていい職場環境かしら。物価は安いし、人は親切だし、騎士様は格好いいし。管理人として、この街の経済も守っていかなくちゃ!)」
 私は、自分が救い出した「モブ騎士」様が、実はこの街の絶対君主であり、街中の人々が「自分たちの殿下の恋路を邪魔してはならない」という暗黙の了解のもと、全力で「一般市民」を演じているという壮大な茶番劇に、今日も今日とて気づくことはなかった。
 カゴいっぱいに詰め込まれたジャガイモの重みは、私にとって、この地で生きていくための「生活の重み」であり、何物にも代えがたい幸福の証であった。
 私は弾むような足取りで、次の屋台を目指して歩き出す。その後ろを、眼鏡をかけた最強の「王弟」が、荷物持ちの従者のような顔をしながら、誰にも見せたことのない至福の表情で追っていくのであった。


三 守護騎士の本気
 市場での「大戦果」を抱え、私たちはアルカディアの中心街を抜け、別荘へと続く近道の路地へと足を踏み入れた。
 先ほどまでの市場の喧騒が嘘のように、高い石壁に挟まれた通りはひんやりとした静寂に包まれている。頭上を仰げば、切り取られたような青空が遠く、石畳の隙間からは湿った苔の匂いが微かに漂っていた。
「(ふふっ、今日は本当に良い買い物ができたわ。あの大きなジャガイモに、おまけしてもらったタマネギ……。これだけあれば、一週間はレオンハルト様に最高の栄養を提供できるわね)」
 私は、両腕に抱えた買い物籠の重みを、幸せな「仕事の対価」として噛み締めていた。
 前世の社畜時代、スーパーの閉店間際に滑り込み、半額シールの貼られた惣菜を奪い合うように買っていた頃とは大違いだ。自分の選んだ新鮮な食材で、大好きな人の健康を守る。管理人として、これ以上のやりがいは他にない。
「エリーゼ、やはりその荷物は重すぎる。半分……いや、すべて俺が持とう。君の細い腕が赤くなってしまっているじゃないか」
 隣を歩くレオンハルト様が、眼鏡の奥の瞳を痛ましげに揺らしながら、何度も手を差し伸べてくる。けれど、私はその度に「これも管理人としてのトレーニングですから!」と、元気よくお断りしていた。
「(だって、騎士様の手は剣を振るうための神聖なものなんですもの。そんな手にジャガイモの袋を持たせるなんて、管理人失格だわ。……それに、こうして隣を歩いているだけで、私は十分すぎるほどのエスコートを受けているんだから)」
 騎士服の袖を少し捲り、知的な眼鏡姿で私の歩調に合わせてくれるレオンハルト様。その姿は、どんな着飾った貴公子よりも気高く、見惚れてしまうほどに美しい。そんな彼と「生活」という名の日常を共有しているという事実に、私の頬は自然と緩んでしまう。
 だが、そんな穏やかな多幸感を切り裂くように、前方の路地の曲がり角から、複数の不穏な足音が響いてきた。
「……おいおい、見ろよ。こんな裏通りに、上等なカモが迷い込んできやがったぜ」
 現れたのは、酒の腐ったような臭いを撒き散らした三人の男たちだった。
 無精髭を生やし、着古した汚れだらけの服を纏った彼らの瞳は、昼間から浴びた酒のせいか赤く濁っている。その手には、威嚇するように小刻みに揺れる錆びたナイフが握られていた。
 彼らはアルカディアの善良な領民ではないだろう。どこの街にも一定数存在する、その日暮らしの博打に負け、自暴自棄になったゴロツキ。あるいは、豊かな領地の恩恵に肖りきれず、歪んだ欲望を募らせた脱落者たちだ。
「(……っ!)」
 私は反射的に買い物籠を抱え込み、一歩後退した。
 前世で理不尽なクレーマーや、深夜の駅で絡んでくる酔っ払いの相手をしてきた経験から、こういう輩がいかに話の通じない存在であるかは身に染みて分かっている。物理的な暴力の気配に、背筋を冷たい蛇が這い上がるような戦慄が走った。
「へへっ、随分と別嬪さんじゃねえか。その抱えてる美味そうな匂いのする袋……それに、その綺麗な髪。王都から逃げてきたお嬢ちゃんか何かか?」
 リーダー格の、前歯の欠けた男が下卑た笑みを浮かべ、私の肩へと手を伸ばそうとした。
 その指先が私の服に触れるかという、まさにその刹那。
「グルルルルルル……ッ」
 足元で、ポチがこれまで聞いたこともないような、地響きのような唸り声を上げた。
 真っ白な毛玉のような身体が、一瞬にして逆立ち、可愛い仔犬のものとは思えない獰猛な魔力が周囲に拡散される。伝説の魔獣フェンリルとしての本能が、主を汚そうとする不浄な存在に対して、根源的な「排除」の警告を発したのだ。
 だが、ポチがその牙を男の喉笛に突き立てるよりも、レオンハルト様の「変化」の方が一瞬早かった。
「――その汚らわしい手を、彼女に向けるな」
 レオンハルト様の声が、路地の静寂を切り裂いた。
 それは、先ほどまで私に向けていた甘く穏やかなものとは、対極にある響きだった。
 低く、深く、そして万物を凍てつかせるような、冷徹な殺意。
 彼が私の前に一歩踏み出した瞬間、周囲の温度が劇的に下がったような錯覚を覚えた。
 路地を吹き抜ける風が止まり、小鳥のさえずりも、遠くの街の喧騒も、すべてが彼を中心とした圧倒的な「圧力」によって消し飛ばされる。
 レオンハルト様は剣を抜くことさえしなかった。
 ただ、黒縁の眼鏡をわずかに指先で上げ、その奥にある深紅の瞳を、男たちへと向けただけ。
「……な、なんだ、この野郎……。眼鏡なんかつけて、優男のフリしやがって……っ!?」
 威勢よく啖呵を切ろうとした男の言葉が、喉の奥で氷ついた。
 男たちの視界には、もはや「眼鏡をかけた優男」など映っていなかった。
 彼らが目撃したのは、血の海と屍の山の上に君臨し、無数の命をその一振りで刈り取ってきた、真なる「修羅」の幻影。王弟殿下として、国の闇を、敵対する勢力を、容赦なく根絶やしにしてきた冷酷な支配者の本性。
 その背後に立ち上る絶望的なまでの魔力の奔流は、一介のゴロツキであっても、魂が「死」を直感するのに十分な破壊力を持っていた。
「あ……、あ……っ」
 リーダー格の男は、持っていたナイフを石畳に落とした。カチャン、という高い音が、不気味なほど大きく響く。
 彼の膝はガタガタと震え、顔からは土気色を通り越して、死人のような白さが広がっていく。
「ひ、ひっ……! 化け物……! 助けてくれ、悪かった、悪気があったんだ……っ!」
 男たちは、まるで透明な巨人に頭を抑えつけられたかのように、その場に膝を突き、額を石畳に擦り付けた。
 一歩でも動けば、自分の存在そのものが、この世の因果から消去される。
 そんな絶対的な恐怖が、彼らの理性を一瞬で粉砕してしまったのだ。
「……失せろ。二度と、彼女の視界にその汚物を晒すな」
 レオンハルト様の冷酷な宣告。
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男たちは腰を抜かし、這うようにして路地の奥へと逃げ去っていった。曲がり角の向こうから、何かに怯えるような、獣のような悲鳴が聞こえてくる。
「あら……?」
 私は呆気に取られて、去っていった男たちの背中を見つめていた。
「(……なんだか、もの凄く急に反省して逃げていきましたわね。……やっぱりレオンハルト様の騎士としての威厳が、彼らの眠っていた良心を呼び覚ましたのかしら? さすが近衛騎士団、マナー教育も徹底されているのね)」
 私は、自分が救い出した「モブ騎士」様が、実は視線一つで人の精神を崩壊させ、一国の存亡すら左右するレベルのラスボスであることに、今日も今日とて微塵も気づかない。
 ただ、私を守るために毅然と立ち塞がってくれた、彼の背中の頼もしさに胸を熱くしていた。
「エリーゼ、怖い思いをさせたな。……もう大丈夫だ」
 レオンハルト様が振り返った。
 その瞳からは、先ほどまでの修羅のような殺気は跡形もなく消え失せ、私を案じる、いつもの優しく甘い光が戻っている。
 彼は眼鏡を少し直し、大きな手で私の肩をそっと抱き寄せた。
「いいえ、レオンハルト様。騎士様がいてくださったから、私、全然怖くありませんでしたわ。……やっぱり、貴方は私のヒーローですわね」
 私が満面の笑みで見上げると、レオンハルト様は一瞬だけ呆然としたような顔をした。
 そして、眼鏡の奥の瞳を愛おしげに細めると、私の頭を優しく、慈しむように撫でてくれた。
「……ヒーロー、か。……君がそう言ってくれるなら、俺はどんな怪物にでも、神にでもなろう。……エリーゼ、君の平和を乱すものは、この世界に一塵も残さないと誓うよ」
 その言葉に含まれた、極限まで重く、深い独占欲の熱。
 私はそれを「騎士様特有の、真面目で不器用な情熱」と解釈し、幸せな気分で彼に寄り添った。
「さあ、帰りましょう。早く戻って、このジャガイモを美味しく料理しなきゃ。……あ、ポチも。貴方も守ってくれようとして、ありがとうね」
 私は足元で、すっかり「ただの可愛いワンちゃん」に戻って尻尾を振るポチの頭も撫でた。
 ポチは「わん!」と誇らしげに鳴き、レオンハルト様をチラリと見て、鼻を鳴らした。
 『お前よりも我の方が先に唸ったぞ』とでも言いたげな態度に、レオンハルト様の眉間にわずかな皺が寄る。
「(……ふふっ、二人とも本当に仲良しなんだから)」
 夕闇が迫り始めた路地を、私たちは寄り添いながら歩き出す。
 石畳を叩くレオンハルト様の力強い足音。
 抱えた買い物籠から漂う、新鮮な土と野菜の香り。
 そして、隣にいる愛する人の、隠しきれない熱情。
 王都の冷たい壁際で凍えていたあの日々が、もはや思い出せないほどに。
 私は、自分が作り上げた「最強の推しを養う」という名の楽園で、誰にも邪魔されない幸せな帰路を、一歩ずつ大切に踏みしめていくのであった。
 背後の曲がり角に、恐怖のあまり捨て去られた男たちのナイフが、月光を反射して虚しく転がっていたが、そんな不浄な光景は、もはや私たちの「ホワイトな新生活」には一滴も混ざることはなかった。


四 給料の前払い
 中心街の活気ある喧騒を離れ、別荘へと続く緩やかな上り坂に差し掛かる頃、アルカディアの地には深い黄金色の黄昏が訪れようとしていた。
 西の空は、燃えるような朱色から、地平線に近い部分は濃い紫へと溶け込み始め、その境界線はまるで上質なシルクを重ねたような繊細な階層を描いている。湖面はその色彩を鏡のように映し出し、風が止んだ一瞬、世界が二つに分かれたかのような錯覚を覚えるほどの静謐さに包まれていた。
 私の腕には、ずっしりとしたジャガイモの袋と、おまけでもらったタマネギ、そして新鮮な卵の入った籠が下がっている。その物理的な重みは、管理人としての職務を全うしたという確かな証であり、前世の社畜時代には決して味わえなかった「手触りのある幸福」だった。
「エリーゼ。やはりその荷物は重すぎる。……俺が持とう。君の細い指に、籠の持ち手の跡がついてしまっているじゃないか」
 隣を歩くレオンハルト様が、眼鏡の奥の赤い瞳を痛ましげに揺らしながら、何度も手を差し伸べてくる。けれど、私はその度に「これも管理人としての筋トレですから!」と、元気よくお断りしていた。
「(だって、騎士様の手は剣を振るうための神聖なものなんですもの。こんな重たい野菜袋を持たせるなんて、管理人失格だわ。……それに、こうして隣を歩いているだけで、私は十分すぎるほどのエスコートを受けているんだから)」
 騎士服の袖を少しだけ捲り、知的な眼鏡姿で私の歩調に合わせてくれるレオンハルト様。その姿は、どんな着飾った貴公子よりも気高く、それでいて今の私だけに向けられた独占的な熱情を孕んでいる。そんな彼と「生活」という名の日常を共有しているという事実に、私の頬は自然と緩んでしまう。
 そんな時だった。
 広場から少し外れた、人通りの途絶えた路地の一角に、ひっそりと佇む一軒の店が目に留まった。
 蔦の絡まる石造りの壁に、深い藍色の看板。そこには控えめな銀の細工で、何らかの意匠が施されている。窓越しに見える店内は、アンティークな魔導ランプの琥珀色の光に満たされ、埃一つないショーケースの中に何かが煌めいていた。
「……エリーゼ。少し、寄らせてくれ」
 レオンハルト様が私の肩にそっと手を添え、店の中へと促した。
 カウベルの澄んだ音が店内に響くと、奥から出てきた店主と思われる初老の男性が、私たちの姿――正確にはレオンハルト様の顔を見た瞬間、持っていた羽箒を床に落とした。
「……っ!? ……ご、ご、ご来、ご来店ありがとうございます、お、お客様……!」
 店主の顔は、一瞬にして土気色を通り越して真っ白になっていた。その膝がガクガクと震えているのが、カウンター越しにもはっきりと分かる。
「(あら……? ここの店主さんも、なんだか凄く緊張していらっしゃるわね。やっぱり、近衛騎士様の放つ威厳っていうのは、眼鏡一つじゃ隠しきれないのかしら。それとも、レオンハルト様の顔立ちが整いすぎていて、あまりの神々しさに気圧されているの?)」
 私は「お忍びの騎士様ですから、どうかお気になさらず」という気持ちを込めて会釈をしたが、店主はさらに深く腰を折って、今にも床に平伏せんばかりの勢いだった。
 レオンハルト様はそんな店主を意に介さず、迷いのない足取りで一つのショーケースの前へと進んだ。
「これを見せてくれ」
 彼が指差したのは、店内で最も高い場所に、ベルベットのクッションに乗せられて鎮座していた一つの髪飾りだった。
 それは、アルカディアの澄んだ湖の色をそのまま閉じ込めたような、大粒のサファイアをあしらった白銀の細工物。サファイアは夕闇の光を吸い込んで、中心から深い青色の燐光を放っている。周囲を囲む白銀の台座は、まるで凍てつく氷の結晶のように繊細で、職人が一生を懸けて作り上げた傑作であることは、素人の私が見ても一目で分かった。
「(……わあ。なんて、なんて綺麗なのかしら)」
 私は、思わず買い物籠を抱える手から力が抜けるのを感じた。
 かつての伯爵令嬢時代、実家の宝飾品はどれも借金のカタに消えていき、私が身につけていたのは、母の形見の小さなペンダントだけだった。
 ましてや、前世の社畜時代、自分のために買った装飾品といえば、深夜の駅ビルで衝動買いした、メッキの剥げやすい安物のピアスくらいなものだ。三〇〇円のピアスを耳につけ、死んだような目で液晶画面に向かっていたあの頃。
 目の前で輝くサファイアは、そんな過去の私を優しく否定するかのように、圧倒的な美しさでそこに存在していた。
「……エリーゼ。これを君に」
「ええっ!? い、いけません、レオンハルト様! こんなに高価なもの……! 一体ジャガイモが何万個買えると思っているんですか!」
 私は反射的に叫んでいた。管理人としての算盤が脳内で猛烈に弾き出される。この輝き、この細工の細かさ。どう見ても、一介の騎士がパトロールのついでに買えるような代物ではない。
「いけません、レオンハルト様! 騎士様の……その、少ないお給料を、こんなことに使わせるわけにはいきませんわ。……私、お掃除の時に邪魔にならない、丈夫な紐があれば十分なんです!」
 私が必死に首を振ると、レオンハルト様は眼鏡を指先で僅かに押し上げ、困ったような、けれど逃さないという意志を込めた瞳で私を見つめた。
「……エリーゼ。これは、君への『管理人の給料』の前払いだ」
「き、給料の前払い……?」
 その言葉に、私は一瞬だけ思考を停止させた。
「(……お給料の前払い。……ああ、なるほど!)」
 私の社畜脳が、即座に都合の良い解釈を導き出した。
 そうか。これは、王弟殿下から預かっている「管理予算」の一部なのだ。
 きっと、王弟殿下という方は、管理人の身なりを整えることも「屋敷の格」を守るための重要な業務だと考えていらっしゃるに違いない。
 前世のホワイト企業だって、制服の支給や、身だしなみのための手当があったりした。これも、その延長線上にある「福利厚生」なのだわ。
「そう、なんですのね? これはあくまでお仕事のための……管理人の制服、のような意味合いなんですのね?」
「……ああ。君がこれを身につけていることで、俺の心が……いや、この別荘の管理が円滑に進む。君は、自分の価値をあまりにも低く見積もりすぎている。……この石よりも、君の髪に触れる光の方が、俺にとっては遥かに価値があるんだ」
 レオンハルト様の言葉は、どこまでも深く、重い熱を帯びていた。
 彼は店主に向けて短く頷くと、店主は泡を吹きそうな勢いで、震える手で商品をケースから取り出した。
「……失礼するよ」
 レオンハルト様が私の背後に回り、私の蜂蜜色の髪にそっと触れた。
 大きな、剣を振るうために鍛えられた掌の熱が、首筋に伝わってきて、心臓が爆発しそうになる。
 彼は、丁寧に髪の一部を束ねると、そこにサファイアの飾りを差し込んだ。
「……やはり、似合っている。……まるで、この石が君に選ばれるのを待っていたかのようだ」
 鏡の中に映った自分は、自分ではない誰かのように見えた。
 蜂蜜色の髪の中で、深い青色の宝石が誇らしげに輝いている。それは、私が「商品」として売られようとしていた王都の薄暗い日々を、一瞬で過去へと追いやってしまうほどの色鮮やかな光だった。
「(……ああ。やっぱり、この人は不器用なだけなのね)」
 私は、目元を熱くしながら思った。
 彼は、私が自分を卑下しないように、「お給料の前払い」なんていうもっともらしい理由を考えてくれたのだ。私のことを、一人の独立した管理人として、そしてパートナーとして、精一杯尊重してくれようとしている。
 本当は、彼自身の生活だって楽ではないはずなのに。この髪飾りのために、どれだけの節約を強いられることになるのか……。
「……ありがとうございます、レオンハルト様。私、一生大切にします。……お給料を前借りした分、これからはさらに気合を入れて、お掃除に、お洗濯に、そして騎士様の健康管理に邁進いたしますわ!」
 私が拳を握って宣言すると、レオンハルト様は眼鏡を外し、その真っ直ぐで昏い情熱を湛えた深紅の瞳で私を捉えた。
「……ああ。一生だ。……エリーゼ、これは契約だ。君の時間は、髪の一本に至るまで、俺が全て買い取った。……絶対に、逃がさないからな」
 その言葉に含まれた、極限まで重く、深い独占欲の熱。
 けれど、今の私には、それが「非常に厳格な雇用契約の確認」にしか聞こえていなかった。
「はい! 望むところですわ! 私も、騎士様に一生ついていく覚悟です!」
 私が元気に答えると、レオンハルト様は一瞬だけ呆然としたような顔をしたが、すぐに諦めたような、それでいて至福に満ちた笑みを浮かべた。
 店を出ると、街はすっかり夜の帳に包まれていた。
 けれど、私の頭上で揺れるサファイアの髪飾りは、暗闇の中でも確かな光を放ち、私の足元を照らしている。
「(……ああ、幸せだわ。管理人になって、本当によかった)」
 私は、自分が救い出した「騎士A」という名の甘く、そして逃げ場のない罠に、また一歩、深く足を踏み入れていることに気づかないまま。
「さあ、帰りましょう! 早く戻って、美味しい夕食を作りましょうね、レオンハルト様!」
「……ああ。君の待つ家へ帰ろう、エリーゼ」
 重たいジャガイモの袋を抱え、それでも足取りは雲の上を歩くように軽やかだった。
 背後で店主が、腰を抜かして床に座り込み、「あ、あのお方が……。あのお方が、笑われた……。国が、国が終わるぞ……」と、畏怖のあまり震えていたことなど、私には全く聞こえていなかった。
 アルカディアの原生林を渡る風が、髪飾りの冷たい感触と、レオンハルト様の温かな視線を運び去っていく。
 私は、この白銀の輝きを生涯の誇りとして、ホワイトな新生活をどこまでも謳歌しようと決意するのであった。

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